非二元

子供が悟りに興味がないのは悟っているから

悟りとは悟っていない人が興味を持つ

小学生で悟りの勉強ばかりをしてる子供はほいないはず、、それは本人が悟っているからです。思考が発達していないので多くの時間において「自分」が存在しないのです。自分が居ないということは無我でいるということです、つまり悟っているのです。非二元の世界に居るのです。そもそもそこに居ながらにして悟りを開くとか意味が分かりません。大人になると思考に支配されるので悟りが閉じます、二元の世界、自分の世界、幻想の世界が住居になります。すると悟りの世界、快適な世界、非二元の世界への欲求が湧いてきます。そこから悟りへの興味になります。

だが、、、思考が悪いわけではない

子供が大人になるためには思考を身につけなくてならない、、物事を知らなくてはならない、、、だからそれが悪いわけではない、、、ですがこの思考を絶対善とするのも良くない、、、思考イコール自分であり、、、思考フル回転は自分フル回転、、、この世界は全体から分かれた世界、、、自分の世界、無我ではない世界、、ここは平和から離れた世界です。安堵から離れた世界です。酸素が薄い世界です。

子供の世界には自分が存在しない

子供には羞恥心というのがありません、プライドがありません、自己顕示欲がありません、、、全部「自分」が薄いのです。。。自分が薄い、、自我が薄い、、無我が濃い、、、酸素が濃い世界の住人です。大人は自分が濃い、自我が濃い、無我が薄い、酸素が薄い世界の住人です。ですからこれからは簡単「自分」=「思考」を放置して生きていきます。思考が湧いても全放置です。これで酸素が濃い世界に戻れます。

思考が無我を自我に引き戻す

思考=自我

思考が湧いてきても放置していいのは、、、この思考こそが無我から自我を引き出してきます、思考に取り込まれますと自我、自分が湧き出てきます。自分の世界は、幻想の世界、二元の世界に、、、引き戻されます。非常に空気が薄い世界です、苦しい世界です。自分の世界、二元の世界、自我の世界に居続けていますと酸欠になっていきます、そして寝ることで回復します。寝れば無我、無心、非二元、悟りの世界に入ります。

考えてはいけないのか??

考えてはいけないのか???そんなことはありません。ただ考える、思考すれば自分、自我、二元の世界に入り込んでいることを自覚してください。ここは空気が薄い世界、神が薄い世界、非二元が薄い世界です。酸欠状態になります。水の中に潜った状態です。苦しいのです。自分から思考、感情、二元の世界に入り込むと、、苦しいです。

思考してもいいんです

思考してもいいんです、ですが思考すればそのまま自分、自我、二元、幻想、時空間に入り込むことを自覚ください。そこは神が薄い世界です、空気が薄い世界です。その覚悟を持って思考するのは問題ないです。苦しくなったら無心、無思考、無我に入ればいいのですから。重要なことはそこに自覚的であることです。コーヒーを飲む、食事をする、会話をするのがなぜ非二元なのか?そこに自分が居ないからです、自分が居ないならば無我しかいません。

非二元は徹底的に感じるもの

無我も無心も非二元も徹底的に感じ尽くす

エックハルトは思考を観察せよと説き、金森さんは思考を放置して日常生活を感じろと説く、私は何からでも無心に入りましょうと説きます。要は思考が抜け落ちな状態を体感しましょうです。思考が抜け落ち非二元の状態、無我の状態、無心の状態を経験しますとそこが余りにも恍惚感がありそこに居続けたくなるのです。もう思考の世界、二元の世界、幻想の世界に興味が無くなる。人から何を思われてもどうでもいいのはその恍惚感を知っているからです。例えが悪いですがドラッグ中毒の人が人間生活に興味が無くなるのはキマッた状態が快楽過ぎるからでしょう。無我無心非二元とはそのような状態なのです。

思考の世界は苦しいよ

思考の世界とはこの「自分」の世界です。自分とはこの体、思考、感情のことです、、、思考が湧き続けていないと心配になるのは自分ではなくなってしまうからです。ですが思考が抜け落ちた状態、自分が居ない状態こそが悟りの世界、無我の世界、非二元の世界です。ここが一番の場所です。なぜならば我々全員はここから生まれたからです。母親の子宮の中の感覚でしょう。

思考が湧いたら放置する

思考が湧いた、、、そこからそこに取り込まれない、、、感情が湧いた、、、そこからそこに取り込まれない、、どこから湧いたのか???なぜ湧いたのか??そこから自身の観念を観察する、、、これも一つです。どのような観念を持っているからこの思考が湧いたかを観察する、、、ですが多くの方にはこれは難しすぎる、、、ならば思考を放置せよ、、です。そして常に五感の世界を味わい尽くすのみ、そこは今、無我、無心、非二元の世界です。つまりそこには平和、歓喜、安堵が横たわっています。

思考を放置するためには勝手に湧いたことを理解する

思考は勝手に湧く

もしも思考を自分が作り出したならばそれに注力しそこから思考を広げるのも一つでしょう。ですが実際には思考は勝手に湧いてきています、「私」の責任ではなく勝手に湧いてきている、、、ですからその湧いてきた思考に注力する必要はないのです。その思考を大切にしてそこから広げる必要はありません。ただ放置するだけで勝手に消えていきます。

思考は勝手に湧いて勝手に消える

思考は勝手に湧いて勝手に消えます、それにこの「自分」が注力するとそこから思考に取り込まれていきます。ですからここは意識的に放置です、思考を放置することで消えるのを待ちます。絶対的意識でこの思考を放置するのです、そこから思考に取り込まれないように意識します。すると五感に注力できます、見えるもの、聞こえる音、触った感触と体で感じる五感に神経を集中できるのです、そこが今です。そこが非二元です、そこがワンネスです。非二元とは遠いどこかにあるのではなく今ここにあります。

今ここで至福に至れるのに何を求めるか?

体の感覚、五感に意識を向ければ今ここで非二元、ワンネス、至福に入れます。にも関わらず何を求めるのでしょう、人間は今ここから悟りに入れます、思考の乗っ取りに邪魔されなければ人間は今にあるしかできません。今とは非二元、全存在、悟りのことです。こんな簡単に無心、無我に入れるのですからもう何かを貪る必要はありません。

思考を意識して放置する、思考は無意識だと取り込まれる

思考が湧いてきたら意識して放置してみる

ニュース番組を観ればあらゆる思考が湧いてきます、、、この瞬間に無意識にしているとそのまま思考に取り込まれていきます。今日友人と会うという約束をする、、、するとあらゆる思考が湧いてきます、服装をどうするか?時間は守れるか?どこで食事をしよう、、、、そこから思考に取り込まれていきます。これが思考に対し無意識の状態です。非常に苦しい状態です。なぜならば今こそが至福、歓喜、平和であって、、思考の場所はそこから離れた場所、過去、未来です。

思考に対し常に意識的であれ

思考というものを我々は無条件で受け入れています、思考が湧くことを悪いことだと思っていません。勿論思考=悪ではない、、、ですが思考に取り込まれると苦しいのは事実です。なぜならば今、非二元、全体から離れるから。そこで思考に対し意識的になってみます、思考が湧いたら意識的に放置します。これを何度も何度も行っていきます。もう思考の無意識取り込みには絶対に付き合わないと決めます。

今とは平和、歓喜、安堵

今にある時、、、平和、歓喜、安堵が襲ってきます。今とは無我、無心のこと、、、そこは神が住む場所、全体が全体である場所です。そこに意識的に入り込みます、、、無心、無我、神に意識的に入っていきます。思考を意識的に放置して無心、無我に意識的に入ります。五感の経験に意識することそこは今、無心、無我です。五感とは体の感覚であり、体は今にしか存在できません。

思考に関わらない

ただ湧いては消えていく思考に振り回されない

思考はとにかく湧いてきます、青空に湧いてくる雲のように、、次から次へと、、、ですがこの思考に関わってしまうと思考ループに取り込まれます。その思考ループは誰もが知っていますが苦しいゾーンです。雲に巻き込まれた飛行機、思考に引っかかってしまった意識は苦しいのです。思考は放っておけば消えてしまいます、ですが人間はこの思考に敏感に反応します。そして苦しみの時間が継続します。

思考というエネルギーを掴まない

思考というエネルギーを一度掴むと長くそこに巻き込まれることになります。ですから思考が湧いてきても放置します。放置して消えて無くなるのを待ちます。それよりも日常生活の感覚に意識を向けます、五感に意識をむけます、、、体の感覚、五感の感覚は今にしか存在しません、体の感覚に意識を向けるとそのまま今に入れます、今とは非二元、ワンネスのことです。これを言葉で理解するのではなく体で感じます。体で非二元を感じていきます。

人と話をしているとなぜ楽か?

人と話をしていると相手の話を聞くという行為が入ります、この瞬間思考を使わずに済みます、思考しながら話を聞くのが難しいのでその瞬間思考が外れるのです、そして話を返している瞬間思考が止まります。要は人とのコミュニケーションは五感を使うということです。その瞬間非二元を感じることができるのです。

ノンデュアリティの革命

金森将さんはノンデュアリティの革命家

私は日本人の非二元スピーカーを何人か注目していますが金森将さんはその中の一人です。彼の理論はとてつもなくシンプルでありながら誰でも実践できる理論を打ち上げています。この日常生活から非二元に触れるというモノです。瞑想をするでもなく思考観察をするでもなく花道など何かに集中するでもなく、、、日常生活にただシンプルに触れていくという画期的なメッセージです。ですがこれは真理を突いており素晴らしいアイデアです。

非二元を日常で触れ続けることで非二元を理解する

日常生活において非二元とは何か??それはこの体が五感で感じる瞬間です、朝起きてコーヒーを飲む、音楽が耳に入る、小鳥の声を聞く、青空を眺める、、シャワーが肌に触れる、、、、この全てが非二元です。つまりこの体に在るということ、体の感覚に今この瞬間在るということを実感する、、、この体の感覚こそが今ここに在るということ、非二元です。思考を放置してこの体に在り続ける、、、そして非二元に触れ続けることでそのまま非二元に馴染んでいく。。。禅などはこの手法をとるのかと思いますがこれを日常生活のあれこれで実践できるということが素晴らしい。

思考を放置

思考が湧いてきてもただ放置する、、、そこに関わらない、、無視を決め込むのでもなく、、、ただ放置する、、そして再び五感での体感に注力する、、、そこから非二元を感じる、、、非二元の素晴らしさが分かってくる、、、非二元になる、、、周りくどい説明は一切抜きにしてただ非二元に近づいていく、、、言葉や概念から非二元を理解するのではなくあくまで感じていく、、、ノンデュアリティの革命です。

悟りへと導く「苫米地式コーチング」は凄い

脳科学は苫米地英人氏の方便では?

私は苫米地式コーチングに一時期ハマりにハマりました、、ハマっている当初は実はそこまで気づいていなかったのですが自身が悟り、非二元について探求を重ねていくに従い、、実は苫米地式コーチングは「悟り」への誘いであったことを強く痛感するようになりました。覚者が伝える「自我」というメカニズムを現代風に表したのが「コンフォートゾーン」、、コンフォートゾーンの外にゴールを設定するが「自己超越」「悟り」、、抽象度を高くする、、「分離の解消」、、、と気づけば全部悟りの世界のことなのです。

苫米地氏は映画「マトリックス」を制作する代わりに「苫米地式コーチング」を作った

あくまでこれは私の推測でしかありませんが、苫米地氏のコーチングは民衆、大衆を騙すための方便でゃないかと考えます。マトリックスという映画は監督による悟りへの方便です。苫米地式コーチングは自己啓発、目標達成、成功法則を謳った苫米地氏の悟りへの方便ではないでしょうか。脳とはこの人間の分離感覚を完璧なまでに強化するツールですからそこに責め込むのは素晴らしいアイデアです。

脳のトリックを見抜き悟りへ誘う

苫米地氏を著書の中で何度も抽象度の最高は悟であると述べています、、視座を最も高くした地点、全体を眺める視点とは悟りの状態です。この世は突き詰めればたった一つのエネルギーで構成されていますから分離というのは全くなく、、そこを苫米地氏は抽象度を上げていくことで情報を整理しそこに導きます。最終的には人間もその一つのエネルギーの構成要因であることは間違いがなく、、自分が消え失せます。その時に残るのは「無」であり「全体」であり「神」です。

知性では非二元は理解できない

言葉での理解を超えている

非二元は言葉によって二元の世界に豹変します。言葉こそが二元を支える土台です。その言葉で非二元を理解しようというのが人間の試みです。言葉で非二元を二元に表変させておいてその言葉で非二元を探すというこれはとんでもない矛盾行為を行なっています。それでも人間はなんとか非二元、真実を求めてそれを指し示す言葉を探すのです。

詩を読むように世界観に触れていく

私がお勧めする方法は詩を読むようにこの世界観に触れていくことです。ピカソの絵の素晴らしさを理解したければあらゆる「絵」に触れるしかありません。おそらくこれを言葉で理解するのは不可能でしょう。そうです、良い音楽も良い小説も、良い絵画も言葉で説明できるわけがない。非二元も同じです、これを言葉で理解するのは本来不可能でありゆえにこれは触れて触れて真実を掴むしかありません。

良い詩を作るのにマニュアルがない

良い詩を作るのにマニュアルがないように、、、非二元を掴むマニュアルなどあるはずがありません。ただ非二元は常に今ここにあり逃げることは絶対にありませんから少しずつでも触れていくしかないのです。ですが非二元に触れると言ってもこれは実態がない世界ですから焦れば確実に空振ります。ピカソの絵の素晴らしさを理解するマニュアルがないように非二元を掴むマニュアルがないこと、このことを理解すること、これが言葉の限界です。

何一つ否定するものがない=ノンデュアリティー

否定するためには否定する対象が必要

何かを否定するためには先ず否定する「自分」が必要になります。さらに否定するための「対象」が必要になる。そして否定する対象があるならば肯定する「対象」も必要になる。こんな具合で否定とは分離世界でしか成り立たないということです。つまり否定をしている時点でそれはノンデュアル、非二元ではないということになります。非二元とは「対象」となる分離した存在が何もないということです。非二元を生きるとは対象が何も無い世界を生きるということになります、つまり完全なる一なるエネルギーそのもになるということです。これが究極の悟り、大悟です。

何十年間分離を学んできたのだから

我々は生まれてきてからひたすらに分離を学んできました。物に名前を付けてひたすらに分離を続けてきた、、結果相当数の名称を覚えその分だけこの見える世界は分離を極めたのです。何十年間かけての分離マスターです。そしてそれに辟易したならば、、融合マスターになればいいのです。融合マスターとは悟り、覚者です。徹底的に学んできた名称をカテゴライズしていき俯瞰していきます、俯瞰して俯瞰して情報が整理されていきますと、、つまり情報が融合されていきますと、、最後はたった一つのエネルギーに見えてきます。たった一つのエネルギーが秩序を持って最高のアートを描いていたのが理解できます。目の前に常に最高のアートが現れた状態になります。

分離マスターから融合マスターへの道

悟りを目指すということは単純に融合マスターを目指すことになります。これまで学んできた情報の究極の整理です。「要は、、」「端的に言えば、、」「とどのつまり、、」情報を伝えるのが上手い人は必ずこれをします、、分かりやすい説明とは、、情報の整理のことです。このマスターになっていくのです、、、悟りを目指すとはこのことです。覚者は、、、見ている世界をそのまま表現しますが、、、あれを理解できたら苦労はしない、、、我々分離世界を生きている人間は徐々に情報を整理していくことで同時に見ている世界を整理していきます。情報整理、情報融合の行き着くところは悟りです。