幻想

波が浜辺で消滅した時に大海に戻る体験をする

波(個人意識)は消滅し、大海(真我)を知る

波(個人)はこの体の死を体験する時に大海(真我)に戻る体験を積みます、、、これが悟りです、、実は波ではなく大海だったという気づきです。波ではなく思考ですから、、、ただ大海である状態を知ります。個人は言葉が作ったイメージ、概念、思考ですから、、これが幻想であることを腹の底から理解しますと大海(真我)だったという気づきの体験が起きます。

究極の体験

我々(波)においての究極の経験こそが大海だったという気づきです。この気づきが起きることが悟りです、、ということでこれを完全に理解してしまいます、、自我形成(波)のプロセス、波と大海の違い、、自我(波)の動きの特徴、、波物語のカラクリ、、波としての経験が観念を作りそれが体験する世界を作り出す、、分離の世界の構築方法、、

確かに私は海だ!

知識の上での、、私は海だ!!という理解は重要になります、、なぜならば我々は腹落ちした感覚を体感するように設定されているからです、、、私は被害者だ、、これを完璧な感覚で信じていると、、被害者を経験します。。私はラッキーだ、、これを完璧な感覚で確信していますと、、これを体感します。。私は海そのもの、真我、、これを完璧な感覚で理解が起きますと、、それを体感する経験が起きます。

悟りを知る、そして体験をする

悟りとは何たるか???

悟りとは何かを感じるためには先ずはこれを知る必要があります、、、どういうことなのか???知識としてこれを知ります、、そして完全なる理解が起きますと、、次はこれを体験できるようになります、、なぜか???人はその人の観念が作り出した世界を経験するからです、、、つまり十二分に理解をしたならば次はそれをこの幻想の世界で体験できるということです、、、

この私が居ない世界がある

今までの私はこの体の中に居る私だけでした、、、ところが悟りとは、、、このイメージとしての私が本当の私ではなく、、、この世界そのもの、この現象そのもの、、そしてそれに気づく存在そのものであるという理解が先ずは知識として起こります、、本当のこの理解が進めと、、次にそれを経験するというプロセスに進みます。「あ、確かにこれは私ではない、、全部が私だという体験」

体験を起こすには先ずは理解する

我々が体験をしているのは我々の観念です、、つまり本当のところで感じている世界観、、これを我々は体験します。。。観念において悟りを全く理解していなければこれを体験することは先ずない、、ということになります。ですから先ずは完璧な理解、頭での理解、、観念に落とし込むような理解が重要になるのです。その先に、、、体験が待っています、、、そしてそれを味わい尽くした時に、、本当の気づきになります。

動くな

自我の動きを止めろ

この私、イメージの私、概念の私はこの物語の世界で、夢の世界で、概念の世界で、、、、動き廻ります、、、そのままでは苦しいからです、そのままでは不足感、渇望感、孤独感が襲ってきますから、、、何かを求めます、、、その何かは「私」には実は分かっていないのですがそれでも求めずにはいられません。これがこの世界に生きることが苦しみをさらに生み出します。悟れば分かります、、この求める動きこそが苦しみを終わらせないことを、、、、ですから覚者は言う「動くな」と、、、、

動いたって無駄

いったい何年間動き続ければ気が済むのか、、、自我に任せて動き続け、、、本当の幸福を得たことはあるのか???という話です。ないはず、、、この地上で横に動き回っても、、思考を動かし続けても絶対に至らない幸福を手に入れるためには、、、先ずは理解することです、、、動いても手に入らないことを。そして今この場所、、、ここに全生命エネルギー、森羅万象の動きがあり、、、それに気づく存在が居る、、この両極の存在が私です。

この夢の動きこそ

この夢、幻想の動きこそが私です、、この夢、幻想の動きを支える場所こそ私です、、、この見かけ上の「私」を生み出す存在こそ私です、、全思考、全感情、全行動を生み出す存在こそ私です、、、全動きが在るから動きのスペースの存在(空)が現れ、、スペース(空)が在るから現象(色)が現れます、、色と空は一つであり、、、それが私です。ここに気づくためには先ずは見かけ上の「私」の動きを止める必要があります、エゴ、自我、自己意識と呼ばれる存在の動きを止めます。

ストーリーの半ばまできてますが、、、

充分ストーリー背負ってますが何か????

いきなり「私」はイメージで、、この人生は夢の中の物語に過ぎない、、、て言われてしまっても、、、もうストーリーはかなり進んでいますから、、、どうすりゃいいんですか????という話です、、、、、何も問題はありません、、、このストーリーをストーリーと見抜いて生きていくだけです、、、これを漫画だと気づいて漫画を読んでいきます、、、、これを映画だと気づいて映画を観ていきます、、、

ワンネスの中でストーリーを敢えて生きる

ワンネスの中で、、、ストーリーを敢えて生きていくしか道はありません、、、分離を分離と見抜き、、分離の世界を生きていきます。。。この私をイメージと見抜き、私を生きます、、、、、何が変わるのか???深刻さが抜けます、、湧いてくる思考、行動が確実に変わります。。。。ストーリーを現実と勘違いしていた時の思考や感情が激変します。。。一度本当の現実を知ってしまったら、、もうストーリーを現実とは思うことはできません。

超現実

我々が生きる世界を現実と呼ぶならば、、超現実という場所があり、、その超現実の中で現実社会が広がっているという見方もあります。この現実は超現実から浮かび上がった世界、、、超現実を言語で分断し、、イメージ化し、、作り上げた世界こそが現実の世界です。。。今現実世界は超現実から湧く幻想ですから、、そこに居ることになっている人々はいつか超現実に戻りたいと切望します。。。

このゲームを現実と信じるとよりリアリティー感が増す

普通のマリオカートが、、、

最初は普通のマリオカートでした、、、しかし、、、これをゲームではなく現実だと信じるようになりますと、、まさかこのマリオカートがガンガングレードアップして、、、詳細な雨の感じ、エンジン音、落雷、タイヤの滑り、、全ては超現実的な作りに変わっていきます、、もうゲームなのか現実なのか区別が付かない、、、、このような変化が起きます、、、「これが我々がこのたった一つのエネルギー上でやっていることです」

最初は「蝶々」「バッタ」「ママ」が居るだけだった、、、

幼少期を思い出してみてください、、こんなに深刻な世界ではなかったはずです、、もっともっとフワフワしていた世界、、軽い世界だったはずです、、、ところが言葉を覚え、、。名前を覚える度に、、このフワフワした世界にあらゆる登場人物、登場物が増えていき、、、なんかこの独立分離した存在こそが、、、本物だと信じるようになった、、、するとこの独立分離した風の登場人物達が全くフワフワではなく、、超現実的に見えるようになったのです、、つまり観念が書き変わっていったのです。たった一つのフワフワした世界から、、、独立分離こそが真実という世界に生まれ変わっていったのです、見かけ上。

「これって幻想ですよね」、、精神病に入る

そして最後には、、、これって幻想ですよね、、、などと言えば、、、精神病院に入れられてしまうぐらいになります、、、この世界を見かけ上の「私」の観念が作り出したのです。ですがこれって夢かも、、、という観念が定着していきますと、、、それを支える現実(夢)が起きますから、、そこの気づきが助長されていきます、、、一旦振り切れた、、、超独立分離世界が、、、まあまあ独立分離世界、、、夢かも世界、、夢だ世界、、、に変わっていきます。

ああ、そうか

何が起きても「ああ、そうか」

有名な白隠禅師は何が起きても「ああ、そうか」で片付けたそうです、、このエピソードはこの世界が実は幻想、夢、イリュージョンであることを見抜いた発言であることは容易に分かります、、多くの方は何が起きても深刻に捉えます、、なぜならば、、、これが絶対的現実であると信じているからです、、ですが白隠禅師は夢だと見抜いていた、、、この認識の違いは全く異なる行動を生み出します。

絶対的現実と信じれば

これが絶対的現実である、、これが多くの方の信念です、、、この信念、観念はこのたった一つエネルギーをそう見えるように導きます、、、このたった一つのエネルギーが分離独立し(イリュージョン)それが現実であるように見えるようにイリュージョン化します。つまりTVゲームをやっている際にこれが現実だという信念が生まれますと、、そのゲームが益々リアリティーに見えるようにイリュージョン化されるということです。最初はただのマリオカートが、、、あまりにこれを現実を信じるあまりに、、マリオカートが現実であるという勘違いが起きるようなゲーム設定に切り替わっていくということです。するとゲーム中のプレイヤーにこれはゲームだよ(幻想)だよと言っても、、全く理解が起きない、、さらに、、幻想だよと言ってくれる人間(幻想)も現れなくなります。

夢だと気づき始めると

夢かも、、、これが観念の中に定着しますと、、、夢かも、、、が証明されるようなメッセージが多く起こるようになります、、そしてこれは夢だ、、という気づきが起きますと、、もうこの夢が現実だという誘いも起きなくなります、、、、エージェントスミスが、、ネオに「あなたの見ている世界は現実だ」という誘いをしていたのが、、完全な気づきが起きればもう起きません、、なぜならばその誘いは、、自身の観念こそが起こしていたからです。

幻想と見抜いて幻想を活用する

幻想と見抜くと観念が崩れ落ちる

我々はこのたった一つのエネルギーワンネス常に言葉を生み出し、、分離独立したように見える世界を築き上げました。これがこの夢の登場です、、、分離独立したものが最初にあってそれに名前をつけたのではありません。音を組み合わせた「名前」を覚えることでそれをイメージ化し、このたった一つのエネルギーの世界に、、分離したように見える「物体」を登場させたのです、、これはマジックです、イリュージョンです。この気づきが起きても、、、目の前に鳥は現れます、、、このマジックを見抜いたところでこのマジックは目の前で登場します、、、ですが今までとは全く違うこと、、それはこれがマジックだと知っているということです。

「私」の「物語」というマジック

私の物語は完全にマジックです、、言葉が作り出したイメージ、イリュージョン、幻想です。そこに気づいてしましますと、、真剣にこのマジックに付き合う気はもうなくなります、、、マジックで起きたことに汗を垂らす、、、ないです。ラスベガスで見たマジックを見てその後1週間寝込んだ、、、、聞いたことがありません。つまりマジックと見抜けば、、、もう深刻になれないのです。

マジックを楽しむ

マジックは楽しむものです、、つまり我々は今後この人生というマジックを楽しんで生きていくことができるのです、、マジックと見抜いてマジックを楽しんで生きていきます、、、このマジックの世界は化学反応(縁起)の世界ですから、、何かアクションを起こせばストーリー上、マジック上、、何か反応が起きます、、この反応を楽しんで生きていく、、、

「私」という絶対的現実存在というマジック

「私」という絶対的超現実存在、、これがマジックだったという気づきはこれまでの観念、価値観を根底から崩してくれます、、このビルの崩壊が起きますと、、、急激にこの人生(マジック)は楽になります、、重さが取れます、、、人生こうあるべきが壊れます、、暑苦しさが消え落ちます、、、深刻さが壊れます、、、

気づきは後退しない

知識は忘れるが気づきは忘れない

気づきとは、、後退しないものです。ですから一度気づきが起きればそこから気づきがなくなることはない、、というのも気づきとは個人に起きるものではなく全体、気づきの意識、真我に起きるものなのです。気づきという化学反応が起きたようなものです。これってもしかしたら夢かも、、この気づきが起きますとこれが忘れ去られることがない、、、すると自然とこれが夢であるかどうかが生きていく上での最重要関心になります。

現実だと真剣に思い込んでいた

本当は我々がみている世界は完全に幻想、夢です、、、ですが中学、高校、社会人と進むに従いこの感覚が忘れ去られていく、、、20歳ぐらいになればすっかりと現実であると思い込む、この夢を。この夢を現実であると思い込めば込むほどに、、それを支える現象(夢)が起きますから、、益々そうなります。観念を証明するような夢が起きるのです。こうしていつしかどっぷりとこの現実(夢)にはまり込みます。

どうやってこの幻想、夢が出現するかに気づくだけ

マジックは一度でも種を教えてもらえれば、、もう騙されない、、、これはこの夢、幻想も同じこと、、一度でもこの夢、幻想がいかに成り立っているかを見抜いてしまえば、、、もう騙されない、、、私は20年前にその事実を釈迦のメッセージを読んで気づきが起きました、、確かにこれは我々が思っているような世界ではない、、、もっと本質には違う世界があるはずだ、、と。この20年前の気づきがこの活動をスタートさせました。この気づきが後退することはないのです、気づきは真我の気づきです、個人(夢)ではありません。

幻想の中で幻想をする

思考するということ

この世界で思考するということは、、幻想の中で幻想をすることと同じです、、、、この世界は幻想です、、我々の観念が作り出した幻想です、、この幻想の中で思考にふけるということは幻想の中でさらに幻想をするようなものです、、真実とはかなりかけ離れていきます、、、これは苦しい、、、この世界が分離して見えているだけでもう幻想の中に居るのです。

夢の中で夢をみる

我々は夢の中で夢を見ています、、、夢の中で、、さらに思考し、、夢を見ます、、、これが苦しの大元です、、、そうではなくこれが夢だと見抜き、、、夢だと思って生きて行きます、、すると、、夢であることが見抜けてきます、、、夢の中で本当の現実を見つけます、、、観念が崩れていきます。。。

たった一つのエネルギー

この場所が静寂、平和な場所です、、そこに観念で幻想を作り上げ、、それを現実であると勘違いして生きているのが我々です、、、その幻想の中で、、思考に取り込まれ、、、さらに幻想を作り出す、、、幻想の二重構造の中に居るのが我々です。思考を観察し、思考の取り込みから先ずは脱出する、、、そしてこの幻想を幻想と見抜いて生きる、、、周囲が幻想を現実と信じて生きている中で、、この現実は実は幻想であることを見抜きますと、、真実(現実)が姿を現してきます。そこは静寂、平和、歓喜の場所です。

名曲

名曲とは???

名曲とは、、、自我、私、個人という存在を完全に忘れた状態で、、、真我から生まれ出たものです、、、将来の心配をしながら、、来年の予算を気にしながら、、、名曲は生まれない、、、完全なる真我の状態から、この体を通じて起こった創造物です。

静寂から突然それが起こる

思考をこねくり回したら、、名曲が生まれた、、、あまり聞いたことがありません、、、思考をこねくり回し、、疲れ果て、、、、思考が全く止まってしまった時に、、、名曲が起きる、、、しがらみが多くなり、、、個人を強く意識するようになると。、、、この個人と思考はセットですから思考がガンガンに湧くようになります、、この状態では無我に入れない、、、、真我に入れない、、、

名曲を作って売れなければ

この発想が起これば、、、これは思考ですから、、、、イメージの世界、幻想の世界に入り込みます、、売れるというのはこのイメージの世界での現象です、、、この中で売れることを考えれば、、、名曲は起きません、、この場所にはないからです。。。。名曲はイメージの外、幻想の外に存在します。。。邪念が完全に抜けた場所、、そこに名曲が存在します。