言葉

「私は明日死にます」という相談

死ぬ個人が居ない

例え友人にこのように相談されても、、、死ぬ個人が居ないのです、、、全自動システムでその言葉が起きたのです、、、、便宜上、、勿論必死に止めるでしょう、、、ですが、、、実はその個人は実在していない、、、実在していない個人が死ぬのは不可能です、、、体が朽ち果てても、、、それを所有する個人は実在しません、、、ただその体を通じて起きる全自動システムが終わることになるだけです。

生きる個人も居ない

死ぬ個人が居ないのですか、、生きる個人も当然居ません、、、、ハッピーな個人、憂鬱な個人、ラッキーな個人全部嘘です、、、そのような個人が居るという思考が起きているだけです、、大自然で、、、ですから誰も心配しなくていいのです、、心配すべき個人は存在していませんから、、、大自然にただそれが起きています、、、ですが相手は大自然ですから何も問題がない、、、大自然がそれを許容しているのですからそれは大自然に丸投げでいい。

個人を手放す

手放すというよりも、、、

手放す、サレンダー、解放、、、あらゆる言葉がありますが、、、どうしても悟りの言葉というのは、、個人が何かをすることをイメージさせます、、、個人が強烈に匂います、、、これは至極当然のこと。。。。ですがこの認識のまま悟りを学んでも、、入りにくい。。。どうしても個人の観点から本を読んでしまうからです。どちらかと言えば、、、一回個人という観念を外して完全なるフラットな視点で読めば理解できるかもしれません。

誰目線???

この世界は、、、個人という絶対的存在が間違いなく居るという前提で全てが構築されていますから、、、それがない、、、、なんて言われてしまっても拒絶に次ぐ拒絶です、、それで終わり。個人が居るという観念が、、全思考、全感情、全行動を起こしてこの個人を守っていますから、、、拒絶が半端がないのです。ですがそれは至極当然のこと、、、それも完璧です。

やられた!!!!

最初の気づきはこんな感じです、、、、確かに個人はいない、、、相手もいない、、、誰もいない、、、やられた!!!!!騙されてた、、、、まあしょうがないか、、、ですね。。。こんな流れです、、、気づきとは。。覚醒という大袈裟な言葉に違和感も感じながらもとはいえ、、この気づきは、、、人生の中ではトップクラスの気づきです。それは間違いない。

個人はただのラベル

全ては全自動で起きている

我々はあまりにも長い期間、、個人が「何かをする」「何かを思う」「何かを信じる」という原理で物事が動いていると信じ込んでしまったのでこの観念が崩れません、、、これが現実であると完全に信じています。するとその観念が反映した世界が人がありますから、、益々その観念が映し出す世界が本物だ!!という経験をしていくことになります。。本当はこれは観念で、、真実、現実とは異なりますから、、この観念の中に閉じ込められている限りは苦しみが続きます、、、なぜならばこれは事実ではないからです。

言葉では分かる

言葉では分かるんですが、、、、、そうなんです、言葉では分かっても、、、、あまりにも長い期間、、個人を中心に物事を構築するのに慣れてしまったので、、、観念を書き換えることができません、、というよりも観念を捨てることができない。これは至極当然のことで、、この個人を守るために言動が構築されてきたのですから、、、簡単に理解できてしまったら危ないのです。

信じる者は救われない

個人が居るという観念を信じる者は救われません、、真実の世界の中で嘘の信念で生きていけば苦しいに決まっています。真実の世界の中で偽りの観念に沿った物語を構築しても、、苦しいが湧くだけです。ただこれを終わらせるだけ、、、ただこの間違いに気づくだけ、、、悟りとは非常に簡単なことです、、ですがシンプルだからこそ、、シンプル過ぎるからこそ、、、拒絶も大きいのかもしれません。

自我が何もしていない

何もしない自我

全てが自動反応で起きていることが分かると、、、自我は一体なにをやっているのだろうか???という疑問が起きます、、、、思考、感情、行動の全てが全記憶によるデータの反射であるならば、、、自我は何もしていません。何もしない自我が誕生します、、、答えを言えば、、、自我とはただの名前です、、名前以上の役割がないのです、、、

友人と今話をする

今友人と話をします、、今までは相手の中に「自我」が居てその自我が思考を作り出し話が展開されていると信じてきました、、、ですが実際には全会話が、、、双方の全記憶をベースに反射が起きているだけなのです。。。この会話において会話を作り出している存在は皆無です、、、つまりコミュニケーションとは完全なる双方自動反射なのです、、、自動反応によるテニスです、、、

誰も何もしていない無限ループ

この世界は誰も居ないテニスの無限ループが起きています、、、実は誰も存在していませんが、、、実在しているかのうようなテニスのラリーがエンドレスに続いているのです、、、なぜならば相手の反応の全ては全記憶による反射でしかないのですから、、そこに自我は実在するわけがないのです、、自我とはただの名前でしかありません。

夢ではいつもこれをやっている

夜見る夢では、、、毎晩これをやっています、、、自分がいて、相手が居てこの言葉のラリーにコントロールする自我は全く介在していません、、、完全なる自動反応、、完全なるオートマチックです、、、、これを我々はこの現実の世界で全く同じようにやっています。自我というのが全く介在せずに、、ただ淡々と自動反応が起き続けているのです、、、、ただ反応が起き続け、誰も実在しないこの世界が本当に広がっているのです。。今まで経験してきた全てのコミュニケーションには実は誰も関係していなかった、、、漫画の世界、アニメの世界と全く同じような展開がただ起きていたのです。

ないモノにエネルギーが収縮していた

エネルギーの収縮だけがあった

私というのは私が居るという言葉で作ったイメージに対しエネルギーが収縮していた状態です、何もないもの(イメージ)にエネルギーが収縮していた状態です。このエネルギーの収縮が起きなくなった状態、、これが悟りです。もうそこにエネルギーが集まらない、エネルギーの収縮が起きない状態です。自分をしっかりもって、、、これは自分というイメージにエネルギーが収縮した状態です。

収縮の解放

そもそもが何もない、、イメージに、、、エネルギーが収縮し、、、自分が居るという感覚が起き上がっていました、、、ところがそれがない状態、、、自分という感覚を持てない状態、、これが悟りです。ただ機能としてのこの体が残り、、思考感情行動が起こりますが、、、それを自分のモノとする感覚がおきえない状態、、、

陽が転じて陰になる

自分というイメージにエネルギーがガッと集中し、、この感覚が生まれ出しているのですが、、、この集中が極端に行けば行くほどに苦しくなる、、、このエネルギー、気の集中が解放されますと、、、、エネルギー、気は真逆のベクトルに解放され、、世界が全部になります。

信じると体験できる

信じてはダメですよ、、の嘘

悟りとは感じるものですから、、、知識をかき集めても無駄です、、、、そんな言葉を使うメッセンジャーは多くいます、、、、ですが我々はこの観念の世界において悟りという言葉を知らずして悟るのは難しい、、、なぜならば全く概念がないことを体験できない、、、、勿論それが起きた人(イメージ)はこの夢の中で起こるのですが、、、マジックの種明かし情報を得ずして、、、マジックを見破るのはほぼ無理でしょう、、たまたま、、事故的にマジックを見破る人(イメージ)もいますが、、、

種明かしの情報

種明かしのメッセージを聞き、、、なるほど!!!!が起きた時には、、、ほぼ完成なんです、、なぜならば、、、あとはこの夢の中で「なるほど!!!」が起きればいい、、、、聞いて、、、なるほど!!!が起きれば、、、体験で、、、なるほど!!!は起きやすい、、、マジックを見破るのは常にこれです、、、、

信じていい

悟りのメッセージは、、とにかく一度信じる事、、、マジックってなるほど、、そういう仕掛けか!!!の後にじっくりとこの現実(夢)を観察します、、、、そして見破るまでは手を抜かない、、、見破るまでやる!!!と覚悟を決めます、、、、完全なる体感が起きるまで、、、やります。

宇宙としての偏見

宇宙人としての偏見が抜け落ちると、、、

私は宇宙人である、、この偏見が抜け落ちますと、、、、宇宙としての人間活動が始まります。主語は宇宙です、、宇宙の中でこの体の活動もあるだけ、、、宇宙全体の活動もある、、、になります。宇宙そのものが主語になり、、、この体もあの体も全部が同価値になっていきます、、、全生命が同価値になる、、、全現象が同価値になる、それはそれが真実だから、、、それが真実だから、、、そこに吸い寄せられるのです。

主語が宇宙に馴染みがでると

主語が宇宙になります、、、「私が存在せず、自由意志もない」、、、ただこの宇宙現象が起き続けているだけ、、、その中にこの体も、全現象もただ在るだけ、、、、、ここが腑に落ちますと、、、次の段階に進みます、、それはではこの宇宙現象はどこで出来たのか???私はどこに居るのだ????この宇宙としての「私」はどこに存在するんだ???この疑問が湧いてくるのです、、、、すると全ての現象を現す「空、絶対」の存在が見えてきます、、、認識するから見えてくるのです、、、見えるから存在を感じるのではない、、認識が存在を起こすのです。

色即是空

釈迦はこれを「色即是空」と言葉にしました、、、これを理解するにはん万物は一つだという気づきが必要であり、、万物が一つだという気づきのためには、、、「この私は居ない、自由意志もない」という気づきが必要です、、そして「この私は居ない、自由意志もない」に気づくためには「この私が居て自由意志がある」という錯覚が必要です。この錯覚を起こすためには私と自由意思という言葉を覚える必要がある、となります。

ありのままなどまるで見てなかった

子供と大人はまるで違う世界を見ている

自我が形成されていない子供はありのままの世界を見ています、、ですが自我が形成された大人は自身の観念の世界を見ています、、、いやしっかりと現実を見ていますよ、、、違うんです、、大人は目に入る全ての物事、人物に意味を重ね合わせてみているのです、、見た瞬間そこに意味が入ってしまっているのです。例えば商売が大好きな人は、、人がお金に見えると表現します、、これは本当なんです。人に意味が込められています、、勝手に。

ありのままではなく、、そこに重ねられた意味を見ている

100年の歴史のあるブランド品、、、見た瞬間にカッコいいが勝手に湧いてしまいます。。。有名人に会った、、、、勝手に驚きの感情が湧きます、、、これは自動反応です。。。ですから我々は本当にありのままなど見ていないのです。。。その現象物に込められた意味を見ています。それの何が問題なのか???苦しいのです、、意味のある世界に住んでいるのがフラットに苦しいのです。

超大人の視点

子供と大人は視点が異なります、、、大人はこの私がこの世界を見て生きていると信じています。。。そこをさらに視点を変えます、、、本当はこの体には「私」は住んでおらず(実際そう)全現象は空(ゼロ)からそのまま起こっている、、と。PCのモニターのように、、そのままそこっで起こっているのだという認識に変えます、、この世界を見ている私は100%存在せず、、、そのまま起きたのだと、、、、誰がこれを見ている????誰もいない、、、あえて言葉(概念)で表現するならば、、神が見た世界なのだと。。。

こっちが事実

残念ながらこの視点が事実です、、、先ずはこの世界があって、、その中に、、、「私」がイメージとして想像され、、、この体(イメージ)の中の私が見ているというイメージが起きたのです、、、、この「私」視点の世界での経験を強制終了させます、、、すると認識が変わり観念が変わり、世界が変わり始めます。ありのままの世界、、子供が見る世界が戻ってきます。

全感情を神が回収しているならば

個人が一瞬の楽しいを追求する価値ってあるのか??

全感情は神が回収します、、、すると、、、個人は何も回収していない、、個人は楽しい、嬉しい、を感じることができない、、、個人は思います、、、毎週楽しいを感じなきゃと、、、これは無意味、、、なぜならば楽しいは、、、神が回収しています、、、、個人は人生楽しまなきゃ、、と考えます、、、ですが個人は感じてません、、、そして感情を所有できない、、、、個人が楽しいを追いかけると辛くなるのは、、、一瞬だからです楽しいは、、、、、そしてその楽しいも、、、神が回収します。

なぜ楽しいは一瞬で消えるのか???

楽しいが一瞬で消える理由は、、、この体にとって不必要だからです、、、私とはこの体を安全維持するために作られたイメージであって、、この私はそのために存在しています、、、ゆえにこの私が楽しみ続ける価値が、、体にないのです。。。私はこの私を一生懸命大切にして、、、くれればいい、、、楽しみ過ぎて食べるのを忘れる、、、これは体にとってデメリットです、、、それはさせない、、、、「私」という存在がイメージとして鮮明にある限り、、、「私」は体のために利用され続けます。

体に利用されまくりの「私」

今回の旅行は楽しかったねーーーまた頑張って仕事して旅行に行こうねー、、、、完全に体に利用されています、、、次の楽しいのために頑張って働こう、、、体に利用されています、、、、楽しいを「私」が追い求めると体に利用されます。「私」を生きるとは、、脳が作り出した「私」というイメージに意識が意識を向けている状態です、、そして脳が言葉で分離の世界を作り出し、、、、神をイメージの世界に押し込んだ、、、だから至福そのものの神が、、、一瞬の楽しいしか回収できないのです。体が神を体の中に閉じ込めた状態です。

意識は戻ったか????

ドクターの言葉

ドクターは言います、、「意識は戻ったか???」と、、、「思考は戻ったか??」とは言わない、、、意識です、、、そうです、、最初に生まれるのは意識なのです、、、意識が戻らなければ絶対に思考は戻らない、、、、意識が戻らなければ絶対の「私」は現れませんね、、「私」は思考ですから、、、、ですから意識が最初に戻る、、、、、この意識こそが本当の私、真我、意識そのものです、、、、、

意識が「私」というイメージを作っただけ

意識がこの体を感じ、、この体の中に思考で「私」をこしらえました、、、、こうして人間は意識を取り戻し人と会話をし始めます、、、、、「良かった意識が戻って」となるのです、、、、明日からは会話も出来るようになりますよ!!!の流れです。

私の意識とこの人の意識

人は人間に優劣をつけます、、、人は人と比較します、、、では意識と意識はどちらかに優劣はあるのでしょうか????意識には優劣が存在するのか?????しないですよね、、、、その人の全思考、全感情、全行動に気づいているのはその人ではなく、、意識です。。。意識が全言動感情思考を所有しています。。意識と意識に優劣がないのならば、、、人に優劣は存在しない、、、おかしな思考、下品な思考はあります、、ですがそれは全部意識が生み出し、意識が感じるのです、、、、「私」と「あいつ」というイメージをでっち上げることで優劣がここで生まれます。