自我

安心して苦しむ

宇宙に無駄はない

現象の世界に個人として生きることは苦しみの人生です、、どんな煌びやかな生活を送っているように見える人も確実に苦しんでいます、、なぜならば個人という存在こそが不足を生み出す根源だからです。周囲が羨むような容姿の女性も、、常に不満を抱えていますし、、周囲が羨むようなお金を持っているような男性も常に不満を抱えています。苦しみとは不満足が生み出しますがこの不満足を作り出すツールが個人です。

その個人も

その個人も、、周囲からの声かけによって勝手に作り上げられるものであり、、全くもってその個人には責任がありません。個人は周囲からの声かけによって徐々に徐々に作り上げられていくのです。ですから気づいた時には自我が形成されこの自我を守るために、自我を満足させるために人生は構築されていきます。

苦しのがデフォルト

なぜ私の人生は苦しみがあるのか????それについて考えるのが無駄です。人生とは=苦しいだからです。これに例外はありません、、、苦しみとは不足感であり、、不足感は個人という存在そのものだからです。今苦しいのならばそれは当たり前なのです、、、いや私の人生は苦しくない、、、そんなことを表面上使う人もいるでしょう、、ですがそれは不可能、無理ゲーです。

どうしたら、、

ではどうしたら個人の存在という嘘、虚像を虚像と見破れるのでしょうか???それは簡単です。この現象界において実在する存在など存在しえないからです。そして全ての現象が虚像、幻想としてその幻想の動きに気づくことができるのはたった一つ、実在です。すると今起こる全てに気づいているのは自分という幻想ではなく絶対の実在であることが分かります。これが我々の本質です。

物質も精神も幻想

物質も精神も同じ

物質は常に移ろい変化していきます、精神もこれと同じ常に揺れ動き変化していきます。この二つは全く異なるようでいて移ろうという意味では全く同じなのです。そしてこの移ろうものは固定化されて確かなものではないのですから完全に幻想です。そしてこの物質、精神という幻想に気づくことができるのは幻想ではありえないわけですから我々の本質は自我という幻想ではなく、、絶対、根源であることが見えてきます。つまり移り変わらない完全な存在なのです。

移り変わるようでは絶対ではない

絶対には変化がありません、絶対はそのままで絶対であり、、そのままで無限でありそこには変化は起きようがない。なぜならば絶対に変化が起きてしまったら、、この幻想界、現象界の出来事に気づくことができないからです。つまり先ずは絶対的な存在があり、、その鏡の中に映る絶対の現れ、無限の顕現化があり、、それにただ気づくが起きているわけです。この気づくも絶対の中では起きておらず、、気づくは絶対の外で起きます。この気づく存在を神、真我、気づきの意識と呼びます。

色と空は最初から一つ

空があって色は次に現れたのではありません、、、最初からこの二つは同時に現れました、、空には時間など存在しませんから、、色即是空、空即是色がある。、、これで終わりです。そして空が延々であり、色が永遠であり、、気づくが延々に起き続けるのです。空の中には変化は一切起きず、、色は無限の現れとして変化が起き続ける、、そこに気づくという現象が起き続けるのです。空の中に最初から色があったのです。

神は実在するのか?

我々が考えるような形ではない

私たちは物理空間に住んでいます、物質として形がある世界に住んでいます。ですが同時にネット空間もこの世界には存在します、ネット空間とは物質空間とは異なります。この物質空間と、ネットなどの情報空間を合わせてこの世界は成立します。では神とはどの世界に存在するのでしょうか、、、神とはこの物質空間、情報空間の大元です。この物質空間、情報空間を生み出す存在です。この物理空間、情報空間は神の影、反映、生写しのようなものなのです。

神の影ならば

もしもこの世界が神の影ならば、、なぜこの影同士は争ったり競ったりするのでしょうか???それはこの神の影の世界での経験を個々が所有するという大勘違い起きているからです。経験を所有する自我というのが実在すると信じる動きが起こり、、これによって各個人が全く分離した存在であるという大勘違いが生じます、これによって各個人が物を取り合うという現象が生まれるのです。ですがこの現象すらも神の影であり、、な何も問題は起きていないのです。

勘違いする個人の影響

個人という概念が誕生することで、、、神という概念が生まれました。個人という概念が生まれなくては神という概念も当然生まれません。つまり個人が神を生み出したのです。個人が生じる前に神という概念は存在しえないのです。そういう意味では個人こそが神という概念の生みの親です。個人とは神が神を再発見するツールなのです。

全幻想は気づかれてそこに存在する

全現象は気づかれてこそ

この世界は全て現象、幻想です、、幻想ですから気づかれなければ何の意味もありません。気づかれない幻想は存在しないに等しいのです。そして実際に気づかれない幻想は存在しません。つまり幻想とは気づかれた瞬間に現れているのです。気づかれた幻想だけが存在します、幻想として。自我が確実に幻想なのは、何かに夢中になっている間は気づかれません、つまり存在しないのです。ですが自分がやったという感覚が芽生えたときに自分、自我は幻想として存在するのです。

例えば、、YUTUBE

例えばYOUTUBEというプラットフォームには何億というチャンネルがあるでしょう、このチャンネルの全てを見ることは個人には不可能です、、するとチャンネルという幻想は見られる前には存在しないのです。個人という幻想がチャンネルを発見した瞬間にチャンネルが現れるのです。気づかれないチャンネルはこの世界には存在しえないということです。

自分という幻想

自分という幻想は最も身近な幻想ですがこれも気づかれた瞬間に立ち現れます。気づかれない間は自我という幻想は末梢されているのです。にも関わらず我々は自我は永遠不滅の存在だと信じています、ですが永遠不滅どころかゲーム、YOUTUBE、読書にはまっている間自我は消え去っているのです。完全に消え去る自我が全経験を所有しているというアイデア、思考だけがここにあります。ですがそれもこれも幻想です。そしてそれに気づき続ける絶対があります。

一人暮らし

子供が一人暮らしを始める時

どんなに一人暮らしを憧れても、、、不健康であれば、、一人暮らしをしようとはならない、、、どんなに一人暮らしをしたくても、、、体が脆弱であれば、、、アクションを起こせない、、、つまり知識はそこでは無力です、、、これは悟りも同じ、、、、どんなに悟りの知識を増やしても体がそれに見合わなければ、、、、悟りは起き得ないのです、、、ですが悟りたいという思いが起こるのは、、、もうその準備が始まっている証拠です。

悟りたいが起こったら、、、、

悟りたい、、、、が起こったら、、、、もう体がそこに向かっています、、、自我の解放を体が求めているのです、、、そこで知識ばかりを増やしても難しい、、、なぜならば、、、自我によって守ってもらう必要がこれまではあったのだから、、、ですから、、、その時はさらに体を開きます、、、体が悟りに耐えうる状態にもっていくのです。。。不健康、心がどん底からの覚醒は非常パラシュートの稼働です、、大ピンチ自我プログラムの解体です、、、、これは全然違います、、、、

悟りに耐えうる体の構築

修行は必要ない、、、それを連呼する覚者も居ますが、、、、その人はたまたまそうだっただけ、、、どう考えても自我プログラムは体を守る必要性を持って維持されている、、、ですから、、、健やかにこのプログラムを解体するならば、、、体を健康に健康に開いていく、、、チャクラを第一から開いていく、、、気の巡りを一つ、一つ開通していく、、この連続です。

真実を知るものは、、深刻になれない

真実は人を究極なレベルで癒す

本当は何一つ、、、自由意志はなく、、、ただ起こりが起きているだけ、、、この真実が我々を待っています、、この真実に我々は最終的に吸収されます、、、、真実から逃げることは誰もできず、、、、この真実に向かって我々は生きているのです、、、この夢は最後は真実に吸収されるのです。

真実は、、、、一つ

この世界に真実以外のものは存在せず、、、構成要素は真実の一点です、、、この真実が、、、あらゆる形に変化し、、あらゆる体験を引き起こしているだけです、、、ですからこの世界で救済されない人は誰も居ません、、、その人を構成する要素が、、、真実だからです、、、、我々が救済される唯一の方法は、、、そこに気づくことです、、、絶対的体感によってこれに気づくことです、、、

真実は完璧なプロセスで、、ここに至らせる

真実は、、、完璧なプロセスで、、、ここに人を至らせます、、、自我は完璧なタイミングで解体され、、大我にシフトします、、、大我という決まったものはないのですが、、つまり我々は我々という認識が突然シフトします、、、小我は大我に吸収されるのです、、、完璧なタイミングで、、、、我々ができる唯一のことはそれが起きるのを待つことだけです、、、、完璧に起きる自我の解体を待つということしかできません。

体はいつも全部を感じたい

自我システムの陰転

体は本当は野生動物のように、、、ノーストレスで過ごしたい、、、至福、静寂の中で過ごしたい、、、ですがこの自我OSシステムによって、、、体の安全確保が優先される、、、、結果、、、、思考に振り回され、感情に振り回されて、、、五感が閉じていく、、、、五感が閉じれば、、、、常に退屈、、、新鮮さが、、、この世界から消える、、、、新鮮さが抜け落ちた世界で、、、益々思考がフル回転し、、、刺激だけを体に与え続けるのです。

自我システムの功績

全部をありのままに感じたい、、、この衝動は全体から起こり続けます、、、、ですが、、、、自我OSシステムは、、そうはさせない、、、、、ところがこの自我OSシステムも、、、、全体から起きている、、、、ではこの目的はなんだ?????そうです、、、この世界(幻想)は全体から離れるという幻想が生み出しており、、、この幻想を生み出す大元は、、、、この体験を積みたくてこれを起こしているのです。自身が全体であるという認識が欲しくて、、、、分離体験が起こり続けているのです。

目的が分かったならば、、、、

そうです、、、悟ることが目的なのです、、、自分は全部だった、、、ただこれを経験したい、、、そのための分離体験、、、、ならば早くそこを体験しましょう、、、、、、目的はそれだけですから。。。。全体が、、、お金、名声、安定、称賛を欲しがるわけがない、、、なぜならば全部自分だから、、、、つまり、、、、、この衝動は、、、全体に戻るための、、、序章に過ぎない、、、、何を手に入れても満足できないという気づき、、からの全体への帰還、、、、、への衝動、欲求、、、、、、これだけが真の欲求です、、、、それ以外はそれに気づくための、、、、分離体験。

最初に理解がある

なぜ苦しいのか????

なぜ苦しいのか???先ずはこの疑問、思考から始まります、、、そしてそれを毎日思考するわけです、、、なぜ???なぜ?????なぜ????そしてその探求が始まります、、、、ですがこの探求は多くの場合は非常に困難な探求になるのです???なぜか????それはこの苦しいの理由がさっぱり分からないからです、、、、そして多くの場合、、、それは、、、、、ワンネスがワンネスであることを思い出すことである、、、という結論を知ります。。。ですが、、、、じゃあ、、、、どうすりゃいいんだ???です。答えが分かったとて、、、、するべきことが分からない、、、、、

思い出し方を教えろ!!!

それが分かったとて、、、、どうやって思い出せばいいのでしょうか??????瞑想、ヨガ、座禅、マントラ、お経、、、、今度はそれが分からない、、、、、迷路地獄、、、、これを知識で解決しようとすれば失敗します、、、、なぜならば、、、知識は、、、、退屈を埋めるために発生したため、、、、知識は本当の意味での解決を図る道具ではないからです。。。。。真実を発見するのは体であり、、、体に真実を発見させます、、、知識は、、、、退屈を解消するための道具です。理解が終わったら、、、体で再発見させます。

目の前にある

真実は実は目の前にあります、、、今も真実しかありません、、、、今も悟っていて、、、、真実をありのままに見ています、、、ですがその真実は、、、、虚しい、、退屈を表現した真実ゆえに、、、、ここから逃げたいのです、、、自我システムという真実の表現の中で我々は苦しんでいるのです。。。。体の中に自分が居るという、、、この観念が真我の中で起こり、、、苦しみが生じます、、、、この観念からくる苦しみが体を蝕み、、その蝕みが、、、退屈を生じます、、、、このサイクルを断ちます、、、蝕みを強引に解消します、、すると、、、本当の真実、、静寂である真実が顔を出します、、、頻繁に顔を出すようになります、、、、静寂の真実が手招きします、、、

もう少し

静寂の真実から手招きが起き始めたら、、簡単、、、、ただ体の蝕みを解消していきます、、、体の感覚から、、そして理解をさらに明晰に、、、そしてまた五感を研ぎ澄ます、、、そしてまた深い理解を、、、、この繰り返し、、、、何かを手に入れる、、安定した暮らし、、常識、、、、これらは正しい五感の開発、深い理解によって勝手に起こります、、、、追い求めるのではなく、、ただ普通に手に入ります。

自我OSを必要としない体

守るために、、

この体を守るために、、形成された自我OSですが、、、これに頼り切った状態は基本苦しい、、、、体を守ることはできますが、、、、虚しさ、退屈に、、、常に襲われます、、、、なぜか?????この世界の真実を知らないために、、、全くの勘違い生活をしているからです、、、、、この体があって、、その中に自分が居て、、、この世界を生き延びる、、、、というのは勘違いです、、、ですから目指す先にある幸福が、、、全く違う場所にあるのです、、、、

空を見る

空を見る、、この一瞬の体験を、、、、最高に感じるか、、退屈に感じるか、、、ここが全てです、、、幼少期は、、、、空を見るだけで楽しかった、、、、、ですが今は退屈、、、なぜ??????なぜか?????五感が閉じているからです、、、五感が閉じれば、、、、体験が薄くなるのです、、、、唯一の真実、、、体感に、、、、思考が混ざり込み、、、、ありのままの真実に触れられなくなっています。

思考が混ざる????

思考が混ざるとは???つまりこうです、、、、、、考えながら、、、、カレーを食べると、、、、味がしない、、、考えながら、、映画を見ても、、、集中できない、、、、、、全ての経験は無思考になることで、、、感動が生まれます、、、、この逆転現象が起きているのです。。。。五感が鈍ることで、、、思考が周り、、、思考が回ることで、、さらに五感が鈍る、、、、という負のスパイラルに入っているのです。

退屈な世界???

多くの方がニュースを観てホッとするのは、、、、苦しいのは私だけではない、、、と思えるからです、、、だからニュースには、、、、暗いニュースが多いのです、、、、、ホッとできるからです、、、、ですが本当は、、、五感が鈍り、、、、全ての現象を、、、暗く感じる、退屈に感じる、、、、体になっているのです、、、世界をそう感じ取るのではなく、、、その五感こそが世界を作り出すのです、、、この世界は完全な幻想であり、、、、本当は感じることはできないのです、、、

感じることができない????

そうです、、、本当はこの体も、、、この世界も幻想であり、、、、感じる、、、がおかしいのです、、、ですがこの幻想は、、、、感じるために作られた故、、、、、感じることができる、、、、、無限という存在が、、、無限ということを「感じる」ために作られた世界なのです、、、、退屈も至福も感じることができるのです。

退屈を散々味わったならば、、、、

退屈を散々味わったならば、、、、、もう味わう必要はない、、、、、そしてこの体を健康に健康に導くことことで、、、、五感を研ぎ澄ましていくことで、、、自我OSが、、、大我OSにアップグレードされます、、小周天OSが大周天OSにアップグレードされます。

五感全開、悟り全開

五感全閉、悟り全閉

五感が完全に閉じた時、、悟りが完全に閉じた状態です、、、、五感が完全に開いた時、悟りが開ききった状態です。。。。五感を閉じるには何をすればいいのでしょうか????ストレスを溜めまくり、、、不健康を極めれば、、五感は閉じていきます、、、睡眠不足が続きますと、、、五感が閉じ、、、幸福感は完全に無くなります。五感が開ききり、、全てを感じる時に、、、幸福が完全になります。

悟りとは体感だから

悟りとはこの現象の世界で完璧にこれを感じ切ることです、、、ありのままに完璧に感じ切ることです。突然の一瞥体験は、、多くの場合、、五感を開ききった状態で起きるのではなく、、、五感が閉じ切っていき、、、自我OSシステムが機能せず、、、自動削除されたものでしょう、、、本来はこの体を健やかに維持するための自我OSが陰転した状態にそこに至ったと考えます。

体を開き切る

体の全てを開き切っていきます、、そのためにヨガや太極拳、マッサージ、アーユルベーダ、整体などがあります、、、どのやり方が合っているかは個別に異なりますから、、、それはひとそれぞれ、、、体の感覚を開き切った時に、、、悟りが全開になります、、、、全経験が、、ありのままに鮮明に感じられます、、、幼稚園児のような体感が起きれば、、、それは悟りです。