気づきの意識

気づきは後退しない

知識は忘れるが気づきは忘れない

気づきとは、、後退しないものです。ですから一度気づきが起きればそこから気づきがなくなることはない、、というのも気づきとは個人に起きるものではなく全体、気づきの意識、真我に起きるものなのです。気づきという化学反応が起きたようなものです。これってもしかしたら夢かも、、この気づきが起きますとこれが忘れ去られることがない、、、すると自然とこれが夢であるかどうかが生きていく上での最重要関心になります。

現実だと真剣に思い込んでいた

本当は我々がみている世界は完全に幻想、夢です、、、ですが中学、高校、社会人と進むに従いこの感覚が忘れ去られていく、、、20歳ぐらいになればすっかりと現実であると思い込む、この夢を。この夢を現実であると思い込めば込むほどに、、それを支える現象(夢)が起きますから、、益々そうなります。観念を証明するような夢が起きるのです。こうしていつしかどっぷりとこの現実(夢)にはまり込みます。

どうやってこの幻想、夢が出現するかに気づくだけ

マジックは一度でも種を教えてもらえれば、、もう騙されない、、、これはこの夢、幻想も同じこと、、一度でもこの夢、幻想がいかに成り立っているかを見抜いてしまえば、、、もう騙されない、、、私は20年前にその事実を釈迦のメッセージを読んで気づきが起きました、、確かにこれは我々が思っているような世界ではない、、、もっと本質には違う世界があるはずだ、、と。この20年前の気づきがこの活動をスタートさせました。この気づきが後退することはないのです、気づきは真我の気づきです、個人(夢)ではありません。

音が鳴った瞬間

音は音が起きた瞬間に、、存在が気づきます、、、ストーリー上は、、鳥が音を作り、、それを人間が鼓膜で広い脳で認識する、、になります、、、ですが真実はその場で音が起こり、その場で音に気づきます、、、存在が。人間が鳥の声を聞く、、これはイメージの世界の話です。。人間というイメージが、、鳥と声というイメージの音を聞くというイメージです、、、本当は独立した人間も独立した鳥も存在しません、、なぜならばこの世界はたった一つのエネルギーしかないからです。

味が起きた瞬間

味が起きた瞬間、、、私が今ステーキを食べました、、、というストーリーが起きます、、本当は美味しいという味が起きただけです、、それしか起きていません、、、人間もイメージ、ステーキもイメージです、、、たった一つのエネルギーにイメージを当て込み、、そのストーリーをでっち上げたのです、、だから本当は味覚が起きただけ、、、イメージを削ぎ落としていきます、、イメージを削ぎ落とすと味が鮮明になっていきます。

風を感じた瞬間

風を感じた瞬間、、、、私が自転車を漕いで風邪を感じた、、、というストーリーが起きます、、本当はただ風が起きた、、です。。私もイメージ、自転車もイメージ、、私が漕ぐもイメージです、、この現象界に独立分離したものなど一切ありません、、言葉でイメージを作り、、そのイメージでこの現象界を切り抜きました、、結果としてこの私が自転車を漕ぎ風を感じる、、というストーリーが生まれたのです。本当は風を感じる感覚しか起きていません、、、経験以外実は何も起きていません、、経験以外はイメージがでっち上げたストーリーです、、

ここを見抜く

経験以外の全ては完全にイメージ、幻想、ストーリーです、、言葉で切り抜いたイメージをこの現象に当て込み、、イメージ同士が動くことで、、、経験のみが起きました、、、この動きでストーリーを信じるという動きが起き、、このストーリーに閉じ込められます。。ですが冷静に観察すると経験しか起きていません。悟りとはイメージをイメージと見抜き、、経験しか起きていないことに気づくことです。経験しか起きていない時見かけ上の私は何も経験に参加していないことに気づきます。経験だけがただ起き、、それに気づく気づきの意識があります。

メカニズムを理解するだけ

そこに整合性があればそれで終わり

なぜこの体の中に自分が居るという大勘違いが起きるかと言えば、、、、この体が経験する全てを、、、感じる存在が居るからにほかありません。焼き鳥の味を感じ、お酒の味を感じ、音楽を感じ、照明を感じる、、、この感じる全てがあるからこそ、、、この体の中にこれを感じる存在が居るという大勘違いが起きるのです、、ですがその存在は体の中に居るのではなく、、、この見える世界全体がそれを感じていたのです。

感じるは神しかできない

感じることができる存在は神、気づきの意識、全体だけです、、、つまり酔っぱらったと感じているのは神であり、悲しいと感じているのは神、、全部神です、、その神がこの体の中に存在するというのは思考です、、、この神は神ゆえに、、、この体の中ではなく、、、全体に存在しているのです、、、神とは全部だからです。全部で在る神がこの体の中に居るという大誤解こそが苦しみを生み出しているのです。皮肉なことにその悲しみを感じているもの全体で在る神です。

雨の音を聞く

雨の音に気づく、、気づくことが出来るのは神しかいませんから神が雨の音に気づきました、、、神はこの音を音そのものとして今気づきます、、、この気づきを、、、体の中の私が聞いたという思考が湧きます、、この思考に神が気づきます、、、雨の音を起こしたのは神であり、、そこに気づくのも神です、、神が音を起こし、神がそれに気づく、、、そこにこの体の中の私は全くもって非関与です、、、この体の中に私は全現象に対し非関与ですから次第にこの私は消滅します。

覚者が個人的体験を語らない理由

個人的体験は夢物語

覚者とは覚めた者という言葉の略ですね、、何から覚めたのか???夢です、、この個人物語が圧倒的な夢であることに気づいたのです、、誰が???気づきの意識が、、です。ですが気づきの意識の中でこの体は永続していく、、その残された体が見かけ上「覚者」と呼ばれます、、、ですからこれは矛盾です、パラドックスです。この覚者は、、、私はこういった状況で、、こうやって目覚めました、、と語るのは、、矛盾が矛盾を呼ぶような、、展開になります、、ですから覚者は、、個人的体験をあまり語りたがらないのです。

夢の中でこの体は、、、

厳密に説明すれば、、夢の中でこの体は登場しており、、この体の中に自分という存在を信じていました、、、ところがある時、、これが夢だと気づいてしまった、、するとこの夢の中の私は、、私でなかったという気づきが起こった、、、気づいたのはこの体の中の自分ではなく、、、この夢を観ていた存在、、それが私だ、、、この私は夢の展開中ずっとこの体の中の居ると勘違いが起きていた、、今は起きていない、、、夢の中のこの体には私は入っていない、、、むしろ夢全体を観察する存在であり、、夢を展開する力そのものだ、、、そしてこの夢が湧き上がるスペースも自分、、この私だ、、となります。

それでも夢は続く????

この事実気づいてしまっても、、この体は在り、、相手の体もあり、、動物、植物、、全部が残ります、、ここから先は夢を夢であると気づいてしまった存在として、、、この体物語を進めていきます、、この体の中には自分は居ませんが、、、この体は「私が在る」の中に確実に存在します、、、相手も「私が在る」の中に存在する、、、この体も相手の体も、周囲の人間も「私が在る」の中で、、、動き続けます、、そしてその動きの源が私です。。。空間も私、、全部が全部「私」の中で起こる、、、

自我の防御システムをいかに潜り抜けるか

究極のリアリティは自我には通用しない

私しかここにはいない、、こんなメッセージを自我は拒絶します、、意味不明、これで終わりです、、、そこで自我の拒絶反応、防御反応を起こさせない形での伝達をメッセンジャーには求められるのです、、、ストーリー、物語風にこのメッセージを伝えないと、、自我は基本受け入れない、、今しかない、、ダメです、、こんなメッセージは。時間という感覚は確実に在る、、、ここから入らないと自我は許さない、、

物語に入り込ませる

「あなた」はいつか絶対に幸福になれます、、ここから入らなければ自我は許容しない、、そしていつの間にかこの体の中には自分で実は居ないんだなーという気づきに導きます、、この気づきはどこから起こるのか、、全体、気づきの意識です、、、「あなた」は確実に居て相手も確実に居る、、友人も確実に存在する、、、ですが、、それって夜見る夢と何が違うのか???夜見る夢との決定的な違いはなんでしょうか???ないのです、、こうやって自我の拒絶反応をくぐり抜けます。

先ずは私が居るという感覚を絶対肯定する

自我最大の勘違いが、、「私は居る」という絶対的感覚です、、この「私が居る」があらゆる経験を所有することでこの自我物語は確固たるものになります、、「私が居る」が、、、あらゆる経験を時間の中で所有していくというシステムです。「私はゲームをやっている」という絶対的感覚が、、、この体が穴に落ちた、この体が批判にあった、、この体が称賛にあった、、、を蓄積していくのです。ここにいきなり「私は居ないんですよ」は無理ゲーです、、、だって「私は居る」は100%の感覚だからです、、ここからならば自我は存在を明け渡します。というよりも「私は在る」はこの体の中に居ないを気づくのです、「私は在る」の中で実は全部が起こっていたことに気づきます。

今が苦しいという病気

これは病気

人類は病気です、、今が苦しいという病気、、苦しいんですから完全に病気です、、、この病気を治さなくてはいけない、、、ですが実際にはこの病気を治す方法を全く誰も教えてくれない、、苦しいを一瞬忘れさせてくれるアイテム、方法しか世界には売っていないのです。。。なぜか???それは全員がこの苦しいに気づいていない、、何がこの苦しみを作っているのか気づいていないのです。

自分がこの苦しみを作っている

苦しみを解決する医者がいて、、、そこに解決を求めに行くと、、、「この病気の病原菌はあなたです」と言われてしまいます、、あなたこそがこの病気の根源です、、、ですからあなたを取り去ってください、、、となります。ですがこれを聞く「あなた」は何をこの医者は言っているのか???私のこの苦しみを解消したいのに、、私は居なくなってしまったら意味がないじゃないか、、、

私の苦しいではない

私が苦しいから医者にかかっているのに、、、あなたがこの病気の犯人です、、と言われてしまいます、、わかりました、、では私が居なくなってしまったら、、、苦しいが無くなっても、、、それを感じる私も居ないではないか??となります。。。ところが違うんです、、、、私が居なくなっても苦しいを感じない存在が居るのです、、、それが気づきの意識です、、、、そしてこれまでも実は私は居なかったんです、、、私が居るという思い込みだけがあり、それが抜け落ちたのです。

右も左を地獄

自我を観察しなければ

自我というのが実は錯覚、勘違いであることを見抜けるようになるまでは右も地獄左も地獄です、、成功も地獄、失敗も地獄です、、、この地獄こそが実は自我の発見へのチャンスになります。成功した自我は次はこの成功がいつか突然無くなることを知っています、、、ですから不安で不安で仕方がない、、そして成功が崩れた時に、、人間関係から全てを無くすことも分かっている、、、成功は実は地獄なのです

安定も地獄

不安で不安で仕方がない自我は、、安定に執着し、、、堅実な旦那さんを手に入れます、、ですがこの安定が次の地獄を作ります、、、安定してしまったらもう何も行動できないのです、、自我は、、得にならないような行動が取れないため、、、もう仕事を一生懸命に頑張れない、、結果退屈な毎日が始まります。

幸福はそこにはない

幸福の場所は自我が居ない瞬間に現れます、、、何かを成し遂げたその瞬間、、、何かに集中しきっているその瞬間、、思考が現れ、行動が現れ、、感情が現れた時に、、それを観察している瞬間、、この場所が、、無我、気づきの意識、静寂、平和です。幸福とは、、自我不在の瞬間に現れるものなのです。。ですから自我が頑張って幸福を探している期間はただ苦しいのです。

夢だとしてだから何だ?

夢なのは分かった、、、

これはどう考えても夢です、、、夢を構成するエネルギーがこの私の正体です、、、夢を構成するエネルギー?それを仏教では色と言います、、色がある世界、、これを構成するエネルギーが私です。ではこの夢を見ているのは誰だ??それももう一つの私です、、、気づきの意識とか言ったります、、、、ではこの夢を構成するエネルギーはどこから生まれたのかそれが空です。

なぜ空が現れるのか?

これが夢で、この夢を見ている存在がいて、、この夢を構成するエネルギー(色)があって、、そうすると子の色を生み出す存在が必要になります、、そこで空が登場します。。。これによって色は空を生み出したのです。空が色を生み出しておいて色に気づく存在が現れる(気づきの意識)が現れ、結果空の存在に気づきます。色即是空です。

これが夢だと見抜き、空を見抜く、空と色は一つを見抜く

これは完全ある夢で、、、この夢のことを色と言い、、、この夢を見ている存在を気づきの意識と呼ぶ、、、そしてこの色を生み出す存在、空の存在に気づく、、、色は空であり、空は色でもある、、、私はこの世界を生み出した全存在、夢も私生み出した存在も私、、、私しかいないが、、、この私が作り出す世界は正気に溢れ、生命に溢れ、毎日、毎秒移ろう世界、、、究極のアートです。

この自分が居るという瞑想

我々が行っているのは自分が居るという瞑想に集中している

自分が居るという瞑想に集中した状態、、それが我々の瞑想活動です、、、自分が100%居るということを瞑想している、、、この瞑想が苦しいのですね、、、過去にあらゆる経験を重ねてしまったがゆえにあらゆる感情が自動反応で起きます、、例えば犬に噛まれた記憶はあれば、、犬を見るたびに怖いという感情が湧き起こります、この感情を感じたくないがゆえに思考が湧き上がるという自動反応が起きます、、、これによって思考していることにすら気づかない状態、気づきの意識が自分が居るに集中している状態になるのです。

感情が勝手に湧き上がり、思考が勝手に湧き上がる

何か行動が起きれば過去の記憶によってあらゆる感情が自動反応で湧き上がります、、この感情を避けるために思考がさらに湧き上がるという二人三脚が起きます、、、負のスパイラルです、、思考に無我が取り込まれ、思考を観察する存在(無我、気づきの意識)が思考に集中しきっている状態です。これが苦しい状態なのです。。全体が部分に集中しきっている状態、閉塞感を全開で感じることができる状態です。

閉塞感を全開で感じているのに

閉塞感を全開で感じる活動(瞑想)をしておいてこの苦しさをなんとか解決しようとしているのが我々です、、、ですから答えは自分活動、この瞑想を辞めてしまうことなのです、、今この場でこの瞑想を辞めてしまうということです、、何をしたらいいですか??今この場でこの人間活動、自分が居るという瞑想、活動を止めることなのです。これ以外に方法はありません。逆に言えば、、、この瞑想を今完全に終わらせてしまえば、、悟りに入ります、、気づきの意識が深まります。

自我はなぜプロレスをしたがるか?

自我は存続するために行動をする

自我にとって幸福、不幸かどうかはどうでもよく、、、この存在が永続するのが目的になります、、すると自我は相手を見つけてはプロレスを吹っ掛けて自我を強く意識できる行動を取るのです。喧嘩相手がいる時に自我は圧倒的に自分の存在を意識できるのです、、逆に相手からプロレスを吹っ掛けられても自我は喜びます。自我は自我を強く意識できるためならいつでも紛争を起こすのです。

自我は相手の問題点を見つけ、、、、

自我は相手の無意識の行動の中から問題点を見つけ出し、、そこを執拗に責め立てます。責め立てて反応を引き起こしプロレスに持ち込むのです、、、例えば相手の短所を見つけ出しそこを攻めれば短所ゆえに解決しないことによって長期的なプロレスに持ち込めるのです。これは相手方も同じで自身の短所を責め立てることで長い紛争に持ち込めます。

重要なことは無意識に持ち込むこと

紛争中は思考に飲み込まれ意識が意識的ではいられなくなります、、無意識に無意識に入ります。気づきの意識が思考に飲み込まれ無意識になります、無我ではない状態自我になりやすいのです。喧嘩中は思考に飲み込まれて無我が自我になるのです、、思考を観察する無我が消滅します、、興奮状態の人間は間違いなく思考に飲み込まれます、、これが自我の生存戦略です。