意識

目標を悟りに置く

無意識とは習慣である

目標が悟り、ノンデュアリティになりましたら、、あとは簡単、、、ひたすらにシャワーのようにメッセージを聞いていきます。地動説に慣れた我々は放っておくと地動説に戻ります。「自我」前提生活は放っておけば自我前提生活に戻ります。ここに新しい価値観を受け込むためにはそのメッセージをシャワーのように浴びる以外にありません。日本語に慣れた人が英語を習得するには浴びる以外にないのです。

気づきの連発

今左手で食べましたよ!!!左利きの人は無意識に左手で箸を使ってしまう、右手に変えるためには徹底的な癖付けが必要になります。これが自我解放のポイントです。本当の世界の事実をとにかく徹底的に学ぶ、聞く、浴びるのです。重要なことは、、分かんなくて当然だということです。自我ベースで生きる我々が悟り、ノンデュアリティをスラスラ分かったらおかしいんです。

本当はそうだよね

自我も、自由意志も方便ですから嘘です。嘘は真実の前ではいつか必ず暴かれます、そして真実に吸収されます。それは分かっているんです、ですから何も恐れずにただ淡々とメッセージに染まっていけばいいのです。メッセージに触れ続けるだけでいいのです。毎日毎日触れ続け、、話せば英語がである、、気づけば真実に在る、、という状態を目指します。

内側じゃない

外側の探究の後に

我々は生まれて直ぐに外の世界に魅了されます、全てが新鮮、面白い、エキサイティング、、常に外に外に意識が向きます。自我が形成されますと、、尚更にこの傾向は強くなり、、、絶対的安心を求めて、享楽を求めて、平和を求めてベクトルが外に向きます。年齢を重ね外に外にというベクトルが疲れてきますと、、今度は中に中に本当の幸福があるのでは???とベクトルが内側に向き始めます。

内側は外側に比べれば楽

外側に満たしてくれる何かを求めるのはとてもとても大変で、、常に外部をコントロールする必要があります。ですが外部はいくら頑張ってもコントロールできません。全くもってコントロール不可能であるという諦めがつくまでこの苦闘は続くのです。ですが内面への探究は外部に比べると自分のみとの戦い、ようやく落ち着いた生活を送ることができるのです。外部に振り回されるストレスが減り、、自分をいかにコントロールするかだけを考えていればいいので気が楽なのです。

ところが、、、、

ところがです、、この自分というやつをコントロールしようにも、、、なぜか結局全くこの自分をコントロールできない。せっかく自己実現できたと思ったら全く違う方向に興味が行ってしまう、、、全くもってノーコントロールであることに気づき始めます。つまり外部もノーコントロール、内部もノーコントロール、、この苦しみを全く無くすことができないのです。そして最終的に気づきます、、コントロールできる存在は外部にも内部にもないということを。我々は完全自動運転で動いており、、全てがノーコントロールである。そしてそれと同時にコントロールできる自分も存在せず、、自分とはこのコントロールできない全てであった。この気づきが起こるのです。そしてなぜか全部が全部コントロールできないという気づきとともに真の安心感、真の安らぎ、真の平和が起こるのです。

現象そのものが自分だった

この外部環境、この内部環境の全てが自分自身であり、完全なノーコントロール、、思考も行動もコントロールできているように感じるだけで実は全くコントロールなどできていない。コントロールは出来ないが逆に全部が自分自身だったという気づきが起こります。とんでもなく大きなキックバックが起こったのです。この体を完全にコントロールできない代わりに全部が自分だったという突然の気づきが起こるのです。貯金がこの体だけ、、数万円程度だと思っていたら、、銀行まるごと自分だったという気づきです。

毎晩見る夢の傍観者は誰だ?

もしも私じゃなかったら

もしも毎晩見ている夢の傍観者が、、私ではなかったらあれは一体誰が見ているんでしょうか?????気になりますよね。。。じつはあれ私ではないんですが、、、じゃあいったい誰が見ているんでしょうか????全体です、大いなる存在です、、、存在があの夢を作り出し、そしてあの夢を見ています。もっとももっと究極の話をすれば夢自体が夢を見ているんです。さてではこの現実という夢を見ているのは誰でしょうか????そうです、同じです、、大いなる存在です。大いなる存在がこの夢(現実)を作り出しこの夢を大いなる存在自体が見ているんです。もっと究極を言えばこの夢は夢自体が見ているんです。

じゃあこの私は?????

その私がこの夢自体です、、この夢を毎日見ている私こそが夢を作り出し夢を見る存在です、もっと究極を言えば夢(私)が夢(私)を見ているんです。この私という感覚はこの夢自体の感覚です、、夢自体の私なのです。だからこの私はいつもいつも存在に気づかれていますよね、、、意識を失うことはないですよね。在るというこの感覚、、これが私の本性です。その在るという感覚がこの夢(現実)を作り出しそのまま夢を見ているんです。

出演者も私なのに

このドラマに出てくる出演者も当然私の中に出てきます、私の変容体です、ですが彼らは名を名乗り全くの別人と宣うから混乱するんです。ですが100%私が作り出した出演者であり、、私自身です。私が居ないところでは彼らは存在できませんし、、私が居る場所でしか登場できません。夢の中で、、味覚痛覚触覚視覚聴覚を作り出せるのは、、夢の創造主だからです。ではこの現実(夢)の中でもそれを作り出せるのは創造主だけです。だからこの世界には五感が登場するのです。

漫画を読み始めたその瞬間

棚にあるコミック本

棚にあるコミック本は、、読み始めるまではそこに在るだけです、ただ在るだけです。コミック本に時間空間は存在するのか???あるわけがない、、微動だにしないコミック本には時間空間は存在しません。ところがこのコミックを読み始めた瞬間に何が起きるか、、突如脳内に空間時間が広がります、、、主人公が動き出す空間時間が起こるのです、、そして読み始めていくことで様々な感情が起こるのです。コミック本が棚にある時点ではこれらは何も起きていません。本を開き、、意識をそこに向けた瞬間に時間空間感情が起こるのです。

意識を体に向けた瞬間に

意識をこの体に向けたその瞬間、、、突如この世界に時間と空間が起こるのです。そして思考が湧き上がり感情も湧き上がる、、、もっと詳細に伝えれば、、、この体に意識が向いた瞬間に緊張と分離感が起こります。この感覚が不快なので、、次に何かをしてこの緊張と分離感を解消しようとする動きが始まるのです。その動きが人生ストーリーを作り出すのです。

バスケットボールプレイヤー

プロのバスケットプレイヤーは、、、ボールを持った瞬間に意識がボールに行き、、そこから時間と空間が広がります。ボールを持つまではただの背景が、、持った瞬間その場所に相手プレイヤー、コートが広がるのです。つまり意識が向くことでその世界が広がります。目が覚めてこの体に意識が向いた瞬間に時間、空間が広がります。

背景として意識的に体を意織する

この体に意織を向けないで社会生活をするのは不可能です。ですが今までは無意識に体に意識が行っていました。つまり体に意識が向くことに無意識だったのです。ですがこれからは意織的に体に意識が向くことを意織できます。つまり時間、空間が広がることに意織できるのです。時間空間がイリュージョンであることを自覚的に意織できます。これによって背景としての自分を忘れないことができるのです。これは真の安らぎ(背景)の中でこの人間ドラマを楽しめることが証明されます。

ブラックボックス

疑わしきは無視

もしかしたら私が女子会に参加しなければ私が居ないところで友人Aと友人Bが私の悪口を言っているかも、、なんとなく気になるラインが来ている。。。。そのような時どうすることが正解なのでしょうか????多くの場合は探りのラインを入れたりして、、、起こっているかいないかを探ったり、もしくは無理して女子会に参加したり、、、するでしょう。ですがこれらは逆に悪口を現象化させます。友人Aと友人Bが悪口を言っているような雰囲気があるのならばそれを私は絶対に感じているのですから、、そこは関心が行くことで逆に現象化するのです。

このような場合は先ず、、

全ての問題はそこに執着があるか否かが試されます。もしもその友人二人に対して執着があれば間違いなくドラマに引き摺り込まれます、なぜか???自我はドラマに入って存在を維持するからです。ですからこのような場合は、、悪口を言っていそう、、という時点で関係を消去します。つまり自分からは一切連絡を取らない、そして悪口を一切言っていないような雰囲気ならば関係を続けると決めてしまいます。関係を自ら切ってしまうことで執着の糸が先ずは切れました。すると自我はドラマに入れなくなるので、、悪い関係自体を消去するのです。

良い関係だけを続けると決めてしまう

悪い関係でも関係を続けようというのは執着です、、執着は自我の大好物ですからここからドラマがわんさか湧いてくるのです。良い関係ならば継続しようというのは執着ではないので自我はドラマをそこでは作らなくなるのです。こうして全ての問題は執着を手放すトレーニングであると気付くのです。自我にとって一番怖いことは、、全てのドラマが終了し自身がドラマから追い出されることです。そのためには関心を常にドラマの中に向けてもらいたいわけです。

悟ると決めてしまう

関心を悟りのみに向けますと、、最小限のドラマ勧誘で抑えることができます。無意識だった車への執着、無意識だったパートーナーへの執着、、それでも無意識の執着は次々に問題化し、、ドラマの中に自我を引きずり込もうとするでしょうが、、それらは全て執着の膿み出しと決めてしまうのです。そしてバッサバッサと執着を手放していきます。

全ては練習問題

練習問題としてのエージェントスミス

心を揺さぶる問題が起こるといましょう、、この心を揺さぶる問題はなぜ起こるのでしょうか????簡単です。自我の延命です、、心が揺さぶる問題が起きれば自我をこれを解決するか逃げるかするでしょう、つまりこの自我ストーリーの中でアクションを起こすのです。その際に心を揺さぶる問題はどうあがいてもこのストーリー上に自身が居ることを強く強く意織させられます。これが映画マトリックスのエージェントスミスです。今お前はこのドラマの中で解決を図らないと大変な目に遭うぞ、、という戦略です。

関心ごとの全て

例えば見た目に全く興味がない男性が、、、ファッションを揶揄されても全く問題にはならないでしょう。問題とはその方が関心を持っている分野なのです、、例えばその男性がキャリアに意識が高ければ、、、そこで問題が起きる可能性が高くなります。会社の倒産、左遷、低評価などです。これによって彼は心を揺さぶられこのストーリー、この自分に強く強く関心を寄せます。自我はエネルギーが注がれ益々このストーリーにのめり込むのです。

問題が起きても

関心が高い分野は問題化(エージェントスミス化)し襲ってきますが、、そこに関心を向けてしまっては自我システムの思う壺です。そこに関心を寄せるのではなく、、練習問題がきた、、私はどうもキャリアに執着しているようだ。。本当に重要なことはこの私は大いなる存在であってこも見かけ上の私ではない、、だからキャリアの問題はそれを示すために起きたのだ、、と真実に戻ります。つまり執着が形になって執着を教えてくれているのです。

キャリアの問題は重要なことではない

キャリアの問題は、、自身が大いなる存在であるという気づきに比べれば全く問題がありません。自身が偽りの自分ではなく大いなる存在であるという気づきが起きればその問題は真の安らぎの中で解決されるからです。そして仮に解決されなくても執着に気付くことで、、自我の柵がまた一つ無くなり自我はパワーを失います。その時景色が輝いていきます。問題の背景が輝いてくるのです。

全執着が溶けていく

何か大きな問題、心が揺さぶられる問題が起きたときは、、その分野に執着があることを教えてくれています。その問題が執着を露わにしてくているわけですから非常に有難いことなのです。なぜ私はキャリアに執着があるのだろう????それは私がそこで高い評価をされたいと願っているからに違いない、なぜ評価をされたいかと言えば自分(自我)の存在をそこで証明したいからだ。だが自我は幻でありそこで存在を証明したとしても本当は証明されないのだから同じことなのだ、、となります。

空の揺らぎ

色とは影

色とは空の影揺らぎです、、我々は全体で空の影、揺らぎをやっています。空から影が現れるその根源が大いなる存在、存在、我あり、気づきの意織などと呼ばれます。そこでは常に意識が起こります。そしてその意識は我々の根源に常にあり、、その感覚は我々が起きている間存在している「在る」という感覚です。そして我々は影でありますからそこには自由意志はないし(ある感覚はある)、自己という分離独立した(あるという感覚はある)存在もいません。だから時間はないし空間もないのです。

分離と緊張

我々はこの体の中に自己が存在するという錯覚を持った瞬間に(分離と緊張)を生み出します。この分離と緊張が苦しいので、、我々は、、この感覚を振り払うためにあらゆる活動をするわけです。ですがその活動の全ては自己が行うことであり、、根本の分離感緊張感が抜けることは絶対にありません。ですから途中疲れ果てその活動に疑いを持つことから悟りに関心を寄せるのです。

影に自由意志があったら

我々は空の影です、、空の影ですから本来はたった一つのエネルギーです。たった一つのエネルギーの影の一部に自由意志があるとしたら、、それは分離であり、、そうなるとたった一つのエネルギーはたった一つではなくなってしまいます。あくまでこの影の中で起こるのは分離ではなく分離感です、自由意思感です。分離という錯覚、自由意志という錯覚です。自由意思感という錯覚を所有する自分という錯覚が歩むドラマがマイライフでという錯覚です。

ある時この錯覚に気づく

ある時この私、この自由意志が錯覚だという気づきが起きます、そしてこれは空の影、反映であることにも気づきます。この気づきはこの私ではなく気づきの意織、大いなる存在、我ありから起こるのです。その時同時にもう何も抗わなくていい、影の動きに身を委ねよう、どうせこの身が滅びても影に吸収されるだけだという気づきが起きます。影はどこまでいっても影でありこれが空に影響を与えることはないのですからこれほど気楽な活動はありません。「私」の活動は最初から最後まで遊びです。

気づき(雲)の中で現象(雲)は起こる

私(雲)は何にも気づいていませんよ

空がありその中で雲(現象)が生まれた瞬間から気づき(雲)が生まれました。雲(現象)とは実は空の投影であり、、その瞬間気づく(雲)が生まれたのです。この気づきは「我あり、存在、意織」などと呼ばれます。この時点ではまだ偽りの私(雲)は発生していません。この中にこの体(雲)が発生し、、この体の中には自分が居るという思考感覚(雲)が生まれたのです。そしてこの雲が現れることで様々な感情(雲)思考(雲)が発生していくことになります。この一連の流れを人生と呼びます。

私(雲)とは

私とは、、空と雲の発生による気づき(雲)を自分が気づいているという錯覚(雲)を所有する存在(雲)です。私とは壮大な大勘違いをする存在なのです、、、壮大な大勘違いですから、、このストーリーはなかなか辛いのです。気づき(雲)の中で私(雲)が生まれたにも関わらず私(雲)が気づき(雲)を所有するという大錯覚(雲)が生まれてしまったのです。ただし空にとってはどうでもいいこと、、空にとっては全雲(現象)は完璧なのです。

私(雲)がある限り

この空に私(雲)が発生しますと、、同時に苦しみ、痛み(雲)が発生します。そして私のストーリーとは苦しみ(雲)発生システムなのです。このシステムに良否はなくただそのようになっているだけです。ですがこのシステムを俯瞰できるようになりますとこのシステムを続けたいとは思えなくなります。そこでこのシステムの解体が始まるのです。このシステムが起動するにはこのシステムが無意識の中で行われる必要があります。なぜならば「この私が居る」という観念に支えられてこのストーリーは成り立っているからです。主人公不在のストーリーは成立しないのです。

主人公の嘘がバレると

この私が実は嘘だった、、ということが分かりますと、、このドラマは崩壊し始めます。主人公がボヤけたドラマは保持されにくいのです。あなたは主人公がはっきりしない映画を二時間観ることができますか???無理ゲーです。ですからここからこの私ドラマは崩壊していくのです、私ドラマへの執着関心が薄れていくのです。かといってこの体(雲)を雑に扱うということも起きません、ただ偽りの自分(雲)に関心が無くなるだけです。

雲(自我)の最後の抵抗

固執している関心ごと

本当は私はこの体(雲)ではなくて空だ、、、この体(雲)この思考(雲)この感情(雲)が私(雲)なのではなく、、空そのものなんだ!!!!この気づきがある日突然起きます。ですが、、、それと同時に、、日々の関心ごと、将来への不安、両親との確執、本当はやりたかったこと、、などがフラッシュバックのように流れ(雲)また私(雲)にしがみ付く、、、が起こります。この全ての出来事は全て雲であり、、、この私(雲)を維持するための連発雲(記憶、思考)が起こるのです。

エージェントスミス

マトリックスの映画ではこの状況をエージェントスミス(雲)を使って表現しています。友人知人、両親、、、あらゆる人がエージェントスミス化して攻撃してきます。主人公ネオは彼らと死闘を繰り広げるわけですがそこの関心が行っている時点で実は負け戦なのです。個人の関心とは個人をこの世界に留めておくための戦略なのです。お金、ギャンブル、お酒、異性、マンション、アクセサリー、SNS、、、その人の関心が実はこの世界にその人を留めておくツールなのです。

全ての関心ごと

全ての関心ごとを観察し、そこの執着しない、、そして自身は空であるという自覚で過ごすことができるようになりますと、、過剰な関心攻撃は無くなっていきます。恐らくこれは自我に関心がむかなくなる時の自我の悪あがき、反抗期なのでしょう。本当はアピールしたい、だが直接ではバレる、、そこで関心事を記憶から引き出し、、意識をそっちに向けさせます。

勝負の行方は決まっている

どれほどにエージェントスミスの攻撃が半端なく毎回毎回この自我ストーリーに引き戻されてしまったとしても、、、最終的な勝者は既に決まっています。なぜならば、、雲(自我)が空(本当の自分)になるのではなく、、いままでも空(本当の自分)だったのです。生まれてこの方、空(本当の自分)でなかったときは一度もないのです、、、ただ雲(自我)を本当の自分と勘違いする思考(雲)が漂っていただけなのです。そしてそれによって観念という分厚い雲が現れその雲を通じてこの世界を見るという自我ストーリーが生まれていたのです。ただしどれほどそのストーリー(雲)が分厚いものであっても、、空(本当の自分)は常にそこにあって全くなんの影響も受けずにいました。それらが消え去りまっさらになってもやはりそこには空(本当の自分)が残ります。

非連続的な全て

心も体も

心はいつも存在しないですよね、何かに夢中になっている時、、姿を消しています。「わたし」もいつもいないはずです、、転んだ瞬間、私なんて忘れ去られています。体も実は姿を消します。画面でPCに向かっている時、、、、足の姿は消えます。この現象界において常に必ず存在する何かってないんです。現象は常にあったりなかったり非連続性なのです。こころは絶対ある、私はぜったいある、、体は絶対にある、、、それは記憶をつなぎ止めて、、あるはずだ、、、と思っているのです。

一方

一方意識は確実に常にあります、朝起きて寝るまで意識はあります、、、意織、、、、この連続する存在、、決してなくならない存在が私たちの本質です。この意識の中でたまに「私」が現れ、、たまに体が現れ、、たまに思考が現れ、、たまに感情が現れるのです。意識以外は、、、たまにこの世界に現れる現象に過ぎないのです。つまり幻です。

幻を実在すると思い込む

この世界に苦しみが沸き起こるのは、、、「私」というたまにしか現れない存在を、、確実に実在する何かと捉えたからです。現象の一つでしかない「私」という概念、感覚を常に存在している絶対的なもににしてしまったことで、、、「苦しい」が湧き続けるのです。