至福

彼が浮気しても、、、

ただそれが全体から起こった

彼が浮気したとしても、、ただそれが全体から起きました、、、それが事実です、、あの時に私が何かをしてしまったからか???もっと大切にしていれば、、、、あらゆる思考がそれでも湧くでしょう、、、事実は全体からそれが起こっただけです、、、因果関係は人間が理解できるようなシンプルなことではありません。この事実に向き合うしかありません、、、すると悲しみ続けることができない、、、

別れる別れないもただ起こる

別れるべきか、、別れないべきか、、、、三日三晩考え続けるでしょう、、、ですが事実はその判断すらも全体から起きます、、、二度と顔も見たくないが、、起きるかもしれない、、、今回は許そうが起きるかもしれない、、、これも全体からただ起きます、、、「決めるのは私でしょ」違います、、、決めることができる自分が居ないのです、、これも事実です。

彼の浮気に私は無力なのか????

見かけ上の私の言動が浮気に関係することも当然あるでしょう、、、見かけ上の私が仕事が忙しすぎることが影響するかもしれません、、、ですがその仕事が忙しいという事実は全体から起きているのです、、、そこをコントロールできる自分が居ないのです。ただ起こりを観賞するしか我々には選択肢がないのです、、、そして観賞する存在になることを諦めた時に突然至福に包まれます。これを追い求めて今までがあったという気づきが起こります。

コンサートに夢中になって行くのは自分を忘れるため

目の前のアイドルに自分を奪ってもらう

コンサートに熱狂的になって行く人はアイドルに自分を奪ってもらいに行くのです。その瞬間好きなアイドルしか見えなくなり、、自分が消滅します、、、自我が消え去り、無我に入り至福に包まれるのです、至福そのものになるのです。そしてアイドルは目の前の熱狂的なファンを喜ばせようと、、自分を忘れ去り、無我に入ります。至福の共演です。

ファンの興奮を永続させる

ジャニーズ事務所がなぜ凄いのか????ファンの期待を裏切らない、、、ファンの心を奪ってあげることに忠実なのです、、定期的にコンサートを必ず開き、定期的に音楽を発表する、、定期的にファンミーティングを開き、定期的にドラマで主演をする、、、、こうやってファンの心を奪い続けてくれるのです。

そうか、、、無我になればいつでも至福に入れるのか???

ですがどこかで人に頼って無我に入ることを諦めなくてはならなくなります、、、なぜならばその興奮が永続するとは限らないからです、、無我に入る対象を仕事に変えればその場で無我に入れます、、もしくはこの事実を徹底的に理解し、、、思考の観察者(無我)になってしまう、、、アイドルに夢中になった状態を覚え、、何にでも集中することで毎日無我に入るトレーニングになります。

明るい未来を夢見ることで今が暗くなる

明るい未来を夢見る理由

なぜ人は明るい未来を夢見るのでしょうか、、それは今が苦しいからです。。。なぜ人は明るい未来に向けて毎日努力できるのか???それは今が苦しいから、、これ以上苦しくなってしまったら大変、、なんとかして今よりも明るい未来にしがみつこう、、、です。本当は今ここにダイアモンドのような現象があります、本当はこの場所に至福そのものがあります、、すると遠い未来に興味が無くなるのです、、、遠い未来ではなくなぜ今ここにあるはずのダイアモンドが見えないかに興味が湧きます。

今目の前にあるダイアモンド

今目の前にあるダイアモンドの存在をダイアモンドははっきりと分かっています、にも関わらずこの個人の人生は苦しいぞ、、、それでは将来は絶対にダイアモンドのような状態にしてやる、、、これが個人に成り切ったダイアモンドの発想です。ですが本当は個人を抜け落とせば直ぐにダイアモンドに戻るのです。個人としてダイアモンドを成し遂げてやる、、、それも分かる、、ですが個人としての視点こそがこの苦しみ、分離感、孤独感を起こしているのです。

今この場でダイアモンドに至る

この場にはダイアモンドしか存在していません、今です、、ですがここに個人が居るという錯覚が起きることで苦しみが溢れてきました、、ただそれだけが起こったのです。。今もここにはダイアモンドしかないのですが、、思考としての自分、自分ストーリーがダイアモンドの中で起きてしまったのです。そしてこの自分がダイアモンドのような人生を歩むぞとという次なる欲求が生まれました、ダイアモンドから。

決まっている、決まっていない論争

どこを主語にするか、、、

自分という存在が居るという前提話をもっていきますと、、、全ては決まっていません、、その人を通じてただ全体から起こりが起きているだけです。全体から起こりが起こることは「決まっています」。このシステムは決まっているんです。化学反応(全体)から何かが起こることは決まっています。全体が常に揺れ動き変幻自在の現象が起きることは決まっています。個人の立場に立ってみれば次に何が起きるかは全く決まっていません。

自由意志があるように感じることが起きた

コーヒーを飲むぞ、、コーヒーを作った、、そして飲んだ、、、、この流れは完全なる自由意志です、、これを否定できる個人は居ないはずです、、、だからこの世界は苦しみに満ちます。。。しかしながらこの一連の出来事がただ全体から起こったとして誰がこれを否定できるのでしょう。できないのです、、どこまでいってもこれを否定できない、、、

何も決まっていない、、自由意志もない、、

何も決まっていることはなく、、自由意志もない、、、絶望的なこのメッセージが悟り、ノンデュアリティです。個人にとっては絶望的すぎるこのメッセージ、、これが悟り、ノンデュアリティです。ですが見かけ上のこの私はこのメッセージが大好きです、安心します、平和になります、もう戦わなくていい、、安堵感が込み上げてきます、、至福に包まれます。

活躍したい、、、これも自我延命システム

活躍したくて何が悪い???

将来はサッカー選手になって活躍したいです!!これは微笑ましい子供の言葉です、、、ですが実はこれも自我の延命システムが働いています、、、なぜ活躍したいのか???なぜ???今が苦しいからです、、、なぜ国公立大学に入りたいのか???今が苦しいからです。。。そうです、、活躍したいも執着、、これは苦しみを解消してくれる可能性を秘めたことなのです。

反省します、、、

今日の自分の不甲斐ない働きを反省する、、今日食べすぎて反省している、、、この反省も自我の延命システムです、、、反省するという一見謙虚な姿勢こそがこの罠を見え辛くしています。反省するのはいつも自分、この自分の自由意志があり、この自由意志を良い方向に使えなかったことに対し反省しているのです。残念!!!!自由意志はありません、、全部全体からの起こりです。反省するためにはこの事実を無視するしかないのです。

個人はいつも延命装置に乗っかる

個人の延命装置は人によって様々、、、目標を持って延命するか、、反省して自分を作り上げるか、、将来を悩むことで、自分を保持するか、、、、思考は全てこの「個人」ありきの活動をしますから、、、個人と思考は大変相性が良いのです。個人ありきのこの思考をスパッと辞めてみるとどうなるか、、、突然至福に包まれます。何もしなくても至福に包まれます、個人が包まれるのではありません、、至福の漂いを至福が感じるのです。

日本は合わない、、海外へ

どこも全部全体の現れ

日本よりも海外が合う、、これが起こることは当然あります、、ですがこの日本も紛れもなく生命の現れそのものです、、そこに気づきが起こらず、、、ただこの苦しい国日本を逃げても、、、海外も苦しい、、、可能性があります。。。。日本は神の国、、違います、、全部が神の国です、、、日本には天照大神が居て、、、違います、、、、全部の国は神の表現です、、、

ただそれが起こる、、、

海外に住みたい、、、この衝動も神から起こっています、、、何の問題もありません、、、そして海外にいざ出陣、、、これが神から起きました、、、そこに介在する個人は居ません、、、個人が居るという神の勘違い以外は、、海外旅行ばかり行っていたが最近それほど楽しくない、、、最初は無我夢中になれて至福に包まれますが、、、それが当たり前になると無我夢中になれない、、つまり無我じゃない、、至福じゃない、、です。

無我は今ここでなれる

無我とは今ここで入れます、、今何かに集中しきると、、、無我に入ります、、、今ここで、この感覚を掴むと海外に行かなくてはという焦燥感が抜けていきます。常に至福に包まれてきます、、、全てを全体からの起こり、言動も神の起こり、周囲も神からの起こり、神そのもの、、これに気づくと、、ただそこに居るだけで、、至福に包まれます。自分も周囲も神の表現、、全部を神が回収している、、、そして全てに気づく自分は実は神だった、、、神以外だった時は無かった、、という気づき、、海外も日本も神そのもの

大変とは「大きな変化」

個人は大きな変化を大変と表現する

個人にとって大きな変化は大変です、パニックです、驚愕します、、、、この体を安全に生き伸ばすことに働く思考にとって大変な状況はフル稼働します、、、ですがこの大変、大きな変化は現象界が大きく動いているように見えているだけです、、現象はただ揺れ動くのみ、生命はただ起こり続けます、、、この生命の揺れ動きを個人の価値観というフィルターを通じて観察した時に大変が結構起こるのです。

大変に飽きる

私たちはいったいいつまでこの大変に真剣に向き合えばいいのでしょうか、、、大変、、、変化は常に起こり続けますから、、、大変に反応するのはもういいのではないか、、勿論これも全体からの現れです。大変なのはいつも個人です、、この大変に巻き込まれる個人が大変なのです、、、ですがこの個人は実在しませんから、、大変は個人の所有物なのです。

大変そのもの

我々は実は現象界そのもの、現象そのものですから大変そのものなのです、、、そこに巻き込まれる個人ではなく個人を巻き込んできた大変の方だったのです。では巻き込まれてきた個人は誰、、それも大変を観察する一部、大変そのものなのです。これからは大変になり切って大変そのものを経験する、、すると大変の中で完全なる至福が湧くのに気づきます。驚愕するように見える周囲の中で至福に至れます。

全体として存在しなぜ人の言葉で傷つくことができるのか???

無我夢中の状態で

何かに没頭して無我夢中に、、、この時至福に居ます、全体に居ます、神に居ます、、この状態で誰かから悪口を言われた、、、、気にならない、、、なぜならば既に至福だからです。至福に居るとは現実離れではない、、、いや現実という現象の中で、、、現象そのものになっている状態です。その悪口すらも現象の現れ、、、気にならない、、、悪口そのもの、、、です。

批判を気にするスターは、、、

批判を気にするスターは、、、全体になりきれていない、、、、成し遂げた功績をこの個人が所有している、、だから苦しい、、、この時に批判を受けると、、、テンパってしまう、、苦しさが重なる、、、功績よりも無我に入るそのことこそに至福を覚えるならば、、、周囲に対する関心が薄くなる、、結果批判も気にしない、、、

自我全開プログラムを脱す

悟りとは自我全開プログラムが落ちることです、、このプログラムは非常に強固で簡単にはアンインストールされません。ですからゆっくりゆっくりこの自分はプログラムであり、、このプログラムを紐解く必要があるのです。音楽とは音の組み合わせであり、、、これに実態はありません、あの曲が好き、、という時、、それは異なった音の組み合わせのことです。。。。この自分というプログラムも、、、言語の組み合わせで形成されており、、実態がないのです。音の組み合わせです。。。

だからこそこう生きよう、ああ生きようとは真逆

もっと自然体で生きようよ、、、、、アベシ、、、、こんなメッセージが一切意味をなさないのは、、、生きるのが個人だからです。。。そうではなくこの個人をいかに解体させるかです。。。今を生きよう、、、、、ヒデブ、、、、今を生きるのが個人ならば、、、何を今やっても苦しい、、、個人に向けたあらゆるメッセージはその瞬間の幸福を得れても、、しれは全て一時的なまやかしです。

思考が全開になるのはもっと良い方法があるのでは??と思考するから

絶対に損をしなくない、、、

一円でも安く買い物をしなくては。。。。あそこのスーパーでは2割引だった、、、だから絶対にそれよりも高くは買わない、、なぜならば損をしたくないから、、、これが思考の特徴です。絶対に損をしない、、、個人に「成り切った」全体はその時点で大変苦しい、、だから思考はこの苦しい「個人」を得をさせるために起き続けます、、思考が悪いのではなく、、、、思考とはそのようなエネルギーであるということです。

全体に触れる習慣が

無我になる習慣がある人は、、、この損得に興味が無くなります、、、だって損得より無我、全体が断然気持ちが良いからです、、、、損得に興味が起こる=自我全開、、、無我に興味が起こる=自我の終焉です。でもそんなことをしたら個人は生きていけないのでは、、、、、違います、、、、無我に入れば至福ですからそこには何も要らないのです。無我になるのにお金が一円もかからないのです。

無我に入れば入るほど、、、何も要らない

来週は旅行に行こう、来週あれを買おう、来週友人と花見に、、、こうやってスケジュールを埋めたがる人は、、、この個人にいかに喜びを与えるかに必死になっています。この個人は今苦しいから、、、ご褒美を与えてあげているのです。。ですがこの方法を続けるのが苦しい、なぜならば、、、それでは一時しか幸福になれないから、、、

このブログの意味

このブログでは、、、自我がどういうメカニズムで苦しみをこしらえているか詳細を記載しています。何度も自我のメカニズム、全体のメカニズムに触れますと、、、自我の自動反応に対し、冷静になる全体の姿が湧いてきます。「鼻を触る癖があるよ」これを言われた人はその後鼻を触る回数が減ります、少なくとも増えることはない、、なぜならば、、冷静に見つめの自分が誕生するからです。これと全く同じです。

常に全体であることを意識する

主語が全体になると面白い

全体の残滓が残ります、常に全体として生き個人を辞めていると全体の残滓が残っていきます、、熟睡から起きた時、、至福がそこに残っています。それが起きている時に起こるのです、、、個人全開で生きていますと、、分離感、孤独感が漂います、、辛いエネルギーで覆われます。その多くの時間を無我に入り全体そのものになっていますと、、安心感がこみ上げてきます。

入り込むことを大切にする

1日の中で何度も集中します、、何かの作業をする際は集中することを重要視します、、集中できない時は無理をしない、、これを何度も行います、、、、自分という存在を捨てて、、行為に没入します、、、すると全体そのものになります、、、何にも集中できない時も、、全体として観察します、、全体として集中が起きるのを待つのです。

体の硬さを取る

体をストレッチしたり、、全身を動かします、、全身にエネルギーが満ち溢れるように体を動かしていきます、、すると五感が開くことで経験が開いていきます、、、経験を感じているのはまさに全体ですから何もしなくても全体で居られるのです、、、「個人で居る」のは思考です、思考がこれを支えています、つまり思考を落としますと個人では居られなくなるのです。常に体を鋭敏にする癖をつけていきます。