自由意思

自由意思がないことが分かるとドミノが崩れる

人間ドラマの最重要ポイント

面白い映画、ワクワクする映画って必ず仲間の裏切りがあり、悪者だと思っていたのが実は良い奴で、、、最終的には信頼していた組織からも裏切られ、、と次から次へと人の自由意志に翻弄されるのです。自由意思という設定なしに面白い映画って絶対に絶対にできないです。要は人間ドラマの最重要ポイントが自由意思なのです。だからだから悟りの最重要ポイントは「自由意志」ということになります。

「自由意志」がないが起こすドラマ崩壊

職場でのトラブル、恋人とのトラブル、家族とのトラブル、、、、、このトラブルを成り立たせているのが間違いなく「自由意思」です。あいつがこんなことを、あのタイミングこんなことを、、あんな言葉を浴びせやがって、、、、この感情の全てにおいて「自由意思」が100%あるが大前提ですよね!!!!!そうなんですこれがなかったら感情が湧きようがないんです!!!!自由意思がないとなったら、、、ただ受け入れるか拒否するかのみ、、責めるべき相手が居なくなっちゃうんです。

石が頭に当たり「怒り心頭」

公園を歩いていたら中学生が楽しくボールでサッカーをしています、ただかなりゲームに熱中していて周囲が見えていない。。気にせずに読書をしていたら案の定ボールが私の頭に直撃!!!!「何してんだ!!!」と振り向いてみたら3歳の子供が投げたボールだった、、、、その瞬間に怒りが消え去ります。。。相手が中学生ならば怒り浸透、、3歳の子供は怒りなし、、、この違いはなんでしょうか?????自由意思です。自由意志があると思っているから怒りが込み上がるのです。

自由意志があると思うから人を判断の対象にする

あの人はこういう人間だ

「この体この思考この感情が自分」説を信じていますと、、当然人のこともこのように見ます、すると相手から出てくる発言を自由意思から来るものと捉えるのです。その結果「発言の内容=その人のレベル」と判断します。ですが実際にはその発言はその人を通じて勝手にでたもの、湧いたものであってその人の自由意志ではないのです。私の観念がこの夢で投影し見かけ上のその人からそれが出たのです。

湧き上がる思考、感情

例えばこういうことです、幼少期に両親が子供に自我を芽生えさせるよう働くのは、、勝手に起きたものです。幼稚園、小学校、中学校の周囲の反応は全部勝手に起きたものです、、彼らの自由意志など全く働いていないのです。就職するしないも勝手に起きたもの、そこに自由意志は働きません。結婚もそう子育てもそう、、そこには一切の自由意志は存在しないのです。この現象において人を判断するということに意味はあるのでしょうか???全くないのです。

自由意志がないとハッキリ分かると

本当に面白いことに自由意志がないとハッキリ理解できますと、、自身を責めるという自責の念が消え去ります。するとその瞬間に平和が訪れます、、、その瞬間に安堵が訪れます、、その瞬間に歓喜が訪れるのです。そしてもう他人のことも責めなくていい、、、という安堵、平和、歓喜も同時に訪れるのです。「この体この思考この感情が自分」という洗脳が落ちることで、、本来の感覚が戻ってきます。

スクリーンが何かを成し遂げたいなど思うはずがない

全体、スペース、スクリーンはそのままで完全

我々の本質はこの現象を映し出すスクリーン、スペースです。この全体であるスクリーン、スペースが何かを成し遂げなきゃ、、、などと思うはずがなく、、、それらの感情、思考は「私が居る」という洗脳が生み出したものです。つまり完全なる現象です、その思い自体が。スクリーン、スペースは我々の本質、本性なのですが、、もしも脱洗脳、アンインストールが成功し「私が居る」がないのならば、、何かを成し遂げたいという思考は湧いてこないでしょう。何かを成し遂げたいという思考の現象は「私が居る」という洗脳とセットです。

在る、在る、在る、、、、からこの私が在るへ

在るという感覚、、これは幼児ですら持っています、、、在るは動物も持っているはずです。在るという感覚、、、これだけは失うことのない感覚なのです。在る=仏性、キリスト意織、神意識です。この在るという感覚と、、、この体が在る、、、という気づきが起き、、、次のこの体として在る、、、、この私(体)として在る、、、と洗脳が進んでいきます。最後は私は〇〇という名前で在るになります。気づきの全てを、、この私が気づいた、、になっていくのです。すると同時に不足感、違和感、分離感が湧き起こり、、それを埋めるために解消するために、、、何かを成し遂げなきゃ、、、が生まれます。

スクリーンに何かが上映された瞬間、気づく、在るが生まれる

スクリーンに何かが上映される、スペースに何かが現象化する、、、その瞬間、、、それに「気づく」が生じます、、「在る」が生じます。そして上映、現象化は随時行われますから、、気づく、在るが永遠に続くのです。これが我々の本質そのものです。その中でこの体は常に現象化、上映されますので、、この体が「気づく」「在る」全ての現象、上映を。。。。。という真実ではない思考が湧き上がり、、、それが定石になっていきます。この体が現象に気づき続けるので(誤解)、、、、この体の中には全てに気づく『人格、アイデンティティ』が存在するはずだ、、という思考も起こるのです。

そしてそれをお互いに共有する

人間、人類はこの思考を代々受け継いできました。この体が現象に気づき、この体の中には人格が存在すると。だから生まれた子供にこれを伝承していくのです、当たり前のように。私の体がこの現象を観察し思考し自由意思を行使しながら生きていく、、、という人生ドラマが始まるのです。私があらゆる経験をしその経験を重ねていくことで私の価値観、観念が形成されていきそれがこの夢にさらに投影されていきます。そして私の観念が投影された現象(夢)をみて「やっぱり!!!」が起きるのです。

城としての自由意志はない

自由意志のカラクリ

我々は浮かんできた思考を自由意志と思っています、、そうだ、マック行こう!そうだ、スタバ行こう!そうだ公園行こう!!!あらゆる選択肢の中からそのアイデアをチョイスなどしているわけはなく、、、浮かんできた思考に乗ることでそれを自由意思と言ったりします。そして厄介なことに自分にも自由意志があるのだから他人にも当然あるはずだと固く信じるわけです!こうして自由意志と自由意志の関係性が始まったという大誤解を始めるのです。

独立した城であるには自由意志は必須

砂上の上の城を自分自身と信じるためには自由意志は超重要になります。これがあることで俺は存在しこの城の主人であると思うことができるのです。ですが上記のように自由意志はないのです、、そしてこの城には自分が居るという思考も勝手に湧き起こったものなのです。そしてこの城には自分が居るのだから相手の城にも誰かがいるに違いないという夢を見ているのです。

砂とは何か???

全部の城は砂でできているわけですが、、この砂は何でできているのでしょうか????それが空の現象化です、空が現象化したのが砂であり、、その一部が城として現れたのです。そしてそこには思考というものも現れこの砂を思考という観念で見るという現象が現れました。観念という現象を通じてこの砂を除けば、、あらゆる夢が広がっていくのです。時間があるという現象、空間があるという現象、、、これらが混ざり合いドラマが生まれます。

自由意志があるならば

いつも楽しいことを考える

自由意志が本当にあるならばなぜ人は一日中楽しいことを考えないのか?????今日は一日中楽しいことを考えるぞ!!!!無理です!!!!つまり自由意志はないんです。コントロールなど全くできないではないか!!です。自由意志はないんです、、そしてこれは夢です、完全に夢です、、この夢の中で自由意志が全くなくただ思考が起きているんです。夢からいつ覚めるかに全くもって自由意志は通用しないんです。

誰も彼も自動運転

この夢からいつ覚めるのか???全くわかりません、自由意志がないのですから。いつ解放できますか???全くわかりません、自由意志がないからです。ですから何も恐れず運命に従えばいいのです。自由意志がない中で何を頑張り何を無理するのか???です。

自由意志がないならば悟り本なんて必要ないのでは???

どうせ自由意志がないならば何のために悟り本、ノンデュアリティ系の本があるのか????何も必要ないじゃないですか?????悟り本はこの夢で勝手に湧き上がり、、そしてそれを読もうが勝手に湧き上がるのです。そこに意味なんてないのです、、その現象こそが自動運転で起き続けるということです。

どうやって目覚めるのか???

意図して目覚めるは絶対にない

自由意志は本質の世界には絶対にありません、ゲーム上自由意思があるように見えているだけで実際にはマリオに自由意志はないのです。ですからどうやって目覚めるのか???という疑問を持っている間は目覚めが起きない可能性が高い、なぜならばマリオが全力で悟ろうとしているからです。大勘違いが続いています。むしろ真逆でマリオが意図して悟ることはないのだから勝手に目覚め解放が起きるのを待とう、、このスタンスが解放に近い感覚です。眠ってやるぞ眠ってやるぞ!!と鼻息荒く準備するよりも眠りに落ちるのを待つ感覚です。

誤解を解き続けることで準備はできる

自由意志はない、それを主導する自分もいない、、、周囲の人間も実は自由意志はない、このゲーム上には至福(ゲーム本体)は落ちていない、、こういった誤解を解くゲームに夢中になっていきますとリラックスが起き始めます、緊張感が抜けてくる、、よく分かんないけど頑張るって無駄だよね、、よく分かんないけど放っておけば寝れる(解放)よね、、、みたいになっていきます。この段階は小さな気づきが起きやすくなります。もう周囲に振り回されて頑張り続ける、、から卒業できるはずです。

死ぬのが怖く無くなっていく

死の恐怖は大変わかりやすいポイントです、死に対する恐怖は自身の本質に目覚めているか否かが判断できます。本質に深く触れていきますと理屈ではなく死への恐怖が減ります、友人の死、親の死などに対してもネガティブな感情が起きません。どこまで本質として生きているかが大きく出るのです。野生動物が親の死を引きずらないのは冷徹だからではなく本質そのものだからです。原住民族が死をお祝いするのは本質的に生きているからです。

でどうしたらいいのか?ではない

真実に触れるとどうしたらいいのか?は出てこない

悟り本を読む、読んで内容は分かった、、自分も居ない、自由意志もない、時間も何もない、、それは分かった、、ではどうしたらいいのか????と多くの方は疑問に思うはずです。残念ながら、、どうしたらいいのか??が湧いているうちは分かっていないのです、気づきが起きていないのです。真実とは究極のリラックスでありリラックスによって全てが変わってしまうのです。その時にではどうしたらいいのか??は出てこないのです。

不安感とはあるがままを信用できていない状態

不安感が消えなくて、不安がいつもでてきてしまう、、、この状態は個人の自由意思に大きなウェイトが置かれているからこそ出てく状態です。自由意志で人生を個人が切り開いているという気持ちになっている時に湧いてくるのです、なぜならば個人も自由意志も全部本当は実在しないことを本質では分かっているからです。真実ではないことを信じているから不安なのです。

成功してもいつも不安な理由

本人は自由意志で的確な判断を重ね成功に至ったと信じている個人も本質レベルでは自由意志も判断も個人もいないことは分かっています。ですから間違った概念の世界に居ることは本質では分かっているのです、だからいつも不安なのです。成功者の自殺などの悲しいニュースが後を絶たないのはそのようなことを示しています。自分自身が次に正しい判断をできるか常に不安なのです、それはそのはず自由意志など最初からないからです。

自由意志がないという完璧さ

迷える人も完璧

この世界に自由意思、個人の自由意志がないということはこの世界は完璧な表現であること言えます。悩みに悩んでいる個人も完璧なあるがままの表現です。個人が居て自由意志があるのならばミスも起きるのでしょうがミスが起きようがないのです。全自動ですから。つまり完璧なのです。ノイローゼになりようなほどに悩んでいる人がいるとしても完璧??そうです、、それが今あなたの目の前に起きているならば完璧だということです。

悩んでいる人が目の前にいるのに

では放置していいと、どんなに苦しんでいるように見えても放置でいいのか????そうです、、完璧なあるがままの表現としてそう見えているだけで本当にその人が悩んでいるという事実はありません、その悩みをあなたが代わりに体験しない限り、、本当とは言えないのです。そして見えている世界は幻想ですから実在ではないのです。

辛そうに見える、痛そうに見える、苦しそうに見える

私の周囲にはたくさんの困った人たちがいて、いてもたってもいられない。。。そうかもしれません、ですがそれは困っているように見えているだけなのです。とてつもなく冷酷な表現に聞こえるかもしれませんが実際に困っているという証拠がないのです、代わりにその感情を味わっていないのですから。何度も伝えますが見える世界は幻想です、幻想ですから実在ではないのです。全てはあるがままの表現、アートであり完璧なのです。

あるがままから解釈の世界へ

あるがまましかないのに

我々はあるがままの世界の中に解釈を持ち込み、あるがままの世界の中に自分、相手、机、時間、空間、仕事、政治、会社、学校と次々の物体を作り上げていきその世界に取り込まれていきます。本当は何もないにも関わらず言葉で作った世界に取り込まれていきます。もちろんこれは自動反応ですからこれに意図を持って抗うことは不可能です。人間は意図を持てないのですから。これは騙し絵と同じ、自身を老女であると信じ込んでいき最終的に老女の存在を絶対的なものになっていきます。

言葉が作り出した解釈の世界

野生動物が生きる世界には分離が存在しません、なぜならば彼らは言葉を所有しないので分別することができないからです、世界の中に孤立した存在を作り出すことができません。人間は言葉であるがままを分断分離していき独立した存在同士の世界に切り替えることができます、ただしこの行為は自動的に起きてしまうがゆえに人間はこの流れに無力です。そして世界には自分しかいない、自分は孤独だ、寂しい、、となっていくのです。完全んな一人芝居ではあるのですがこの流れは自動で起きるので起きた瞬間にその世界に入り込むのです。

解釈の世界にはあるがままはない

解釈の世界にあるがまま、本質の世界は存在しません、あるがままが作り出した解釈の世界に突入したらその中で閉じ込められます、なぜならばあるがまま、本質を探しているのが自分というまた作り出されてしまった幻想だからです。騙し絵の中の老女が若い女性を探し出す旅こそが世に言う探求者です。真実を言えば老女の存在で若い女性を見つけることは不可能なのです。自分という存在ありきではあるがまま、本質を見つけることは不可能です。

自由意志もそれを所有する自分も存在しえない

名前がつけられる前、花も人間も、犬も、猫も、太陽も、地球という独立分離した存在など実在しませんでした。ですが言葉を使って分断分離し錯覚することで実在しているかのうように思い込んでいるだけなのです。ですから当然この自分という存在も実在しません。実在しない自分という存在のままでは苦しいので、、悟りたい覚醒したいとなるわけですが、、自分という存在を認めた状態こそが幻想の世界に閉じこもる行為であるという矛盾には気づけないのです。

完全自動で悟りが起こる

私たちは悟りに関しても完全に諦めてしまって構わないのは、、悟りに至るプロセスの中で自由意志でそこに至ることは不可能だからです。騙し絵の絵に気づく過程において自由意志というのは一切存在しないのです、ですから我々は完全受け身、完全受動の精神でここに至るのをただ待つ以外にないのです。自由意思というのも完全な勘違いですから先ずはこの自由意思を否定することが逆にスタートにすらなるのです。独立分離した「私」が自由意思で悟るという行為こそが究極の勘違い、幻想に閉じ込める行為そのものです。

「自分」が悟るのではなく、、

これはもう騙し絵の世界ですから重要なことは騙し絵の世界の騙しに気づく以外にありません、「私」「自分」は騙し絵の世界の住人なのでここではその存在を一旦横に置いておく必要があります。その上でこの世界がいかに勘違いの世界なのかだけに気づいていきます。すると、、、どこかで、、あれ、、私もいないし、自由意志もない、猫も、花も、海も、空も、、全部独立などまったくしていない、、、と突然の気づきがおきます。これまでずっと悩んでいた「私」など存在していなかった、、という気づきが起きます。そしてこの一連の流れの中にも自由意志は一切存在しないのです。

自由意思がないならば自分は誰だ???

個が消滅しても残るもの

私たちが絶対的に「自分」という存在に確信を持っているのは、、「自分が居る」という確固たる感覚ゆえです。もしくは居るという感覚です、、、意識の存在を否定する人はいません、、なぜならば今現在も何かを認識する意識が存在するからです。この絶対的な意識感覚こそが自分という存在を信じることに繋がります。ですが本当は意識こそあれ自由意志は存在しないのです、、勝手に湧いてくる思考、感情を、、、自分が作り出したという大誤解が起きているだけです。本当は勝手に思考、行動が湧いてくるだけ、、自分など全く存在していなくても湧き続けるのです。そしてそれを認識し続ける意識もまた存在し続けます。

我々の本質はこの意識

思考が湧けばその思考に気づき、行動が起きればその行動に気づく、何も思考が湧いていなくてもそのことに気づき、何も行動が起きなければやはりそのことに気づきます。この気づきの意識こそが我々の本質です。思考、行動が湧く時だけ現れる「自我」という幻想ではなくそれらに気づく存在こそが我々の本質なのです。いつの間にか我々は気づきの意識ではなく気づきの意識によって気づかれた思考、言動を統括すると言われる自我という幻想に成り下がったのです。

本当は統括する自我などない

我々の言動の全ては自由意志でコントロールされたものではなく勝手に湧き上がった自動システムの産物です、ですからノーコントロールに湧き続けているのです。にも関わらずこれは自分が生み出したモノだという思考が湧き上がり、、それに固執している状態が続いているのです。そしていつの間にか全てに気づく意識ではなく意識によって気づかれた「自我」という思考に成り下がったのです。そしてその大誤解を前提にした思考が湧き続け自我という幻想に翻弄され続けているのです。だから我々はいつまで経っても苦しみから解放されないというわけです、真実とは異なる思考に固執しているからです。