タオに遊ぶ

燻んだ世界を生きて

我々は生き抜くためにあらゆる学習を重ねていきました、なるべくならば学歴はある方が良い、なるべくならば有名な会社に勤めた方が良い、なるべくならばそういった人と結婚した方が良い、なるべくならば潰れない業界が良い、、、です。こうして確実にこの体を生き伸ばせることと引き換えに、、、この世界を燻んだ世界に変えました。生き延びるために学習し、その学習がこの世界を燻ませるのです。

困った、では学習だ!

現在の人間の進化においてはこの流れは絶対に逆らえない、、なぜならばこの体を維持していくのがこの体にとって最も重要なことだからです。ですがそれとは引き換えにこの世界を燻んだ世界にしました、本当は今ここで輝いてるこのリアリティの世界を観念越しに見ることで燻みが入るのです。そしてそのことを完全に忘れてしまったがゆえに引き返すことができないとこまでいくのです。

学習の先の悟り

学んでも学んでも達成しても達成しても満たされないというこの無限地獄を出るには、、悟るしかないわけですが、、ここで大きな問題が起きるのです。それは悟りとは観念を観念と見破り、、観念を落とす作業なわけですが、、、学習すれば学習するほどに観念が増えていくという矛盾をはらんでいるのです。例えば私は本当はマリオで、、みたいな悟りのメッセージを概念として覚えていきます、すると観念が書き換わるのです。観念を落としていきたいにも関わらず観念が増えていくという苦しみです。

苦しみが一切消えない

つまり悟りを学びとして知識を増やしていく段階では苦しみは全く消えないという苦しみを抱えているのです。ですがもう悟しか道はないと気付いた者は辛かろうがなんだろうがこの道しかないのだ、、、という気楽さを持っています。ですから悟りの学びを途中で終わらせるということもないのです。そして徐々に徐々に日常生活において思考が減っていくという段階に進みます。なぜならば悟る以外に道がないと気付いた者はもう執着が他にないからです。悟るという執着以外が落ちるのです。

悟るという執着

人間が最後に持つ執着、それが悟りです。ですがこの執着を持つ時は、、他に執着すべきことがないという完全な消去法です。そして「最後の執着」である悟りがそこにあるわけです。どの道も全く終わりがなく辿りつけば満足できないということを知っている者だけがこの最後の砦に挑むのです。そして悟りの道も案の定途中まで全く楽にならないというオチです。

呼吸法

呼吸法で視界を変えてしまいますと、、今この場所で幸福を味わえるようになります。さっきまで燻んだ世界が光り輝いているのです。そうだ!!!これだ!!!もう何も手に入れる必要はないしどこにもいく必要がないのです。勿論何かをやりたい!!!が起こりますがそれは全くもって結果を期待しない行動なのです。子供が遊ぶように目的や利益がそこには全くないのです。悟りの学びが呼吸法で体現できるようになります。

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