偽りの自分

頭の中に天使がいて、、、

病気????

「最近私の中に天使が居て、、、」友人が突然そのようなことを言い始めたらあなたならどう思うか????「病気では?????」です。真実ではないことを本気で信じている人のことを「病人」と呼びます。では「この体この思考こそが私」これが真実ではなかったらどうなるでしょうか???????全人類、自我が芽生えている人類の全ては病人となります。病人って基本苦しいんです、、あれ????本当にそうだ、、みんな苦しんでいる。

釈迦は悟り気づいた「世の中は苦である」と

人間は老いるから苦しい、人間は病気になるから苦しい、人間は貧しくなるから苦しい、、、違うんです。。人間という設定、、、人間という初期設定が苦しいんです、、、初期設定が苦しいから何かをやろうと思うんです。人間に何かが起きるから苦しいんではないんです。人間という存在そのものが苦しいんです。厳密に言えば「この体この思考が自分」という思考が湧くと苦しくなるんです。湧くも何も真実じゃないですか?????違います、、真実じゃないから苦しんでいるんです。

嘘やろ????

この自由に動く自由に起こせる思考、、これが自分じゃないなんてあるわけないやろ!!!逆に言えばこれしか自分のものはないんです。。。。。残念!!!!「この体この思考こそが自分」という洗脳を受けたんです両親、周囲の大人から。その洗脳を受けなかったら自分なんていう発想ないんです、つまり自分って概念なんです。

「この体この思考が自分」じゃないとしても生きていかないといけない

もしかしてそうかもしれない「この体この思考は自分」は洗脳かもしれない、、、でもそうだろうとこの体を食べさせていくには「この体この思考が自分」って思って生きていかないと無理ですよね?????その通りです、、それが真実ではなく、、それは方便で、、、そう便宜上思って生きていけばいいのです。本当の自分はそうじゃない、、この体、この思考じゃない、、、、在るというこの疑いようのない感覚は、、この体この思考のものじゃない、、、この体が「在る」を感じているんじゃない、、、「在る」がこの体、この思考に気づきているんだ。。。。です。

真実で全てを説明できる

仮面ライダーはTVの中には居ないんです、、、これを冷静に理解できたあとでも、、、仮面ライダーをTVで楽しむことはできます。「この体、この思考こそ自分」これが真実ではないことが分かっても、、生きていけるんです。周囲はそう信じている、、それに合わせて便宜上生きていけばいい、、です。そうすると「本当の私は誰だ???」という憤りを感じないで生きていけます。苦しくない、、、病人脱出。

疑問が消えるその瞬間まで

疑問が一つ残らず終わるその瞬間

子供が迷子になり必死に探す母親、、、母親の中には様々な疑問が起こり続けます。「あそこにいるかな???」「あれ、、もしかしたらエレベーターに乗ったのかも???」「もしかしたら勝手に帰っちゃった????」そして30分後、、駅員に発見されて再開。。その瞬間思考が止まる、、よかった、、安堵。。。。疑問とは答えに遭遇すると止まるんです。疑問が起きようがないんです。

私って本当は誰だ?????

人類全員に起こっている疑問「本当の私って誰????」です。この疑問が実は常に湧き上がっているんです、、、そしてこれに答えてくれる人もいないんです。だから常に憤りを感じているんです、、実は感じているんです、、この憤りを。「この体と思考があなたよ!!!!」これを一万回聞かされても憤りが晴れないんです。

では答えましょう

本当の私とは、、この憤り、この疑問を湧き起こす存在です、そしてその疑問そのもの、その感情すのものです。全ての現象を起こすスペース、スクリーン、空間であり、、、同時にその現象の全てに気づく存在です。さらにその現象そのものです。ここ以外では何も起きていなくここが全てです。起きる現象の全て、それに気づ口全てです。その中に「この体この思考が私」という思考がやはりこの「本当の私」から起こり、、それに気づくがおきました。「この体この思考が私」という思考が湧く度に起こる「本当の私は誰???」が憤りという感情を起こしその解決のためにさらなる「私はどうしようか???」が起こるのです、、これが偽りに自分劇場です。

そして疑問が消える

「この体この思考が私」がもう湧いてこなくなりますと、、「本当は誰???」も湧いてこないため、、それを解消するための「私は何をしたらいいの????」も湧いてこなくなります。疑問の連鎖が終わるのです。疑問がもう湧いてこない、、、これが悟りです、覚醒です、解放です。夢から覚めた後に、、、夢から覚めただろうか????は湧いてこないんです!!!

本当の私はどこに居る????

ここ以外にいるのか????

「この体この思考が自分」じゃないとすると、、、、、本当の自分はどこに居るんでしょうか????どこか遠い場所に居るのか????どこか離れた場所?????であるはずがないんです。。本当の自分がどこか遠くにいるならば、、、ここはどこだ?????ここは偽物の場所なのか????です。もしも本当の自分がどこかに居るとしたら、、、ここしかないのです。そうです、、、ここにいるんです、間違いなく。

いまここに居るとして

いまここに本当の自分が居るのは分かった、、、、ではどこん居るんでしょうか????どこに隠れているのか????どこかに隠れれるとしたら、、隠れることができる残りの場所は何????となってしまいます。そうです本当の私はかくれちゃだめなんです。隠れた瞬間に、、隠す場所が本当の私以外になってしまうのです。つまり本当の私は、、、、どこにも隠れず、、、、ここに存在しています。目の前のコーヒッカップ、テーブル、あらゆる人々、、、この視界の全て、ここで聞こえる音の全て、香りの全てです。

この経験が本当の私の経験ではないとしたら

「この体、この思考である私」が感じる経験は誰の経験でしょうか????それが本当の私の経験ではないとしたら、、本当の私の経験とそれ以外の経験が存在してしまうことになってしまいます。そんなはずはない、、すると今ここで起こる経験の全ては本当の私の経験です。では本当の私と、、経験は別なのか?????本当の私と、、経験が別であったとしたら、、、経験は偽物になってしまします。違うんです、、経験もそのまま本当の私です。

なぜ退屈になるのか???

達成した内容が間違っていたのではない

あの仕事でもしも食べれるようになったら最高だなーーーとある時思います。そしてそのための準備をして実際にその仕事で食べれるようになる。最高!!!!俺って天才!努力をできるし忍耐力もあるし、、素晴らしい!!!!ところが一年後、、その時のような感動がもはやない、、むしろ退屈、、。。。こんな経験したことありますよね!?絶対あるはずです、最初は感動していたのに、、今はむしろ退屈。。。です。

これって目標設定が間違っていたわけじゃない

目標設定が間違っていたんだろうか????違います、それでいいんです。達成した時に感動してるんですから間違ってないんです。間違っているのは目標じゃないんです、初期設定なんです。「この体この思考が自分」「この体でありこの思考である自分」この主語が間違っているんです、、この主語が「私」は嘘だから偽りだから、、、この「私」は何を達成しても満足できないんです。もっと言いますと「嘘の私」を信じていることからくる「憤り」ここが無くならないのです、、、だから常に次々次、、と欲望が起こっちゃうんです。

退屈になる前に、、起きていること

退屈だなーもっと新しい刺激が欲しいなー、、、、この感情は確かに起きます、、ですがこの感情の奥の奥に本当の感情があるんです、、、それが「私って誰なんだ」という思考が起こす「憤り」です。「何かがおかしい」という感情です。この感情が変換されて「新しい刺激が欲しい」に切り替わり、、、もっともっとになるんです。

「本当は誰????」

80億人の人間が「この体この思考が私」って信じようがこの疑いは絶対に拭いされないんです、だってその疑いは、、本当の私から起きているから。この疑い憤りを脱ぎ去ることができるのは「この思考である私」では無理ですよ、、、、本当の私だけです。本当の私だけが、、「私って誰????」という疑問を終わらせることができるんです。

二元性の世界を作り上げるもの

二元性に見える世界を作り出すもの

神とはつまりこの二元性に見える世界を作り出す全てです。実際にはここには経験しかありませんから二元性ではありません、二元性に見える世界です。この二元性に見える世界はいったい誰が作ったんでしょうか????それが神と呼ばれる存在です。神がこの二元性に見える世界を作ったんだとすると、神とこの世界の二つができてします。神と二元性に見える世界の二つが存在してしまうと、、神以外に世界が存在することになり神は完全ではなくなってしまうのです。そのため神がこの二元性に見える世界を作ったのではなく神=二元性に見える世界となります。

神がこの自分(体と思考)を作り出し、、

神がこの自分(体と思考)を作り出し、、、この二元性に見える世界に堕した、、この自分(体と思考)が堕天使であり、、その堕天使がこの二元性に見える世界で遊ぶ、、、というのはよく聞く話です。ですが神とこの自分が別物であったとしたら、、神は完全ではなくなってしまいます。自分(この体と思考)は神の一部となります。二元性に見える世界は神であり、、この自分も神の一部ですから、、、この自分そして二元性に見える世界も全部神そのものです。

「この体とこの思考が自分」という思考も神の一部

二元性に見える世界は神そのものであり、、その中で活動する「この体この思考は自分」という思考も神の一部です。そしてこの二元性に見える世界で起こることは、、、経験のみ。この経験をかき集めて神です。どうやらどこをどう探しても神しかいないのです。どこを切り取っても神しか居ないのだから、、、私は神です。何もかもが神の自己表現、アートです。

私とは本当は誰だ????という憤り

中学生ぐらいになると

中学生ぐらいになると、、、どうやら大人になると、、社会人にならないといけないようだ、、、どうやらどこかに勤めていかないといけないようだ、、とこの自分を社会にぶち込んで社会に順応させ生きていかなくてはならないことを悟ります。ですが同時にこの「自分」とやらが本当に自分なのか????という奥深くに憤りを感じています・両親から周囲の大人から「この体この思考が自分」と学びはしたが、、、なんかしっくりこないモヤモヤが残るのです。

憤る

このモヤモヤに対し正しく教えてくれそうな大人皆無であり、お坊さんはなにやら死生観について語ってそうではあるが近付き難い、、、新興宗教も近寄り難い、、とこのモヤモヤを抑えて生きていくことになるのです。このモヤモヤは憤りになり、、、、あらゆる感情にシフトしていきます。学生時代から暴力映画、暴力漫画、攻撃的な音楽などに興味を持つのは根本にこの憤りがあるのは間違いないでしょう。

従順にならざるをえない

とはいえ大人に順応していかんければどうやら生きていくのは難しそうだと、、、悟り、、憤りをなんとか誤魔化しながら生きていくことになります。ですがエックハルトトールのようにその感情はどんどん増えていき、増殖しコントロール不能な状態にまでなることもあるのです。それが鬱や体調不良、アレルギー症状、アルコール中毒、、、などなどでしょう。

私とはこの体、この思考ではない

表面上、社会でこの体この思考を生き伸ばせるようになったのならば、、、もう「この体この思考が自分」という思考を信じるということを辞めてしまっていいのです。本当の自分は誰だ???に真剣に向き合う時です。「この体、この思考が自分」ではないのならば「今在る」という感覚は一体何なんだ????となります。答えを言ってしまえばまさにその「今在る」という感覚こそが自分自身であり、、それがこの体、この思考に気づいているのです。そして周囲の現象の全てにこの「今在る」は気づき続けます。つまりはこの現象の全てに気づく存在こそが自分であり、、この現象の全ても自分です。「この体この思考が自分」は間違いであり、、全部含めて自分なのです。

感情とは思考の確認ツール

思考が体に反応し感情になる

人生を豊かにするために「この体この思考が自分」という思考を脱洗脳しないといけない理由はこの思考が一日中ある感情を生み出すのです、それが寂しいです。思考は体に反応して感情を作り出します。ですからこの大元の思考をどうにかしなければ何をやっても結局はさみしい、孤独が解消されないのです。この感情を味わわないように、、人間はあらゆり行動を起こしてこれを感じないようにするわけですが結局はこの感情の処理に人生を費やし続けることになります。

孤独、不足感、寂しい

思考が作り出す感情を感じたくないがために人はあらゆる行動を通じてこれを解消しようとします。お酒、ギャンブル、買い物、暴飲暴食、高級品、地位、名誉、、などなど、、、、埋めてくれるかもしれない何かに向かってさらに思考を巡らせ、行動を巡らせていきます。ですが思考と言っても「この体、この思考が自分」が主語ですからこれを前提にした思考は全て孤独感、分離感、虚無感を起こすという負のスパイラルに入ります。ですがそんなことは知るはずもなく、、思考活動をフルスロットルさせるのです。

苦しみを終わりにしよう

ネガティブな感情は思考が作り出す、、そして今ネガティブな感情が湧くならば今その思考を終わりにする必要があります。根本解決から逃げて、、逃げて逃げ続けてもエンドレスにこの感情は追いかけてきます。TVの中に仮面ライダーが居ないことを冷静に認識した小学生が二度と居るとは信じないように、、「この体、この思考が自分」という思考が間違いであることを理解すればいいのです。すると二度とその思考は湧いてきませんから二度と孤独感、分離感を味わう必要がなくなります。

我思う、故に我あり、、、は苦しい

この言葉で救われた人はいない

我思う故に我あり、、この言葉は有名な哲学者が発見したとされる言葉ですがこの言葉を聞いて救われる人は居るんでしょうか????居ないですよね!!!!なぜ救われない?????嘘だからです。「我とは見ている景色全てである」この言葉はどうでしょうか????私は楽になるんです、、なんか急に息が吸えるような感覚です。

この思考、この体を自分と思うようになって

考えてみてください、、、「この体、この思考が自分」だって強烈に信じるようになってから息苦しい生活に変わってきませんでした?????これはあなたのもの、これは私のもの、、、、そこはしっかりしましょう!!!!学校の先生の言葉を聞けば聞くほどに、、、なんか息苦しいんですよね!!!学校で褒められても心の奥が救われていないような、、、、、

自己責任

社会人になったらしっかりと個人の責任を果たしましょう。だから自分の生活、自分の健康、自分の仕事を責任を持っていきてください!!!なんか息苦しい、、言葉は厚みがあるんですが、、、楽じゃないんですよね、、、、それはそうなんです!!!!だって見える世界の全てこそが自分だから。。この全ての現象を起こすスクリーン、スペースこそが自分です。そしてここで起こる経験の全てこそが自分です。自分ってこの体と思考だけって、、そんな小さい小さい存在じゃないんです。

スポーツしたあと気分が良い理由

体は今(至福)にしか存在できない

スポーツ選手って爽やかなイメージがありますよね?????なぜでしょうか???簡単です、体を動かすって今(至福)でしかできないんです、思考は昨日に戻ったり、一年後のことを考えたりと、、時間という概念の中で行ったり来たりするんですが体は今(至福)ここしか居られないんです。だからそれだけで大満足なんです。だから思考で捏ねくり回して、、、こうなったら将来幸せみたいな技を使わなくていいんです。

思考は未来に向かってこうなったら(条件)幸せになれる気がする、、を使う

思考は、、こういう条件の人と結婚したら、、こういう家に住めたら、、こういう旦那さんだったら、、、って未来に未来に幸福を目標設定しそのために何をしなきゃ、こうしなきゃって宿題を出してくるんです。幸福というのを将来に設定するんですね!!!ところがそれは思考が考え出したイメージですから、、そこにたどり着いてもイメージしかないんです。イメージがその人を幸せにしてくれるってないんです。

スポーツは今しかできない

体を動かすって今しかできません、、、物理学上、、ここでしか体って持ち運べないのです。そうすると今(至福)に感覚を作ることになります、今という場所にチューニングをします。その時に雑念って邪魔なんで思考が湧かないようになります。意識が過去や未来ではなく今に集中するんです。すると今は至福なんで、、至福に触れるのです。体を動かす時に、、思考を使って先ずは左、次は右ってやらないんです、、、全部自動反応ですよね!!!

毎日運動して今にチューニングする癖を作る

運動をルーティン化しますと、、、今にチューニングする習慣ができます。今(至福)に触れる癖がつくんです。本当の自分は「この体、この思考」ではないんですが、、、その思考が抜け落ちるんです。そして至福に浸れます。毎日毎日至福に浸る癖が付きますと、、、、思考でこねくり回すて幸福になるという作戦が起きにくいんです。だって今ここで至福に浸れるんですから。

エックハルトトールに起こったこと

「この体こそ思考こそが自分」という概念が崩れ落ちた

エックハルトトール、トップオブマスターと呼ばれ、、多くの方の悟りに世界で一番影響を与えたと呼ばれる方です。この方のエピソードは非常に面白く私は何十回と読み返しました。彼は苦悩した日々で「この私と付き合っていくのはもう十分だ」という思考が起こります、誰かがもうこんな自分は結構だと!!!その時に思いました。誰がこの自分は十分だと言っているのか????その瞬間に自分と思っていた思考が崩れ落ちました。次のダイアモンドのような光で目を覚まし悟りに至ったのです。

概念が崩れ落ちることはたまにある

田舎ってみんな温かくて優しいよね!!!東京から引っ越した当初はそのように感じる人は多いはず。ところが3ヶ月もしないうちに実は閉鎖的で仲間になかな入れてもらえないという現実に向き合うようになる、、そして半年後には「田舎ってべつに温かくて優しいわけじゃない」といままでの概念が崩れ落ちるのです。過度なストレスで思い込みが外れたのです。エックハルトはまさにそれが起きたのです、過度なストレスで「この体、この思考こそが自分」という概念が落ちたのです。

落ちるということは真実じゃない

つまりこういうことです、思い込みは過度なストレスで落ちるんです。エックハルトに起こったこと「この体この思考が自分」という思い込みが過度なストレスで落ちた、です。つまり「この体この思考は自分」というのは真実ではなく思い込み、観念です。つまりこの体この思考は自分じゃないのです。じゃあ誰だ????この在るという感覚、経験を所有しているのは誰なんだ?????

この体この思考は自分じゃない?????

いやでも一体全体、、、自分って何なんだ????という話です。では答えを言いましょう、、それはこの体、この思考、見える全てです。そして見える全てに気づく存在です。空即是色って聞いたことありますよね????空から色が現象化し色は空でもある、、、です。これが自分です。。。これ全部で自分です。ある時、、、この体この思考が自分だ!!!!という強固な思考が起こり、、その思考を土台にさらなる土台が起こり続けるという現象が起きたのです。ただそれだけ。

そしてある時ストレスが過度に起こり、、その思い込みという現象が落ちた

TVゲームをやっている時に、、、記憶データがパンパンになり途中でゲームが落ちるってあるんです。そして改めてゲームをリスタートしようとすると、、、記憶が飛び初期設定に!!!!!アベシ、ヒデブ、、、、です。エックハルトに起こったことは「この体、この思考は自分」という観念、思い込み、概念だけが落ちた、、、そして他の記憶はそのまま。。。。です。

今までの自分が居なくなると、、、

とにかく楽、なんだか楽、、軽い、、、主人公だと思っていたこの私がこの体、この思考じゃ無かった、、、でも普通に生活は送れる。。。。。そして孤独感、分離感、虚無感が全く湧いてこない、、、だから何かを手に入れなきゃ、、評価されなきゃ、、まともに思われないと、、、が出てこない。子どもの時の感覚、、背負っていると思っていたものが完全に抜け落ちた、、、です。