脳が無限の表現を可能にした

脳はなぜあらゆることを想像できるのか????

脳はなぜファンタジーを想像できるのか????100年後の地球、宇宙人の生態、スターウォーズのような映画、、、人間の想像力は無限です、本当に無限のように湧いています。なぜでしょうか???何がそれを可能にするのでしょうか????それはこの世界は無限の鏡、あるがままの鏡だからです。「無限」MAKEユニバースです。もしくは無限ISユニバースです。ですからこの宇宙ではどのようなファンタジーも脳内で表現できるのです。

いや所詮は脳内ですよね????

脳内の話であって実際には起きえないじゃないですか、、脳内のビジョンであって現実ではないですよね????では脳内に現実では起きえないようなビジョンがなぜ人間の脳には湧くのでしょうか???見たことがないような世界をなぜイメージできるのか???人間の脳は。それだけでも凄いのです。そしてもっともっと言えば脳は幻想であって実在しません、、本当はただビジョンだけが起きたのです。

本当は脳はなく、、ただビジョンだけが起きた

脳は実在しません、幻想、3D映像です。つまりビジョンはただ起きたのです、、、凄いことです、、ただビジョンが湧き起きたのです。では今見ている景色と想像のビジョンは何がいったい違うのか????実は何も違いはないのです、、現実と呼ばれる世界のビジョンも、、空想のビジョンも見るという経験でしかないのです、同じ経験です。現実のビジョンは触ることができる、、、、そうです、、触るという経験が起きます、それだけ。

ところが

本当の本当のことを言えば、、我々は空想のビジョンの中で、、、ラーメンの香りを嗅ぐという経験、味わうという経験、、コシを楽しむという経験、、、器を持ち上げるという経験をどこまでも緻密にできます。つまり現実と呼ばれる世界で起きることと、、想像のビジョンで起きることは同じなのです。

無限の経験を積む場所

この現実世界も空想の世界も経験というものを積むことができる無限の場所なのです。無限の経験を積める無限の楽園です。私という思考をぶち上げ、、その私がいる人生というストーリー、ファンタジーをぶち上げ、、その人生を楽しむというファンタジーをぶち上げています、、、まさに無限のための無限による無限の表現(経験)です。我々の本質は無限(あるがまま)なのです。

小学校卒業時のクラスメイト

あの時のみんなは今

それぞれの人生があってそれぞれの道を歩む、、もう二度と会わない人もいるでしょう、、、卒業式の先生の言葉、、、実際に今みんなは何をやっているのだろう????ふと思う瞬間があります。みんな子供が居て忙しくやっていたりもしくは専業主婦になってのんびりやっているんだろうな、、、です。ところがこれは概念、思考、想像です、真実は全く違います。真実は誰も存在しない、です。

今この瞬間に存在しない人は宇宙に存在しない

今ここに当時のクラスメイトは居ませんよね、、その場合、、、そのクラスメイトは宇宙に今存在しません、当時の先生も、クラスメイト全員が宇宙に存在しません。今宇宙に存在するのは今見えている人だけです。嘘だろ????なわけない、、地球だけで80億人が居るんだけど、、、居ません、、、居ないんです。いまここにないエネルギーはないんです、いまここにたった一つのエネルギーがあるのです。たった一つです、もしも見えない場所にクラスメイトが居たら、、いまここのエネルギーはたった一つではなくなってしまうのです。

もっと深い話

今目の前の友人と話をしています、、、、友人が考え込んでいます、、、何を考えているの????大谷翔平の移籍先についてずっと考えていたんだよ、と答えるとしましょう、、、、本当でしょうか???これは真実ではありません。友人がもしももしも大谷翔平について考えていたのならば、、その思考に気づくはずです、、誰が?気づきの意識です、、気づきの意識が気づかない現象(思考)は存在しないのです。つまり友人にはそのような思考は湧いていないのです。

気づきの意識が気づかない現象はない

「明日吉牛食べよう!」こんな思考が湧いたとしましょう、、、なぜこの思考は認識されたんでしょうか????それは脳がそのなっているからだ!となります、、、違うんです、、気づきの意識がそれに気付いたのです。脳というのは幻想としてはありますが、、実在はしていないんです。気づきの意識がその思考に気付いたからその思考が認識されたのです、、「私」ではありませんよ、気づきの意識です。

自我の動きに気づくのも気づきの意識

どうしたら自我を消滅させれるか

悟り系を学ぶ方々は自我という存在を強く強く意識します、自我さえ消滅できれば、、、ですがこの自我ですが、、今この動きがあるのは気づきの意識がそれに気づいているからです。自我という動きは気づきの意識がそれに気づかなければ全く存在できないのです。全てはこの体の中にいる「自分」という存在が動かしている、、この思考に気づくのが気づきの意識です。

構造を理解する

脳が全現象を知覚しているという事実とは異なる概念を信じたことからこのマリオゲームはマリオが全部やっているという大勘違いが生まれていきます。実際は全て気づきの意識が知覚していてその知覚をゲーム上マリオの脳がやっているという、、、思考が生まれ、、その思考を気づきの意識が気づきます。五感と思考が組み合わさり、、この体の中に自分がいるぞ、、という概念が生まれそれに気づきの意識が気づくことで自我は完成します。コミュニケーションとは相互に自我を肯定しあう行為ですから益々自我は強固になっていくのです。

構造が理解できれば

構造が理解できますと、、、それをやったのは「自分」だという思考が湧いてきても、、いやそうじゃない、、が湧いてきます、、脳という機能を信じると、、脳の中に自分という存在が居るように感じてしまうのですがその嘘のメカニズムを打破できます。現象の変化は変化と同時に気づきの意識が気づいている、、この事実が完全なパラダイムシフトを起こします。主人公が自我から気づきの意識に変わるのです。

ゲーム上は脳が五感を作っているが実際は気づきの意識が気づいている

マリオの脳には五感を作り出す力はない

スーパーマリオが進化して五感の全てを再現したとしてもマリオがその五感を感じているのではありません。感じているのはプレイしている人間ですよね。これは全く人間ゲームも同じで人間の五感はゲーム上脳が作り出していることになっていますが実際には気づきの意識がその場で気づいています。味覚もゲーム上は舌にある組織から脳に繋がってとなっていますが、、、実際には気づきの意識です。

思考に気づくのも気づきの意識

ゲーム上は思考もマリオの脳内で作り出し脳内で感知しているとなっていますが実際には気づきの意識が湧き上がる思考に気づいているだけです。ゲーム上はマリオが思考を作り出したという思考が湧き出しそれを気づきの意識が気づくのです。ゲーム上はマリオの脳が全思考、全行動を作り出したことになっていますが実際には湧き出した思考、行動を気づきの意識が気づきます。この気づきを「私がやった」という感覚が湧きますがそれを気づきの意識が気づきます。

脳が実在しているを証明するのは無理

ゲーム上は全部脳が感知していることになっていますが、、これは全部幻想です。その証拠に脳が実在していると証明するためには視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚が必要になります、ですがこれは脳がやっていることになっています。ですがその脳が本当に実在していることを証明するにはまた視覚、聴覚、味覚、嗅覚が必要になります。五感を使っている人間が脳の存在を証明するのは不可能なのです。

全てを気づきの意識が気づいている

全てを気づきの意識が気づいているとなると時間の存在が必要なくなります。音が鳴ればそのばで音に気づき、風が吹けばその場で風を感じる、何かを食べればその場で味を感じ、思考が湧けばその場で思考を感じる、、全ての現象は湧き出た瞬間に気づきの意識に気づかれています。それをマリオが作り出した、マリオが感じたんだ、、、という感覚が湧き出した時にその場でそれも気づきの意識が気づきます。つまりタイムラグがないのです。原因と結果の法則が成立しなくなってきました。

スーパマリオには時間はあるのか???

スーパーマリオとうゲーム本体には時間という存在をしっかりと埋め込まれてしるのでしょうか???答えはNOです。TIMEという表示が変化するように設定されているだけです。マリオは動くのではなく、、その瞬間瞬間に移り変わる点灯によって動いているように見えているだけ。その点灯の動きに気づく存在がいて初めて時間があるという思考が湧く、、その思考を気づきの意識が気づきます。

森羅万象の動きも同じ

この人間社会、森羅万象も全く同じです、、現象の動きの全てに気づく存在、気づきの意識がいるので、、その変化に常に気づきます、、、気づいた変化をつなぎ合わせた時に時間があるという思考、概念が湧き出し、、それを気づきの意識が気づくのです。猫という現象、、これが変化していく、、その動きの全てに気づくから、、猫が動いている、、という思考が湧き、、その思考に気づきの意識が気づく。。。です。時間も空間も全現象に気づく気づきの意識があるからこそ、、そのような概念が湧き出しそれに気づく気づきの意識があってなりたつのです。

レアアイテム

なぜ人はレアアイテムを収集するのか??

車の収集家、カードの収集家、シューズの収集家、バッグの収集家、世界には様々なアイテム収集家がいます。彼らはレアと呼ばれる希少価値が高いものに目がなく、、世界に一台のポルシェ、世界に一枚のカード、世界に一枚のシューズと目を輝かせて集めていきます。一つ面白い点は、、、彼らは世界に一台のポルシェを集めたその3ヶ月後には再び収集の旅に出るということです。満足は一時的で次の何かを追い求め続けるのです。なぜ満足できないのでしょうか???それはそのアイテムに価値が実はないことを本質では分かっているからです。

分離独立した価値あるものなど存在しえない

あるがままは無分別、無分離、全てが一つですから、、その世界の中に独立分離した価値ある存在など存在しえないのです。人間の脳が作り出した価値でありそれは実は幻想です、誤解です。ですからどれほど惚れ惚れするようなレアアイテム、レアシューズ、レアバッグを手に入れてもまた欲しくなるのです。要は満たされていないわけです。そして満たされたはずの個人も実は存在していないので満たしようがないわけです。

おかしい

アイテムの収集家はどこかでそれに気づく日が訪れます、、なぜいつまでも満たされないのか???満たされないということはこの方法では一生満足できないのではないか???と。世界中のレアアイテムを収集し切るまで満足はこないぞと、、、人間の満足とは、、フェイクなのではないか、、実は本質レベルでは全く満足できていないのではないか、、、そうです、、、その通りです。独立分離した個人が居るという大誤解の元に自由意志でレアアイテムを収集し尽くしても満足は起きないのです。その個人がフェイクですから。

何をしていいか分からない

個人の欲望を満たすことしかしたことがない人類にとってそれがフェイクだと教えられたところで一体これから何をしていいか分かりません。個人の欲望を満たしても満たせないことが分かったところでではどうすればいいのか?嘘を見破るのです、個人という嘘を見破るのです、何かを手に入れることでは幸福になれないことが分かったら、、その嘘の本質を見破ることです。そしてその過程においても自由意志は存在しないことを悟ります。もうこれからは自由意志をどう使うかという悩みから解放されます。完全自動、完全受容で本質に気づくのを待つのです。

朝目覚めた時の気持ちが悪い感覚

起きた瞬間にPCが起動する

あるまがままの世界はあるがままであって、、実は何も存在しません、、、ですが人間は朝起きた瞬間にコンピューターが起動しこのあるがままの世界に独自の世界(言葉)を作り出すのです。その中心には自分が存在し自分以外の世界を生きるのです。これが二元の世界、主体客体の世界です。あるがままは非二元でありあるがままでは自分も存在できません。ですから非二元の世界を発見した自分は存在しないのです。非二元の世界に自分が突如作り出されその瞬間にあるがままも消え去るのです。

「私」の幸福を目指す

朝起きた瞬間にPC(脳)が起動し自分という存在が後天的に作り出されます、そしてこの後天的に作り出された自分が幸福を目指し不幸を避けるというゲームが起こるのです。ですがこの世界(あるがままではない)の中には個人が幸福になれる状況は存在しえないので永遠に彷徨うことになります。なぜならば個人という存在を認めた状態ではあるがまま(絶対至福)には帰れないからです。そしてその道中は自由意志があると思い込んでいるだけ実際には自由意志は存在しないので完全自動システムです。

「自分」が自由意志で幸福を探している気持ちにさせられている

多くの方は自由意志で各個に人間は幸福を探していると思い込んでいますが、、実際には自由意志は存在していないので「自分」という存在が登場し、完全自動でゲームクリアまで様々な経験を積んでいくだけです。受験勉強を頑張ってみよう、就活を頑張ってみよう、会社生活を頑張ってみよう、婚活を頑張ってみようと、、思い込まされ経験だけが積まれていきます。

どんなに不幸そうに見える人が居ても同情は無用

公園でホームレスの方々を見つければ同情が湧いてくるかもしれませんが、、、その流れにおいて本人の自由意志は一切ないのです。完全受動、完全自動でそういう流れになっただけです、この流れから逸脱するチャンスは一切無かったのです。何かの勘違いで、何かの判断ミスで、、ではないのです。だから同情はいらない、、、逆に言えば大成功者に対しても羨望はいらない、、、彼らは自分の意志などではなく勝手にそのような存在にさせられたのです。

スイッチ

スイッチを押したのは誰だ?

前回の「スタバに行こう!」の続きの話、この思考感情をスイッチを使って説明しましょう。このスタバに行こうという思考感情を生み出したのが「自分」ならば自分がそのようなスイッチを脳内で選んで押したとしましょう。自分がその脳内スイッチを押したのだと。ではその「スイッチを押す」という動きを作り出した動きが必要になります。突発的にそのスイッチが自然現象として押されてしまったのでは「自分」の存在は無くなってしまいます。ですからその「スイッチ1を押す」ためのスイッチ2を押したのも「自分」のはずです。

スイッチ2を押すためには

スイッチ2を押すためにはスイッチ3が必要になり、そのスイッチ3を押すにはスイッチ4が必要になるのです。こうして我々は遡ってエンドレスにスイッチを押し続けなくてはなくなりその起源はビッグバンに行き着くのです。つまりこの体の中に居ることになっている「自分」は「スタバに行こう」に介入できないのです。こうして自分が「スタバに行こう」と思いついた、、という理論はやはり破綻します。この物理次元では何かを宇宙空間に湧き出させのは「自分」ではできませんから自由意志を所有する「自分」という存在は理論破綻するのです。

自分が居ない

自由意志を所有する自分が居ないのならば、、今までのコミュニケーションは破綻します。自分がやりました、あなたがやりました、友人がやりました、、全部嘘です、、、その体、あの体、あの人の体を通じてその行為、その思考、その感情が湧いただけ、、、全自動システムで起こり続けているのです。これが事実です。これが真実です。世界は完全自動システムで運営されていてそれはこの人間も例外ではないのです。

ニュースを見れば、、

不倫をあの人がやった、万引きをあの芸能人が、不正受理をあの政治家が、、、全部自然現象、全自動システムで起こっています、、、その行動、感情、思考がただその体を通じて起こっただけ、、、これが事実です。ではそうなった時我々は今後どうやって生きていったらいいのか???簡単です、、これからも全自動システムで起こり続けることを認めるだけです、、、これまでもそうだったのですからこれからもそうだということです。それを認めた時にこの世界は軽くなります。

背骨を通す

基本

ヨガ、アーユルヴェーダ、気功、、、、などの基本は最終的に背骨を通します、、、、背骨の浄化、背骨の解体、、、どうやらこの背骨が覚醒しているか否かが、、、重要になる、、、、背骨の覚醒が、、、そのまま悟り、、、感受性の局地、、、あるがままをあるがままに感じる体にする、、、、

下半身という土台

下半身は、、、、しっかりと強靭に、、、、かつ柔軟性高く、、、、これによって、、、背骨をしっかりと支え、、背骨が安定する、、、、そして脳からの指令が、、、的確に届いていく、、、、五感が解放されていく、、、五感が開いていく、、、、五感がこの世界をありのままに捉えていく、、、、

この幻想の世界で、、、

この幻想の世界で、、、、五感を開くとは、、、、幻想の世界に生き生きとした体験を生み出すということ、、、虚という実在しない世界に、、、、実という生命を生み出します、、、それが五感の役割です、、、、何もいらない、、、ただここに居るだけで、、、生命が湧き出し、、、生命と共に在る状態に至ります、、、、何かを手に入れたからではなく、、、、その何かと共に居るだけで充実、、、ここに至ります。

脳が作り出したトリック

最初に実在なし

なぜ人類はこんな簡単に脳に騙されてしまっているのか???最初に「私」という実在があって、、そこに「私」「我」「俺」「I」「自分」という名称を付けたのではない、、、、最初は何もなかった、、、そこに言葉を覚え、、、そういうイメージが存在するかのように、、、動いていただけ、、つまり元々は、、無かった、、、その動きに対し、、、「私」「我」「俺」「自分」を当て込んだ、、、、いつの間にか、、「私」「我」「俺」「自分」が存在しているという前提の行動が生まれ始めた、、、

「私」が実在している前提の思考、感情が生まれた

いつの間にか、、「私」「我」「自分」が実在している前提の思考、感情、行動が生まれ始めました、、この「私」が有利になるような思考、感情、行動が生まれる、、、、脳はこの体を安全に維持運行するために、、私を発明し、、、この体の責任者に仕立て上げたのです、、、、脳は「私」という概念を生み出し、、、この「私」がさも居るようにしむけ、、、この体、私の二つを維持するように仕向けたのです、、進化のプロセスでただそれが起きました。。。

食べれるならば、、「私」は要らない

体を維持管理するために発明された「私」という概念、アイデア、思考は、、、食べていけるならば、、もう必要がない、、、むしろ、、、この「私」ありきの思考、感情、行動は、、、うざい、、、不必要、、、となります。。。実際に、、食べていけているにも関わらず。。。「私」がもっと評価を受けるために、、高級車を求め、高級マンションを求め、高級時計を求め、高級異性を求める、、、、そのためにあらゆる犠牲を払ってでも。。。。時間の無駄、、、、

「私」を卒業し、、、神として生きる

私とはこの体を安全に維持運営するための机上のシステム、アイデア、概念ですから、、もしもそれが達成し、、さらに俯瞰できるならば、、、もう必要がなくなります、、、そして脳はそれを受け入れます、、なぜならば脳はこの体を維持運行できればそれでいい、、、もっと安全な方法があるならばそれを受け入れます。「私」の卒業です、、、万物は全てたった一つのエネルギーの移り変わり、諸行無常、森羅万象であり、、その中の活動の一部に「私」というラベルを貼りました、、、その「私」というラベルは森羅万象の動きに合わせて動くので、、、今度は[「私」が居るという思考]が起き、、、その前提の思考、感情、行動が起きるようになったのです、、「私」というラベルを剥がしてしまっても森羅万象は動き続けますから、、、元「私」は動き続けます、、、ただし「私」ありきの思考、感情、行動は徐々に減っていきます、、、

神羅万象の動きに大脳がドラマを付けた

神羅万象はただ動く

神羅万象はただ動きます、、これだけです、、、宇宙生命体は全てこの神羅万象の動きの中に在ります、、、、ではその中で人間はどのような動きをするのでしょうか????人間も例外ではなく完璧に神羅万象の動きのなかにあります、、、、コーヒーを飲むという動き、思考活動の全て、、、全部です、、、神羅万象の動きそのものです。え????コーヒーを飲もうは、、、自分で考えていますけど????そうです、、その考えも神羅万象の動きです。

神羅万象の動き以外の動きがあったらもうそれは神羅万象ではない

神羅万象が神羅万象であるのは、、、宇宙空間の全動きを支配しているからです、、、神羅万象が支配できていない活動があるならば神羅万象は神羅万象では無くなってしまいます、、、つまり我々人間の活動全て、脳の活動全て、、、は神羅万象の動きそのものなのです。。。つまり神羅万象の動きとは全く関係なく、、人間が個別自由に活動するなどありえないのです。

脳の動きも神羅万象

神羅万象の動きに脳が名前を付けてあたかも独立した者同士、物同士が関わり合っているように見せています、、本当は神羅万象の動きだけがあります、、、そこに脳の機能でそのようなドラマを誕生させてみせたのです。この活動も当たり前に神羅万象の活動です。そしてこの活動の最中は苦しいが湧きます、これも神羅万象の活動です。。。。そしてあまりに苦しい時に、、この活動を見抜いて、、苦しいを終わらせるという活動も起こります、、これを悟り、覚醒、、ノンデュアリティと呼びます。