釈迦

不条理は変わらない

「自分」の思い通りにはいかない

この体に居る「自分」、、、この自分の思い通りには全く行きません、、、、全現象は完全オートマチック、非コントロール化に動き続けますから、、、、この「自分」はそこに関して非関与です、、、そういう意味では不条理です、残酷です、、、これをお釈迦様は人生は苦であると説きました、、、、、、、ですがこれは決して暗いことではなく、、、、究極の諦めへの理解です。

そっちに行くと、、、、

自分の思い通り=幸福、、、、この流れに行くと、、、人生は究極的に苦しくなります、、、、諸行無常、森羅万象、、、全動きは、、、、「私」とは全く関係なく動くので、、、、その動きは「私」の思い通りには全て行きません、、、、、ではこの諸行無常の中で「私」はどうしたら幸福になれるのか?????簡単です、、、「私」と関係なく幸福になるのです、、、、、そもそも「私」など存在しませんから、、、、「私」を無視して幸福になればいいのです。

体験だけがある

「私」という存在とは何も関係なく、、、、体験があり続けます、、、五感による感覚があり続けます、、、これが事実です、、、、、この五感が閉じれば、、、退屈になる、、、、、五感が開けば、、、、感動がある、、、、ですから「私」を無視して、、、、、五感を開く、体を開く、を続けていけば、、、、自然と幸福になっていきます。

勘違い、、、、

「私」が幸福にならなければならない、、、、これが多くの方の大勘違いです、、、、、ですが実際には「私」は存在せず、、、、今不幸だと感じているのは、、、、五感が鈍っているからです、、、、感じる力が鈍り、、、、ありのままの現象に感動できなくなっているのです。本来の姿を忘れ去り、、この「私」を姿と勘違いが起きることで、、、、感動から遠ざかっているのです。

釈迦が見た世界

釈迦は宇宙をありのままに見た

釈迦は2500年前に、、、王の座を捨て悟りを開きました、、、彼は「私とは誰だ???」というただ一点の解明をし、、、、自我の不在を完璧に見抜きました。。。。私という存在は実は居ない、、、、だが確実に「在る」という感覚は100%在る、、、、これが何を意味するのか。。。本当はこの在るという感覚の中で全てがただ起きているだけなのではないか????という気づきを得たのです。

その瞬間

その瞬間、、全部が自分にシフトします、、、全部が自分の中で行われている、、、全部が全部自分の現象でしかない、、、、この気づきが起きるのです、、、、全部の現象がただの現れであるならば、、、、現象に優劣などあるわけがなく、、、この体すらも、、、この本、このペン、この財布、、、と何も変わらない、、、現象に過ぎない、、、全部に価値がないというよりも全部に価値が同等にある、、、となります。

全てが同価値

全現象、全思考、全感情、全行動が、、、、ただの現れであることに気づくと、、、全てが同価値になります。。。「私の思考」は「彼の思考」よりも絶対的に重要であり価値がある、、、から私の思考も彼の思考も完全に同価値になります。信じられない観念のシフトが起きるのです、、、そしてこの最後の観念は、、、真実ですから、、、観念ですらありません。。。

実は観念しか見ていなかった。。。

真実に気づきますと、、我々は実は観念しか見ていなかったことに気づきます、、、重要だと思っていることしか視界では観ることができず、、、我々は覚えた名前のついた世界にどっぷり浸かっていたのです。この気づきはもうこの私を幸せにするという欲求を奪い去り、、、欲望の全てが真実の完全把握に切り替わります。釈迦が見た世界を私も見たい、、、ただこれだけが欲求として強烈に残ります。

宇宙としての偏見

宇宙人としての偏見が抜け落ちると、、、

私は宇宙人である、、この偏見が抜け落ちますと、、、、宇宙としての人間活動が始まります。主語は宇宙です、、宇宙の中でこの体の活動もあるだけ、、、宇宙全体の活動もある、、、になります。宇宙そのものが主語になり、、、この体もあの体も全部が同価値になっていきます、、、全生命が同価値になる、、、全現象が同価値になる、それはそれが真実だから、、、それが真実だから、、、そこに吸い寄せられるのです。

主語が宇宙に馴染みがでると

主語が宇宙になります、、、「私が存在せず、自由意志もない」、、、ただこの宇宙現象が起き続けているだけ、、、その中にこの体も、全現象もただ在るだけ、、、、、ここが腑に落ちますと、、、次の段階に進みます、、それはではこの宇宙現象はどこで出来たのか???私はどこに居るのだ????この宇宙としての「私」はどこに存在するんだ???この疑問が湧いてくるのです、、、、すると全ての現象を現す「空、絶対」の存在が見えてきます、、、認識するから見えてくるのです、、、見えるから存在を感じるのではない、、認識が存在を起こすのです。

色即是空

釈迦はこれを「色即是空」と言葉にしました、、、これを理解するにはん万物は一つだという気づきが必要であり、、万物が一つだという気づきのためには、、、「この私は居ない、自由意志もない」という気づきが必要です、、そして「この私は居ない、自由意志もない」に気づくためには「この私が居て自由意志がある」という錯覚が必要です。この錯覚を起こすためには私と自由意思という言葉を覚える必要がある、となります。

真実に会う

我々は常に真実に会っている

私たちは真実の中に居ます、、、真実の中で夢を見ている状態です、、、真実が作り出した夢の中で私という幻想を生きるという私物語を体験しています、真実が。私が真実に出会うのではなく、、真実こそが私物語を作り出して「体験」という言葉では収まらない何かを感じています、「感じる」というのも言葉ですから、、ただ何かが起こり続けています。「起こる」というのも言葉ですから、、ただ「在る」わけです。そこを突き詰めていくと色即是空に入ります。

真実以外に行くことはできない

ここは真実です、真実が織りなす夢の中です。真実の中には一切の独立分離した存在がありませんから、、何かが何かを経験するなど絶対にない、ありえないのです。。。それは言葉が生み出した幻想です、、ですから、、我々はしょっちゅう言葉を使って全部を言葉で説明できると思っていますが、、真実では言葉で説明できることは何もないのです。。。言葉で作ったイメージは、、どこまでいってもイメージであり、、イメージの世界だけが何かが何かを経験することを可能にします。

真実を説明するという矛盾

真実には言葉で説明できることは何もありません、、言葉とはイメージを作り出す道具です、、イメージは真実の中でポコッと生まれたものです、、、、ポコッと生まれた物が初めて何かを経験できるのです。「私」というのはイメージであり、、このイメージが日々活動を行うというイメージが起こっています、釈迦(イメージ)は悟り、、解脱でしか救われないと解きました、、、それは当然のことです、、真実の中でイメージが実在しているという勘違いをし、、そのイメージがなぜ幸福になる、、ということが可能なのでしょうか???実在しないイメージがどうやったら幸福になれるのでしょうか????実在しない何かがなぜ不幸になれるのか???

「私」というイメージは幸福になれない

幸福になる、、には幸福になる実在がいなければならないのですが、、このイメージの世界にはその実在は完全に皆無です、、、、信じられない話ですが、、、全員が幸福になれません、、、全部イメージですから、、、「ミッキーマウス」が幸福になる、、無理です、、、、クレオンしんちゃんが幸福になる、、無理です、、、「私」が幸せになる、、無理です、、、誰も幸せになれないのです、、、この真実の世界には実在はないのです。

でも僅かながらの幸福は感じて生きていますけど

先ず物理学として、、実在しない存在は、、幸福にはなれない、、ここをブレてはいけません、、、しかしながらなぜ幸福という実感、、、不幸という実感、、、悲しいという実感、、辛いという実感があるのでしょうか、、、感情を感じるという実感は確実にあります、、、、、それは真実の中でその感情が起こり、、、真実が気付いているからです、、、真実が感情を感じる真犯人です。。。真実以外何もないのですから当然です、真実しか感情を気づく存在は居ません、、それ以外は全部イメージです、、、真実がイメージを生み出し、、イメージが、、何かを経験するというイメージが起こり、、、それによって感情を生み出し、、、その全てを真実が感じています。。。。この夢の世界で幸福になれる実在、不幸になれる実在、は皆無です。

死ぬまでの全てが決まってる??

化学反応

これからどうやって生きていくのか???一年後は何してるんだろう????多くの方は今後の自分自身を心配します、、、ですが実は死ぬまでの行動全てが決まっています、、、何にも心配しなくても決まっているから大丈夫です、、、、あなたの意志とは何も関係なく、、決まっています、、、、「化学反応」、、、釈迦はをこれを縁起と説きました、、、、つまり万物の化学反応が起き続ける世界、化学反応が起き続け、、その反応の一部が、、見かけ上の「私」にも起き続けます、、、この化学反応がどうなるか、、誰にも何も分かりません。

バタフライエフェクト

アフリカの一羽の蝶の動きが、、世界中に実は影響している、、、、まさにこれです、、今日見かけ上の「私」がコーヒーを飲む、、、この動きが全世界に影響を与えます、、、影響の連鎖が起き続けます、、、ただそれだけ、、、、この動きの中に見かけ上の「私」が飲み込まれているだけです。。そしてこの動き全体こそが本当の私「真我」です。そしてこの全体の動きに気づく存在も私、、この全体の動きのスペースも私、、スペースに気づくのも私です。

どんな化学反応が起きるのか??

見かけ上の「私」にできることといったら、、、どんな化学反応が私に起こるかを楽しむだけです、、、そして私以外にも。私たちは化学反応の海に飲み込まれ、、ただそれに従うしか生きる道はない、、、個人はこの大海原に浮かぶ浮き輪のようなもの、、、死ぬまで流され続けるだけです、、、必死にもがくのも自由ですが、、そのもがくことすらも、、、ただ化学反応として起きるだけです。。。

気づきは後退しない

知識は忘れるが気づきは忘れない

気づきとは、、後退しないものです。ですから一度気づきが起きればそこから気づきがなくなることはない、、というのも気づきとは個人に起きるものではなく全体、気づきの意識、真我に起きるものなのです。気づきという化学反応が起きたようなものです。これってもしかしたら夢かも、、この気づきが起きますとこれが忘れ去られることがない、、、すると自然とこれが夢であるかどうかが生きていく上での最重要関心になります。

現実だと真剣に思い込んでいた

本当は我々がみている世界は完全に幻想、夢です、、、ですが中学、高校、社会人と進むに従いこの感覚が忘れ去られていく、、、20歳ぐらいになればすっかりと現実であると思い込む、この夢を。この夢を現実であると思い込めば込むほどに、、それを支える現象(夢)が起きますから、、益々そうなります。観念を証明するような夢が起きるのです。こうしていつしかどっぷりとこの現実(夢)にはまり込みます。

どうやってこの幻想、夢が出現するかに気づくだけ

マジックは一度でも種を教えてもらえれば、、もう騙されない、、、これはこの夢、幻想も同じこと、、一度でもこの夢、幻想がいかに成り立っているかを見抜いてしまえば、、、もう騙されない、、、私は20年前にその事実を釈迦のメッセージを読んで気づきが起きました、、確かにこれは我々が思っているような世界ではない、、、もっと本質には違う世界があるはずだ、、と。この20年前の気づきがこの活動をスタートさせました。この気づきが後退することはないのです、気づきは真我の気づきです、個人(夢)ではありません。

前世はなぜ存在するのか??

イメージの世界での経験が、、記憶された場所がある

この世界には本質しか存在しません、、それ以外は何もない、、ですが、、この本質の世界に言葉が現れることで、、、イメージを本質が出現しました、、本質が作り出した創造物、幻想です、、「わたし」というのもイメージ幻想です、、この私が歩む人生というイメージは本質から確実に創造され、、その私の経験というイメージは、、、本質に回収され記憶されます、、、、この記憶、、、この記憶とリンクした新しい「私」が前世を持つというやはりイメージを作り出したのです。ですから前世もこの本質が作り出したイメージです。

100の前世があろうと、、、

私には100の前世がありました、、、、何回でもいいのですが、、重要なことは、、この前世という本質が作り出したイメージの世界の中は苦しいということです、、、このイメージの世界に私が居るというやはりイメーイを持つと苦しい、、、、ですから釈迦は言った「解脱しかない」と。。。解脱だけが、、、苦しみを終わらせると、、、イメージの世界から出ろと、、、

魂もイメージ

「た・ま・し・い」

魂もイメージです、、言葉で作られた全てはイメージ化され、、、この本質の世界にイメージが誕生します、、個人の体には魂が存在し、、個人も、魂も言葉ですからイメージです、、この本質の世界から飛び出した、、イメージ。ストーリーの世界の産物です。この世界には本質しかなく、、これは言葉では表現できないものです、、釈迦はこの世界を色と表現し、、、ただ諸行無常、、移り変わる何かと表現しました、、この世界には本来「コレ」と呼ばれる決まったものはないのです。

何もない

覚者はいうこの世界には何もなかった、、、そうです、、これが「これ」という決まったものは全くないのです、、もしもできるとしたら現象の一部をくり抜いて「〇〇」と名前を付けることだけ、、これによって「○○」というイメージがこの本質の世界から作られます、、人間は「○○」というイメージを大量に作り上げ、、このイメージを実在するものであるという共通認識にして生きています。勿論この「わ・た・し」もイメージです。

現象にイメージを当てはめる

原始人は道に携帯電話があっても気づきません、、それは彼らには「け・い・た・い・で・わ」というイメージが存在しないからです。。。現象の中からこれを切り抜けないのです。スニーカーマニアはJORDAN1を知ってます、、そのイメージを持っています、、ですから街を歩けば即座にJORDAN1を探し当てます。それを知らないければ、、街を歩いてもそれを探し当てることは絶対にありません。この世界は言葉でできたイメージの世界なのです。これがこの世界が夢と言われる所以です。

手をあげると反応が必ず起きる

ある時自分が忘れ去られる

手を挙げればタクシーが止まる、、手を挙げればお店のスタッフが注文を取りに来る、、、この体から動きが起きると、、全体が反応する、、、これを皆さんは当たり前と思っている、、ですがこれが当たり前って凄いことです、、、、、世界中どこに行っても、、、手を挙げれば周囲が反応する、、、全部が全部真我の活動であるとすれば、、、真我の活動は手抜きがない、、、

反応が必ず起きる世界

手を挙げればタクシーが止まる、、この反応、、この反応を釈迦は縁起と表現しました、、何かしらのきっかけでこの世界は反応が起きる、、、だからこそこの個人は個人活動をしているという錯覚が起きます、、、ですがこの反応を個人は一切コントロールしていない、、、なぜならば全部真我の活動でしかないから。手をあげてもタクシーが止まるか止まらないかは真我次第、、これをコントロールできる個人は存在しません。

素裸で手を上げても

素裸で手を上げても誰もタクシーは止まらないでしょう、、これも縁起、、、だから活動をコントールしているという個人が居るという思考が真我から生まれる、、、次から服を着よう、、が真我から生まれる、、この次からは服を着よう、、、を私が反省した、、という思考が真我から生まれる、、、自我とは真我の活動そのものです、、、自我を自我在らしめている動き、それが真我です。

悟りとは観念ではない

悟りとは観念を粉砕すること

我々が考えている全ては観念です、、、この個人が居てこの個人にとって何がベターで、何がベターではないか???それが観念です。その観念が全部及ばない世界、それが悟りです。つまりこの個人が居るという大前提が嘘であるという発見こそが悟りです。この世界、この分離の世界が嘘、ファンタジーであるという再発見が悟りです。

ファンタジーは神羅万象の一つ

ファンタジーが駄目ということではありません、、、ファンタジーも神羅万象の一つの表現です、、、そこに良否、善悪、優劣は一切ありません、、、、ですがこのファンタジーの世界に住むのは疲れる、苦しいが必ず伴ってきます。ですからこれがファンタジーであることを見抜き、このファンタジーから抜けることを釈迦は悟り提唱したのです。かといって悟れる個人はいません。

悟りとは真実に気づくこと、気づきの意識が

悟りとはズバリ、、、観念の渦から抜け出して、、真実に気づくことです、気づきの意識が。これに気づくのは個人ではありません、個人が居ないことに気づくのです、気づきの意識が、これが悟りです。個人という蜃気楼が蜃気楼であることに気づく、、、この気づきが悟りです。悟りによるメリットを得る個人は居ません、悟りによるメリットを得る存在は皆無なのです、そういう意味では悟りとはただ真実に気づく気づきの意識のプロセスに過ぎません。