自分という実感

これを作り上げた

気のボールというのがあります。これ気功師であれば誰でも作れます、というよりもこれを実感できます。この世界では何よりもこの実感が重要視されます。自分という「感覚」も生まれて何年間かのうちに両親から何度も名前を呼ばれることで「実感」するに至ったのです。そして何度もコミュニケーションを周囲と取ることで、、周囲の中にも人格があるという「実感」を得るに至ったのです。そして今この自我という実感をベースに我々は生活し生き抜いています。にも関わらずこの「実感」を突然奪ってしまったら社会生活が難しくなるわけでそれゆえ悟りのメッセージは常に嫌煙されてきたのです。

トレーニング

本当はこの世界は「実感」を得るまでトレーニングを重ねれば、、何でも可能です。勿論この人間にはキャラがあるので全部が全部は不可能でしょう。実感を得れるトレーニングを積める分野であれば、、人は何でもできるのです。「自分」という実感を獲得した、、人類は、、それを今やっているのです。ですがこの「自分」という実感にはデメリットがあり、、それが「緊張」というものを伴うのです。これが苦しみ、不足感、分離感を一緒に作り出してしまいます。だから本質レベルでは人はこれを辞めたいわけです。

全体としての「実感」

「自分」としての実感を手放したければ、、、「全体」としての実感を得る以外にありません。「全体」としての実感を得ますと、、、人は再び「自我」という実感を手放すことができます。勿論コミュニケーション時は「自分」という実感を作らなくては、、成り立ちませんからそれは適宜行います。全体としての実感は、、この自分という実感を認識する存在としての自覚です。「自分」が「自分」を実感するのは構造上不可能なのです。「自分」を実感するが起きるのは「全体」があるからに他なりません。