真実

人に期待をして不幸になる

その人の反応は全自動

親は子供に期待をして全財産、全労力を子供に費やしたりします、ところが実際には子供はその労力の全てを裏切るような行動に出たりするわけです。そして親は子供を嘆く、なんて気持ちのわからない馬鹿息子なんだ、馬鹿娘なんだ、薄情な子だ、、、と。ですが実際にはその馬鹿息子、馬鹿娘には一切の自由意志が許されていませんから子供がどのような行動を取るかは全くの未知なのです。その事実、真実を知らないからこそ、、全てを誰かに期待する人生を人は歩むのです。

信用していた人に裏切られる

手塩にかけて育て上げた社員が会社を裏切って独立してしまった、よく聞く話です。ですがここでも大きなポイントを忘れています。手塩にかけた社員には自由意志がないのです、ですからその社員は好きで独立したのではなく勝手に独立に至ったのです。そんなことはない、結果的には最初から独立するつもりだったらしい、、、たとえそうであったとしても、、その思い、思考、思惑すらも勝手に湧き上がったのです。その社員の意図とは関係なく。

人間の争いの全て

人間の争いの多くは裏切り、妬み、嫉み、誹謗中傷、、などがほとんどです。多くが感情のもつれです、、、こんなはずじゃなかった、、あんなはずじゃなかった、、などなど。ですが、、、人間の行動、感情、、この全ては全自動で起き上がっていますから誰にもこれをコントロールする力がないのです。あると思うからどうしたら悩みが無くなるか、どう生きたらいいか、などの解決方法を探す旅にでるのです。ところが一点の真実、人間には自由意志はない、、という点のみを認めてしまえば、、悩みはなくなります。

周囲の反応は自動反応

怒るというのは「自由意思」があると思っているから

友人の誕生日にプレゼントを送ったにも関わらず「お礼」の連絡がない、、、こんな時個人は怒りの感情が湧いてきます、、なんで電話の一本もしてこないのか!!この怒りの感情とは友人には自由意志があり、、その自由意志においてしっかりとお礼を伝えるべきだという大前提があります。しかしながら真実を伝えれば自由意志が存在しない、、ただそのような反応が起きただけ、、、です。ですからそこに怒りは湧きようがなく、、それを認めるだけ、、、そして今後その友人と付き合っていくかを考えるだけです。

旦那の不倫

芸能人の不倫騒動が年に何回も報道されますがこの騒動が終焉することはない、、なぜならば不倫を起こ有名人には自由意志がないからです。ただの反応です、それを止める個人は存在しないのです。つまり化学反応みたいなものでそれを抑えれる個人が居ないのです。そんなことはない「私」はそのようなことをしない自信が間違いなくある、、それはそのような反応がこれまで起きてきただけ、、先のことは誰にも分かりません。重要なことは不倫を決定する自由意志が「人間」の体には存在しないということを認めることです。それを認めた上で旦那を怒ることはできません。

やられたい放題でいいのか???

旦那の不倫は旦那の意思ではない、、だから放置するしかない、、、のか???違います。自由意志ではなく化学反応、自動反応ですから、、今後もその旦那は不倫をする可能性が間違いなくあるという事実を認識しその上でその旦那と関わっていくかを冷静に思考するのです。自由意志ではないのならば許せると思うかもしれない、それでも許せないかもしれない、、それは誰にも分かりません。少なくとも旦那に怒りを抱えながら重く重く生きていくという地獄から抜け出せるのです。これが軽くなるということです。

怒りではなく、、、ただ冷静に判断する

浮気癖のある旦那、この旦那には一切の自由意志はありません、、、もしもこの行動が許せないのならば「次に浮気をしたら必ず離婚する」これを伝えて様子をみます、、それでも浮気が続くならばその旦那の浮気を止めることはできないでしょう、なぜならば旦那には自由意志が無いからです。そのような病気、、そう捉えることも自由です、、ですがこれは病気でなく全人類がそうだということです。聖人君子と呼ばれるのような人格者も次の人の行動を決める自由がないのですから、、、

信用できる人は誰もいない

絶望的かもしれませんがこれが事実です、、誰も100%の信用などできません。なぜならば自分の行動をコントロールできる個人が存在しないからです。あの人は信用できる、、これは幻想、理想です。たまたまこれまでその人の行動が「自分」にとって信用に値しただけ、、これからは全く分かりません。あの人は変わってしまった、こんな人ではなかったのに、、、違います、、たまたまこれまでがそうで、、たまたま最近が違ったのです。これが軽く生きる極意です、誰も信用などせず全自動のあらゆる人の言動を楽しむのです。

「何もない」は「自分」が困る

世界は何もない

この世界は突き詰めれば「何もない」です。何もない「意思決定」する個人は存在せず人間を含めた全生命がただただ自然現象として行動が起きています。意思決定する個人が不在のままただ現象だけが起きる世界、それこそが今我々が眺めている世界の本質です。その本質の世界が、、、あらゆる自由意志を持った人間によってコントロールされているように「見える」世界が幻想の世界です。ですがこの真実は「個人」にとっては実に都合が悪い、それを認めてしまえば「自分」が出る幕が無くなってしまうのです。

問題解決請負人「自分」

世界は自由意志を持った人間が集まり構築されている、あらゆる問題は個人が解決に当たる、解決能力が高い「個人」は尊敬され豊かになり満ち足りた人生を歩むことができる、、、これがこの世界の風習です。にも関わらず実は自由意志を持った個人、自分など存在せず、、ただただ全自動運転で人間は運営されていることが広まってしまえば、、「個人」「自分」「自我」はたまったもんじゃない、、、存在が消滅してしまいます。みんなで集まって公然の事実として「個人」は存在していたのですから、、認識が無くなってしまったら存在しえないのです。

周囲はどうでもいい

周囲は「自我」「個人」「自分」大前提の暮らし社会をこれからも構築していくでしょう。ですがそれも全く問題ありません、どう周囲が認識しようと真実は一つ、自由意志を持った個人は存在しないのです。ですからその事実だけを認識しながら生きていけばいいのです。どのような社会問題が起きようとそこに個人は何も介在していない、、つまり全てが自然現象だということです。雨、嵐、台風、猛暑、と何も変わらない、、解決方法は皆無、なぜならば解決できる「個人」は存在しないからです。そしてそれらの問題によって苦しむ「個人」も存在しません。

スイッチ

スイッチを押したのは誰だ?

前回の「スタバに行こう!」の続きの話、この思考感情をスイッチを使って説明しましょう。このスタバに行こうという思考感情を生み出したのが「自分」ならば自分がそのようなスイッチを脳内で選んで押したとしましょう。自分がその脳内スイッチを押したのだと。ではその「スイッチを押す」という動きを作り出した動きが必要になります。突発的にそのスイッチが自然現象として押されてしまったのでは「自分」の存在は無くなってしまいます。ですからその「スイッチ1を押す」ためのスイッチ2を押したのも「自分」のはずです。

スイッチ2を押すためには

スイッチ2を押すためにはスイッチ3が必要になり、そのスイッチ3を押すにはスイッチ4が必要になるのです。こうして我々は遡ってエンドレスにスイッチを押し続けなくてはなくなりその起源はビッグバンに行き着くのです。つまりこの体の中に居ることになっている「自分」は「スタバに行こう」に介入できないのです。こうして自分が「スタバに行こう」と思いついた、、という理論はやはり破綻します。この物理次元では何かを宇宙空間に湧き出させのは「自分」ではできませんから自由意志を所有する「自分」という存在は理論破綻するのです。

自分が居ない

自由意志を所有する自分が居ないのならば、、今までのコミュニケーションは破綻します。自分がやりました、あなたがやりました、友人がやりました、、全部嘘です、、、その体、あの体、あの人の体を通じてその行為、その思考、その感情が湧いただけ、、、全自動システムで起こり続けているのです。これが事実です。これが真実です。世界は完全自動システムで運営されていてそれはこの人間も例外ではないのです。

ニュースを見れば、、

不倫をあの人がやった、万引きをあの芸能人が、不正受理をあの政治家が、、、全部自然現象、全自動システムで起こっています、、、その行動、感情、思考がただその体を通じて起こっただけ、、、これが事実です。ではそうなった時我々は今後どうやって生きていったらいいのか???簡単です、、これからも全自動システムで起こり続けることを認めるだけです、、、これまでもそうだったのですからこれからもそうだということです。それを認めた時にこの世界は軽くなります。

お互いが目覚めるために存在する

幻想の意味

真実はたった一つです、この真実にたどり着くために全幻想が存在します、、苦手な相手、結婚相手、友人、子供、親、、、全ての幻想がこの真実に導くために存在しているのです。ですから人間関係は常に苦しみが伴うのです、悟りが開かれる、目覚めが起きるまでこれはエンドレスに続くのです。マトリックスの映画に出てくるエージェントスミスはまさにこの役、主人公のネオが覚醒するまで誕生し続けていきます。つまりエージェントスミスは覚醒の最大の味方でもあるのです。

悟りが開かれるまで、、

この苦しみは、、悟りが開かれるまでエンドレスに続きます、成功を治めても、大金を得ても、名声を得ても、安定を得ても、、、確実に苦しみが終わることがないのです。それは大いなる勘違いをしているがためにです。大いなる勘違いはこの幻想の世界で食べていくには有利ですが同時に苦しみを生み出すのです。ということでこの苦しみを解消するには悟る以外にないのです。

悟りに興味が出たら

悟りに興味が出始めたならばそれは大きなチャンスです、、仕事、友人関係、などの物質的、精神的満足を追いかけても一切幸福になれないことに気づけたならば、、、本気で悟りに意識が向かうことになります。ですがこれは誰しもに起こることでは絶対になくだからこそこれはチャンスなのです。そしてそうなったらこっちのもの、仕事、友人関係、地位や名声などのために頑張るなど辞めてしまってただひたすらに悟りを追い求めます。そして追い求める存在自体が実は存在していないという気づきが起こるまでこれを続けます。

五感開発マシーン

この体

この体を五感開発マシーンとして捉えます、、、この幻想を最大限感じるマシーンにしてしまいます、、、この幻想は体験しかできない場所です、、、この体験だけが真実です、、事実です、、、だから、、、、この体験の密度を上げていきます、、、、そのためには五感の鋭敏さを上げていく、、、これしかありません、、、、ここから離れると思考に取り込まれます、、思考の甘い罠に取り込まれます、、、

思考はいつでも、、、

思考はいつでもフル回転待ちです、、、思考はいつでも刺激に満ちています、、、いつでも悩みたい、考えたい、、なんでもしたい、、、だからフルオープンです、、、、ですがここに入ると抜け出れなくなります、、、なぜならば簡単だから、、思考に入り込むのは、、、、五感を開くよりも、、、思考にふける方が簡単なのです、、、だから、、、、退屈が解消しない、、、

思考に逃げない、、、

思考にこの退屈を解消してもらおうとしないことです、、思考ができることは幻想を作り出し刺激を与えてくれるだけです、、、本当にこれだけなのです、、、、、退屈解消は実は全くしていない、、、こん真実に触れることとは全く関係がないのです、、、それが思考です、、、、真実は体験でしか味わえない、、その真実が今この目の前に現れています。。。

退屈は五感が作る

五感が鈍れば、、、

五感が鈍れば、、全てが退屈に感じます、、何を観ても、、、感動が起きない、、、何を体験しても感動しない、、全部が全部予想通り、、、全部が全部想定内、、、、つまらない、、退屈、、、どうせこんなん、、、がエンドレスに続きます、、、、実際には実は五感が鈍り、、、思考が廻り、、、負のループを回っているだけです、、、、

体を開いていく

体を物理的に緩めていきます、、、体を物理的に浄化していきます、、、、、、見える世界が変わります、、新鮮さが出現します、、、感動が起きます、、、、なぜ???五感が鋭敏になっているからです、、、感動を感じるほどに五感が開いたからです、、、、チャクラが解放し、、経絡が開いているからです、、、、体に溜め込んだ感情というエネルギーが成仏しているからです、、、思考の無駄な回転が止まります。

真実に迫る

真実はこうです、、、全てが全自動、全反射、全無意識に、、起こります、、思考も感情も行動も全部が全部自動です、、これを感じれるまで体を開いていきます、、、この真実を体感でもって感じた時が悟りです、、、あ、、本当だ、、、全部自動で動いている、、、本当に何一つ、、、自分なんて存在は関与していない、、、ただ起こりが起こっているだけだ、、、、が理解できます、、体験できます。

真実を知るものは、、深刻になれない

真実は人を究極なレベルで癒す

本当は何一つ、、、自由意志はなく、、、ただ起こりが起きているだけ、、、この真実が我々を待っています、、この真実に我々は最終的に吸収されます、、、、真実から逃げることは誰もできず、、、、この真実に向かって我々は生きているのです、、、この夢は最後は真実に吸収されるのです。

真実は、、、、一つ

この世界に真実以外のものは存在せず、、、構成要素は真実の一点です、、、この真実が、、、あらゆる形に変化し、、あらゆる体験を引き起こしているだけです、、、ですからこの世界で救済されない人は誰も居ません、、、その人を構成する要素が、、、真実だからです、、、、我々が救済される唯一の方法は、、、そこに気づくことです、、、絶対的体感によってこれに気づくことです、、、

真実は完璧なプロセスで、、ここに至らせる

真実は、、、完璧なプロセスで、、、ここに人を至らせます、、、自我は完璧なタイミングで解体され、、大我にシフトします、、、大我という決まったものはないのですが、、つまり我々は我々という認識が突然シフトします、、、小我は大我に吸収されるのです、、、完璧なタイミングで、、、、我々ができる唯一のことはそれが起きるのを待つことだけです、、、、完璧に起きる自我の解体を待つということしかできません。

面白いって何????

面白いは、、、ありのまま

日本はお笑い天国です、、、、TV番組を観れば、、、いつもお笑い番組が放映されています、、、お笑いとは何でしょうか????人が笑うのは何を感じているのでしょうか?????笑いとは、、、この自分が全くコントロールできずにことが進むことを諦めることなのです。。。。何年も準備して受験をしたら、、受験日を間違えた、、、、この人間の悲しい性こそが笑いです、、、実は何もコントロールできていない、、、ここに人間が触れると、、「ホッとする」そこに笑いが生まれる、、、、

何一つコントロールできていない

本当は何もコントロールできていないのです、、、本当は、、、どこまでも、、、その真実を垣間見ることで笑いが起きます、、、、何一つ、、本当はコントロールできていない、、、、、この事実は感じる力を上げなくては理解できない、、、、、この事実を感じているのは幼児です、、、、つまり、、幼児レベルに体を解放するれば、、、、この究極の真実を感じることができます。

なぜコントロール出来ているという勘違いが起きたのか????

分離した個人が「全てをコントロールしている」という勘違いが起きなければ、、、、全体を感じることはできません、、、全体は全体ゆえに、、、、分離しているという確かな感覚がなければ、、、この世界を構築した意味がない、、、ということになります。そういう意味では、、、徹底的な分離感、、徹底的な孤独感はこのゲームにおいて重要な要素であるということです。

徹底的な孤独感を癒してくれる

現在のお笑い芸人とは、、、この徹底的な孤独感を癒してくれる存在です、、、世の中って本当はこんなんですよ、、、という真実を、、、笑いというツールを通じて、、、表現しているのです、、、そんなに深刻になる必要はないですよ!!!です。みんな全然自分のことなどコントロールできていないじゃん、、と気軽な気持ちにしてくれるのです。もしもこれが真実でないならば、、、誰も癒されない、、、となります。

最初に理解がある

なぜ苦しいのか????

なぜ苦しいのか???先ずはこの疑問、思考から始まります、、、そしてそれを毎日思考するわけです、、、なぜ???なぜ?????なぜ????そしてその探求が始まります、、、、ですがこの探求は多くの場合は非常に困難な探求になるのです???なぜか????それはこの苦しいの理由がさっぱり分からないからです、、、、そして多くの場合、、、それは、、、、、ワンネスがワンネスであることを思い出すことである、、、という結論を知ります。。。ですが、、、、じゃあ、、、、どうすりゃいいんだ???です。答えが分かったとて、、、、するべきことが分からない、、、、、

思い出し方を教えろ!!!

それが分かったとて、、、、どうやって思い出せばいいのでしょうか??????瞑想、ヨガ、座禅、マントラ、お経、、、、今度はそれが分からない、、、、、迷路地獄、、、、これを知識で解決しようとすれば失敗します、、、、なぜならば、、、知識は、、、、退屈を埋めるために発生したため、、、、知識は本当の意味での解決を図る道具ではないからです。。。。。真実を発見するのは体であり、、、体に真実を発見させます、、、知識は、、、、退屈を解消するための道具です。理解が終わったら、、、体で再発見させます。

目の前にある

真実は実は目の前にあります、、、今も真実しかありません、、、、今も悟っていて、、、、真実をありのままに見ています、、、ですがその真実は、、、、虚しい、、退屈を表現した真実ゆえに、、、、ここから逃げたいのです、、、自我システムという真実の表現の中で我々は苦しんでいるのです。。。。体の中に自分が居るという、、、この観念が真我の中で起こり、、、苦しみが生じます、、、、この観念からくる苦しみが体を蝕み、、その蝕みが、、、退屈を生じます、、、、このサイクルを断ちます、、、蝕みを強引に解消します、、すると、、、本当の真実、、静寂である真実が顔を出します、、、頻繁に顔を出すようになります、、、、静寂の真実が手招きします、、、

もう少し

静寂の真実から手招きが起き始めたら、、簡単、、、、ただ体の蝕みを解消していきます、、、体の感覚から、、そして理解をさらに明晰に、、、そしてまた五感を研ぎ澄ます、、、そしてまた深い理解を、、、、この繰り返し、、、、何かを手に入れる、、安定した暮らし、、常識、、、、これらは正しい五感の開発、深い理解によって勝手に起こります、、、、追い求めるのではなく、、ただ普通に手に入ります。