全現象に非関与な「私」

美味しい料理を食べる

美味しい料理を食べる際にこれを美味しいと感じているのは真我です、、、感じることができるのはこの世界で真我しかいません、、ですから美味しいを感じ続けている時、、真我が感じています。。。今までは美味しいと感じているのは自我だと思っていました、、ですが実際には全ての五感は真我が感じています、、真我、神が感じることができない五感があるのならば、、それは神ではない、、ということです。

神が感じた五感を「私」が感じたと勘違いの思考が起こる

神が感じる美味しい、不味い、良い香りがする、お腹が空いた、、、を個人が感じた、、、という思考が起きます、、この思考に気づくのも神です、、これによって同時に苦しいが湧き、、これを神が気づきます、、、神が全五感を感じ、、全五感の経験を個人がしたという思考が湧き、、それを神が感じる、、このサイクルをエンドレスに継続していきます。そしてそろそろ気づいて欲しいのがこの体の中の私は何も関与できていないということです。

現象を起こすのも神、感じるのも神

全ての現象を起こすことができるのは神だけです、、そしてその現象に気づくことができるのも神だけです、、、そうです、、この世界には神しか存在していない、、この世界に神とは関係のない私など存在するわけがないのです。私が居るというこの思考は神が作った思考であり、この思考に気づくのも神です。この世界に独立分離した「私」など存在できるわけがないのです。この世界には神が起こした現象と、それに気づく神しか居ません。

五感で感じていたのは、、この私ではなく、本当の私だった

「今日は良い日だな」は誰が感じてる?

今日はいい日だなー、、、この感情を感じてるのは誰でしょうか???この体の中に居る自分ですよ、、確実に今感じましたから、、、、違います、、、本当の自分が今感じたんです、、本当の自分ではなく、、間違いなく私が感じましたけど、、、違います、、その私が本当の自分なんです。????そうです、、あなたこそが本当の自分、この夢の創始者、この夢の観察者です。いや、、私はこの体の中の住人に過ぎない、、その証拠にこの体の中の感覚しか持っていない、、あの人の感覚も、、あそこの人の感覚も持ち合わせない、、

この夢は、、この体が主人公の夢

そうです、、、この夢はこの体が主人公になっている夢なのです、、ですからこの体が感じることだけを感じる、、この体が向かう場所だけが出現される、、この体が味わう物だけを味わえる、、そしてその全てを回収し、起こす存在がこの私です、、、私が経験していない経験はない、、、ですからこの体が感じる全てはこの夢の観察者である私が感じているのです、、体の中に居ると思っていた「私」は実はこの夢の創造主、観察者です。

その証拠に

その証拠にこの体の中を何十兆円とお金をかけて調査しても、、この私は出てこないですよ、、居ないんですから、、、じゃあどこにいるのか???夢全体こそが私です、、、鳥の声が起これば、、夢全体としてそれに気づき、、友人が現れれば、、夢全体としてその存在に気づきます、、、この体の中から思考が湧けば当然気づく、、、友人に会えて最高、、、に気づく、、今日は会いたくなかったなー、、、に気づく、、ということです。

それが分かって何か意味があるのか???

その質問が出ている時点で分かっていません、、、これまで現実だと思っていたのが夢で、、しかもこの体の中には居ると思っていた自分が、、夢を見ている当事者だった、、、この気づきは驚くほどの感情を変えます、思考を変えます、、行動を変えます、、、なぜならばもうこの体に執着ができない、、この体に執着できなければ、、もうこれは遊びになってしまう、、今まで真剣に深刻に生きてきたのが、、、お気楽な遊びになってしまう、、、ということです。

夢の中の「私」は何も聞いていないし見ていない

夢の外の「私」が聞いている

夢の中に出てくる「私」は何も聞いていないし見てもいません、、見て聞いているのは夢を見ている「私」です。この現実もこれは全く同じで、、この現実上のこの体の中の「私」は実は、、何も見て聞いていません。。。見ているのはこの現実という夢を見ている「私」です。現実と呼ばれる夢の中で「私」は間違いなく見て聞いているように「見えます」が実際はそれはストーリーの中でのこと、、、本当に見ているのはこの夢(現実)を見ている「私」です。

夢の中の「私」は何も味わっていない

夜見る夢の中の「私」は何も味わっていないし香りを嗅いでもいない、、味わい香るのは、、、夢を見ている存在の「私」です。。この現実(夢)も全く同じで、、この体の中の私は何も味わい香りを嗅いでもなく、、全部この夢(現実)を見ている存在(私)が感じてます。これは経験をどちらが所有しているかのことです、、夜の夢もこの現実(夢)も、、、間違いなく、、、感じるのは、、、夢を見ている存在(私)であって、、登場人物としての私は感じていません、、実際には。。。ストーリー上全て登場人物の私が感じているようになっているだけです。

これが夢だと思って観察してみる

これが夢だと思って生活すれば全部が全部分かってしまいます、、、、鳥の声がする、、、この声を聞いたのは夢を見ている「私」です、、、友人から話しかけられた、、、その声を聞いたのは夢を見ている「私」です。今度はこの体の「私」が話しかけた、、、相手のリアクションを感じたのは夢を見ている「私」です。太陽の光が眩しい、、そう感じたのは夢を見ている「私」です。どこまでいっても夢を見ている「私」以外が何かを感じることは絶対にありません。

でもこの現実上の体の中の「私」は、、、

でもこの現実(夢)の中の「私」は思考するし、行動もする、、、この体の中の「私」は誰なんだ???違います、、この体の中の「私」は何も思考しないし、行動を決めていない、、、思考を感じているのはこの現実(夢)を見ている「私」で、、その後にこの体に行動が起きた場合にそれを現実(夢)を見ている私が感じています。この現実(夢)で思考に気づいたのは現実(夢)を見ているこの「私」です。この現実(夢)の中でこの体の中の「私」など一切登場しません。全部が全部感じているのはこの現実(夢)を見ている「私」です。

それでも私はやっている

必ずそこに帰る

なるほど、全部真我がやっているんですね、、、そこに自我が出る幕もなければ、、自我がやっているという思考が真我から出ていただけ、、、なるほど!!!ですが、、、一歩外に出ればそれを忘れる、、、個人がグワっと出てきて個人が全部をやっているという錯覚の世界に戻る、、、なぜならば道ゆく人々全員がそう思考して生きているから、、引っ張られる、、、誰も個人を含めた全活動を真我がやっているととは思っていない、、その気づきが起きていない、、、

だから山に篭った

昔は悟りを開く際には山に篭った、、これは理解できる、、、どうしても周囲の感覚とのズレがでる、、周囲は個人活動をしている〇〇さんとして扱ってくる、、これに騙される、、誰が????騙されるという動きが真我から生まれる、、、どこまでいっても圧倒的に個人が自由意思で自由活動をしていると周囲は思っている、、この中で真我の全活動スペースであるという腹落ちが起きない、、、これは本当に意識の完全なるシフト、、

悟りに集中する

悟りに集中した方が良い、、、というよりも事実として悟りの集中しないと、、、悟りが起きない、、起きにくい、、意識のシフトを日々忙しくしながら起こすのは難しい、、これは事実、、血反吐吐く覚悟でこれを行わないとなかなか難しい、、これが事実、、個人の活動に完全に興味を無くし、、、全活動が真我の活動であるという認識シフト、、、それでも勿論この体の活動は続く、、

私とは何か?

たったこれだけ

真実の探究はこの質問で終わります、「私とは何か」です、、私とはこの体のこと、、、これが多くの人の答えでしょう、、この体の中の思考、感情、そして体自体が自分自身であるという限定的な自分、、、ですがこれを自分とすると苦しみが始まります、、なぜならばこれは間違いだからです、、、間違っているから苦しいのです、ただそれだけ、、、本当の自分とはこの世界全て、経験全て、思考全て、感情全てです、、この現象、概念、経験を成り立たせる存在そのものです。

確かに、、

言われてみれば、、、この体、思考、感情を私と思ってきたけど、、、それは思ってきたんです、、思ってきたというのも全存在の活動の一つなんです、、ですがそれは真実ではない、、、だから苦しいのです、、、この体が織りなす経験を自分体験と思ってきたのです、、これは概念、思考、観念です、、だから苦しいのです。。この観念が真実ではないから苦しいのです。事実、真実は見える世界の全て、この体の全て、、全経験、全記憶をそうさせているパワーこそが私です。

こんな小さな私ではなかった、、

こんな小さな私が私ではなかったという突然の気づきは誰がするのか???それが先ほどの全存在です、、全存在が違う、この私はこの体のことではない、、という気づきを起こすのです、、、この私物語は物語であって真実ではない、、この私物語を物語になしうる存在こそが私です、、、全く違うスケールの私がそこに最初から居たのです。

私の居場所

私はどこに居る?

私の居場所はどこでしょうか?この体の中???違います、、、この体の中に自分は居ません、、では一体どこに居るのでしょうか???今ここに居ます、全体としてここに居ます、、、変化が起こるこの場所そのものが私です、、、そして変化が起こることに気づくためには変化がない場所でもある必要がある、、絶対的存在そのものでもあります。

変化すらしない場所

変化する存在が居て、それに気づく存在「アイアム」がいます、、変化はアイアムの中で繰り広げられるわけですがこのアイアムを生み出す場所こそが絶対の場所、空です。空の場所から色(森羅万象)が生まれ、、、それに気づく存在(アイアム)が生まれます、、

アイアムも空の投影

アイアム、、私が居るという絶対的感覚、、、この感覚は空の投影です、、何もない場所から鏡のようにこの存在が現れました、、、しかしこの存在には実態がなく、、、変化に気づくことで、、、気づきの意識としてそこに居ることを実感します。そしてアイアムが居ることでこれを生み出す場、空が再発見されるわけです。

苦しいに「私」をくっつける

苦しいがただ起きる

痛いがただ起きます、、そこに「私」が痛いのだ、、、という思考が湧きます、、、こうやって人間ドラマが続きます、、、、暑いが起きます、、、そこに「自分」が暑いのだという思考感覚が湧きます、、、これでドラマが進んでいきます、、、、夜寝ている時の悪夢を思い出してみてください、、、ストレスフルな日常の時には悪夢をみやすい、、、そうすると、、その登場人物が辛いというドラマが展開しやすいのです、、、つまり湧いてくる感情に、、「私」をくっつけているだけなのです。

苦しいを苦しいで終わらせる

苦しいが湧いてきても、、、、なぜ私が苦しのだ???私を苦しみているのは誰だ???に持ち込まない、、これをやると、、、あいつのせいだ、、、こいつのせいだ、、、どうやって仕返しをしようか???になっていきます、、、、そうではなく、、、ただ「苦しい」が全体から湧いてるなーと観察します、、、、するとこの苦しいは消えていきます、、、そこに主体客体のドラマをくっつけないのです。主語としての「わたし」をくっつけないのです。

「私」が苦しいとは何事だ????

なんかモヤモヤする、、、、「私」をモヤモヤさせたのは誰だ????あいつだ、、、、どうしたらいいもんか???こうやって人間ドラマは喜怒哀楽劇場化していきます、、、、、モヤモヤする、、、、が全体から湧いてきたことを、、、に気づきます、、、そのモヤモヤは神羅万象のただの動きです、、、ここを理解します、、、「私」を無視します、、、、すると私が居なくなります。。。

被害者に甘んじるのではない

自分という機能として、、、、自分の目的を邪魔する存在を避けるのは何も問題ありません、、、、仕事の邪魔をする業者がいれば、、、避ける、攻撃する、、は当然やるべきです、、、、、重要なことはそこに感情をくっつけない、、、感情+自分という自分劇場に持ち込まないことです、、、機能としての「私」「自分」は淡々と機能を遂行していきます。そしてその動きも神羅万象の動きです。

私は在る、、以外は全部観念

この意識以外は観念

気づきの存在、私は在る、、、というこの感覚以外は全部観念です、、、あらゆる思考は全て観念です。この体の中に自分が居るという大前提での思考は全て観念です、、、この神羅万象は私は在るの中で繰り広げられ、、人間ドラマを作り出しました、、、、そのドラマに気づき続ける存在が私は在るという気づきの意識です、、、本来はたった一つのエネルギーが神羅万象として動き続けるだけです。

人間たるもの、、、

人間たるもの、、、法律はしっかりと守った方が良いよね、、お金のことはしっかりした方が良いよね、異性問題はトラブルよね、、、全部観念です、、神羅万象の動きの一つです、、、そこに良否、善悪、優劣は一切ありません。人間という個別分離した存在はそもそも居ません。ですから人間が居るという大前提の思考は全て観念です、真実ではありません。ただしその観念も神羅万象の一つです。

観念に良否はない

神羅万象の動きである観念に良否などは全くなく、、、ただ動きとしてあります、、、そしてそれらの全てじが観念であることを見抜き、、自己の不在を見抜き、、自分は誰かに迫っていきます、、、この人間ドラマの夢から醒め、、私は在る、、、に戻る、、、これだけが真の目的です、、、、ですがその動きがいつ起きるか???それすらも神羅万象の動き次第、、そこに関われる自己はいません。

思考がこの「私」を時間の中に閉じ込める

思考が悪いのではない

今日はこれやって、あれやって、明日はこれやってあれやって、、、昨日はこんなことしなければ良かった、一昨時はあんなこと言わなきゃ良かった、、、ストーリー上の私は毎日こうやって思考します。思考の特徴は将来のために、、もしくは過去を振り返って、、、を繰り返すのですが、、、、このことがストーリー上の「私」を絶対的なものにするのです。「私」ありきというのが思考の特徴なのです。だから思考を自分のものだという勘違いが続くと苦しくなっていくわけです。

思考はただ湧く

思考はただ全体から湧き上がります、、、明日雨だから傘持たなきゃ、、、が湧きます、、、その後にいや持たないで行ってもしも降ったら買えばいいか、、、湧くのです。その時にこれって全体からただ湧いてるんだなー、、、という気づきの意識の感覚、事実をただ眺める感覚を持つと、、自分劇場に入り込まなくて済むのです。

そして行動も湧く

どれほど思考しようとそれとは全く関係なく行動が起きることがあります、、これが事実です。行動も思考とは全く関係なく起こっています、全体から。ですからこの私がこの行動に対し出る幕はないのです。将来は絶対に軽井沢に住むぞ、、と決めていても、、いきなりアメリカに住むが起こるかもしれません。そうです、事実はこうなっているのです。

ゲーム上この「私」は悟っていい

悟りなんて滅相な、、

私如きが悟りなんて、、、私が悟りなんてとんでもない、、、私が悟りなんて時期尚早です、、、この一見謙虚そうな発言こそが悟りの罠です。自我の罠とも言えます。謙虚というのは、、この私は、、大そうな者ではありません、、、という意味ですが、、、「私」が居ると言っているだけこれは事実ではありませんから傲慢な考え方なのです。「私」など本当は居ないのですからにも関わらず「居る」と言っているだけで傲慢なのです、虚勢です、虚偽です。

私は大そうなもの

本当の私はこの全体、空、色、、、全部ですから、、、大そうなものなのです。大そうなものが見かけ上の「私」になりすまし生きています、謙虚に。滅茶苦茶ですね、、、大そうなものが、、、この見かけ上の体の中に「私」が居るという思考を起こし私ゲームをやっているのです。だからこの見かけ上の私は悟っていいのです。最初から大そうなものだからです、そして今もその大そうなものです、、最初から大そうなものだったのです。

偽りの謙虚を辞める

そもそも見かけ上の「私」は大そうなものですから、、、この「私」ゲームで謙虚に振る舞う必要はないのです。勿論このゲーム上横柄に振る舞えば様々な弊害が起きるでしょう、ゲーム上。だからといって本気で謙虚になる必要はない、、本当は大そうなものであるという自覚をしっかりともって謙虚風に生きればいいのです。「私」の謙虚はこのゲームでは偽りで十分です。なぜならば私は本当は大そうなものだからです。