マリオ

収縮したエネルギー「私」

ゲームに熱中する時

スーパーマリオを初めてやる時って、、ゲームに集中できないんです。右ボタンを押しても、、マリオが動いているって実感が湧かないんです。実際は動いているんですがそれが何かに気づけないんです。次にジャンプボタンを押します、マリオがジャンプしてますがそれに気づけないんです。だからマリオをやっている実感が湧かないんです。全体がマリオをやっている感が湧かないんです、、しばらくは、、だから集中できない。そして5分もすれば一旦休憩に。しかしながら二回目三回目となるとゲームを立ち上げた瞬間にマリオになり切れるんです、マリオに意識が意識し始めるんです。

私に熱中する

この体に意識が意識するころに慣れてきますと「集中」できるんです、、この体に、、そして「自分」がやってる感が出るんです。これが自我の完成です。マリオに集中できる、この体に集中できる、全く同じです。そしてその時は全部のトラブルを全部の功績を味わえるんです、マリオとして、この体の中の自分として。マリオ最高、自分最高です。だけどどうじにいっつも「苦しい」ことに気づきます。マリオは二時間もすれば休めますが、、この自分は休ませてくれません、、寝てる時以外。

ゲームをしながら自分を辞める

だからこの人生は苦しみが常に伴います、、マリオは二時間、この自分は24時間営業です。結果この苦しみを解消しよう解消しようという動きが起こり、、自分はあらゆる娯楽、何かにしがみ付いていきます。でも本当はわかっているんですマリオを辞めないと、自分を辞めないと、、、この苦しみは終わらないことを。そのことに気づき始めると悟りの本とかを読めるようになります、、自分をやったままではこの苦しみが終わらないことが分かっているからです。

集中するの辞めちゃえば

本当は本当はこの体の中の自分に集中しなくたって実はこのゲームは大丈夫なんです、、なぜか???全自動で動きからです。いままでも全自動で動いていたんです、、本当は。自分という感覚を持ちながら実は自動運転だったんです。そのことが徐々に分かってきます。そうするとどこかで全体が手を離す、コントローラーから手を離す瞬間が起こります。これが解放です。

救わなくていい

救っている暇はない

マリオはゲーム中常に苦しいのです、マリオの中に自分が居るというこの感覚によって違和感不足感が消えないのです。常に憤りを感じゆえになんとかこれを解消しようと前に前に進んでいきます。より高いステージに上がれば人生は向上するはずだ、、この違和感が癒えるはずだと。ところがマリオが感じる感情の全ては根本の不足感を癒すことは絶対にありません。なぜか???この不足感違和感はマリオから生じていないからです。生じているのは本質からです。だからクッパを倒した、レベルが上がった、楽勝だった、、というマリオありきの感情がこれを癒すことはあり得ないのです。

マリオになっちゃった苦しみ

マリオになっちゃった苦しみこそがこの苦しみの本質にも関わらずマリオがこれを解消しようとする動きは本末転倒、意味不明、無理ゲーです。ということでマリオの中には自分が居ないという気づきは起きるその時までこのラットレースは続くのです。だからだから、、途中でノコノコも救わなきゃ、クッパも救わなきゃ、クリボーも、、、は邪念です。

マリオじゃないが分かれば

自分はマリオじゃない、、、これが分かれば、、、、全ての苦しみから解消されます。その時にクッパもノコノコもクリボーも、、、救わなくてはいけない可哀想な人々だということがないこともわかるんです。世界に救ってあげなきゃいけない人々は実は居ないことが明白になります。明晰な意識がそれを露わにします。

マリオが動きを止めること

マリオがステージを上げ続けるのを辞めた時に

私たちは基本マリオです、マリオをずっとやってきたんです。第一ステージ、第二ステージ、第三ステージ、、、どんどん難易度は上がっていきますが、、それが成長と教わり、、、、一応ゲームスキルは上がっているはずなんですが、、いったいこれからの人生どこまでステージを上げればいいのか????です。なんとなくですがこのままステージを上げ続けても終わりがないような、、、、、大正解!!!!!!分かってらっしゃる、お見事!!!

そして

私たちはこの体(マリオ)を自分だと思ってこれまで頑張ってきたんです、社会の要求(新しい敵)に応えてきたじゃないですか!!!!!マリオには責任が増え続けそしてそれは時にやりがいだったりもします。ですが常に苦しいが隠れていて、、正直しんどいんでえすよね、、、まああと十年も働けば引退も見えてきますしそれでもいいような・・・・。

来世あるかもよ

今世はマリオでそれなりに頑張っても、、もしもこの自分という存在の嘘に見抜けないと、、来世もしっかりやっちゃうかもしれないんです。この観念は残りますから、どこかに。だからここでこの嘘を見破っちゃっていいんです。マリオのことを自分と信じてきましたが本当のあなたはマリオじゃないんです。スーパーマリオ本体なんです。本体がマリオを通じてゲームを楽しんでいただけなんです。だからマリオがステージを上げ続ければ何かになるなんてことはあり得ないんです。どこまでステージを上げてもマリオはマリオです。ですが自分はマリオだっていう思考こそが憤りという感情を作っていますからそれは絶対に消えないわけです。だからステージを上げ続けても意味がないんです。

進むな!!!!

なるほど!!!言っている内容は分かりました、、、で????私(マリオ)はこれからどうすればいいんですか?????どうにかしちゃダメなんです、、動いたら今までと同じになっちゃうんです。マリオ真祖を暴くの巻に入っちゃうんです。違います違います、、マリオが暴くんじゃなくて、、、スーパーマリオ本体がどうやっていままで起動していたかを暴くんです、マリオじゃなく本当の私(本体)が。

いきなり????

いままでマリオを私と信じていたのは私(本当)ですから、、、私(本当)として、、、このゲームのカラクリを納得できればそれで終わりなんです。私(本当)がマリオになり切っていたんですからマリオじゃないのならば、、ではクッパ、ノコノコ、ゲーム全体、時間、空間がなぜ起こっていたかを理解しないとマリオじゃないっていう腹落ちが起きないんです。その腹落ちが起きた時、、、もうマリオを自分だと勘違いすることはなくなります。

全体の中で「マリオがあなたよ」という声かけが1万回起きた

鏡を見て「これが〇〇ちゃんよ」という声かけが1万回起きた

幼少期に、、この体に向かって、、「〇〇ちゃん」という呼びかけが1万回起きました、全体の中で。その声かけを聞いたのはこの体ではないんです、、、全体がその声に気づき続けたのです。全体から「〇〇ちゃん」という声かけが見かけ上の両親から起こり、、全体がそれに気づき続けるという現象が起きたのです。やがて見かけ上のこの体から「〇〇ちゃん」という発生が起こり始め、、「〇〇ちゃん」が定着したのです。やがて「この体が〇〇ちゃん」になり「この体この思考が〇〇ちゃん」になり「この体この思考が私」になっていきます。これが全体の中で起きたのです。

それを起こしたのは全体

これは全体で在るスクリーン上でただ現象として起きました。気づけば「この体この思考は私」という思考が毎日起こり続け、、この私が〇〇する、、、という思考が起き続けます。「この体でありこの思考である私が〇〇する」という思考は孤独感を起こし続けますからこれはそのまま苦しみになるのです。この苦しみを解消するために「この体でありこの思考である私は〇〇する」が続くことになり、、、何も解決しないまま人生が過ぎていくのです。

この体でありこの思考である私が〇〇してこの「苦しみ」を解消するでは、、

この体でありこの思考で在る私が〇〇してこの苦しみを解消しようでは何も解決しないと気づきが起きた人だけが、、、何かを成し遂げるではなく、、、悟り、解脱、解放以外には解決しないのでは????と根本解決に乗り出すのです。全体が勘違いをしていたことに気づく、真実が勘違いしていたと真実に気づく、、が起きるまでこれは続きます。

自我はなぜ霊的向上、霊的進化が好きなのか???

それは時間を稼げるから

霊的向上、霊的進化に興味を持ってもらえる自我は大変助かるのです、、、霊的向上というファンタジーの中で、、多くの時間を費やしてもらえる、、、その間自我はヌクヌクと自身の存在を誇示できるのです、夢の中で。何かを目指すというのはこの夢を維持するには最高に都合が良いのです、夢の中は何でも作り出せるので、、霊的進化を目指してくれれば、、何百年、何世代、何回もの輪廻転生を繰り返してくれるわけです。夢の中で。だから自我はこの発想と相性が良いのです。

夢ですよ

この夢の中では何千回の輪廻転生も歩むことができます、、、夢ですから無限にできるのです。ですがコレが夢であることが分かれば、、、重要なことは覚めることです、今覚めることです。霊的進化や霊的向上ではないんです。夢を長く見ていたければ、、、どうぞお好きにやってください、、霊的進化、霊的向上を。もしも夢から覚めて至福に至りたいならば、、、ただ夢から覚めちゃうことです。

マリオが最強になる

マリオが最強になることと、、、マリオが夢から覚めることとは全く因果関係がないんです。これってゲームじゃん、、、にマリオの進化は全く関係ないのです。毎晩見る夢において主人公のキャラ、人格、人望が夢から覚めることに関係があるのか???という話です。ないんです、そんなものは。

マリオは絶対にスーパーマリオ(至福)を発見できない

マリオが移動できるのはゲームの中だけ

マリオの宿命はゲームの中でしか活動できないということです、マリオがどれほど超能力を手に入れても画面から飛び出ることは不可能です。マリオがジャンプ力100倍になろうと走力が100倍になろうと、、画面から出ることは不可能なのです。そして一番重要なこと、スーパーマリオゲーム本体を発見できない。あのプラスティックの箱(至福)を見つけることは絶対に絶対にできないのです。

ゲーム本体(至福)がマリオを消すかも

自分をマリオと思っている限りはマリオは画面の中を走りに走り至福(本体)を探すでしょう、ですがそれだけは見つからないのです。ですがもしもマリオがマリオを辞めて本当はマリオは存在しないのではないか???と疑問を持ち始めた時に、、、ゲーム本体(至福)がマリオを再吸収するかもしれません。その後もマリオは画面上に現れ続けるかもしれませんがその時はもう「自分はマリオだ」という意識はなくゲーム本体(至福)としてゲームを続ける可能性はあります。

自分がマリオではなくゲーム本体(至福)であるという気づきが起きれば

自分がマリオではなくゲーム本体(至福)であるという気づきが起きた後も、、今までのようにマリオが血眼になって至福を探すことは不可能です、なぜならば至福はゲームの中のアイテム(対象)ではないことをもう分かっているからです。至福とはゲーム本体のことでありゲームの構成全てでありマリオ、クッパ、ルイージ、ノコノコ全てがその一部であることを知っているからです。

ゲームをクリアしたマリオは探求の旅に出る

マリオゲームクリアの次に来る絶望感

マリオはゲーム進行中はそれほど迷わないものです。ゲーム中はゲームクリア以外にそれほど思考が巡らない。ところがです、いつの間にかクリアしてしまった、ここが実は地獄の始まりです。多くの場合はもう一度ゲームを最初からスタートするか次のマリオゲームにチャレンジする。そういえば友人がマリオカートも面白いと言っていたな、、こういう発想になり次はマリオカートへのチャレンジがスタートします。ところがです、マリオカートもクリアしてしまった、、そうなる次はマリオゲーム最難関のマリオスタジオにチャレンジ、次はマリオインターネットプレイを、、と難易度を上げ続け、、、最終的にやることがなくなる。。。。これがマズローの欲求5段階の流れです。安全欲求から始まり所属の欲求、承認欲求、社会的欲求、自己実現欲求と階段を上っていくわけです。そしてその階段も上ってしまったらどうするか?ゲームを辞めるしかありません、それが自己超越欲求です。マリオとしての卒業です。

そもそもマリオゲームってどんな風に作られているのか?

これがマリオが疑問に思う次の衝動です、散々自分はマリオゲームに時間を割いてきた、、そして次から次へとゲームをクリアしてきた、、もうここからゼルダシリーズに切り替えるパワーも好奇心もない、、、ということでマリオはマリオゲーム製作秘話に興味を持ちます、というよりもそこにしか救いがない。マリオはこのゲームの仕組み、カラクリに興味を持ち始めていくのです。そして調べていくうちに面白い事実に突き当たっていきます、マリオは実は幻想でマリオの中に人格も個人もいないという話。???どういうことだ?この自分がいない?マリオはこの話を聞いても全くピンときません。今まで散々この体に鞭を打ってゲームに没頭してきた、常に一進一退の攻防を繰り広げ生き抜いてきた自分がいない?意味がわからない、、こうなります。

一番の驚きは自分が進んでいたのではなく、画面が動きマリオが進んでいたように見せていた

マリオにとって大きな驚きの一つは、、自分が進んでいたのではなく背景が変化していたということ。自分が前に進んでいたと思っていたら実は背景が変化して進んでいたように見えていたという事実。自分が動いていなかった????自分というものが動こうと意思が働くとなんと背景が変化していたのです。こんな恥ずかしい話あるでしょうか?進んでいたと思っていたのは自分だけで実は全体がそう見せていただけ、、、恥ずかしい。。知らなかったのはこの自分だけ。そうです、このマリオゲームで勘違いをしているのはマリオだけです。クリボーもクッパもプヨプヨもマリオにとっては全体の一部で、マリオだけが自分が動いていると勘違いしていたのです。

人間ゲームに戻ってみる

我々人間も全く同じメカニズムで勘違いしています。自分がこの背景の中を歩いていると勘違いしています。実は全く別です、自分が動こうとすると背景全体が変化しているのです。駅まで歩けば背景が変化し続けていきます。このゲームの中心には常に私が存在し私を中心に背景、全体が動き続けるというストーリーを我々は生きているのです。そしてこの私が経験した全てを記憶機能に記憶させ「我が人生」が作り出されていきます。何か事件があった時にはこの記憶を遡り何が原因かを考えます、そしてこの記憶の中から最適解を探し出し解決を図るのが人間です。

選択を失敗したマリオはいない

選択を失敗したと思い煩うマリオ

マリオがどれほど思い煩い自身の失敗を悔やんでいたとしてもそれは茶番です。マリオがクッパとの対戦で大間違いを起こしジャンプするところをダッシュをしてしまった、、このことについて10年以上悔やんでいる、、これは無意味です。なぜならばジャンプボタンと間違えてダッシュボタンを押したのはマリオではないからです。それはプレイヤーです。もしもマリオに記憶機能があり過去の失敗を悔やんでいても無駄です。記憶機能が作り出した幻想ということになります。記憶ははっきりとマリオの失敗を記憶します、ジャンプではなくダッシュをしてしまったマリオ自身を。ですがこれは記憶違いです。本当はプレイヤーがジャンプボタンの代わりにダッシュボタンを押した、、、これが真実です。

記憶とは勘違いを明確に刻んだモノ

記憶機能とはマリオの行動を完璧に記憶していきます、記憶が重なれば重なるほどにマリオの失敗傾向、気分の浮き沈み、マリオの長所、マリオの交友関係、マリオの対キャラ別成績表が刻まれていきます。最近のマリオは調子がいい、過去何年間は気分にムラがあり失敗が多かった、、、と反省もできるし喜ぶこともできる。ですがこれは全部幻想です。マリオは一度たりとも自身でプレイしたことなどないのです。記憶がそう確実に見せているだけです。5年前のマリオは頭がキレキレで冴えていた。という感じです。残念ながら我々人間もこのパターンです、自分で全部決めていると思っていますが実は決めていません、そう思わされているだけです、記憶と自我のメカニズムによって。

だったら徹底的に自暴自棄になってやる、、、

自分の意思でプレイしていなかったと突然気づいたマリオは、、、絶望し、呆気にとられ、、もうプレイする気力がなくなります。そんなバカな、、、、もうプレイはしない、、、もう冒険はしない、、冗談じゃない、、、こうなります。ヤサくれます。さじを投げます。焼け酒に走ります。、、、ですがまた次の日に冒険に出ました、、、なぜか?マリオに自由意志はないからです。マリオの感情に関係なくプレイは続きます。これは人間も同じ、今日まさかの真実に気づき自分は何も選択していなかったと分かっても明日も何か選択をしていきます、明日からも選択の日々が続きます。ただし人間自分としての選択は皆無です。ただ選択したと思いこまされる日々が続くだけです。

人間ゲームの製作過程が面白い

人間だけが自分の人生を歩む

「我が人生に悔いなし」これは人間ゲームとしては最高の言葉、、ですが悟りの観点から説明すれば「自分の人生はなかった」これが答えです。マリオの人生はなかった、、、これがマリオに訪れた悲劇の気づき、、、でもこれでマリオは救われます。もうクッパとの格闘で胃酸過多にならなくていい、円形ハゲにならなくていい、、ストレス性アトピーにならなくていい、、、嘘だ、、これだけ壮絶な戦いを続けてきたこの人生(マリオ)が作り物だったとは、、マリオという全体と完全に分離した存在が誕生したことでいきなりマリオの大冒険が始まったのです。クッパもプヨプヨも、ノコノコも全部敵、ヨッシー、ルイージなど仲間はいるがみんな分離した別々の存在ということ。マリオが断固として確実に存在するのだというこの間違いが全てを起こします。

この体は確実にある。。。

この体は確実にあります、ナイフで刺せば痛い、抓れば痛い、くすぐれば耐えられない、、ですがこの中に「自分」がいるというのは記憶をベースにしたアイデアです。マリオの中に人格があると錯覚するのと同じです。この体の中に別個の人格がありその人格向上こそが人生、、これがこの人間劇場を作ります。人格も個性も記憶に基づいたアイデアです。もちろん、クッパ、ルイージ、よっしー、このボディーによって活動、性質が異なるのは間違いありません。ですがこの中に人格があると考えると途端にその人生がスタートしてしまうのです。経験を記憶できることによって経験者(マリオ)が誕生しマリオの人生がスタートしたに過ぎません。

それでも周囲は皆我が人生を生きている

自身がマリオであったと気づき全体が作り出した一部に過ぎないと自由奔放に生きていても周囲は皆自分の人生、我が人生を生きています。周囲は皆人生を考えろ、老後の人生を慎重に考えろとアドバイスをしてくるでしょう。どんなに周囲が「自分の人生」を生きていてもそれは思い込み、錯覚であることを知ってしまいますともう真剣に聞くことはできません。地球が回っていることを知ってしまった後に、天動説集まりの会に参加しづらいのと一緒です。どんなに周囲が人生を生きていても、人生とは記憶が作り出したストーリーであることに違いはありませんから事実に向かって全体は動いていきます。

マリオは覚醒後全体とともにプレイが続く

マリオに何かが起きるわけではない、視点が変わる

覚醒とはこのゲームのメカニズムは理解できてしまうことです、腹落ちすることです。覚醒後マリオはゲームのキャラに成り下がります。それまでこれは現実で自身でこの自分だけを頼りに必死に生きてきました。ですがそれからはこのゲームのキャラ、主人公としてのキャラの全うだけが役目になります。この広大な宇宙で頼れるのは自分だけという絶望状態が終わり実はこの宇宙そのものでその中でマリオというキャラを演じていたことに気づきます。マリオという分離した存在はいなかったというビックリするオチです。しかも自由意志と思い込んでいいたこの思考は全体からの現れであり、記憶に基づいてこの思考が湧いていただけだという理解が起こります。感情も記憶とリンクしてこの得体のない不足感、孤独感が変換されたモノだったという気づきが起こります。

気づきの意識はマリオにはなり切れない

全体、気づきの意識はもうマリオになり切って頼れるのは自分だけという心境にはなれません。マリオの裏にプレイヤーがクリエイターがいてそこから自動運転が起こっていたという気づきの後に再びマリオに成り切るのは不可能です。記憶のメカニズム、自我のメカニズムの解明が起きることでもう自我に1日中振り回されることもできなくなります。これまでは何か悲惨な事故にマリオが巻き込まれると、、過去を振り返り何が悪かったのか、何の準備が足りなかったのか?親との関係か?など記憶との格闘が始まりました。ですがその記憶に頼った格闘こそがこのマリオをストーリー夢に引き込む要因です。マリオという分離した存在が所有した記憶に答えを求めてきました。ですがこれが錯覚であることに気づくのです。起きた事件は全体がただ起こしただけ、それにマリオが関わっただけ。もしくはそれを自己として認識するマリオがいただけということになります。全体が起こす出来事に本来は善悪はないのです。

何か事件が起きる度に反省を続ける人間

何か事件が起きる度に反省を続けるのが人間です、事件は全体が起こしたモノでありそこに善悪は全くありません。全体が作り出したアートです。そのアートが人間にとって都合が悪い時にそれを深刻に受け止め反省します。全アートが人間活動を重くしていきます。そうではなく全体が作ったアートとしてそれを観察しマリオは今日もやりたいことをしていきます。自身が全体、気づきの意識であることを認識しマリオをプレイしていきます、全体と、全体がプレイするマリオの遭遇がただ起こり続けていきます。マリオと脇役との重要度の違いはもうなく、マリオも脇役も同価値、同列です。マリオと同じぐらいに価値がある脇役がたくさん出てくるのですから楽しい。