自由意志

成功法則とは不自由法則

こうあるべき、こうあるべし

成功者はその他大勢とは違う、成功者はこう判断しこう行動する!!これらは全て人を不自由にする行動です。判断決断に緊張感が走りますがこれは本当の自由とは真逆ですね、本当の自由とは間違うとか正解とかのない世界、あるがままの世界のことです。成功法則を学んだ自我はこれからの人生はこういう決断を下していこうと、、勢いつくでしょう。ですが実際には自由意志はないのですからただ勘違いが大きくなっていくだけです。全くもって自分で判断などしていないにも関わらず自分で的確に判断を下している、、という勘違いの世界に生きることになるのです。

常識ある社会人とは

子供は大人になるにつれて常識のある社会人とは、、と学んでいきます。そしてその学びに沿った言動をとるようになる、見かけ上。この段階で徐々に生きているのが重くなっていくのです、非常識な選択決断を緊張感を持って避けなくてはならないからです。そして実際には自我がそれをしているのではなくそのような思考が湧き続けているだけです。

良識、常識を学べば学ぶほどに

見かけ上の個人は常識、良識を学べば学ぶほどに、、しっかりとした決断をしようという思考が湧き続けますから重くなっていきます。だから社会的には認められてきたけれどちっとも面白くないという状況に陥るのです、見かけ上。本質は真逆で本質は全くの自由、選択に優劣は一切ないのです。優劣が生まれるのはあくまでも見かけ上の個人が生きる世界での話です。

自分という緊張感

湧き出てくる思考を所有する「自分」

自分にとって決断は重要です、より幸福になるために決断を間違えてはいけないのです。ですから一つ一つの決断には緊張が走ります。朝起きて何を食べ、何を学び、何を仕事し、誰とコンタクトをとるか、、全部が全部緊張の連続です。緊張などしたくないと思っても勝手に緊張が湧いてくるのです。この緊張を緩めるためにお酒、コーヒー、タバコ、ギャンブル、各種娯楽などがあるのです。

湧き出る思考を一手に管理すると思い込む自我

飴が欲しい、おもちゃが欲しい、友達が欲しい、、、これらの思考の全ては「自分」が起こしている、、この勘違いが、、重く重くします。本当はただ湧いているだけ、自分などいう存在なしに勝手に湧いているにも関わらず自分が作り出しているという勘違いが起き、それ前提の思考がまた湧き続けていきます。そしてその思考も自我が作り出したという誤解が生まれていきます。

本当はただ湧き上がる

本当は本当は誰も関与することなく思考は湧いています、ただ湧くのです、自由意志など存在しません。だから今後の人生を憂うというのは意味のないことで何も関係なく思考が今後も湧き続けるのです。1万時間この先を憂いてもそれとは何も関係なく思考が湧くのです。それが分かってきますと将来を憂うことほど無駄なことはないことが分かります。

過去の後悔も将来の不安も無駄

過去の後悔も全くの無駄です、なぜならば自分という存在が全く関与せずに言動が起き続けてきたからです。そしてそれはこれからも全く同じ、だから何も不安に思わなくていい。突然地球一周旅行に行くかもしれないし、悟りを開くために山に篭るかもしれない、突然お笑い芸人を目指すかもしれない、、、だから無駄なのです、将来を憂うのは。

自由意志がないという完璧さ

迷える人も完璧

この世界に自由意思、個人の自由意志がないということはこの世界は完璧な表現であること言えます。悩みに悩んでいる個人も完璧なあるがままの表現です。個人が居て自由意志があるのならばミスも起きるのでしょうがミスが起きようがないのです。全自動ですから。つまり完璧なのです。ノイローゼになりようなほどに悩んでいる人がいるとしても完璧??そうです、、それが今あなたの目の前に起きているならば完璧だということです。

悩んでいる人が目の前にいるのに

では放置していいと、どんなに苦しんでいるように見えても放置でいいのか????そうです、、完璧なあるがままの表現としてそう見えているだけで本当にその人が悩んでいるという事実はありません、その悩みをあなたが代わりに体験しない限り、、本当とは言えないのです。そして見えている世界は幻想ですから実在ではないのです。

辛そうに見える、痛そうに見える、苦しそうに見える

私の周囲にはたくさんの困った人たちがいて、いてもたってもいられない。。。そうかもしれません、ですがそれは困っているように見えているだけなのです。とてつもなく冷酷な表現に聞こえるかもしれませんが実際に困っているという証拠がないのです、代わりにその感情を味わっていないのですから。何度も伝えますが見える世界は幻想です、幻想ですから実在ではないのです。全てはあるがままの表現、アートであり完璧なのです。

時間

時間は自分が登場してから

時間の存在を疑う人はいないでしょう、時間って必ずありますよね、、、、本当でしょうか???もしもこの世界に自分という存在が存在していなかったら時間って存在しますでしょうか???自分が居ない????そうです、、、自分というパーソナリティーが存在しているからその自分が過ごす時間が登場したのです。マリオが存在しないスーパーマリオゲームには時間が存在しないのです、マリオがゲーム上に降臨してから時間が誕生したのです。マリオが自由意志でゲームを進むこからこそ時間が存在したのです。

自由意志もマリオも居ない

自由意志が存在しないマリオはいません、マリオとは自身の判断でゲームを攻略していく存在です。全自動システムならばマリオは存在できなくなってしまいます。自分でマリオが動くから時間が次の自由意志を行使するために時間が登場します。マリオを全く自由に動かせないのならばそれはただの風景でしかなく、、移り変わる風景のみです。そしてこれがあるがままです。自由意志があると思っているからマリオというキャラは成立しそのマリオが次々に自由意志を行使するために時間が登場するのです。

マリオと自由意志はセット

自由意志が使えないマリオなど存在せずマリオが自由意志を使えなくなったらゲームが破綻します。そうです、これが我々が生きている幻想の世界のポイントなのです。自由意志があるから時間が誕生したのです、、今はこの行動、次はこの行動、その次はこの行動と、、流れができます、、だから時間は存在するという理屈です。魚が生きている世界に時間が存在しないのは魚には自由意志がないからです。

私も自由意志も時間も存在しない

本質は私も自由意志も時間も存在しない世界です。その世界に私も自由意志も時間もあるように感じる世界ができました、ですが本当はないのです。だから虚の世界に居ると疲れます、嘘ですから。人間は眠っている時だけがあるがままです、朝起きて目が覚めると虚の世界に閉じ込められるのです。私が誕生し、自由意志が誕生し、時間が誕生するのです。

レアアイテム

なぜ人はレアアイテムを収集するのか??

車の収集家、カードの収集家、シューズの収集家、バッグの収集家、世界には様々なアイテム収集家がいます。彼らはレアと呼ばれる希少価値が高いものに目がなく、、世界に一台のポルシェ、世界に一枚のカード、世界に一枚のシューズと目を輝かせて集めていきます。一つ面白い点は、、、彼らは世界に一台のポルシェを集めたその3ヶ月後には再び収集の旅に出るということです。満足は一時的で次の何かを追い求め続けるのです。なぜ満足できないのでしょうか???それはそのアイテムに価値が実はないことを本質では分かっているからです。

分離独立した価値あるものなど存在しえない

あるがままは無分別、無分離、全てが一つですから、、その世界の中に独立分離した価値ある存在など存在しえないのです。人間の脳が作り出した価値でありそれは実は幻想です、誤解です。ですからどれほど惚れ惚れするようなレアアイテム、レアシューズ、レアバッグを手に入れてもまた欲しくなるのです。要は満たされていないわけです。そして満たされたはずの個人も実は存在していないので満たしようがないわけです。

おかしい

アイテムの収集家はどこかでそれに気づく日が訪れます、、なぜいつまでも満たされないのか???満たされないということはこの方法では一生満足できないのではないか???と。世界中のレアアイテムを収集し切るまで満足はこないぞと、、、人間の満足とは、、フェイクなのではないか、、実は本質レベルでは全く満足できていないのではないか、、、そうです、、、その通りです。独立分離した個人が居るという大誤解の元に自由意志でレアアイテムを収集し尽くしても満足は起きないのです。その個人がフェイクですから。

何をしていいか分からない

個人の欲望を満たすことしかしたことがない人類にとってそれがフェイクだと教えられたところで一体これから何をしていいか分かりません。個人の欲望を満たしても満たせないことが分かったところでではどうすればいいのか?嘘を見破るのです、個人という嘘を見破るのです、何かを手に入れることでは幸福になれないことが分かったら、、その嘘の本質を見破ることです。そしてその過程においても自由意志は存在しないことを悟ります。もうこれからは自由意志をどう使うかという悩みから解放されます。完全自動、完全受容で本質に気づくのを待つのです。

朝目覚めた時の気持ちが悪い感覚

起きた瞬間にPCが起動する

あるまがままの世界はあるがままであって、、実は何も存在しません、、、ですが人間は朝起きた瞬間にコンピューターが起動しこのあるがままの世界に独自の世界(言葉)を作り出すのです。その中心には自分が存在し自分以外の世界を生きるのです。これが二元の世界、主体客体の世界です。あるがままは非二元でありあるがままでは自分も存在できません。ですから非二元の世界を発見した自分は存在しないのです。非二元の世界に自分が突如作り出されその瞬間にあるがままも消え去るのです。

「私」の幸福を目指す

朝起きた瞬間にPC(脳)が起動し自分という存在が後天的に作り出されます、そしてこの後天的に作り出された自分が幸福を目指し不幸を避けるというゲームが起こるのです。ですがこの世界(あるがままではない)の中には個人が幸福になれる状況は存在しえないので永遠に彷徨うことになります。なぜならば個人という存在を認めた状態ではあるがまま(絶対至福)には帰れないからです。そしてその道中は自由意志があると思い込んでいるだけ実際には自由意志は存在しないので完全自動システムです。

「自分」が自由意志で幸福を探している気持ちにさせられている

多くの方は自由意志で各個に人間は幸福を探していると思い込んでいますが、、実際には自由意志は存在していないので「自分」という存在が登場し、完全自動でゲームクリアまで様々な経験を積んでいくだけです。受験勉強を頑張ってみよう、就活を頑張ってみよう、会社生活を頑張ってみよう、婚活を頑張ってみようと、、思い込まされ経験だけが積まれていきます。

どんなに不幸そうに見える人が居ても同情は無用

公園でホームレスの方々を見つければ同情が湧いてくるかもしれませんが、、、その流れにおいて本人の自由意志は一切ないのです。完全受動、完全自動でそういう流れになっただけです、この流れから逸脱するチャンスは一切無かったのです。何かの勘違いで、何かの判断ミスで、、ではないのです。だから同情はいらない、、、逆に言えば大成功者に対しても羨望はいらない、、、彼らは自分の意志などではなく勝手にそのような存在にさせられたのです。

あるがままから解釈の世界へ

あるがまましかないのに

我々はあるがままの世界の中に解釈を持ち込み、あるがままの世界の中に自分、相手、机、時間、空間、仕事、政治、会社、学校と次々の物体を作り上げていきその世界に取り込まれていきます。本当は何もないにも関わらず言葉で作った世界に取り込まれていきます。もちろんこれは自動反応ですからこれに意図を持って抗うことは不可能です。人間は意図を持てないのですから。これは騙し絵と同じ、自身を老女であると信じ込んでいき最終的に老女の存在を絶対的なものになっていきます。

言葉が作り出した解釈の世界

野生動物が生きる世界には分離が存在しません、なぜならば彼らは言葉を所有しないので分別することができないからです、世界の中に孤立した存在を作り出すことができません。人間は言葉であるがままを分断分離していき独立した存在同士の世界に切り替えることができます、ただしこの行為は自動的に起きてしまうがゆえに人間はこの流れに無力です。そして世界には自分しかいない、自分は孤独だ、寂しい、、となっていくのです。完全んな一人芝居ではあるのですがこの流れは自動で起きるので起きた瞬間にその世界に入り込むのです。

解釈の世界にはあるがままはない

解釈の世界にあるがまま、本質の世界は存在しません、あるがままが作り出した解釈の世界に突入したらその中で閉じ込められます、なぜならばあるがまま、本質を探しているのが自分というまた作り出されてしまった幻想だからです。騙し絵の中の老女が若い女性を探し出す旅こそが世に言う探求者です。真実を言えば老女の存在で若い女性を見つけることは不可能なのです。自分という存在ありきではあるがまま、本質を見つけることは不可能です。

自由意志もそれを所有する自分も存在しえない

名前がつけられる前、花も人間も、犬も、猫も、太陽も、地球という独立分離した存在など実在しませんでした。ですが言葉を使って分断分離し錯覚することで実在しているかのうように思い込んでいるだけなのです。ですから当然この自分という存在も実在しません。実在しない自分という存在のままでは苦しいので、、悟りたい覚醒したいとなるわけですが、、自分という存在を認めた状態こそが幻想の世界に閉じこもる行為であるという矛盾には気づけないのです。

完全自動で悟りが起こる

私たちは悟りに関しても完全に諦めてしまって構わないのは、、悟りに至るプロセスの中で自由意志でそこに至ることは不可能だからです。騙し絵の絵に気づく過程において自由意志というのは一切存在しないのです、ですから我々は完全受け身、完全受動の精神でここに至るのをただ待つ以外にないのです。自由意思というのも完全な勘違いですから先ずはこの自由意思を否定することが逆にスタートにすらなるのです。独立分離した「私」が自由意思で悟るという行為こそが究極の勘違い、幻想に閉じ込める行為そのものです。

「自分」が悟るのではなく、、

これはもう騙し絵の世界ですから重要なことは騙し絵の世界の騙しに気づく以外にありません、「私」「自分」は騙し絵の世界の住人なのでここではその存在を一旦横に置いておく必要があります。その上でこの世界がいかに勘違いの世界なのかだけに気づいていきます。すると、、、どこかで、、あれ、、私もいないし、自由意志もない、猫も、花も、海も、空も、、全部独立などまったくしていない、、、と突然の気づきがおきます。これまでずっと悩んでいた「私」など存在していなかった、、という気づきが起きます。そしてこの一連の流れの中にも自由意志は一切存在しないのです。

目覚めすらない

目覚めるとは???

目覚める、悟る、覚醒する、、、これらは幻想上のストーリーの中で起こることであり、、真実という面から説明すれば実は何も起きていません。真実の中では悟りは閉じてもいないので開くことも、目覚めることもないのです。真実とは真実のみであって、、その中では何も起きないのです。真実の中で真実ではない思考が湧き上がることでその思考から目覚めるというストーリーが生まれただけです。真実は真実でしかないのですから本当は目覚めすらないとも言えるのです。

この世界はこれだけで自由意志も自我もない

真実はこれそれだけです、今この広がる世界、これが真実です。その中には自由意志という何か特別なものはなくただ何かが起きるだけ、何も名前が付けられていないこれが起こっているだけです。そこに言葉が現れ、名称が付けられた何かが現れ、ストーリーが出現しました。ストーリーの側からみればこれがストーリーだったという気づきが起き目覚めるという現象が起きるのです。ですが真実の側から見れば何も起きていないということになります。

騙し絵

騙し絵では老女に見えていた作品が実は若い女性だったという気づきがおきます。これこそがストーリーだと思っていたのが実はストーリーなど無かったという目覚めです。事実は最初から若い女性がそこには描かれているわけですから若い女性側からみれば何も起きていないということになります。老女であると勘違いしていた人から見た時に初めて若い女性(真実)に目覚めるということが起きるのです。我々は皆この幻想の世界に取り込まれていますから真実に目覚めるという現象が起きるのです。ですが真実は常にそこに普遍的に存在していたのです。

成功者は自由意志をいかに駆使したかを語るが、、

実は自由意志はない

成功者は美談として自身の成功ストーリーを語りたがります。そしてあらゆる場面での自身の判断の優秀さを暗に匂わせるのです、ですが実際には自由意志はありません、ただその体を通じてそのような思考が湧いただけです。湧いてきた思考を自分が作り出したという事実とは異なった思考がさらに湧き出し自我を成立させるのです。ですがこれは事実ではなく本質はそのことを知っているからこそ周囲に成功物語を話まくることで真実であると信じたいのです。

周囲は称賛し認めてくれるが

周囲の人間も自由意志があると信じていますから成功者の美談には耳を傾けその人の判断力を評価します、これによって事実とは異なることが公然の真実であるかのように認識することができるようになるのです。自身の自我と周囲の自我との共同作業によって真実ではないことが真実であるかのようになるのです。こうして我々人間は自我と自由意志の存在を鵜呑みにしていくのです。

自我と自我の共同作業の崩壊

成功者の多くが自身の成功美談を語りたがるのは、、自由意志が真実ではないことを本質的には気づいているからです。だからこそ自我の功績という嘘がいつかバレるのではないかと恐れ慄いているわけです。周囲に自己判断を評価してもらうことで一時的にもこの嘘を嘘と気づかないでいられる、、ただそれだけのことなのです。そして聞いている周囲は自我を信じていますからいつか自分もと夢を描くのです。本当のところは自由意志など存在せずそれを統括する自我も存在しないのです、どこかでこの真実に至るわけですがそれを遠回しにする作業こそが自我の踠きです。

自由意思がないならば自分は誰だ???

個が消滅しても残るもの

私たちが絶対的に「自分」という存在に確信を持っているのは、、「自分が居る」という確固たる感覚ゆえです。もしくは居るという感覚です、、、意識の存在を否定する人はいません、、なぜならば今現在も何かを認識する意識が存在するからです。この絶対的な意識感覚こそが自分という存在を信じることに繋がります。ですが本当は意識こそあれ自由意志は存在しないのです、、勝手に湧いてくる思考、感情を、、、自分が作り出したという大誤解が起きているだけです。本当は勝手に思考、行動が湧いてくるだけ、、自分など全く存在していなくても湧き続けるのです。そしてそれを認識し続ける意識もまた存在し続けます。

我々の本質はこの意識

思考が湧けばその思考に気づき、行動が起きればその行動に気づく、何も思考が湧いていなくてもそのことに気づき、何も行動が起きなければやはりそのことに気づきます。この気づきの意識こそが我々の本質です。思考、行動が湧く時だけ現れる「自我」という幻想ではなくそれらに気づく存在こそが我々の本質なのです。いつの間にか我々は気づきの意識ではなく気づきの意識によって気づかれた思考、言動を統括すると言われる自我という幻想に成り下がったのです。

本当は統括する自我などない

我々の言動の全ては自由意志でコントロールされたものではなく勝手に湧き上がった自動システムの産物です、ですからノーコントロールに湧き続けているのです。にも関わらずこれは自分が生み出したモノだという思考が湧き上がり、、それに固執している状態が続いているのです。そしていつの間にか全てに気づく意識ではなく意識によって気づかれた「自我」という思考に成り下がったのです。そしてその大誤解を前提にした思考が湧き続け自我という幻想に翻弄され続けているのです。だから我々はいつまで経っても苦しみから解放されないというわけです、真実とは異なる思考に固執しているからです。