言葉

絶対失敗したくない

最初はここから始まる

自我が形成されれますと、、、一回の人生絶対に私は失敗だけはしたくない、、このように思うようになります、この見かけ上の私は、、、ですが、、輪廻転生の話を聞き、、そうか人生は何度でもあるんだ、、となると途端に今世は失敗してもしょうがない、、こうなります、、、、その次に実は自分なんてイメージ、概念、幻想で、、本当は存在すらしてない、、と気づきますと、、、絶対幸福になります、、今生きてこの場に居るだけで嬉しい、、です。

そういう意味では輪廻転生は価値がある

輪廻転生という発想、思想、概念は、、自我が存在するというイメージを強く持つ場合大変有効です、、自我はむしろ死んだ後もこの自我が続くのか、、と安心します、、、ですからそういう意味では非常に良いアイデアです。。ですがあくまでこれはアイデア、、私もアイデア、輪廻転生もアイデアです、、、このアイデアの世界を継続させることが一番辛いのです。

失敗も何も失敗する自分がアイデアに過ぎない

私は絶対今世失敗したくないんです、、失敗するのは誰ですか???私です、、でも私って、、言葉が作ったアイデアですよ、、実在はありません、、この体(イメージ)を所有しているいうことにしたアイデアです、、アイデアがどうしたら失敗し不幸になることが出来るのでしょうか???勿論見かけ上、この体は多くの失敗をするかもしれません、、ですが、、その失敗をした「私」はアイデアです。そもそも私という存在が居たのではなくこの体に私というラベルを貼っただけです。その証拠に無人島で生き延びた人には「私」は居ないんです。つまり私の失敗も私の人生も存在しないのです。

これは「私」を辞めることではない

とはいえ社会で生活する我々が「私」を辞めることはできません、、便宜上「私」は必要です、、ですがあくまでこれは便宜上のアイデア、概念、幻想です、、、社会生活を便利にするために「私」という言葉が使われ始めただけに過ぎません。そこに気づくと「私」の幸福ではなく、、今この場所が静寂、平和そのものなのが分かってきます。「私」というアイデアから解放され、、本当の静寂を感じます、、感じるのはアイデアとしての「私」ではなく「私」から解放された全体です。

その人の観念がこの世界を作る

見かけ上の私の観念

言葉は対象のイメージを作り上げます、、それぞれの言葉には意味がありイメージがあります。ロレックスという名前には時計としてのデザイン、高級、金属、伝統的、、、なども意味が付加されます。。つまり言葉を覚えそのイメージを作るあげる人間は、、今見ている景色に、、イメージと、意味を持たせ、、現象を見ます。。。その人の価値観、観念がその人の世界を作るというのは本当です。

現象は動く

現象は何の意図もなく動き続けるわけですがその現象を見かけ上の私が見れば、、そこに言葉のイメージ、意味を加えて見ることになります。ロレックスという言葉に大変価値を置いた場合は、、目の前にその時計をつけた男性を見れば、、、羨ましいという感情が自動反応で起こるのです、、、この感情を引き起こしたのは言葉からリンクするイメージです。つまり現象そのものではなく、、どのような言葉を覚えそこに意味づけをしたか、、それがその人の世界を決めるのです。

だったらこの私にとって都合の良い見方をしたい

どんな感情が湧くかは、、どのような価値観を持つかによる、、、だったら最高の価値観を所有して最高の人生を送りたい、、誰しもがそう感じるはずです、、、ですが残念、、その価値観は個人といイメージが引き起こす経験の全てが積み重なり作られる、、、さらに言えばその個人というイメージが引き起こす言動の全てはただ真我から湧き上がるのみ、、個人はイメージで実在はしないからこのイメージが言動を起こすのは不可能なのです、、

つまりどのような価値観、観念でどのような世界を作るかは決めれない

あなたの人生はあなたの価値観に沿って作られている、、、これは事実です、、ですが、、だからあなたが人生の価値観を決めればそういう世界に住めますよ、、これは間違い、、、その見かけ上のあなた(イメージ)にはあなたの言動を決める力が一切ないのです。真我から起こる言動を通じて個人というイメージはあらゆる経験を見かけ上し続け価値観が自動的に形成されていきます。真我から勝手に起こる言動、それによって勝手に起こる経験、その全てが集積して価値観、観念が作られ、、その世界を感じます。

アイドルに夢中になるファン

アイドルというイメージ

アイドル、、これは芸能人、、、人気イメージビジネス、、、ファンがアイドルA君に夢中になるのはなぜか???それはA君というイメージにあらゆるイメージがさらに加わり、、、ドラマの主人公としてのA君、歌が甘いA君、頑張り屋のA君と、、、A君のイメージが十二分に膨らんでいるからです、、A君というイメージにとんでもない意味が加わっているのです、、、そしてなぜそこまでA君にファンが夢中になるかと言えば、、、A君に集中している間は『私」を忘れることができるからです。

「私」を忘れる?

私も言葉ですからイメージです、、このイメージがあらゆる経験を積んだというイメージが重なることで私にとんでもないリアリティーが加わります、、本当はイメージでしかない「私」がリアリティを持つようになるのです、、これが重い、苦しい、孤独、分離感、、、そこで「私」は私を忘れさせてくれる存在「A君」を求めます、、、「A君』を見ている時は「私」を忘れれるから、、、

これは現実逃避

ですがこれは現実逃避です、、、「私」というイメージ逃避といった方が良いかもしれません、、、私にフォーカスが当たるのを逃げる逃避です、、、イメージ上の「私」が大きくなり過ぎてしまい、、フォーカスが当たり過ぎているのです。。。苦しみから逃げたい、、、この衝動を、、、苦しみを断ち切る方向へベクトルを変えます、、、イメージ上の何かを求めるのではなく、、イメージと見抜き、、苦しみを根本から打破します。これが悟りです。

ありのままなど誰も見ていない

作り上げたイメージを見ている

言葉とはイメージです、、言葉を覚えるとはイメージを覚えることです。。 イメージですからそこには意味が加わります。。例えば「ロレックス」という言葉を覚える際には「高級、海外、高く売れる、ゴツい」なども意味を加えます、、、そしてロレックスをつけた男性を見る際に、、、人はこのイメージをそこに見ます。ですから、、、人はありのままでは人を見ていないのです、、、そこにイメージを重ねて見るのです。

この「私」もイメージ

この「私」も言葉だから完璧にイメージです、、、このイメージにあらゆる経験が加えられていきレイヤーが何十層にもなっているのがこの「私」というイメージです。。あらゆる経験を重ねた「私」としてのイメージです、、「私」というイメージにとんでもない意味が加えられれば加えられるほどに苦しみは大きくなっていきます。「私」の肥大化は「苦しみ」の肥大化です。なぜか?「私」と思っている「存在」は本当はこんなに小さくないからです。

「存在」は「存在」で居る時に至福になる

存在とは存在そのものであることが完璧な至福です、、存在が「私」というイメージに焦点を当てると、、苦しくなり、、なぜばらば「私」というイメージではないから。存在が存在そのものである状態を無我と呼びます、、つまり「私」というイメージに焦点が当たっていない状態。「私」というのがイメージ過ぎないことを思い出しますと、、存在は「私」への焦点を緩めます、、、この「私」に焦点を当てると苦しいという気づきが起きますと、、焦点が「私」から外れます、、、これが悟りです。

私が他人と会う時

見かけ上の他人

見かけ上の「私」が見かけ上の「他人」と会う時に何をするか、、、その「相手」をあらゆるイメージを当てはめレイヤーを乗せていきます、、、この人は「性格が悪いタイプ」「相手を見た目で選ぶタイプ」「上昇志向タイプ」「お金に細かいタイプ」。。。私が覚えた言葉(イメージ)のどれがこの人に当てはまるかを確認していきます。。。そして5分も話せば、、その相手はその相手そのものではなく、、私の「イメージ」に変わってしまうのです。。これが人間関係です。

それぞれが「イメージ」を作り上げる

あの人は「男」で「収入が普通」で「性格は怒りっぽく」「幼稚」で、、、と全部が全部イメージとなります、、、そしてその「相手」すらもイメージですから、、イメージが何十層ににもなっただけなのです。。結婚とはこのイメージとの約束です、、、結婚し、、「私」というイメージが考える「相手」のイメージとのズレが生じた時に離婚になります。

イメージとイメージの出会い

本当は存在はイメージではないので、、イメージに焦点を当てて居ると苦しみが湧いてきます、、、つまりイメージとイメージの人間関係は疲れるのです、、、「私」というのもイメージでありこの「私」のコミュニケーションは基本疲れるのです、、、、、ですが「私」は同時に孤独な存在でもあり、、疲れるけども人に会わざるをえない存在でもあります。。。ですからどこまでいっても苦しいのです。「私」というのがイメージであることを見抜き、、苦しみの根本を壊す必要があります。

神から愛される?

神と人間

神様が居て人間が居て、、、、これでは神と人間二つの存在がこの世界に誕生してしまいます、、、これは間違い、、、神から、、、「人間」という言葉が生まれ、、人間という「イメージ」が誕生しました、、人間というイメージ、幻想が神の中で現象として生まれたのです。神がこのイメージを愛する、、、違います、、神から「神が人間というイメージを愛するというイメージ」が生まれたのです。。「かみ」も言葉ですからイメージです、、この世界は(これもイメージ)ただ現象だけがある、、、です。

前世はなぜ存在するのか??

イメージの世界での経験が、、記憶された場所がある

この世界には本質しか存在しません、、それ以外は何もない、、ですが、、この本質の世界に言葉が現れることで、、、イメージを本質が出現しました、、本質が作り出した創造物、幻想です、、「わたし」というのもイメージ幻想です、、この私が歩む人生というイメージは本質から確実に創造され、、その私の経験というイメージは、、、本質に回収され記憶されます、、、、この記憶、、、この記憶とリンクした新しい「私」が前世を持つというやはりイメージを作り出したのです。ですから前世もこの本質が作り出したイメージです。

100の前世があろうと、、、

私には100の前世がありました、、、、何回でもいいのですが、、重要なことは、、この前世という本質が作り出したイメージの世界の中は苦しいということです、、、このイメージの世界に私が居るというやはりイメーイを持つと苦しい、、、、ですから釈迦は言った「解脱しかない」と。。。解脱だけが、、、苦しみを終わらせると、、、イメージの世界から出ろと、、、

言葉はイメージ

言葉を覚えることでイメージを共有する

なぜ街をあるけば、、マックがあり、スタバがあり、、吉牛があり、ABCストアがあり、、交差点があり、、信号があり、、車が走り、、、という現象が続くのでしょうか???それは我々がその言葉を覚えたからです。。2、3歳児が生きる世界にはこれらは存在しません、、認識できないのです、、言葉で覚えていないから。。原始人も同じ、、この世界を歩いてもこれらの現象は現れません、、言葉で覚えていないから認識できないのです。視界に入った車を認識するには車という言葉を暗記する必要があるのです、、脳はこれをイメージとして認識に、、このイメージを現象に当てはめることでこれを見ることができます。

言葉を覚えない限り

言葉を全く覚えない、、すると、、2歳児のまま、、この状態で街を歩いても何も認識できない、、車も、横断歩道も、信号も、歩行者も、、、家を出る時に、、パンツも履けない、、靴も履けない、、服も着れない、、となります、、、なぜならばそれらを認識できないからです。。言葉を覚えそれをイメージ化しそのイメージがあるからそれを探し出せるのです。つまり我々は覚えた言葉のイメージを、、この現象界に重ね合わせてそれを「見る」ことができているのです。

だから夢

覚者が言う、、我々は夢を観ている、、というのは本当で、、、この「体」すらもイメージ、、この体の中に「私」がいるもイメージ、、見える世界のイメージを見続けています。この私が居て、私のストーリーがある、、、完全なイメージ、、幻想、、夢です。だからこの世界で私が幸福になる、、というのも完璧なイメージであり、、無理ゲーです、、、、なぜならば幸せになる「私」が実在しないからです。

魂もイメージ

「た・ま・し・い」

魂もイメージです、、言葉で作られた全てはイメージ化され、、、この本質の世界にイメージが誕生します、、個人の体には魂が存在し、、個人も、魂も言葉ですからイメージです、、この本質の世界から飛び出した、、イメージ。ストーリーの世界の産物です。この世界には本質しかなく、、これは言葉では表現できないものです、、釈迦はこの世界を色と表現し、、、ただ諸行無常、、移り変わる何かと表現しました、、この世界には本来「コレ」と呼ばれる決まったものはないのです。

何もない

覚者はいうこの世界には何もなかった、、、そうです、、これが「これ」という決まったものは全くないのです、、もしもできるとしたら現象の一部をくり抜いて「〇〇」と名前を付けることだけ、、これによって「○○」というイメージがこの本質の世界から作られます、、人間は「○○」というイメージを大量に作り上げ、、このイメージを実在するものであるという共通認識にして生きています。勿論この「わ・た・し」もイメージです。

現象にイメージを当てはめる

原始人は道に携帯電話があっても気づきません、、それは彼らには「け・い・た・い・で・わ」というイメージが存在しないからです。。。現象の中からこれを切り抜けないのです。スニーカーマニアはJORDAN1を知ってます、、そのイメージを持っています、、ですから街を歩けば即座にJORDAN1を探し当てます。それを知らないければ、、街を歩いてもそれを探し当てることは絶対にありません。この世界は言葉でできたイメージの世界なのです。これがこの世界が夢と言われる所以です。

ストーリーの中で頑張って生きる人々

このイメージの世界に居ることに気づかない

このイメージの世界、言葉が作り出したイメージの中に閉じ込められていることに気づいていない人々は、、この世界の中でなんとか生き延びようと必死です、もしくは享楽的にただこの苦しみから逃げようとする、この苦しみを直視することなく、、周囲の人々に合わせまあこんなもんだよと、、迎合する。。ですが本質に目覚めれば分かります、、これはただの苦しみの延命措置です。

苦しいからこそ打算的に生きる

このイメージの世界、ストーリーの世界は基本は苦しい、、ですから多くの方は打算的に生き、、少しでも苦しみの少ない人生を送ろうとします、、絶対的幸福はこの世界には存在せずだからこそ、、苦しさがより少ない人生を歩もうとするのです、、、ですがどんなに苦しみを解消しようとしても、、このストーリー、イメージの中に居るのが苦しいのであって何一つ根本解決にはならないのです。

本質に気づき本質に生きる

本質とはこの現象界そのものです、現象を作り出す存在、、それが我々の本性です、、この体はその一部でしかなく、、この体の中には私はいません、、、全ては本質から一時的に現れた現象でしかなく、、この体は便宜上、、名前が付けられた機能でしかない、、この体、、体以外に便宜上名前がつけられ、、便宜上の私と私以外の世界が誕生しました、、ですがこれは便宜上の話であって、、イメージです。ところがこのイメージの世界にどっぷり浸かりますと、、イメージであることを忘れてしまい、、苦しみの渦に自ら飲み込まれていきます。

本質でしかない

これが言葉によって作り上げられたイメージであることを見抜きますと、、もうこの体を幸福にしなくては、この体をなんとしても安全に生き伸ばさなくては、、常識に従って生きなくては、、の柵が抜け落ちます、、それよりも本質であることを思い出すことに関心が移ります。。この体を安全運行するよりも、、究極の本質であることを思い出すことに関心が移るのです。

ベクトルが横から縦に移る

我々が現実と呼ぶこの人間が生きるストーリーの世界は横軸の世界、、そして本質の世界は縦軸の世界、、この夢はこの本質によって支えられています、、本質から全てが生み出され、、人間というイメージが想像され、、その人間が経験する全てを本質が回収し、、この体が全てを経験しているというストーリーが生み出されました、、想像として。個別活動があるというストーリーは、、個を生き伸ばすには成功しましたが、、苦しみが伴います、、この苦しみを終わらせる活動こそが悟りです。