言葉

私が居てあなたが居る、この大前提は苦しみの始まり

全ては一つの生命現象

私というものを強く強く意識しますと、相手のことも当然意識します。私を尊重し相手も尊重する、、尊い行為のようでいて実は苦しいのです。実は全く一つのエネルギーがただ動き表現されているだけ、私とあなたを遮るものは実は全くないのです。にも関わらずあると思う思考が起き上がっているのです、そしてそれを気づきの意識が気づきます。

あの人はこうだ、あの人はこうに違いない

周囲の人を批判の対象にするのはその人の中にその人を統率する自我が存在していると信じているからです。だからこのような行動、仕草、言動をするからにはこんな性格の自我が存在しているはずだ、、という思考が湧き上がっているのです。そしてその大前提にはこの体の中に強烈な自我が居ると信じる思考があります。これは強烈な分離意識ですからその時点で苦しいのです、たった一つのエネルギーが分離していると信じることで緊張が生まれます。

真実に戻る

本当はたった一つのエネルギーがただ揺れ動いているだけです、その動きの一つが今いる相手から言葉として現れます、そして次の瞬間にまた他の人間から言葉として現れます。ただそれだけです、そしてこの私の体からも言葉が現れます、、ただこれが起きるだけです。もしかしたら嫌味な言葉が相手から起きるかもしれませんがただ起きただけ、そこから推測をしなくていい。もしかして推測が起きればただ苦しくなります、なぜならばそれは分離意識を強化するから。真実はたった一つのエネルギーが揺れ動いているだけです。

自我の役割を剥がす

五感からの情報収集

自我の役割の一つ、それが五感から得たあらゆる情報を整理することです、、、例えばテニスプレイヤーであれば相手の顔色、息遣い、動きのキレ、顔色、筋肉の張り、、、、全情報をインプットして整理して、、、今日のプレイスタイルを判断していきます。100パーセントの力で戦うか、80パーセントぐらいにしとこうか、、などです。自我はこれをやっていると思っています。ですが実際には全部気づきの意識が気づいています、、その全ての情報を。そしてその気づいた情報に基づいて作戦が湧いてきます、、その作戦に気づきの意識が気づくのです。

思考を練り上げる

自我の役割の一つが思考を練り上げることにあります、、右に打とうか、左に打とうか、もしくは浮かせるか、もしくは接近戦か、、、よし接近戦にしよう!!!と、、作戦隊長的な役割を自我が担っていると思っています。ところがその全ての思考は勝手に湧いてきています、そしてどれを選ぶかも勝手に湧いてきています。そして湧いてきた思考に気づくのは気づきの意識です。

行動を起こす

練りに練った作戦を通じて実践するのも自我の役割です、、実際にこの体をそう仕向けなくてはならない、、、ところがこれも違います。実際にはその行動が勝手に起きています、勝手にその行動を起こしているのです、この体が。作戦とは全く違う行動を起こすこともあれば作戦通りに動くこともあるでしょう、、その全ては勝手に起きています。そしてその動きに気づくのは気づきの意識です。

あれ、自我は何もしてない

そうなると自我は何もしていないではないか!!そうです、何もしていないのです、、何もしていないのならば自我って本当は存在しないんじゃ、、、そうです、存在しないのです、残念!!!え、、じゃあ、、みんなはこの体の総合責任者、CEOとして自我を持ち上げているけど、、その席には実は誰も座っていないということですか????その通りです。誰も居ません、、、マリオの中には誰も居ないように、この体の中にも誰も居ないのです。じゃあ自我が消滅する、自我が再吸収されるという言葉も幻想???そうです。本当は最初から誰も居ないのです。居ると思い込む感覚、エネルギーが消え去るのです。

いまここという言葉の難しさ

いまここを感じているのは誰だ?

いまここしかない、、悟り系スピーカーがよく話すワードですね、いまここしかないじゃないか、だから時間なんて存在しないんだ、空間もここしかないのだ、、、ですが結局それを感じているのが「私」ならば本質を理解できていない、、なぜならば「私」は時間と空間の中でしか生きれないのだから。だから常に時間を使って生きるし空間の中で行きますよね。本質は「私」という存在が不在の時に現れるのですからこの言葉を誰に向かって語っているかは重要になります。

今日は良い話を聞けた???

悟り系のスピーカーの講演会に行って本質の話を聞いて帰れば、、今日はなんて面白い話をきけたんだろう、、となります。大変貴重でためになったと、、、ですが恐らく次の日も何か知識を求めるでしょう、なぜならばその話を聞いたのは「私」だからです。そしてその私は次の日に起きればまたより進化した私を目指すはず。ですがどれほど私が進化したつもりになってもゲーム、幻想の中を彷徨っているのに変わりはなく苦しみからは解放されないのです。

「私」からの解放

講演会を聞いているのは「私」ではない、「私」の奥に居るあるがままなのだ、、そしてそのあるがままが「私」を再吸収した時に至福が訪れる、、このメッセージに気づきが起き始めた時に解放は近いかもしれません。「私」は悟ろう、「私」が目覚めよう、、、という主体客体、二元の感覚が抜けないうちは夢の中、ゲームの中にいる可能性が高いのです。

真実と概念は違う

私たちが信じているのは概念

ノンデュアリティ、悟り、非二元のメッセンジャーが伝えるのは真実です、真実は概念ではありません、、、言葉という制限されたツールで真実を伝えていくわけです。多くの人が信じているのは概念です、概念は真実ではありませんからこの概念の中に生きていることで苦しみから解放されないのです。もし今自分が苦しいならば概念の世界に居る、ただそれだけです。

真実と観念は違う

真実と観念が異なります、真実は真実です、、観念とはその人が信じている考え方、概念です。それぞれの人はその人の観念を持ち、その観念に影響された幻想の中に生きているのです。この幻想の世界は苦しいので早くここから出たいと本質レベルでは感じているのです。友人が少ないと寂しく、友人が多いと人間関係が複雑で疲れる、、どこまでいってもこの世界は苦しいのです。

お金を得ても人気を得ても苦しいのは観念の世界に居るから

「自分」がこの世界に生きていると思っている間は常に苦しみに襲われます。「自分」がお金を得て、人気を得ていると思っている間は苦しみに襲われ続けます。なぜならばそこは本当の世界ではないからです、そしてそのことを本質では常に感じています。だから人は救いを神に求めるのです。ですが神とは「自分」とは異なった違う場所にいるのではなく今ここ、「この私」すらも含めて神なのです。今見ている世界そのものが神自身のアート、神そのものなのです。

このことをみんなに伝えてあげなくちゃ

真実の少しでも触れた人間は周囲にこれを伝えなくては!!と思うはずです、ですがそれは喜憂、無駄、大きなお世話です。なぜならば「私」も「あの人」も「この人」も全部あるがまま、神のアートですから最初から救われているのです、あるがままのアートが救われないのならばあるがままはあるがままではなくなってしまいます、神のアートが救われないのであれば神は神ではなくなってしまうのです。ですから全員が最初から救われているこれは神の、あるがままのアートなのです。そしてそのことも全員が本質的には分かっています。

目覚めすらない

目覚めるとは???

目覚める、悟る、覚醒する、、、これらは幻想上のストーリーの中で起こることであり、、真実という面から説明すれば実は何も起きていません。真実の中では悟りは閉じてもいないので開くことも、目覚めることもないのです。真実とは真実のみであって、、その中では何も起きないのです。真実の中で真実ではない思考が湧き上がることでその思考から目覚めるというストーリーが生まれただけです。真実は真実でしかないのですから本当は目覚めすらないとも言えるのです。

この世界はこれだけで自由意志も自我もない

真実はこれそれだけです、今この広がる世界、これが真実です。その中には自由意志という何か特別なものはなくただ何かが起きるだけ、何も名前が付けられていないこれが起こっているだけです。そこに言葉が現れ、名称が付けられた何かが現れ、ストーリーが出現しました。ストーリーの側からみればこれがストーリーだったという気づきが起き目覚めるという現象が起きるのです。ですが真実の側から見れば何も起きていないということになります。

騙し絵

騙し絵では老女に見えていた作品が実は若い女性だったという気づきがおきます。これこそがストーリーだと思っていたのが実はストーリーなど無かったという目覚めです。事実は最初から若い女性がそこには描かれているわけですから若い女性側からみれば何も起きていないということになります。老女であると勘違いしていた人から見た時に初めて若い女性(真実)に目覚めるということが起きるのです。我々は皆この幻想の世界に取り込まれていますから真実に目覚めるという現象が起きるのです。ですが真実は常にそこに普遍的に存在していたのです。

メッセージを理解する体にする

言葉の限界

言葉での理解には限界があります、、言葉は、、音の連続に過ぎません、、、この音の連続で、、、悟りを理解する、、体感するというのはどう考えても無理がある、、、、、悟りとは、、、この音の連続が生み出す、、世界が嘘であるということの体感だからです、、、、悟りが圧倒的な体感であるならば、、、悟りを体感できる体にしてしまう、、、これが有効です。

体を開く

体を開きます、、、体の緊張を解し、、、、五感を鋭敏にしていきます、、、、野生動物は五感を鋭敏にしなければ、、、生き残れない、、、結果この世界をダイレクトに感じます、、、この状態が静寂です、、平和です、、、この世界をダイレクトに感じることができれば、、、至福、静寂、が押し寄せてきます。ですが五感が鈍れば、、、この世界をありのままに感じることが出来ませんから、、、退屈、、、になるのです。

退屈からの脱却

野生動物は至福の中に居て、、、人間様は退屈を生きる、、、、頭脳に頼っても退屈ならば、、、頭脳を使って悟るのは難しいでしょう、、、退屈を作り出す頭脳が、、、はたして人間を至福に連れていけるのか?????という話です、、、無理でしょう、、、そうではなく、、、野生動物のような五感を取り戻します、、、この五感の先に、、ありのままの世界を感じるという状態が待っています。。。。

思考では解決はない

人類の歴史が証明している

こう考えれば、、、人生が楽になる、、、という正解があるならば、、、学校の教科書にそれは載るでしょう、、国連の第一条にそれが載るはずです、、、、ですがそんなものはない、、、ノーベル賞受賞者という視座の高さをもってしても、、、、幸福になる方法を人類は発見できていないのです。。。。なぜか?????思考そのものが、、、、虚しさを作り出す真犯人だからです。

言葉を強制的に覚えさせられた、、、

人類を発展させた立役者、、言葉、、、この言葉こそが、、、、人類を同時に虚しい世界に閉じ込めたのです、、、先進国とは、、、言葉で文化を発展させた国ですから、、、虚しいのです、、、、どこまでも虚しいのです、、、、言葉は想像、、虚構の世界を作り出すのです、、、、ここは虚しい世界なのです、、、

体の感度を高める

体の感度を高めますと、、、体験というこの世界唯一の現実、真実を感じることができます、、幻のこの世界で唯一の真実、、それが「感じる」です、、、これ以外は全嘘です、、、この感じるが増えていきます、、感じる密度が上がります、、、感じるが思考を超えます、、、感じる時間が増えます、、、、すると虚ではなく実が増えます、、実(真実)が増えていきます、、、充実が増えます、、、、最後は充実そのものになります。

分かった

誰も彼もいない

全部が全部自動反応ということは、、、自己というものが完全に皆無な状態でただ何かが起き続けています、、、ただの反応ですからそこには何の意味もなく、、、海の中で何かドラマがあるように見えているだけ、、、魚が海藻を食べ、、その魚を大魚が食べ、、その大魚をアザラシが食べ、、、があったとしても本当はそこには名前はありませんから、、、そう見えているだけ、、、自己という存在無しに完全に動きがあるだけです、、そして厳密には動くというよりも、、、変化があるだけ、、、だから時間も全く存在しません。

自己という活動が起きている

自己意識という活動だけがあり、、、それ以外は何もありません、、、本当は強い意識という実在はありませんからそのような活動が幻想として起きます、、、真実は、、、ただ変化があるだけです、、、そして経験と、、、自己意志というのは本来一緒にはできませんから、、、、ただ感じる感覚だけが起こり続け、、ただ自分がいるという思考が起こり続けます、、、本当にこれだけが起きています。

私が居るという思考が起き続ける

何かを食べている時に、、、自分という存在を感じることはできません、、舌がスープに触れた瞬間、、味覚が広がります、、この時点では自分は居ない、、その後「私が食べた」という思考が湧く、、、ただそれだけ、、、本当は感じるという経験しか起きていない、、、この体は感じるマシーン、、そしてこの体は確実に幻想です、、、この体という幻想が、、、ただ感じるを起こし続ける、、、本当にそれだけです。

でも幸せ

自分が居ないならば、、、幸せになれないのでは???虚しいのでは?????大間違いです、、、自分が居るから虚しいのです、、、自分が居ないにも関わらず「居る」と思うから、虚構が生まれ、、、虚しい世界が誕生します。我々人類は言葉を発明したことで、、、想像という行為を覚え、、、想像=虚構を作り出したのです、、この世界の住人である虚構が生まれ、、、虚の世界、、、虚しい世界に住むことになったのです。

何をすればいいのか????

言葉が作り出した世界が、、虚構であることを完全に見抜くことです、、、言葉は虚構を作り出す道具に過ぎないことを見抜くことです、、、すると世界から深刻さが消えます、、、みんな深刻に深刻にこの世界を捉えていますが、、、この捉えるという思考の活動こそが虚しさの原因です、、、本当は真実しかここにはなく、、真実は静寂、生命、平和でしかありません、、、、この土台の上に今まさに言葉で作った虚構の世界をでっちあげ、、、虚しい虚しいと嘆いているのです。。。。

五感という充実

充実=五感

漢字とは非常に面白い、、、充実という言葉は、、、、、実が充ちた状態と書きます、、、なんという気づき、なんという答え、、、、、実とは何か???????実とは、、、真実、、、です、、、、虚の反対語、、、、、では虚とは何か?????虚とは、、、、、、真実ではないこと、、、真実ではないこと、、、この世界で真実とはたった一つしかありません、、、それは、、、、体の感覚だけです、、、もっといえば感覚だけです、、、これだけが真実です、、、残りは全て、、、虚です、、、、、、感覚=実、、、、五感=五実、、、となります、、、充実とは、、、、実が充ちることですから、、、、五感が充ちることです、、、、五感を使った経験を増やすと、、、充実します、、、、これが減ると、、、、虚しくなります、、、

なぜこんなことを言われたのか?????

なぜこんなことを言われてしまったのか????考えるのは時間の無駄です、、、虚の世界に入り込みます、、、擬似体験の世界です、、、五感で感じれない世界です、、、、時間の無駄、、、虚しくなります、、、あなたが言われた言葉は、、、その人から勝手にでてきた言葉です、、、それについておれこれ考えるのは時間お無駄、、虚に入ります、、、、ですがもっと俯瞰すれば、、、虚に入ること擬似体験をして楽しんでうるのですからそれも悪いことではない、、、、ですが本当は、、、より五感の世界に入った方が良い、、、体を健康にすると、、、五感を使った活動をし始めます、、、体は全部知っていますから。

健康になるだけで、、、

体が健康になりますと、、、五感を使った活動を勝手に体が起こします、、、五感を使った方が充実することは体は完璧に分かっています、、、ですから、、、ただ体を健康にするように導けばいいのです、、、悟りとは五感です、、究極の体感です、、、、ですから、、、、体を健康にして五感を完璧にし、、、、真実に多く触れ続け、、、本当の真実をありのままに感じることができた時に、、、目覚めます、、、、ありのままの真実を五感が感じることが悟りです。

真実を最初に知ってしまう

悟り本のメリットは真実を最初に言葉で知ってしまうということです、、、、真実はこうなっている、、、、それが分かれば、、、、あとはひたすらにこの現実でそれを発見していきます、、確認していきます、、、すると、、、思考、感情、行動に振り回されないことに気づきます、、、、健康になります、、悩めなくなります、、、五感を使った活動時間が増えていきます、、、この延長線上に本当の悟りがあります、、、真実を五感で感じるが起きるのです。

虚しいを追求する

虚しいって何???

虚しいとは、、、実がない状態です、、、実がない状態が虚しい、、、じゃあ、、実って何か????真実に触れることです、、、、この世界で真実に触れると、、、、実が生まれます、、、、、「この世界に真実じゃないもの」なんてあるんですか?????全部真実じゃないですか?????それが違うんです、、、それが真実じゃないんです、、、、我々は言葉を覚えてしまったので、、、、言葉で作り出したイメージの世界に知らないうちに住んでしまったのです。

私が幻想

最初に答えを言ってしまえば、、「わ・た・し」も言葉ですから私も虚構です、、、つまり私を生きるとは虚を生きることになります、、、私とは虚、、、つまり虚しいのです、、、、だから先ず「私」は言葉で作ったマジックであるということを覚えるのです、、、すると私を生きるという、、、虚構が外れます、、、、五感は真実ですが、、、「わ・た・し」は虚です、、、、私はラーメンを食べたと思考すれば、、、虚しい、、、が湧くのです、、、、「私はラーメンを食べた」は虚構です、、、事実は味、香り、感触、満腹感、、、、、だけです、、、

じゃあ、、、どうすりゃいいんだ????

分かった、、、私が、、、、は虚構だから虚しい、、、、でも、、、、もう言葉を覚えちゃった以上、、、どうすりゃいいのか????????違うんです、、、今まだ虚しいのならば、、、言葉が作り出した世界は全部嘘だということが腹落ちしていないんです、、、、、腹落ちとは、、、悟りですから、、、虚しさはないんです、、、真実は何が起きているのか????を学ぶしかありません、、、、勘違いが全部削ぎ落とされた時に、、、真実しか残りません、、充実しか残りません。。。それだけ。