騙し絵

苦しい病を治す

一番治さないといけない病気

自我が目覚めると、、苦しいが湧いてきます、、、これは病気です、、苦しいんですから、、、ですが社会はこの苦しいを肯定します、、否定しない、、上手く付き合っていくものだと、、、なぜか????この自分が原因で苦しんでいることを認めてしまったらこの自分を殺さなくてはならなくなるからです、、ですが死んでしまってまで病気を治す価値はない、、となります。

治ります

でも治せるんです、、この苦しいという病気を、、どうやって、、、自分という存在が実は幻想で偽りで、、これは夢だという気づきが起きればそれで終わります、、究極の真実を腹落ちさせます。私というのは、、この万物を動かしている、、エネルギーそのもの、、この経験を作っているエネルギーそのもの、、全細胞、全原子、全分子を動かす存在なのです、、、これを絶対的に理解できますと自分がシフトします、、究極の騙し絵、、

悟ってからが人生

悟ってからは人生があるんですか???あります、、だってこれまでもあったからです、、悟っている状態がデフォルトで、、その中に自分劇場という幻想が湧き出ていただけなのです、、夢から覚めてからが本当の人生です、、苦しいがデフォルトの人生なんてとっとと辞めて、、静寂平和がデフォルトの人生に変えてしまいます。主語がこの体から、、生命現象全体になります、、、ですがそれでもこの体が動く人生はしっかりと続きます、、主語が入れ替わるだけです。

名前を付けない限り、、それは存在できない

独立分離した存在を作るためには名前をつける必要がある

人間は一度に二つの物をしっかりと認識することができません、、目の焦点をそこに集中しなければ、、しっかりとしれを認識できないのです。。これが「やかん」だという記憶を作らなければ視界に入ったやかんに焦点が合わないのです、焦点が合わないということはそれはこの視界に存在しないことになります。PCとTVを同時に焦点を合わせることができません、PCに焦点を合わせ、TVに焦点を合わせています。これがPCであるという認識がなければそこに焦点を合わせることができません。

これがエアフォースワンという認識

スニーカー好きはこれがエアフォースワンだと認識したことで、、街を歩くたびにエアフォースワンが登場します、そこに焦点が合います、、、これでこの世界にエアフォースワンが登場します。老人が一日中歩き回ってもエアフォースワンは登場しません、そこに焦点が定まらないからです。名前を覚えない限り実はそれはこの世界に登場できないのです。現象化しないということです。

老婆と若い娘は同時に登場できない

騙し絵で有名な老婆と若い娘の絵画、、、この二人は同時に登場できません、どちらに焦点を合わせるかだけです、、、我々は今全員が同じ景色を見てると思っていますが実は人によって全然違う景色を見ているのです。これがこの現象界の仕掛けです。本当はただ生命が揺れ動き、、そこに名前をつけることで独立区別された存在が登場しています。この仕掛けを見抜くことで生命の現れしかないことに気づくことが悟りです。

悟りとは経験ではない、、

経験とは個人がするもの

我々が使う経験という言葉は個人が個人として掴んだ感覚のことです、、これを経験と呼びます、、そうなると悟りとは全体だった、、主語が「自分」から「全体」の完全シフトですからこれが経験ではないということになります。騙し絵のように老婆だと思っていたら、、若い女性だったに似ています。個人がこの世界を見ていると思っていたらこの世界が自分だったという突然シフトです。

自分と世界が逆転し

見ている方が「自分」で見られている方が世界だと信じていたら見られている方(世界)が自分で見ている方が自分以外だった、、、いや違う、、、見ている自分も、、見られている自分(世界)も全部自分だった、、という完全シフト、、自分がお風呂に浸かっている思ったら、、お風呂が自分だった、、そして浸かっていた自分も自分だった、、、お風呂、自分合わせて自分、、、

経験とは主体客体がなければできない、、

この世界は主体客体の世界、、二元の世界、、、ですが自分が居て、それを取り巻く環境が無ければ経験は誕生しません、、、りんごを食べる「自分」とりんごが無ければ食べるという経験は成り立たないのです。お風呂に入る「自分」とお風呂がなければこの経験は成り立ちません。そうすると独立した個人など存在不可能であることが分かります。「自分」と「環境」の完全なる二人三脚で経験を積んできました。全体から「自分」を切り離し経験が生まれました。自分とは経験強制体験装置なのです。この装置のスイッチを切った時に、、、全体への強制シフトが起きます。