自由意志

損をすることを嫌う自我

損得の世界に生きる自我

30円でも安い店で買い物をする、、なぜか???自我は損をするのを極端に嫌います、、なぜか???思考は全てこの体を有益にするための僕だからです。この思考とこの体を同一視すれば、、、そのような行動になるのです。。他の人は得をして自分が損をするのが許せないのです。自我は比較の中で幸不幸を判断します、だからいつも得をしていたいのです。自分とはそういう存在なのです。

だからいつも苦しい

自分は常に苦しいのです、、その苦しみを比較の中で起こっていると勘違いします。他の人よりも安いアパートに居るから苦しい、他の人よりも給料が安いから苦しい、他の人よりも太っているから苦しい、、、、と全部が全部この調子です。ですが実際には自分で居ることが苦しみを生み出しています。

本当の苦しみの原因に気づく

気づきの意識がいつでもあり、その中に自分という存在が後天的に発達しました、この自分を気づきの意識が意識することで苦しみが生まれます、、このことに気づきの意識が気づくことです。自分には自由意志があり、自分には決断力があるという勘違いが後悔、反省、期待、緊張を生み出します。これが勘違いであることを気づくことです、気づきの意識が。自分が気づくのではありません、、自分など存在する前から確実に存在していた気づきの意識が今気づくのです、これで苦しみが今消えます。

上手くいくことでストーリー上の自分は勘違いする

自由意思万歳

ストーリー上私が上手くいくことは当然あります、、この時私は自身の自由意志に圧倒的な自信を持ちます、ストーリー上、、、私の自由意志に対しです。ですがなぜか苦しい、なぜか緊張感が走る、、、上手く行っているにも関わらず苦しいのです。上手くいけばいくほどに上手くいかせた「自分」に意識が向くわけです、自分に気づきの意識の意識が向くようになります、自分に焦点が合ってしまいます、、結果苦しみが湧き出します。

気づきの意識をどこに意識させるか

気づきの意識が気づきの意識そのものとして経験を意識しますと、、、至福に包まれます。気づきの意識が見かけ上の自分として経験を積むと、、苦しみが湧きます。。。自分の存在を忘れるぐらいに行為に意識が向くと至福が生まれます。幻想であるこの体の中の自分に意識が向けば行為に意識が向きませんから集中できません。何かに集中できるというのは自分を解脱してでこそです。気づきの意識そのものとして行為に意識が向くことを全集中、無我と呼びます。

苦しみのメカニズムを腹落ちさせる

後天的に発達した「自分」とは気づきの意識をこの名前に意識を向けさせるトレーニングの賜物です。何度も名前を呼ばれることで気づきの意識がここの意識します。するとこの自分としての視界が広がり、、そこには名前が付けられた独立分離した世界が広がります。花があり、コップがあり、PCがあり、TVがあります、、全部名前を覚えた物達です。ここに入ると苦しみが湧くのです。このメカニズムに気づく視点が湧いてきますともうここに取り込まれることができなくなります、、自分に取り込まれているに気づきの意識が気づくが起きるのです。

悟りとは苦しみのメカニズムの完全解明

苦しいのはなぜか???それは苦しみのメカニズムに気づいていないからです、気づきの意識が。。。。悟りとは苦しみのメカニズムの完全解明が起きることです、気づきの意識に。この自分が見て、触って、飲んで、歌っって、聞いて、味わっているという錯覚が起こることでこの苦しみが起こりました、、この事実をどこまで見破れるかです。気づきの意識がどこまでこのメカニズム解明に気づくかです。自分ではなく気づきの意識に気づきが起きるかですからどこまでいってもこの自分は無力なのです。

計画は人間を能動的な存在であるという錯覚を強化する

計画をしっかり立てて

人間という存在をしっかりと理解しますと計画はあまり意味がないことが分かります、、ただその体を通じて言動が起きていますから、、明日から二週間後まで予定をビッシリ埋める、、というのはこの人間のメカニズムに反しています。その瞬間瞬間やりたい衝動は異なるので、、予定でこの体をしっかりと縛りつければ苦しくなるはずなのです。ですが自我はそうは言いません、予定をしっかりと立て時間を無駄使いしないようにしよう。

計画は計画、、、この割り切りができるか

計画を立てようが全体から起こりますから計画を立てることが悪いのでは断じてありません、、ですがその瞬間瞬間にこの体を通じて衝動が起こるので計画通りにその衝動が起きるとは限らないのです。ですからあくまで計画は計画、、そしてそれを遂行するか否かはその日次第、、、こんな緩い感覚が事実に合っています。

そんなことでは仕事ができないのでは???

違います、、そんなことを今までもやってきたのです、、、この体には自由意志はなく、、、ただ起こるが起きていたのです。。この事実をしっかりと認めましょうという話です。さも自由意志がこの個人の中にあるかのような発想を持つと、、それだけで苦しくなりますよ、、という話です。ただ言動が全体から起こり続ける、、、この事実をしっかりと理解して計画を立てるのは問題が起きません。

無我make自我

無我が自我を起こした

無我が自我を起こしました、、、無我から自我は起きたのです、、、無我は至福、自我は苦しみです、、至福が苦しみをこしらえたのです、、そしてそれを感じるのは無我です。自我の完全活動中は無我は自我に成り切ります、、自我を意識するのではなく自我そのものになるのです無我が、、、この状態になって初めて苦しいが湧きます、、、そうしたら自我を観察する無我に戻るのです、、、自我の活動、思考、言動は完全に無我からただ湧いていることを把握します、、自我の活動を無我の活動であると意識します、、、これで無我に戻ります。自我を観察する無我になります。無我=自我から自我を見守る無我そのものになります。

私はこの体の中に存在する者である

私はこの体の中に存在し自由意志を発揮する者である、、、これが自我ですが、、、この言葉は一体どこから生まれたのでしょうか、、、この言葉がどこかから生まれなければこの自我は存在しません、、、どこから???無我からこの言葉がただ起きたのです、、このプログラム言語がただ無我から起きました、、、無我がこの言葉に成り切る、意識を集中しすぎると、、、苦しみが湧き上がります。無我=自我ではないからです。自我とはただの言語であり、、無我の一部でしかありません。

無我から起こった自我

自我は無我からただぽこっと起きた言語です、、この言語に無我の意識が向くと、、、このファンタイジーの世界が湧き起こります。そのファンタジーの世界は苦しいので、、、ファンタジーの世界の中で、、パチンコ、お酒、異性、食事、などを使って無我に帰ることをします。熟睡は完全なる無我、、、ゲーム熱中も無我、、仕事集中も無我、、です。そしてこれらは自身が実は自我ではなく無我であることを教えてくれるヒントです、無我から湧き出した。

自分の存在を全く疑わない現代人

自我を作るのに三年がかりにも関わらず

生まれてきた子供に三年がかりで自我を形成させる、、自分という存在を認識させるにも関わらず、、我々はこの自我が絶対的な存在、実在だといつの間にか信じ切っています。。おかしい、、、元々そんなものは絶対に無いことを両親は知っています、、、なぜこの後天的存在に全権力を持たせるのか????自我の形成に伴って湧いてくる思考、、行動も一緒にして「その人の言動」となっていきます、そしてそれを赤の他人から評価される、さらにこの自分も人を評価する、、、

自我を否定すると、、、拒絶反応???うそやん

三年がかりで自我を形成しといて、、、あとでそんものは無いんですよ、、、と言われると、、拒絶反応が起きる、、、何かがおかしい、、、、この拒絶反応は、、、、無いことを知っている、、実は分かっている、、確信犯の反応、、、そうです、、、確信犯なのです、、、誰が、、、全体です。全体から起きた架空の存在「私」は架空ゆえにその存在を否定されると、、、激情が起きます。

架空の存在であることを知っている全体

全体からこの自我は湧き出しています、、そしてその架空の存在を起こし続けています、、、そしてこの存在を起こし続けるのは苦しいのです、、、ですから全体は苦しいに気づき続けている、、、、だがここで「自我ってないよね」という発言が起こると、、、「パニック」が全体か起きます。鼻を触り続ける友人に、、さっきから鼻を1時間触っているよ、、と言えばパニックが起こる、、、自我の存在を否定されると「パニック」がす自然現象として起きるのです。

自我がなくても何も問題なく毎日が進む

もともと存在していなかった自我、、ですからこの存在を無視しても何も問題は起きません、、、そしてそもそも自分が自由意志で言動を決めていたというこの不文律が実は幻想であったという気づきが起きますと、、、さらに問題が起きず進んでいきます、、、いや、、、自分が居ないが腹落ちすると、、、この人生そのものが消えてなくなり、、、ただこれがある、、に変わる、、ただ経験だけがあるに変わる、、、何もない、、、全部が現象、、、空足是色、色即是空が腹落ちします、、腹は幻想ですが、、、

悟りに興味が出るだけ奇跡

悟りに興味は起きない

見かけ上の私は、、とんでもない好奇心旺盛な人間で、、興味の湧くことは片っ端から極めていこうとしました、、幼少期は動物、昆虫遊び、、小学生になるとTVゲーム、、中学は受験勉強、、高校はスポーツ、大学は異性関係、就職後は自己実現、、一直線にそれを満たしていきたい、、そう思う人間でした、、、就職後にどうしても仕事が合わず、、かつ次にやりたいこともない、、、ここで八方塞がりに突入しました。この八方塞がりは見かけ上の私の人生史上最大の壁になり、、さすがに現実から逃げたいという欲求が渦まきました、、、結果仏教、善の悟り関連のメッセージに自然と救いを求めるが起きたのです。

趣味は徹底した、努力も徹底した

自己実現の壁に出会った時に、、、なかば諦めの境地が来ました、、、もしかしたら今回は不可能かもしれない、、何もやりたいことがない、、、、参った、、、その時に染み渡ったメッセージが釈迦、禅などの悟りメッセージだったのです、、ですがこの時は本当の意味など分かるわけがなく、、、ただそこに真実があることだけは分かっていました、、。最後はここに行けばいいのだという、、、

自由意志を手放すには

自由意志を手放すのは怖いものです、、、なぜならば自由意志でこの人生は守られていると本気で信じているからです。ですからこれは完全な人体実験が必要になります、、、何も考えず、、何も計画を立てず、、生きてみよう、、、やってみよう、、、すると不思議何も問題なく行動が起きるのです、、、何も準備なくしっかりと行動が起きます、、、え???本当だっ、、、という気づきが起きます。

悟りとは完全な諦め

サレンダーの本当の意味

サレンダー、諦め、、、悟りを学べばこれらの言葉は直ぐに登場してきますが、、、なかなかこれらの言葉の意味が分からない、、、それもそのはず、、、自我はこれらの理解を大変嫌がります。なぜならばこの諦めとは自我が完全に無意味であることの理解だからです。川の流れのように我々の行動は自分では全く決めることができないこと、、自分という存在が何かしらの経験を積んでいるというのが真っ赤な嘘であるということ、幻想であるということ、、、これを腹落ちさせることは、、自我にとっては諦めです。

そんなことはない、、、の猛反撃

普通に生きていたらこれはもう分かるわけがない、、、、この体の中に自分が居て自由意志でこの人生を切り開く、、、これはもう完璧な洗脳なのですが、、、これを見抜くのは容易なことではないのです。なぜならばあまりにもリアリティがあるから、、、あまりに実感があるからです。。ですが覚者の気づきをしっかりと学んでいきますと、、確かにこれは、、、錯覚であることが腹落ちしていきます。

1万回聞いても理解が起きない

内容はとんでもなくシンプルなのです、、ですが理解が起きないのです、、、理解が起きないから、、直ぐに日常に取り込まれてしまう、、自由意志をフル発揮しようが湧いてきてしまう、、、この繰り返しです、、、今経験しかない、、、この体が在るは錯覚、、、だから今しかない、、、、時間はない、、、これも直ぐに日常に取り込まれ時間を気にする毎日、、、、この繰り返しです。。

ある時ふと、、、腹落ちが起きる

ある時にふと腹落ちが起きます、、、あれ、、なんか分かった、、、本当に自由意志ってないよね、、、本当に経験しかないよね、、、本当にこの体の中に自分が居るって錯覚だよね、、本当に気づきだけがいつもあるしいままでも在ったよね、、、突然の腹落ちが起き始めます、、

決まっている、決まっていない論争

どこを主語にするか、、、

自分という存在が居るという前提話をもっていきますと、、、全ては決まっていません、、その人を通じてただ全体から起こりが起きているだけです。全体から起こりが起こることは「決まっています」。このシステムは決まっているんです。化学反応(全体)から何かが起こることは決まっています。全体が常に揺れ動き変幻自在の現象が起きることは決まっています。個人の立場に立ってみれば次に何が起きるかは全く決まっていません。

自由意志があるように感じることが起きた

コーヒーを飲むぞ、、コーヒーを作った、、そして飲んだ、、、、この流れは完全なる自由意志です、、これを否定できる個人は居ないはずです、、、だからこの世界は苦しみに満ちます。。。しかしながらこの一連の出来事がただ全体から起こったとして誰がこれを否定できるのでしょう。できないのです、、どこまでいってもこれを否定できない、、、

何も決まっていない、、自由意志もない、、

何も決まっていることはなく、、自由意志もない、、、絶望的なこのメッセージが悟り、ノンデュアリティです。個人にとっては絶望的すぎるこのメッセージ、、これが悟り、ノンデュアリティです。ですが見かけ上のこの私はこのメッセージが大好きです、安心します、平和になります、もう戦わなくていい、、安堵感が込み上げてきます、、至福に包まれます。

活躍したい、、、これも自我延命システム

活躍したくて何が悪い???

将来はサッカー選手になって活躍したいです!!これは微笑ましい子供の言葉です、、、ですが実はこれも自我の延命システムが働いています、、、なぜ活躍したいのか???なぜ???今が苦しいからです、、、なぜ国公立大学に入りたいのか???今が苦しいからです。。。そうです、、活躍したいも執着、、これは苦しみを解消してくれる可能性を秘めたことなのです。

反省します、、、

今日の自分の不甲斐ない働きを反省する、、今日食べすぎて反省している、、、この反省も自我の延命システムです、、、反省するという一見謙虚な姿勢こそがこの罠を見え辛くしています。反省するのはいつも自分、この自分の自由意志があり、この自由意志を良い方向に使えなかったことに対し反省しているのです。残念!!!!自由意志はありません、、全部全体からの起こりです。反省するためにはこの事実を無視するしかないのです。

個人はいつも延命装置に乗っかる

個人の延命装置は人によって様々、、、目標を持って延命するか、、反省して自分を作り上げるか、、将来を悩むことで、自分を保持するか、、、、思考は全てこの「個人」ありきの活動をしますから、、、個人と思考は大変相性が良いのです。個人ありきのこの思考をスパッと辞めてみるとどうなるか、、、突然至福に包まれます。何もしなくても至福に包まれます、個人が包まれるのではありません、、至福の漂いを至福が感じるのです。

あれを伝えないと。。。

会ったらこのことを伝えないと、、

次にあの人に会ったらこれを伝えなくては、、、こ話をしないと先に進まない、、、思考は人間関係の中でいかに優位に立つか、、、一生懸命この個人を守るために働きます、、、そして確かにその効果がある場合はあります。あざとい、小賢しい、、思考があまりにその個人のために目先に走る時に出る言葉です、、ですが個人の存在に騙された状態で生きる人は全員実は小賢しいのです。そうならざるを得ないのです。

次々に思考は個人の損得を計算する

この行動が一番損をしないのでは、、この言動が今回は一番得だ、、、全部個人にとってです、私にとってです、、、ですが今苦しみを湧き出しているのが「この個人が居る」という感覚です。損得感情をフル発揮しようと、、この苦しみを作り出しているのは紛れもなく「個人」の存在なのです。こん矛盾にいつ気づくかです。覚者は悟りこの個人延命プログラムの罠に気づきました、、自由意志があるという大勘違いを前提に、、次々にプログラムが発動されます、、思考というプログラム、、、

思考プログラムがフル発揮しても、、、

思考プログラムは、、、個人を幸福にしようと、、、働きますが、、、実はこの「個人が居る」というプログラムこそが苦しみの根源だった、、、アベシ、ヒデブ、、、、です。そうです、、、全く見当違いなことが起こっていたのです、全体から。幸福にしないといけない個人はそもそも居なかったのです。勿論それでもこの体を食べさせなくれはならない、、これも事実でしょう、、、ですがそれと苦しみには何も関係がないのです。