至福

負の感情が湧くからこそ、、、

自分が完全独立しているならば全感情は解決されているはず

これだけテクノロジーが発達し、これだけ便利な生活が完成し、これだけITが革命的進歩を遂げたならば、、、人間の感情など完璧に解明され負の感情を味わうことない生活が保証されていても全くおかしくない。。。。ではなぜそれができないのか?今もなぜ変わらず人間は苦しみ続けているのか?という話です。どう考えても辻褄が合わない話です。人間、自分という存在が確立した何かであるならばテクノロジーが人間の不幸を全滅させてもおかしくない、、、でもそうならない、、、そしてそれを誰も疑問に思わないというのがまた不思議。

ネガティブな感情が湧かないサプリはこれからもできない

これだけ科学技術が進んだならば人間の不幸を解消するサプリができてもおかしくない。。ですが実際は全くそうなりません、、、何を食べてもどんな良い生活をしても贅沢三昧をしても人間というこの存在からネガティブな感情を沸かせないアイテムが登場することはないでしょう。なぜか?それはこの私は人間であるというこの大前提こそが偽りだからです、この私が居るということ自体が思考が仕掛けた罠だからです、、、この罠を見破らない限り人間は至福に至ことはありません。この体を自分であると捉え続ける限り負の感情が湧き続けるというこのメカニズムを理解する以外に人間は不幸から脱却できないのです。

負の感情が湧いたらまだ偽りの自分が存在する

負の感情とは偽りの自分が存在するかどうかのバロメーターです。偽りの自分が存在し続ける限りこの負の感情は湧き続けます。外部的要因など一切関係なく偽りの自分が存在すれば負の感情は湧き続ける、、、ではそうするか?負の感情を観察する観察者になるのです。負の感情を解決する思考者ではなく負の感情を観察する観察者に徹する、、、思考してこれを解決しようとすれば思考者が強化されます。観察してこれを観察し続ければ観察者が強化されます。観察者とは大いなる存在です。観察者とはワンネス、神です。

ポジティブシンキングの危険な罠

自己啓発の定石

30代になって仕事で独立した際に売上げ、利益、収益、、、何でもが自己責任にシフトしました。そのため多くの自己啓発本を読み漁り成功を夢見て邁進しました。全部自分の責任ということは成功すれば全部自分の実績ということです。これほどに涎が出るチャレンジはありません。その時に読んだ本、ナポレオンヒル、本田宗一郎、中村天風、斎藤一人、松下幸之助、、、、事業家で成功した人間の多くが説くポジティブシンキング絶対肯定論に強く惹かれたのを覚えています。そしてこれらの考え方で事業に向かうと確かに成功に近づきます。ですがどれほど成功し利益を出し、あり得ないほどの自由を手に入れても一向になくならないのが不足感でした。おかしい、、これほど上手く行きすぎているのに何も変わらないこの焦燥感、、、絶望、、、とりあえず見ないようにしよう、、、

成功など何の穴埋めにもならない

ポジティブシンキングは確かに成功に近づく定石です、どれほどまでに失敗してもチャレンジを続ける、、、何度も立ち上がりチャレンジを永続すればどこかで結果は出る、、その通りです。確率的にもそうなります。全失敗を成功の種と捉え続けることで必ず結果はどこかで出るものです。それは間違いありません。ですが埋まらない不足感、焦燥感、、、、結果が出ているにも関わらず埋まらない不足感を味わった人はどれほどいるでしょうか?おそらくあまりいない、、、だからこそ誰にも相談できない。。募る焦り、孤独、、、反比例するように上がる自尊心、特別感。

ポジティブシンキングを所有するのは自分

ポジティブシンキングというぐらいですからこれは考え方の話です。思考ですね、この思考こそが自分自身から負の感情を湧き上がらせているのです、、、びっくりします。松下幸之助、ナポレオンヒル、中村天風がこんな引っ掛け問題にやられますかね、、人間の思考、観念、哲学こそが不足感を湧き起こしている、、、これでは人間は至福に至るわけがないのです。なぜならば人間とは考える葦ではないか、、、つまりこういうことです、この自分を自分と思い続ける限り真実の幸福は絶対に来ないのです。自分がポジティブシンキングを所有している限りそのシンキングこそが不足感、居心地の悪さを生み出すという仕掛けです。

負の感情が湧いてきたら、、、

負の感情が湧いてきたら、、それをポジティブに捉え直し、、、、これがポジティブシンキングですが、、、これをしている限り、、負の感情が湧き続けます。そうではなくその感情を観察する存在になる、その感情から逃げずにその感情をじっと観察する、、観察することに集中する、、観察することに無心になる、、、観察することに無我になる、、観察する大いなる一つになる、、、観察から歓喜、安堵、平和に入って行きます。人間活動としては当然湧いてくる負の感情を観察することから悟りに入ります。

思考は果たして人間を至福にできるのか?

思考には人間を至福にすることはできない

人間という存在は基本不快、快適、退屈、刺激的、悲しい、嬉しい、悔しい、爽快、、、、という二極の世界に生きています。これはコインと裏表のようにセットです。快適でなくなりと不快になり、刺激的でなくなると退屈に成ります。要はこの二つは行ったりきたりの関係なのです。どちらか一方だけを感じ続けることは絶対に不可能なのです。お酒を飲んでハイになればその後に確実にローが来るようにどちらかだけを味わい続けるのは不可能です。この状態を釈迦、ブッダは苦と表現しました。

人間から湧いてくる感情を思考で解消する限り、、、

人間から湧いてくる感情を思考で解決する限り、このコインの表裏から脱却することは絶対にできません。負の感情を一時的に解消しても必ずまたその負の感情は湧いてきます。このいたちごっこは延々に続くだけではなくさらにこの負の感情は威力を増していくというおまけまで付いてきます。なぜならば思考に解決を頼めば思考を所有している自我、自分はさらに大きくなっていくからです。反社会勢力に一度でも問題の解決を委ねればもうその問題はより大きくなって返ってくる仕組みによく似ています。これ思考による解決の大きな問題点です。

それでも思考は常に俺に解決を任せろと言ってくる

思考こそが自我を形成する張本人です、この張本人こそが負の感情を生み出す根源です。この根源が負の感情の解消に乗り出せば当たり前ですが負の感情はより激しく生み出されるようになっていきます。ですがそれでも人間の中に生まれた負の感情を思考は黙っていません、とにかく俺に任せろとシャシャリ出てきます。こうして人間は負の感情を生み出し続けるという生き地獄から抜け出せないのです。生き地獄とは借金を抱え、大きな問題を抱えた人だけのことではありません。これはほぼ全員の人間が抱える問題なのです。

思考乗っ取り時代は終わるのか?

私が思うにこのメカニズムを理解できている人間はまだ少しです。ですが人間はこれだけのテクノロジーを生み出してもまだ苦しみから脱却できていないことに対し違和感を覚え始めています。幸福になるための心理学にはもう興味が湧かなくなってきています。思考を変えれば成功する、ポジティブシンキング、、、これらに対し違和感を感じ始めています。思考こそがこの苦しみを生み出している、、、これに気づく時代がすぐそこに来ています。

マリオは気づいた、動いているのは自分ではない

マリオゲームをやっていても騙される

大人はマリオゲームをやっていると気づきます、動いているのはマリオではない、背景だ。ゲームクリエイターならばそれは常識、キャラがゲーム上を自由気ままに動いているように見えますが動いているのは背景です。これはこの人間ゲームも同じ、動いているのは人間ではない、背景です。ではなぜ人間が動く感覚は実感できるのに、全体、背景が動くのは実感できないのか?これはこのブログ史上最重要質問です、答えは簡単、自分自身が実は背景そのものなので自身の動きに気づかないのです。いやそんなことはないではこの私の動きを私が感じるとはなぜだ?これも最強の質問、自分自身が背景そのものだからこの体(自分)異物の動きを敏感に察知しているのです、全体が。いや全体が察知していない、察知しているのはこの自分だ、違います。全体が察知した経験を自分(異物)のモノとしているシステムこそ自我です。

マリオは何も知らずに今日も自分が動いていると活動する、呑気者

この地球に住んでいる人間の中でどれだけの人がこの事実に気付いているでしょうか?恐らく1%もいないでしょう。この自分の五感、感覚、経験には絶対的なモノがありこのカラクリを見抜くのは至難の技です。ですが覚者と呼ばれる人々の意見が一致していることからもこの新しい事実は真実です。天動説が地動説に切り替わった時の大発明、「動いているのはマリオではない、背景である」「動いているのは人間ではない、全体である」動いているのはマリオではなく背景だ、、、この事実を突きつけて驚く大人がいないのは当たり前だからです。ですが人間に置き換えると途端に納得がいかなくなる、なぜならばそれほどまでにこの人間ゲームは緻密だからです。

大人を信じるな、大人は人間の苦しみを全く解決できていない、、

思春期になり大人に近づく若者が親のことを絶対的に信頼していない理由は何か?それは両親が幸福そうに見えないからです。ほどほどには幸福そうに見えるかもしれません、ですが絶対的に幸福には見えない、むしろ日々のニュースに狼狽、振り回され、絶望すらしているではないか。若者が将来に対し日々不安になっていくのは当然です。答えは簡単、地動説を信じこの自分の存在を勘違いした状態で至福に至ことは不可能ということです。

この人間ドラマを終わらせたくなったら、、

自殺とはこの人間ドラマの強制終了

このブログでも再三お伝えしている通りこの人間ドラマには永遠の至福は存在しません。永遠の幸福、永遠の平和、永遠の安堵はあり得ないのです、システム上。だからこそそこを真剣に求める人間は時に絶望しこの人生を終わらせようと考えることもあります。特に芸能人や事業家、スポーツ選手、ビジネスエリートなど極度の努力を自身に強いることができる人ほど絶望し生きる希望を失う可能性を秘めています。ですがそういう人ほど早くこの人生が実は夢、ドラマ、ゲームであることを悟るべきです。自分など実は最初から存在せず神が遊びのために作った虚像であることに気づいたら、、、究極のズッコケと共に肩の荷が一気に軽くなります。

人間とは不幸体験をするための道具

流行りの芸能人も、株で成功したトレーダーも、カリスマ美容師も、パリコレモデルもハリウッドスターも全部、神が不幸を体験するために作った道具です。自身の人生を否定する方はこれらの成功者と比べて自分なんか、、と落胆しますが、、実はこの上記のスーパーリア充者も全員が不幸体験マシーンです。この事実を先ずは受け入れることが重要です。なぜ自分には才能がないのか?なぜ自分には理解者がいないのか?なぜ自分には学がないのか?そう考え比較し多くの方は絶望しますが、、、、それを全部手に入れた人も不幸体験マシーンです。なぜ人はリア充ぶるのか?なぜ人は幸福ぶるのか?なぜ人は忙しぶるのか?それはその方がその人にとって得がありからでしょう。ですが実際は全員が不幸体験マシーンであることを理解する必要があります。

頑張り屋ほど幸福になれると信じている

この人間劇場では頑張り屋ほど幸福、至福になれと信じる傾向があります。ですがこの二元の世界、自分がいて自分以外がいる世界では全部がプラマイゼロですから努力や苦労はこの前では木っ端微塵に打ち砕かれるのです。もしも重要な努力があるとすればこのドラマ、自分劇場、人間ゲームのカラクリを解明する、、、こんな努力が良いでしょう。人間は神が作った不幸体験マシーンであることを先ずは理解することで違った意味での絶望感は湧いてきますが少なくとも報われる努力がないことを悟れます。

至福エネルギーがなぜ不幸を経験できるのか?

最重要ステージに到達

この物理次元を構成しているエネルギーは至福エネルギーです。至福(全体)が作り出したこの現象界は至福エネルギーで完璧に構成されています。見えるモノ全ては至福エネルギーで構成されている、我々はまるでネバーランドにいるかのようです。ですが実際の我々の感情はどうか?至福に満ちているのか?答えはノーです。至福どころか不幸、孤独、不安、悲しみに満ちている、、、、どういうことか?至福エネルギーでこの現象界、物理次元が構築されているのに何が起きているのか?自分の人生はジョークなのか?!

そうです、ジョークです

至福(空)が現象化したのが色(至福)の世界です。この二つはどっちも至福です。我々がみている世界は色(至福)です。この世にあるのは至福エネルギーだけなのです。ですから至福(空)は何か新しい体験をしたいと思ったが至福しか体験できない、、、退屈。。。ということで無理くり作り出したのが私(体)です。この体(至福)を自分であると勘違いする意識を作り出すことで分離感の発明に成功したのです。至福会のノーベル賞ものの発明です。至福は至福ゆえに至福しか経験できない、だから体に自分という意識を作り出し分離感をむりくり作り出した、、、自分という実在しない虚像ストーリーならば苦しみも、悲しみも、孤独も全部味わえるということです。

至福である存在が孤独を経験することに成功

お金持ちは本来貧乏を経験することは不可能です。お金がありすぎて貧乏を味わえない、、、もしもお金持ちが貧乏を味わうならば貧乏人に成り切るしか方法はない、、、つまり勘違いの中でしか貧乏人を経験できないのです。まさにこれがこの人間ストーリーです。全知全能、至福である全体であるが孤独を経験するには自身が人間であると勘違いするしか方法がないのです、人間になり切ってしまえば安心して孤独、貧乏、地獄を味わえます。ですがこれはあくまで後付けの勘違い、至福の中で舞台でしかありません。人間に成り切るという勘違いがバレてしまえばバッドエンド、お金持ちはお金持ちだったと思い出すように、全体(至福)は至福に戻ります。

自分というエネルギーの葛藤

全体が分離を作り出すという自己矛盾

お塩で作ったケーキを想像してみてください。なんか複雑な感情が湧いてきます。お塩は塩っぱい、辛い、、ですがそのお塩でかなり甘そうなケーキを作ることできますね。これお塩のケーキ体験です。お塩はお塩ゆえにどうやっても甘くなれない、、だからせめてケーキをお塩で作って甘そうな体験だけしてみる。これが全体の人間体験です。全体は全体ゆえに分離というのが分からない、力がにというのが理解できない、弱いということがどういう意味か分からない、、、孤独という感情をどうしても感じてみたい、、、これらの感情が爆発してこの人間体験を作り出しました。ただいざ人間を作り出してみても構成物質は全体です、この構成物質は全体そのものです。全体とは至福、歓喜、安堵です。この物質で孤独や苦悩、悲しみ、地獄を味わうってなかなかに難しいことです。人間体験とはどこまでもこの矛盾を抱えた体験なのです。

歓喜(全体)が苦しいを体験している

お塩がケーキを体験する、女性が男装して男を体験する、男性が女装して女を体験する、お金持ちが役で貧乏人を体験する、、、この人間体験は上記のように矛盾を抱えているのです。だからこそ常に衝動が生まれる、渇望が生まれる、歓喜、全体への帰還に憧れつつ、この自我を維持しようとする矛盾を抱えています。幸福に憧れつつも不幸を味わいたい、永遠の仲間に憧れつつ孤独を味わいたい、、全部このパターンです。

若者が実家を出る感覚

若者は実家にいれば安全で人間関係も楽、生活も楽と楽々続きです。ですが一部の若者はだからこそ家を出ようとする、、、若者は孤独を感じ、貧乏を感じ、不便をあえて味わいたい、、、これが全体から人間になった衝動と全く同じなのです。ですが心の奥底には間違いなく安全、安心、安堵への渇望を抱えている、、、この自己矛盾こそが人間です。人間の構成物質はどこまで行っても安堵、安全、歓喜であり、あえてそこから不安、孤独、危険に向かっていきます。そしてそれを味わい尽くしながら再び安堵、安全、歓喜(全体)に帰るのです。

若者は苦しみから逃げ続ける傾向にある

若さはパワーでありゆえに苦しみから逃げる

この人間ゲームは苦しみのゲームです、自身は人間であるというこの体との同一化は苦しみを生み出します。なぜならば全知全能の全体が、無知無能のこの体に成り切るからです。自分でいること、この体でいること、この人間目線で人生を「意識」していきますと苦しみ、不足感、退屈感がただひたすらに湧いてきます。若者はこの退屈感を感じることですぐに逃げます、友人、恋愛、お酒、ギャンブル、ファッション、SNS、YOUTUBE、、世の中には若者を誘惑する遊びに満ちているのです。それゆえ若者はこの不足感、退屈感に向き合うのではなく逃げることでこれを見ないようにするのです。

途中で逃げきれなくなる

元気な若者ほどこの退屈感から逃げることができます、徹夜で飲み明かし、異性に明け暮れ、TVゲームに没頭し、SNSに嵌まり込む、、、次から次へと対象を変え続けてこの不足感、退屈感から逃げ続けるのです。ですがやがて働かなくてはならなくなり逃げるどころから苦悩と向き合わざるを得なくなるのです。逃げるどころか職場に閉じ込められるようになります。これは若者にとって地獄の苦しみではありますが同時にこの不足感、退屈感との対峙、真剣勝負が始まるのです。

人間の苦しみはどこから来るのか?

実は若者は退屈感、不足感から逃げ惑う生活に疲れていたのです。働くという逃げ場のない環境に閉じこめられて実はホットしているのです。これで不足感、苦悩、退屈感との真剣勝負を余儀なくされるからです。何もしないと襲ってくるこの居心地の悪さはどこからくるのか?若者は逃げ惑う生活の中で実は一瞬のヒントを得ています、ゲームで優勝した瞬間、ギャンブルに勝った瞬間、恋愛が成就した瞬間、、、この一瞬は全体、神が自我を突き破って誕生します。それが歓喜、安堵、平和です。逃げ惑いながらもヒントを得続け、そして働くことで真剣勝負が始まります。

夢中になれる仕事は楽しい

働いていく中で、どうやら夢中になれる仕事が楽しいことを理解していきます。雑念に襲われず夢中になれる、没頭できる仕事は楽しい。これは学生時代に退屈から逃げていた時期からも理解しています。没頭できるゲーム、没頭できる仕事は疲れません。人間が没頭している瞬間は自分を忘れ一瞬神になっているのです。神の片鱗をみています。どうやら自分のことを忘れている瞬間が疲れず、充実感があり、至福を感じれることを理解できてきます。そこからさらにこの苦悩、退屈、至福、歓喜のメカニズムに迫れるか?これは人間卒業まで試練は続きます。

神の顕現が違う顕現になってどうする?

もう既にあなたは神の顕現

もしも今の自分自身が大嫌い、こんな自分など終わりにしたいと考えていても、それは神の顕現です。神の顕現にも関わらずこんな自分が嫌いと思っています。そしてその思考も神の顕現です。自分が新しい目標を持って違う自分になりたいと心から思うとして、、今の自分もそして違う自分も全て神のエネルギーです。形や姿は違えど構成物質は完璧に同じ神の顕現です。だからと言って目標を持つなと言いたいわけではありません、今も神の顕現で、なりたい自分も神の顕現であるという事実をお伝えしているだけです。

違う自分になるのも神の遊び

目標を持つことが悪いことではありません、それはそれで重要なことです。ですが目標を掲げる今の自分もなりたい将来の自分も構成物質は神であるというこの事実を理解する必要があります。今の自分も神、なりたい自分も神ならばそこに優劣は一切ないのです。ただ形を変えた神が存在するだけです。自分の不足感を解消してもそれが解決には至らないのは今既に神であるにも関わらず不足感を埋めてもやはり神なのです。神が不足感というやはり感情を感じている、その感情すらも神のエネルギーです。

神は不足感体験ゲームをしている

神が自我を作り出したのは不足感を体験するためです。ですから自我を維持した状態で違う自分を目指しても不足感を無くなることは絶対にありません。この自分も神の顕現ですから完璧です、ただしこの自分という自我のエネルギーは不足感を湧き出す仕組みを作り出すエネルギー(神)なのです。不足感すらも神のエネルギーです。神は自ら不足感を味わいたくて自我を作り出したのです。ですから人間(神)は常に違う人間(神)になろうとしますがそれで不足感(神)がなくなることはないからです。

この仕組みが理解できてくると、、、

この自我のメカニズムが理解できてきますと自分(神)は違う自分(神)になろうとするんではなく神そのものに帰還することに興味が湧いてきます。ゲームの途中でどうやらこれはクリアー(至福)はないなと分かってきますと急にやる気がなくなるのと同じです。自分ゲームには至福はないのです、なぜならば自分そのものが神であるにも関わらず不足感が湧いているというこの仕組みこそを解決しなけければ至福には至れないのは当然です。

自分が居なければ全体はこのドラマを創造できない

悟りの世界では自分、自我が悪の根源かのように扱われるケースは多々あります。自分さえ無ければ自我さえなければこの世の苦しみはない、、、その通りです。ですがそれを作り出したのは全体、神であり、全体、神が無駄なことをするわけがないのですから自我、自分には大きな役割があります。それがこの自分劇場、自我ストーリーの創造です。変幻自在のこの自分劇場があるからこそ喜怒哀楽、全体への憧れ、神への羨望、全感情を味わい尽くすことができるのです。全感情を味わい尽くすためにこの自分劇場は創造されました。全体は全体のままでは絶対にできないことです。

最初から自分劇場だと分かっていたら、、、

この自分劇場が最初から作り物、ノンリアリティーであることがバレていたら全く面白くもなんともない、、、子供の頃から学校でこのことを習っていて腹落ちでもしてしまったら受験も、就職も、結婚、出産というリスクあることを人はしなくなるかもしれません。要はマジになれない、、、ということでこの自分劇場は全知全能の全体が完璧に入れこむように完璧なのです。全く思い通りにならない、、、それが全体の狙いです。自分を創造している全体こそが自分がこのドラマで至福しかない生活を送ることを何よりも嫌います。それならばこの自分劇場はいらないと。

自ら進んで辛酸を舐める

外に出るとコスパが悪いから何もしないで一日中家にいよう、、、、このように自分が発案しこれでもしも自分が満足してしまったらこの自分劇場はしょうもないものになってしまいます。そのため全体はそうならないように自分に不足感を湧き出すように設定しました。家にいると退屈、喪失、孤独であるように不足感が湧き出るようになっているのです。結果コスパが悪かろうと自分は家を出てこの退屈、孤独、喪失をなんとか埋めようとドラマに参加していくのです。このメカニズムが分かってくると、、積極的に体験を積む方がこのドラマ劇場は上手くいくのが分かります。どうせこの不足感はどこに居ても襲ってくるのだから最初からコスパ無視して体験をしにいく、、ということです。