雲と空

雲即是空、空即是雲

雲は色であり色は雲である

太古の昔、釈迦が悟った内容は「色即是空、空即是色」と伝えられました。般若心経というお経にこれが納められています。ですがこの内容はシンプル過ぎるがゆえに大誤訳が連続して原型がないような状態にまでなっているのが現代です。特に色という表現はあらゆる誤訳を生み出したのです。色とは何か????現象の全てなのです、、その中には、、この思考、感情の全てが含まれるのです。私はその現象を色ではなく雲と称し、、雲と空で説明をしています。

雲が空に気づくことはない

雲は現象の全てです、現れては消えていく現象、幻、蜃気楼です。この幻が、、、空の存在に気づき、、私は空だ!!!!はないんです!!!!幻ですから。。幻とは常に誤解を与える側であり誤解するのは常にそれに気づく側です。全現象は幻ですから、、幻がある日突然、、目覚める!!!はないんです。蜃気楼が隣の蜃気楼に気づいて、、、お前蜃気楼だろう????はないんです。蜃気楼が蜃気楼だったことに気づくのは、、本当の私なんです。

空の中に雲が現れ、、、

空の中にはあらゆる雲が漂います、、その中にこの体という雲が漂うことになります。そして「この体中には自分が居る」という思考(雲)が突如現れました。すると「本当かい????」という思考雲が現れます。いつもいつも??????という雲が現れるのです。。。この状態が苦しい(雲)ということで。。。。試行錯誤(雲の動き)が始まるのです。その全動きは空に気づかれます。その全動き(雲)の中で、、俺って雲じゃなくね????という思考(雲)が現れ、、、雲を冷静に観察する動き(雲)が起こるのです。そして最後は観察する動き(雲)も消え去ります。そこには空だけが漂います。

家の借金、弟の大学資金

何を呑気なことを、、、

私には家の借金があって、弟の大学資金も出さないといけない、、、そんな状況で、、私は空って?????この話をどうこの現実で生かせばいいんですか?????その家の借金は雲です、弟さんの大学資金も雲です、、借金を返さなくてはいけないという発想が雲です、、弟さんを大学まで出さなくてはいけないという発想も雲です。その全てを私が背負っているという思い込みも雲です。雲というのは現れては消えていく幻想なんです、ですからそれを背負うのも自由、そこから逃げるのも自由、、、あなたの行動にあらゆる批判が届いてもその批判も雲です。その雲は放っておけば消えます。

借金を払わないと刑務所に????

勿論、、借金を払わないで刑務所に打ち込まれてしまうならば、、幻想としてそれを避けるか避けないかは決めないといけないでしょう。ですが全ては雲としての幻想の中で行われます。そこには深刻さはいらないのです。大切なことは今この現状(雲の動き)から真実(空)に入ることです。全てが真実(空)に入るチャンスです。空が本当の自分自身であると分かった時に、、雲の動き(ドラマ)の数々に対しもう深刻になることはできないのです。

何もしなくていいとかじゃない

この雲のドラマの中に居る限り、、雲の影響を受けないということは絶対にありません。犯罪を犯せば刑務所に入るでしょうし、家賃を滞納すればアパートも追い出されるでしょう。。ですがその一方で真実は一つです。真実からは逃げることができません。その真実とは真のあなたは空で、、この雲ではないということです。弟さんは間違いなく実在しているように見えますが、、残念ながら雲(幻想)です。この私の体も雲でありその中に居ることになっている「私」も雲です。

浮遊霊も魂も雲

スピリチュアルは全部雲

これはいいとか悪とかではなく、、、霊魂、浮遊霊、前世、来世、ソウルメイト、パワースポット、、全部が全部雲です。空に浮かび上がる雲です、、現象ですから。実は宇宙人に会ったことがありまして、、その宇宙人は雲です、、、現象ですから。本当の私とは雲ではなく空です。全く次元が違うんです。宇宙人もピラミッドも、アセンデッドマスターも全部が全部空に漂う雲です。

思考も雲

昨日こんな妄想をしちゃって、、その妄想も雲です、、、え?????妄想も雲でここに居る鳥も雲?????同じ次元なんですか????その通り!!!大正解!!!!昨日見た夢の中の映像、全部雲です!!!!夜見る夢とこの現実も同じ雲ですか????はい!!!!間違いなく雲です。そしてあなたは、、雲ではなく空です。全部が全部空の中で起きているドラマです。

雲の正体は?????

空が本当の私だとしたら、、雲は誰ですか??????雲は誰のことですか????雲は全部ひっくるめて私です。空も私全雲をかき集めて私、、、空と雲セットで私です。ただし雲は全くない時がありますが空が無くなることはありません。雲としての私は消えてなくなる時がありますが空は常に常に存在します。雲は空から生じますが雲が空を生じることはありません。そういう意味では雲は空の一部です。雲としての私は空としての私の一部です。じゃあ空が消えたらどうなるんですか???空は消えません、空は唯一無二、絶対です。

空には時間がない

空には時間も空間もない

ここからここまでが空で、、空が動くから時間が必要????全くありません、空には空間も時間も存在しないのです。なぜならば空はたった一つであり動くことも進むこともないからです。あえていえば無限大の存在、唯一無二。その空に有限の雲が湧き上がります、、雲とはこの体、この鳥、この花、この思考、この感情、この、、、見える全て聞こえる全て、触れる全てが雲です。ですがこの体(雲)この思考を自分だという思考(雲)感覚(雲)が生まれその雲が連発するようになりました。すると、、その私があれをやろう、あれをやらなきゃ、こうしようああしよう、、という雲も現れるように。自分が空だ、、、という自覚は完全に抜け落ちたのです。

いつもただ遊んでいただけなのに

最初はただ他の雲(子供)と遊んでいるだけで楽しかったのに、、徐々に「この体、思考は私だ」という雲が湧くようになっていくと常に「苦しい」という重黒い雲が湧くようになってきました。なとかしてこの重黒い雲を消し去ろうと動くのですが全く消えないどころか逆に増えていくのです。もうこの頃には自分が空だった感覚は完全になくなり雲として一心不乱に動くようになります。

自分(雲)の動きが重黒い雲(苦しい)を生み出してないか?????

これだけ一生懸命に一心不乱に働き誠実??に生きているのに一向にこの「苦しい」という重黒い雲が消えやしないで増え続けている。これって本当は俺(雲)が作っていないか???生み出していないか????大正解!!!!そうなんです、この重黒い雲の発生源は「私」雲だったんです。そこから悟り本(雲)などを読み漁るようになっていくのです。

この私も雲だった

この絶対的存在、輪廻転生までして存続しているこの私が雲?????その気づきが徐々に徐々に起こるようになります。本当の私は偉大な雲(有名人)ではなく、、、、空だったのか・・・・悟り本に書いてある内容が徐々に徐々に腑に落ちるようになり、、、最終的に空である自覚が湧いてくるのです。そこからは空として雲をただ眺める日々です、、そこからもあらゆる雲(現象)は湧いてきますがもう「この体は私だ」という思考雲に取り込まれることはありません。絶対的な安心の中で雲としての動きがあるだけです。

空が空に気づく時

気づけば私は雲だった

物心がついた時にはこの体(雲)が私だ、、、という感覚(雲)が完全に定着し、、私が嬉しい、、私が楽しい、私が辛い、、という雲も大発生します。これらの雲が大発生するように完全に定着してしまったのです。このメカニズムを壊すには、、本当の自分は雲ではなく空だ!!!という思考(雲)を定着させることです、新しい雲(思考)を定着させるのです。すると、、、私が辛い(雲)が湧いた時に、、、違う、、私は空だ!!(雲)が湧くようになります。すると思考の連鎖雲がそこから湧かなくなります。

真実を概念として学ぶ

最初は、、真実を思考として何度も学びます。新しい概念が定着するまでは何度もです、、新しい癖を定着させるには回数が必要なのです。違う、私は空だ!!!(雲)が常に常に湧き上がるようになると、、、私はこの体この思考だ!!!(雲)が湧かなくなってくるのです。なぜか????最初はそんな思考(雲)は湧いていなかたのです。無理やり周囲の両親(雲)からそのような洗脳を受けたのです。

思考が湧くたびに

思考が湧くたびに、、あ、、雲が発生した、、、この感覚を覚えます。なんてことはない、、、スポーツと全く同じことです。思考が湧いたら、、雲が発生した、、です。雲が発生したことに気づくことができるのは雲ではありません、空です。このトレーニングをするうちに自然と雲ではなく空にシフトします。するとそのままで安らぎの中に住むことができ、、、何も求める雲が発生しないということになるのです。

空が空である自覚を持つと

雲の動きが激しくとも

空が空であるという自覚がある時、、雲の動きがいかに激しくとも、、全く空には影響を与えません。空が空であるという自覚がある時、、真の安らぎが流れます。それが空が空である時の感覚です。「この体は私だ」という思考雲が起こりますと、これが体という雲に反応して、、孤独感という雲が発生します。その雲の動きを空が気づく時、、孤独という感覚を覚えます。「この体が私だ」という思考雲が起こっても、、それを空として観察すれば、、真の安らぎの中に入れます。

それもまた雲である

どのような思考、どのような感情、どのような事件が起きようと、、それもまた雲であり過ぎ去る、、という空の視点を失わなければ常に穏やかに真の安らぎの中に入れます。その思考、その感情、その事件を捕まえてあらゆる思考、感情、行動を起こせば、、また雲が大発生し、、その期間は苦しいを味わうことになるのです。もしも真の安らぎの中に居たければ、、空であるという自覚から離れないことです。

空が雲によって傷つくことはない

多くの方が勘違いしているのは、、いかに苦しい人生(雲の動き)があっても空は何一つダメージを負っていないということです。空は雲によって何か影響を受けることがないのです、、、ところが雲の動きによってしんどい、苦しい、辛い、、という新しい雲が発生するのは事実です。ですがこの雲の発生によっても空は何もダメージを受けません。本当の自分、大いなる存在である空は、、、、全現象である雲の動きに気づき続けるだけです。

この体が消えても

この体という雲が消えるとどうなっちゃいますか????雲が消えるだけです、、一つの。ただしこの体この思考も私という思考雲はそれでも残るかもしれません、それが浮遊霊などと呼ばれる雲です。もしくは全ての経験を所有する私という思考の雲が、、新しい体(雲)を見つけてそこに繋がるかもしれません。。ですがそれらも全ては「この体この思考この感情が私」という雲が生み出す新たなストーリーです。そしてそれも全部雲です。本当は私は空だったんだという気づきは思考のうちは雲です。

人生とは雲が連続で起こること

自分は雲だ!!!

この体は私だ!!!これはこの雲は私だ!!!ということと同じ思考です。青空それが本当の私なのですが、、その中に漂う雲、、この雲を私だ、、、という勘違いが起きることがこの人生です。ちなみにその思考も雲です。この雲が漂いますと、、、本当の自分が分からない、、、という思考が必ず起こります、、なぜならば「この体は私だ」は真実ではないので自動的にそれが起こるのです。すると、、今度はこの不快感を消すために、、あれをしよう、これをしようが湧きます、、これも雲です、、、雲が雲を新たに生み出すような仕組みができます。

しばらくすると

エンドレスに思考感情の雲が発生することから、、これが私の人生だ、、という思考も湧きます、、これも雲です。私の人生、あなたの人生、、という発想が生まれるのです。これも雲です。この雲をつなぎ合わせることで、、過去があり現在がある、、という錯覚が生まれます、、この錯覚も雲です。雲の特徴は現れた瞬間消えるということです、思考も感情も現れては直ぐに消えていきます。これを過去にこんなことを思ったという思考が今現れるのですがこれも雲です。

雲が空を覆う

雲が連続して生み出されている状態は苦しい状態です。空は全くのノーダメージですが、、苦しい、、という感情の雲が湧き続けています。そしてそれを解決するための思考という雲もまた連発します。空自体は全くのノーダメージですが、、苦しいという感情が湧くのは事実です。悟りとはもう一度空として雲を観察しましょう、、というメッセージです。あなたは本当は空なんです、、、雲の一部を私と勘違いするのをやめましょう、、ということです。

悟りとは雲をただの雲と気づくこと

悟っていない状態は、、雲(体)を自分と勘違いする雲が起こり、、この雲が消えない状態です。悟りとは全部が雲でしかなく、それは空とは何も関係がない、、私は雲(体)じゃなく空なんだという気づきです。最初から空じゃなかったことは一度もなく、、ただ「この体この思考この感情が私だ」という思考の雲が消えなかったのです。この雲の発生は「憤り」という雲を実は生み出すことからこの雲を消そうとあらたな思考(雲)が湧き続けていたのです。

雲の動きがどんなに激しくても

空には何も影響がない

雲とは空に漂う一過性の存在です。雲がいかに厚くまた広大に広がろうとも空自体が雲によって影響を受けることは全くありません。全雲が消え去ればまた青空に戻ります。台風のような雲であっても消えればまた青空です。雲の動きによって青空が影響を受けることは未来永劫ないのです。我々の本質とはこの青空です。青空が我々の本質です。雲とはこの現象界のことです、、現象界は青空の中でただ現れては消えていきます。鳥も花も全ては雲の動きです。そしてこの体も雲です、この体を自分とする思考も雲です。この体を自分だという感覚も雲です。全部が全部雲なんです。

雲の中の体

この体も雲の一部であり、、この雲は私という思考が起きました、これも雲です。この体は私だという思考が起こることで、、、寂しい、苦しい、孤独だ、、という思考も起きます、これも雲です。この体を私だという思考が起こることで、、、本当の自分は誰か分からない、、、という思考も起きますが、、これも雲でです。この体は私で、、あの体はあなた、、という思考も湧きますがこれも雲です。

全ての動きは空に気づかれる

全現象は雲です、、全思考も雲です、、全感情も雲です、、、その全ての雲の動きに、、空が気づきます。。気づかれない雲の動きはないのです。そして雲の動きが空に影響を与えることも絶対にありません。私には人生があって私は絶対にこうなる、、という思考も雲です。本当の私とはこの空であり、、、この雲の動きの全ても私です、私の中で起こる雲の動きも私です。空と雲を合わせて本当の私のです。

このことに気づくと

このことに気づくと、、「この体、この思考、この感情が私」という感覚が戻っても、、あ、、、それも雲の動きだ、、とイメージが湧きます。何か人から嫌なことをされても、、雲から雲に何かが起きただけだ、、という気づきが起きます。するとムカつく!!という思考が起こっても、、それも雲だ、、という気づきが起きるのです。そして常にこの私は空だった、、、という気づきに戻ります。

雲の動きに因果はない

雲に名前をつけて

雲のある部分を犬、雲のある部分を猫、、、この二つの雲の動きは全く予想がつきません。犬がより大きくなったり、猫が小さくなったり、、時に犬と猫がぶつかって犬が壊れてしまったり、、これを因果で説明すれば、、あらゆる説明が付くことにはなりますが実際にはただ雲が動いていただけです。因果など全くないのです。因果とは流れの中に理由という解釈をねじ込んだに過ぎません。

雲の動きは因果ではない、、流れだ

雲の動きはただ変化していきます、、そこに理由はないのです、、その一部に名前をつければ犬が大きくなったり、小さくなったり、怒った表情になったり、笑顔になったり、、ですがこれは変化がそう見えているだけです。因果というような理由はないのです。犬の形をした雲が、猫の形をした雲に近づいたから、、犬が笑顔になった、、、違います、、たまたまです、、本当は犬も猫もいません。

何十年因果に縛られればいいのか???

私はこうやったから失敗した、、こうやったから成功したんだ、、次はこうやったら上手くいくのでは????何十年間こんなことをやれば済むのか????雲の動きはただの流れのように、、人間の形をした雲の流れがどうなるかは雲にも分かりません。雲の形の変化に人間はあらゆる理由を付けたがりますが、、、全部こじつけです。真実ベースで言えば、、ただ変化だけがある、終わりです。

時間はない

雲の動きはただ変化します、、ただそれだけ、、、変化はあるが、、時間は存在しません、、本当は。変化しているからそれを繋ぎ合わせ、、時間が存在するというアイデアが生まれただけです。本当はただ移り変わる雲が存在するだけです。移り変わることに気づくことができるので、、時間というアイデアが突然浮かび上がったのです。

雲の動き(犬と猿)の戦いの勝負に意味はあるのか?

全く無い

ある雲の形状が犬に似ているから犬と名付け、ある形状が猿に似ているから猿と名付けました。やがてその二つの雲の動きがぶつかりあい結果猿の形状が残り、犬の形状は消滅した。ドラマで言えば猿の勝利、犬の敗北です。すると猿の自我からは喜びの感情が湧き出る、犬の自我からは悲しみの感情が溢れる、この戦いに意味はあるのでしょうか??このドラマに意味はあるのでしょうか???真実ベースとしては全部嘘です。ですがストーリーとしてはあらゆる感情が起き上がりそれは事実です。その感情には一切嘘はないのです。

どっちが本当なのか???

真実をベースにすればただ雲の動きがあるだけ、、時間もない、、何もない、、です。ですがドラマで言えば犬猿の戦いがあり感情が揺れ動きます。ドラマとしては100%時間も空間も感情もあるのです。ですが本当は何も起きていないのです。解放とはまさにこのこと、、何も起きていなかった、、そして何も起きていなかったという思考すら起きない、、なぜならばそれが起きる自我が真実では存在していないから。ただ犬が消え、猿が消え、感情が起きないだけ。

それでも雲は動き続ける

それでも雲は動き続けます、勝ち残った猿の動きはそれからも続くのです。ですがこれまでのように犬に勝った、猫に勝った、ネズミに勝った、、という感情は起き得ない、、、真実ベースですから。ただ雲の動きを観察し雲の動きを感じるだけ。吾輩は猿である、吾輩は犬である、、はもうない。猿に見える雲の動き、犬に見える雲の動き、、、という気づきが続くだけです。これは面白いのか???これに感動はあるのか???今までのような感情は湧かないけれど至福が続きます。