錯覚

老人になると穏やかになるのは自我が弱まるから

老人は基本穏やか

老人になると丸くなる、あの人も歳を重ねて丸くなった、、、丸くなるという言葉は言い得て妙、自我が削れていくことをイメージで表現しています。老人になると思考のパワーが落ちてきます。思考に力がなくなっていくのです。するとこの心身こそが自分自身であるという自我が弱まり結果神に近くなります。これは神が見る夢です、神が人間扮する自分になり切ってこの夢物語を活動します。人間に成り切る錯覚力こそが自我力です。この錯覚する力が落ちていくことでまさかの神に戻っていくのです。自我が弱まった老人とは生きる神です。あの穏やかさ、落ち着き、安堵感は神の境地です。

若くてもそれを手に入れるには

若いということはパワーがあります。思考にもパワーがあります。そうなれば必然的に自我が強くなっていきます。この心身こそは自分自身である、、自分というのを異常に意識します。神が完璧に人間になり切っている状態です。分離全開状態です、この状態は不足感全開、欠乏感全開、喉の乾き全開です。この乾きをいかに癒すか、それは何かに無心になってしまうことです、何かに完全燃焼することです、何かに無我夢中になることで神に戻ります。パワーを陽転させていきます。もしくは全作業をルーティン化して思考の出る幕を無くしていきます。イチローのようにルーティンの鬼になって思考の出る幕を削ぎ落としていきます。

穏やかさとは無心さ

無心というものにいかに入るか、ここが重要になります。無思考にいかに入るか、完全燃焼にいかに入るかです。無心という状態に対し意識的である時、神に意識的に戻ることと同じ意味になります。毎日をいかに無心に持っていくか、ここに注力します。そして無心の状態を感覚的にはっきりと認識することは神の感覚を取り戻していくことになります。無心、無我、無思考への積極的行動とは神への積極的帰還です。神を日常にいかに取り入れるかがわかるともう対象への渇望はなくなります。

夢への没入はこの夢物語の醍醐味

苦しんでいる人は神制作映画を堪能している

これは神の見る夢です、一つのエネルギーが見る夢です。この夢は主人公(人間)である私が神であることを忘れることが最重要になります。せっかく夢を見ているのに神であることを忘れていなければ台無しです。映画を見るときに主人公の友人だったら映画にのめり込めません。映画とは作り物と分かっていてものめりこめるから面白いのです。ということで自身を神であるということを忘れ去った私は大変孤独、不足感全開、欠乏感全開になっていきます。この世の不幸を全部背負った状態になります。これは自身が神であることを完璧に忘れた状態のことです。知識を得れば得るほどにこの見える世界が夢ではなく現実であるかのように錯覚できます。つまり分離感覚全開、孤独感覚全開です。この状態に陥ることができた人はこの夢、映画に没入できている証拠なのです。優秀な人です。

苦しんでいる人は正しい方向に全力で走れている

この夢物語はこれが夢ではなく現実だと信じれば信じるほどに苦しめるようになっています。出てくる登場人物は全て脇役ですがそれが本物だと信じれば信じるほど苦しめるようになっています。つまり錯覚、洗脳が進めば進むほどに苦しめるようになっているのです。本人が本気になって欠乏感、不足感、孤独感を解消しようとすればするほどに知識を増やし、経験を増やしていくことでこれが夢であることを忘れていきます。自身がちっぽけばこの人間であるという錯覚が強化されていきます。それを共有する脇役との関係も強化されていきます。

どこかで気づく、無心、無思考、無我の状態が気持ちいい

しかしどこかで気付いてしまいます。自分の幸福を願って全力で生きてきたが、、その自分が居ないときに歓喜が襲ってくることを、自分を忘れて何かに没頭しているときに平和が襲ってくる、自分を忘れて人助けをしているときに安堵が襲ってくる。おかしい、、自分が居ないと至福になる。このカラクリが突如理解できる瞬間がきます。1日の中でどれだけ自分を忘れることができるか、、ここが至福のコツです。無我、無心、完全燃焼、無思考、、、この夢の中では自分がいない時は至福、自分全開、思考全開は苦悩、、なぜならば神が苦しむために作ったのが人間です、その人間になり切っていなければ苦悩を味わえないのです。人間(自分)でない状態はいつでも神(至福、歓喜、安堵)です。気付くと出てくる言葉「愛」しかなかった、、これは真実です。愛の中で無理くり苦痛体験をしているのが人間(自我)です。

言語を超えたとこにあるもの

人は言語で全てを理解しようとし夢に没入する

何かが起きた時、人はそれを言語で理解しようとします、言語で納得しようとします。あれが起きたのはこういう理由からだ、こういう根拠でこれが起きたのだと。こうして表層上物事を理解していきます。その理解がその人の信念、観念になって固定化していきます。するとこの夢はそのように実際に見えてきます。人は勝手に何かしらの解釈をし、その通りに見えるようになることで益々この視界に広がる世界に確信を得ていくのです。つまり夢であることを忘れていきます。

解釈するのは自由だが苦しくなる

これは神の夢です、神が見る夢です。この夢に対し、あらゆる解釈を重ねていくことで夢は現実味を帯びていきます。ですがこれはどこまで行っても夢ですから人は解釈を繰り返すに従って夢に没入していくだけになります。夢はそれを現実と勘違いすればするほどに深刻さが増していき苦しくなっていくのです。人はこの生命現象を言語化して安心しようとしますがこの行為が皮肉にも人生を苦しくしていくのです。分離した個人がより一層確実なものであるという誤解が強まっていきます。

分離した個人が居るわけがない

あらゆる解釈をしてこの夢を固定観念化するのは自由ですが、分離した個人が居るというこの感覚はどう考えても誤解です。一つなるものがこの夢を作りだし人間というこの個体があるという錯覚を元にこの夢は構築されています。ですがもしもこの人間なるものが実在しているとすると理論上破綻することだらけになります。なぜ子供よりも知識を多く持つ大人が深刻になっていくのか?その知識こそが誤解を深めているからです。その知識こそが真実を曇らせ誤解の旅にリアリティーを加えているからです。キリストが説く原罪とは「的を外している」という意味から来ています。人間は誤解の上に誤解を塗り重ね結果苦しみ続けます。

マインドが描く悟りは戯言

マインドは悟りすらも好きなように描く

マインドは悟りを実は恐れています、本当の悟りとは自分がいなかったという事実を思い出すことでありこれはマインド、自我(心身こそが自分というマインド)が錯覚、嘘であることを見抜くことです。マインドは人間という独立した存在がいてそれをいかにサバイブしていくにはマインドが必要であると囁きます。この大前提を否定されてしまうと自身の存在理由が崩壊しますからその気づきは自身(マインド)の死を意味するのです。だからこそマインドは悟りをマインドにとって都合が良いものに解釈し真実に触れないように導くのです。カルト集団の教祖が悟った(本人曰く)後に狂気の行動にシフトするのはこのパターンです。悟りは人間が進化向上し偉大な存在になるようなストーリーとは全く違います、これはマインドが好きな悟り物語です。

深淵な目をして、落ち着いた表情の老人

マインドが好きな悟った人とは、澄んだ瞳で髭を蓄え言葉数少なく意味深なことを呟く老人です。マインドはこのような人にならばければ悟りを開けないと呟くことでこれが夢であるという事実から遠ざけます。悟りとはこれが夢であるということから覚めることであり、この夢の中でのストーリーとは何も関係がありません。夢の中で主人公(私)が評価を受けようと、卑下されようと、高尚な存在と認めらえようと、、何も関係がない。ですがマインドは好きなように悟りを装飾します。悟りをこの夢物語での出来事にしようとするのです。マインドはいかにこの夢に「人間のフリをした神」を取り込み続けるか、この役割を貫徹します。

自暴自棄、傍若無人、、、こんな人間が悟ことは許されない

マインドは悟りすらもストーリー、夢の餌食にしますから、、、信用がなく、学歴もなく、人徳に欠ける人間が悟れるはずはない、、こう断言することで悟りへの関心を回避します。関心を抱くのは人間扮する神ですがマインドはそう囁くことで神にもう少し人間体験をした方がいいと提案するのです。あなたはまだそのような境地には達していないという思考でストーリーを長引かせます。神に比べれば人間とは無知無能の存在、そこに優劣などあろうはずがないのですがマインドはそこを責めるのです。人間はもう少し人望が集まったら悟りに興味を、もう少し収入が安定したら悟りに関心を、、と悟りを先延ばしにしていきます。

一つのエネルギーがこれを表現しているのだから分離は嘘

ワンネスとは一つのエネルギーのこと

ワンネス、一つのエネルギーこれがこの夢を表現しています。たった一つのエネルギーが起源になって現れるこの世界に分離があるとすればそれは錯覚ということは明らかです。この二元の世界は錯覚であるということは間違いなく事実ですしそれはこの一つのエネルギーが起源であることから明らかです。一つのエネルギーは分離という一つの錯覚ゲームを作ったということです。自分の他にその他大勢の独立した人々が居るというのは錯覚、嘘に決まっているのです。自分という独立した存在も他人という独立した存在も居るわけがない。ピカソが作ったアート作品、絵画の中に独立した何かは存在しません。全部がピカソのアートです。

ワンネスが描いたアート

これはワンネスが描いたアートです。このアートの中に独立した人間、動物、花は存在しません。独立したように見ることはできます。ですが実際はアート作品の表現がただそこにあるだけです。アート作品の中の何かが動き、何かを体験したとしても独立した何かは存在しません。体験はあっても体験者という独立した存在は存在しません。アート作品の中に独立した何かありません。独立したように見える何かはあります。

一つのエネルギーは一つが故に多を体験できない

一つのエネルギーは一つであるが故に多を体験できません。自身が分離することなど体験できないのです、一つがゆえにです。一つのエネルギーは仕方なく夢を想像しその中で一つではないことを体験することにしました。人間という制限のある存在に成り切ることで人間以外の存在を創造しました。人間に五感を与えることで人間の外に世界を創造することに成功しました。夢として。これで一つのエネルギーは多を経験します。自分と自分以外という世界が誕生したのです。

人間が悟りを渇望する理由

常に穏やかな人に対し人は無意識に悟りという言葉を使う

実は悟りとはその人の人格とは全く関係がない、極悪人だろうと、犯罪者だろううと、詐欺師だろうとこれが夢だと腹落ちすればそれは悟りです。悟りとは人間が悟るのではなく人間扮する神が自身の存在を思い出すことですから人間役の役柄が王様だろうと一般人だろうと、詐欺師だろうと何も関係がありません。結局は神が何に扮していたかということであり本当の私は神、大いなる一つ、ワンネスであることに何も変わりはありません。そのような中で間違いなくこれは夢だという気づきが訪れます、どう考えても夢だと。現実思っていた目の前の現象が夢だという気づきが起こります。その時人は力が抜けます。

人間でいるのは苦しい

人間とは苦しい状態です、自身を人間であると盲信しこの現実社会にどっぷり浸かっているのは苦しいものです。それは人間扮する神の嘆き、飢え、叫びです。早く神に戻りたい、、ではないですが神はこの人間活動を楽しんでいるという同時に苦しんでいるのです。苦しむのは当たり前ですしそれは承知のこと、なぜならばこの広大無辺、深淵で、偉大な存在がちっぽけな人間の体を自分と錯覚する活動ですから想像するだけで絶句します。この絶句がアーティスト、クリエイターの怒りの元になります。岡本太郎の怒りは神の怒りです。尾崎豊の怒りは神の怒りです。

神でいるのは退屈

神がなぜこの夢物語を作り遊ぶのか、こればかりは神に聞いてみないと分かりません。恐らくこのなぜ?というのは人間の視点であり神に動機は必要ないでしょう。ただそれが起こったということになります。人間が悟りに渇望し、神に渇望するのは、、自身が神であることを本質では分かっています。だからこそ窮地に立たされた時に人は本能的に神に拝みます、仏の拝みます。悟りに興味を持ちます。人間扮する神は窮地に立たされることで八方塞がりになった時に最終手段本当の自分(神)に戻ろうとします。

GOOGLEグラスの1億倍リアルなワンネスグラス

グーグルグラスはこの世のカラクリを暴く

グーグルグラスが注目を集めています。その中ではあらゆるエンタメを楽しめる、さも目の前にアーティストが居るかのようにゲーム展開されます。そのグラスを掛けるだけで3D展開された画像、音楽が聞け、本当に目の前に世界が広がっていきます。最終的には前に広がる何かに触れるような錯覚を作り出すようです。。。もしもこのグーグルグラスが10000億倍緻密で高性能のものが製作されたら、、、果たして人間はそれをゲームと見破ることはできるでしょうか。まずできないでしょう。目の前のキャラに触れて、体温も感じれ、香りも嗅ぐことができたときにそれをゲームと見破れるかということになります。この夢は神が作った夢です、人間様がこれを簡単に見破れるわけがありません。

ワンネスグラスは思考をインストールする度に見える世界を変えていく

この世界はグーグルグラスではなくワンネスグラスです。神がワンネスグラスをかけて人間体験をするゲームです。このワンネスグラスでは人間が何かを経験し信念を書き換えていくと見える世界が変わっていきます。思考がこのOSをアップデートしていき見える世界を変えていきます。経験し信念が書き換わるとOSがアップデートすることで見える世界が変化します。妊娠すると街中に妊婦さんが増えるように、ベンツに興味が出ると街中でベンツを見かけるように、買いたいスニーカーが出ると、町中でそのスニーカーを履く人が増えます。ワンネスグラスは信念の書き換えでいかようにも見える世界を変えます。

最後はワンネスグラスを外して神(ワンネス)に戻りたい

ワンネスグラスの問題点は、そのグラスをかけている限り本当の意味でストレスは解消できないということです。ワンネスグラスをかけている限りワンネスの状態(歓喜、平和、安堵)に戻れません。どこかでグラスをかけているというこの事実を発見する必要があるのです。どこかでグラスを外してやっぱ裸眼最高だよなと思い出す必要があるのです。ワンネスグラスはワンネスが退屈、ストレス、孤独感、苦痛感を楽しみながらもやがてか安堵、平和、歓喜を思いだすための道具です。

マリオは敵キャラの存在でキャラ立ちする

敵キャラの存在はこのゲームにのめり込むための道具

敵キャラがいなければマリオはスーパーマリオというゲームにのめり込めません。マリオは本当はゲーム上のキャラでありこのマリオに成り切るためにはどうしても敵キャラが必要になるのです。敵キャラが継続的に現れてくれるおかげでさもマリオが実在しているように感じるのです。まるでマリオが実際に生きているかのような錯覚を持つことができるのです。この地球ゲーム、人間ゲームも全く同じです、あらゆる敵が現れてくれるおかげでさも人間という個人が実在しているかのような錯覚を持てるのです。

あらゆるアイテムもゲームにリアリティーを持たせる道具

スターもキノコ、これらアイテムもスーパーマリオにリアリティーを持たせる道具です。これらのアイテムを手に入れることでゲームに多様性を持たせよりリアルにこのゲームを体感できるように設定されています。本当はマリオは実在しません、スーパーマリオゲームという夢の中にだけ存在します。だからこそあらゆるアイテムを用意することで夢に没入できるのです。さもマリオが実在するかのような錯覚を起こすことができます。

地球ゲーム、スーパー人間はリアリティーの塊

人間が主人公ですからゲーム名はスーパー人間です。このゲームの中で人間は多種多様な敵、多種多様な仲間、多種多様なアイテムと出会うことで圧倒的にリアルな経験を積んでいきます。スーパーマリオの10000倍リアリティーのあるゲームです。GOOGLEグラスというアイテムが出ましたがこの100000倍リアルにゲーム展開します。今後任天堂グラス、PLAYSTATIONグラス、アップルグラス、と様々なゲーム用グラスが売られるでしょうが神グラス、ワンネスグラス、大いなる一つグラスに勝てるものが出ることはありません。

自分が居るという錯覚ゲームの盲点

「自分が居ない」という理論で検証

カレーを食べている時、先ずはその食事を見ます、これは視覚です。カレーを口に入れます、その時に舌で先ずはその感触を確かめます。触覚が働きます。次にカレーの味がします、これが味覚です。次にカレーの香りがします。これが嗅覚です。噛んでいるときに音がします、これが聴覚です。この五つの感覚で人間は実際にカレーがそこにあることを確証します。実在していることに疑問を持ちません。逆に言えばこのカレーを食べているという事実があるのだから自分はいるのだと結論づけます。こうして人間の実在を確認しています。ですがこれは全て脳の電気信号で片付きます。 脳を細工すればこれは全て再現できます。ということは自分が居るという根拠が崩壊します。カレーを食べたのは事実だから自分は居るのだと結論づけましたがこれは電気信号で片付いてしまいます。これが全て幻想であるという理論も実証できてしまうのです。五感でカレーを感じた、これは紛れもない事実です。ですがこれ以外は全て推測、予想です。自分が居るというのは予想でしかありません。

「人と会話している」を検証

目の前の友人と話をしています。友人が見えます、これは視覚の確認です。友人が自分に話しかけています、これは聴覚と視覚の確認です。友人が自分に触りました、これは触覚での確認です。友人の香水を感じました、これは嗅覚の確認です。今回はこの4つの感覚を得ることがいました、それで自分がいると感じています。ですがこれも全て脳の電気信号だけの話です。これで自分が居るという証明にはなりません。もしも脳の電気信号を直接操作すればこの経験を体験できます。これが全て幻想だとしても説明がついてしまいます。ということは自分が居るという理論は証明できません。視覚、聴覚、嗅覚、触覚で感じたことは事実です。ですがだからと言って自分が居るというのは推測ですし、その友人の存在も推測の域を出ません。脳の電気信号で全て創作できてしまいます。

経験があるのだから経験者はいるに決まっている?

経験は確実にあります、スポーツをする、お酒を飲む、食事をする、音楽をきく、、、、これらを五感で確実に確認できます。それは紛れもない事実です。ですがその五感があるから自分が居るは嘘です、推測です、妄想です、夢です。これは神が見る夢です。この夢の中ではあらゆる体験をすることができます、踊って、歌って、飲んで、遊んで、、、全部体験できますが、、、だからと言って自分が居るは嘘です。経験があるのだから経験者が居るは、、暴論です。経験はどこまでも事実ですが経験者が居るはどこまでいっても事実無根です。

「お風呂に入っている」を検証

お風呂に入ります、先ず視覚でお湯を確認します。次にお湯の熱を感じます、これは触覚で感じます。次にバスソルトの香りを感じます、これは嗅覚の確認です。次にお湯の音を感じます、これは聴覚の確認です。次にバスソルトの味を感じます、これは味覚の確認です。この5つの感覚、確認で人はお風呂に入っていることに疑問を持たないし、それを感じている「自分」という存在にも疑問を持ちません。お風呂の存在も、自分の存在も疑いなく事実と感じます。ですがこれも脳の電気信号で全て同じ体験を作り出せます。ということでお風呂の存在も、自分という存在も全く事実とは言えなくなりました。

この小さい体に自分がいるという錯覚

世界中でこの小さい体の中に自分を発見した人はいない

ついにこの体の中に自分を発見しました!そのようなニュースを耳にした人はいません。そのような発見をした人がいたらノーベル賞でしょう。国民栄誉賞です。ですが実際はそのような発見が今後されることはないでしょう。というのはこの小さな体の中に自分はいないからです。今私はこのブログを自身の手を使って思考を使って目を使って書いていますがこの体の中に自分はいません。勿論体にナイフを刺してみれば血も出れば肉片も出るでしょう。ですが=自分がいる、とはならないのです。

経験はある、だが経験者はいない

このブログを書くという経験はあります、この文章を書いているという経験もあります、ですがこのブログを書いている経験者がいるというのは錯覚です。これは神の見る夢です、夢の中で人間と呼ばれる者が登場し、自分という者も登場します。ですがそれは全て夢です。夢の中の登場人物に実在の証明をしようとしても無駄です。般若心経では空即是色と言ってこの見える世界を色と表現しました。具体的には色であり、匂であり、触であり、味であり、音です。空がこれらの表現をしています。これを感じるから自分と感じる(錯覚する)人間がいます。バーチャル体験があるから体験者がいるという錯覚を持てます。これだけの多様な感覚があるのだからそれを経験する経験者(人間)がいるという錯覚をできる、これが神(一なるエネルギー)が創造した夢です。

諸行無常を経験できる、、だから経験者がいるという錯覚

スーパーマリオというゲームは非常に楽しい、クリぼうには手こずるし、クッパの動きは読めない、ヨッシーは頼りになる、、ピーチ姫は可愛い、、と感じる、、だからマリオは絶対にいる、、、こういう錯覚です。我々はこの空想、幻想の世界で明らかな体験を経験しています。疑いようのない感覚、経験です。だからこそ自分(人間)は実在しているという錯覚ゲーム、神の夢を見ることができるのです。地球に裏側まで飛行機で行けばそこにはブラジル大陸があって、間違いなくブラジル人がそこにいることを発見できる、だから自分は居るんだ、これが夢です。