観照者

究極には

究極にはこの世界に観照者、気づきの意織という個別分離した存在は存在しません。なぜならばこの世界には分路は100%存在しないからです。ですからこの世界に「名前がついた何か」というのは存在しないのです。大いなる存在、、気づきの意織、、、ブラフマン、、、どんな偉大な存在であっても、、、、名前がついたこの世界とは分離した存在は存在しないのです。

とはいえ

自身が自我ではないことを理解するには「自我」ではない何かであることを理解する必要があり、、そのための便宜上様々な言葉が用意されているのです。それらの言葉は「自我ではない」これを理解するための方便です。自我という分離に慣れ親しんでいるがゆえに、、そこから引き離すためには「自我ではない何か」であるというイメージを起こす必要があり、、そのためにあらゆる言葉が駆使されます。

私とは非二元である????????

私とは非二元です。私とはノンデュアリティです。私とは覚醒です。。。全て文書として破綻しています。そうです、、私とは本来何ものでもないのです。ですが何ものでもない、、というのをそのまま理解することは不可能であり結果、神、大いなる存在、ワンネス、、、などの方便が使われるのです。