自我

特別な存在

エゴ、自我の活動として特別になろうとする罠があります、、、体を解放し、、他人よりも自我の制約を受けずに稼働できたときに、、、周囲から評価を受けます、、、、この評価を自我OSシステムは身逃しません、、この功績は「私」のものだ、、、、という動き、思考が起こり、、、自我は存続をしようとします。本当は感情解放をして全体の感覚を獲得していたにも関わらず周囲の反応で再び自我OSシステムはそこを拾います。

人気者

何かに集中し無我になる時間が増え全体の感覚を思い出す、、体の感情を解放し全体を思い出す、、、これらを継続し、、長い時間を全体として過ごすと、、、人気者になります、、、、本当の優しさが滲み出るようになります、、、、すると、、、、、そこを自我OSは見逃しません、、、「私」は人気者なのだ、、、という奪い去りです、、、、

悟り

悟ったのは「私」だ、、、、という奪い去りは最後の砦です、、、、カルト宗教の開祖などはこれでしょう、、、「私」が悟ったという流れ、、、、、この私こそが、、、、が抜け落ちることが悟りなであるにも関わらず、、、一瞥体験などをして全部分かっちゃった、、、、、、を「私」が所有するのです、、、意味なし、振り出し、、、無意味、、、、ですがこれらは全部全自動、、それが起こっただけです。

上手くいくいかないを超える

全部が観察

全てが全自動で起きる、、、全ての思考、感情、行動が全自動で起きる、、、この真実に気づいたときに、、、ただこれを俯瞰するしかないという、、、、投げやりな気分が当初は湧きます、、、全体の勝手な反応に「私」はただ委ねるしかない、、、ただの受け身、受け手、、、、、、ところが自我が主導権を手放し、、実際に受け入れ、、俯瞰する側に回りますと、、、何をしていても平和、静寂、歓喜、、、、大自然の奇跡を見るように、、、この人間社会も奇跡の連続になります。

観察は究極の娯楽

観察とは究極の娯楽です、、、そんな受け身の人生老人と同じ、、、違うんです全く、、真逆、、、、完全なる気楽、無責任、、、どんどん体が楽になっていき、、行動が溢れてくる、、、、やるぞ!!!!ではない、、、ただ溢れるのみ、、、ただ溢れるに委ねる、、、、それだけが起きる、、、だから外から見ていれば超超積極的人間に見える、、、それの何が問題なんですか????

自由意思なんて捨ててしまえ

自由意志があると思っているから人を非難し、自分を攻め、他人を抽象し、揶揄し、、、いいことが全く無いのです、、、緊張感がでるだけ、、、、成功した暁に、、それを自慢できるだけ、、、、ですがこれは全く幸福を個人には届けませんから完全な無駄です。そんな小体験に固執するよりも全行動、全思考、全感情を大元に委ねてしまう、、、、これです!!!!完全なる丸投げ、、、、令和無責任男です。

人生ドラマを操り余裕を作って悟りに至る

本当は操れないが、、、

言葉では矛盾ある表現になりますがそれを踏まえて説明します、、、人生ドラマはその人の観念が織りなすドラマです、、、そのため、、、その観念が変わればその人生が変わります、、、その観念は体に溜まった負の感情をダイレクトに受けます、、、負の感情が溜まった体は、、、その感情を味わうのを避けるために、、思考が湧きます、、、、その思考が重なり合って観念が書き変わっていきます、、多くの場合その思考は感情を味わいたくないがための思考ですから、、真実に繋がる思考ではありません、、結果幻想の中でさらに幻想を作り出し、、擬似体験という真実から遠い場所に安住します、、そこが苦しい場所です。

感情を積極的に成仏する

体のマッサージ、ストレッチなどを積極的にして、、溜まったエネルギーを発散しますと、、、思考でこれを隠蔽する必要が無くなっていきます、、、、結果観念と向き合うということができるようになります。感情はクリアリングされ、、、、残されたのは観念のみに、、、、映し出された世界は、、、観念そのものです。。。。そしてこの観念が反映された世界に対し湧いてくる自動反応、思考、感情を見抜き、、、逃げることなく、、、今に居る時、、、感情を隠蔽するという動きが起きなくなるのです。ただここで感情を観察する、味わうが起きます、、、24時間が瞑想になります。

諦めるとは全く違う

これは感情を諦めて受け入れるというものではありません、、、感情を思考で隠し、、、体に隠蔽していくという負のサイクルを打破する積極的活動なのです、、、、感情が湧いたら湧かせたまま、、、その感情は観念から自動的に湧いただけですからそこを俯瞰する存在になりますと、、、自我OSシシテムが緩み、、ただその場で静寂、平和に包まれるようになるのです。

体が作り出したシステムエラー

体は全部知っています、、体は自我OSシステムの成り立ち、、問題点を完全に理解しています、、、ですから自我OSシステムを卒業する日を実は待っているのです、、、ですが自我OSシステムは自動反応を起こし続けるが故これを止める方法がないのです。意識を体に戻します、意識を体に戻すことで、、、自我OSシステムに縛られない余裕がでます、、、体は学習します、、自我OSシステムが機能しない方が、、、体も楽だと、、、、すると体が自我OSシステムを卒業する方に協力的になるのです。

体は全部知っている

体は自我が必要悪であることが分かっています、、、ですからこの必要悪自我OSシステムを必要がないという状態に導きたいのです。。。そのためには脳に知識を入れ自我OSシステムの不必要性を覚えさせ、、、脳がこの機能を手放すのを待つのです。宇宙全体を動かす、、本当のOSに体をチューニングし、、シフトを促します。。。。ですがこの全ての動きは全自動で起きますから、、これをコントロールする個人は存在しません。

OSの自動反応

会話は相違のOSが反応しているだけ

会話とは双方のOSが自動反応を起こし、、ただ反応が起きているだけです、、、、データベースにある全記憶が元になってOSが自動反応を起こすのです、、、ですから会話とはただお互いのOSを強化することにしかなりません。そして見える世界は全記憶がベースになった観念が元になっておりそれがアウトプットという形で画面に移ります。観念はその場でディスプレイに映し出されるのです。

この世界は観念が映し出すディスプレイ

この世界は全記憶によって形成された観念が作り出したディスプレイ映像です、、これが今我々の目の前に映し出されています。。。この体も当然その真ん中に映っているはずです。ですがこの体だけが映像なのではなくこの体以外も、、観念が映し出すディスプレイ上に映像化されます。。この現実が幻想と言われる所以はここにあります。画面上に写った友人が、、言葉を投げかけますと、、、OSが作動し自動反応を起こします。

私も相手も実在しない

このプログラムで分かる通り、、、自我という存在はOSであり、、実在はしません、、、反応を起こすプログラムに過ぎません。自分という存在ありきの思考という反応も自分という存在ありきの感情も、、自動反応で起き続けますから、、そこにフォーカスしても意味があるわけではない、、、勿論その反応にフォーカスし、、とことん付き合うこともできます。

虚無主義ではない

究極の願望

全ては自動反応、そしてただ観察するだけ、、、これは虚無主義ではありません、、、これは究極の欲望達成、、究極の欲望成就です、、、なぜか????この状態こそが究極の静寂だからです。。。何かを達成して得る快感など数秒、刹那、一時です、、、ですがこの観察はエンドレス、、、しかも観察に深さが加わる度に静寂も深みを帯びていく、、、

軽く軽く

何もかもが自動反応、、これは絶対的な責任放棄です、、、え???責任放棄しちゃっていいんですか???いんです、、、本当にいいんです、、、、、これまで全責任を負ってきた自我は喜んでこれを手放す、、、、、なんという快楽、気楽、抜苦、、、、、そしたら軽いから、、、、やる気、元気が湧いてくる、、、、なんか行動的に、、、なんか積極的に、、、、

一般の願望実現

一般の願望実現は終わりがない、、、一時の達成感を追い求め、、、ただ走る、、走る、、、きつい、、、辛い、、、でも止めるわけにはいかない、、、、自動反応を観察する、、、行動、思考、感情の自動反応を観察するだけ、、、、軽い、楽、無責任、、、、全然違う達成感、、、もう何もしなくていいという安堵感、、、

大いなる一つという幻想

ワンネスという幻想

神、アートマン、仏陀、なんでもいいのですが、、、、これらは言葉にしてしまった瞬間、、、脳内でイメージ化され、、、そのイメージを追いかけるという夢を作ります。。。この夢の世界で、、新しい夢を追うという夢になるのです。壮大な夢、、、それが大いなる一つ、ワンネス、、、、です。

言葉では表せない世界

神とは、、実在しない無限の存在です、、、これをどうやって表現すればいいのでしょうか????不可能、、言葉では到底表せない世界を、、、、この言葉で表現することで自我OSは、、、はい!了解、、、とイメージを作り上げ、、、自我にこの夢を追わせるのです、、、、絶対に夢の中では探し得ない存在を完全に探すのです。

居ませんけど、、、

何十年間探求したって、、、言葉のイメージを追い求めていても難しい、、、言葉では絶対に現せない存在、、不在を見抜く、、、ということでそれをこの完璧に感じる経験の中で探します、、、完璧な体験、疑いようのない感覚の中からそこを気づきます、、、

拍子抜け

これはジョーク

完全なる全自動、経験は完全な受け身、個人は実は居ない、、、、これらが腹落ちしていきますと、、、拍子抜けに次ぐ拍子抜けの毎日です、、、、、あの大活躍なサッカー選手は何一つ、、、自分で選択をせず、、、自我も存在していない、、、、拍子抜け。。。。

大作家

あの有名な大作家も、あの有名な大講演家も、、、実は自我が存在せず、、、何一つ選択をしていない、、、、マジか、、、、の連続です、、、、この人間世界には自我があるという勘違いしか起きていない、、、全人類の消滅、、、自我不滅帝国に、、、、今我々は住んでいます、、、、その住み心地は????最高に気楽、、、もう何一つ頑張らなくていい、、、頑張る責任を追う自我が存在しないからです。

誰も目指さなくていい

この世界には誰一人目指すべき人は居ません、、、誰一人です、、、何かを達成しているように見える人は居ますが実在しないのです、、、誰一人、、、そう見えるだけ、、、実在が完全に不在の世界、、無限の不在が展開する世界がここです。今までのように誰かに憧れてもいい、誰も憧れずお気楽に生きるのもいい、、なんでもいいのです。

これかあれか

同価値

全ての生命現象は同価値ですから、、、AかBかで悩む意味はありません、、、Aの方が優れている???いやBではないか????これを多くの方は悩むわけですが、、、、全部が同価値、、、そしてAを選ぶという思考も、Bを選ぶという思考も同価値、、、全部同価値です。つまり我々が人生で悩んできた全ては全くの検討外れだったということです。

その時の選択

その時の選択が完全なる全自動で起こります、、、それを我々は完全に今までやってきました、、、、大人になってもこれは同じです、、、、つまり我々の経験は完全な受け身でただエンドレスに引き起こされていくだけ、、、完全なる受け身、受容、手放しです。

こんな人生に価値はあるのか???

こんな人生に価値はあるのでしょうか????おおありです、、、子供の時に全く自我を自覚なく生きていた時に退屈なんてあったでしょうか???ないですね、、、気楽を遊べばいいのです。モーマンタイを遊べばいいのです、、無責任男を遊べばいいのです。

釈迦が見た世界

釈迦は宇宙をありのままに見た

釈迦は2500年前に、、、王の座を捨て悟りを開きました、、、彼は「私とは誰だ???」というただ一点の解明をし、、、、自我の不在を完璧に見抜きました。。。。私という存在は実は居ない、、、、だが確実に「在る」という感覚は100%在る、、、、これが何を意味するのか。。。本当はこの在るという感覚の中で全てがただ起きているだけなのではないか????という気づきを得たのです。

その瞬間

その瞬間、、全部が自分にシフトします、、、全部が自分の中で行われている、、、全部が全部自分の現象でしかない、、、、この気づきが起きるのです、、、、全部の現象がただの現れであるならば、、、、現象に優劣などあるわけがなく、、、この体すらも、、、この本、このペン、この財布、、、と何も変わらない、、、現象に過ぎない、、、全部に価値がないというよりも全部に価値が同等にある、、、となります。

全てが同価値

全現象、全思考、全感情、全行動が、、、、ただの現れであることに気づくと、、、全てが同価値になります。。。「私の思考」は「彼の思考」よりも絶対的に重要であり価値がある、、、から私の思考も彼の思考も完全に同価値になります。信じられない観念のシフトが起きるのです、、、そしてこの最後の観念は、、、真実ですから、、、観念ですらありません。。。

実は観念しか見ていなかった。。。

真実に気づきますと、、我々は実は観念しか見ていなかったことに気づきます、、、重要だと思っていることしか視界では観ることができず、、、我々は覚えた名前のついた世界にどっぷり浸かっていたのです。この気づきはもうこの私を幸せにするという欲求を奪い去り、、、欲望の全てが真実の完全把握に切り替わります。釈迦が見た世界を私も見たい、、、ただこれだけが欲求として強烈に残ります。

自分を愛する???

どういうこっちゃ

自分を愛する、、、世間ではこの当たり前の感覚、、、自分を大切にしよう、、、ですがこれは狂気に満ちています、、、自分とは存在しないからです、、、自分という実在は無いのですから、、、自己愛というのは破滅の始まりなのです、、、恋愛の多くが破滅に向かうのは、、、その二人は実在しないのです、、、、居ないにも関わらず居るという前提のゲームを二人でやっているのです、、、このゲームの恐ろしさは、、、幸福感が全く上がらない瞬間が訪れるのです、、、自我とは何をもってしても満足をさせられない存在ですから、、相手への期待は全て泡に消えます、、、相手への満足感が瞬時に消えていくのです。

自我を満たしてあげることは不可能

自我とは実在しません、システムです、、ですからこのシステムを幸福にしてあげることは不可能なのです、、、恋愛の瞬間、、、、満足、ドキドキ、幸福感が襲ってきます、、、ですがこれは瞬間です、、なぜならば、、、幸福感が湧くのは、、、、その瞬間だけ自我の思考フル回転が止まるからです、、、何かをもう獲得しなくていい、、、という安心感が、、、思考グルグルを止め、、、無我に戻っているのです。。。恋愛とは思考グルグル強制止めメソッドです。

恋愛に夢中になる

まさにこれ、、、恋愛とは夢中になること、、、夢中になっている間、、、夢の中に居る、、、、違います、、、この現実という夢から、、、覚めているのです、、、夢中とは、、夢の中で夢の中に居ない状態なのです、、、、、、なぜならばこの夢は思考が作り出すのですが、、、この思考が止まるからです。夢が緩んだ状態、、、だから恋愛中は楽しい、中毒性があるがゆえに、、人は恋愛を求めます。