未来

改めて今を生きるとは

夢ならば、、、

改めて今を生きるとは????これが夢なのは分かった、、、そしてその上でこの体を保持しなくてはならない、、そしてこの私は全体、夢全体、夢を動かす存在、、、そこが腹落ちしますと、、、将来に関心無くなります、、夢の将来って意味不明ですよね、、、夢の過去って何ですか???急に関心が無くなる、、それこそが今を生きるです、、、それこそが今ここに集中するです、、、関心がないのです、夢の過去も未来など、、

過去と将来に無関心

今を生きよう、、これを自我に叫んでも全くの無駄、、なぜならば自我とは、、過去と将来にしか関心が持てないから、、、この体をいかに安全に保持するか、、、将来に渡って、、ここに関心が向く、、、ですがこれが夢だと分かってしまったら、、、意味不明、、残念無念、、、夢の将来を毎日心配しています、、、病気、、、となります。つまり自我は真我の中の活動とはいえ非常に苦しい活動を強いられるのです。

苦しいを見抜く

夢の中で苦しむって本当は無理があるんですね、、夢の中で苦しむには、、、夢の中の登場人物、この体に成り切る必要があるのです、、そしてこれが夢であることを忘れる必要も当然ある、、この二大条件が揃わなくては苦しむこともできないわけです。ですが今これが夢だという理解、自分は夢そのものであるという理解が起きた時に、、もう苦しめない、、、終わりです、、

エゴの小賢しさを相手にしない

エゴは常に小賢しい

人間関係が苦しいのはエゴとエゴの付き合いだからです、このエゴは基本小賢しく、、小賢しさが土台になっています。この小賢しさを基本にした人間関係が平和であるわけがないのです、、ですからこの小賢しさの人間関係から脱出したければ自身が先ずエゴを観察する存在になるしかありません、エゴを観察する存在こそが本当の自分です。この自分に戻った時に小賢しさが全く必要ない明晰さが残ります。

小賢しい人間関係に興味すら持たない

小賢しさを基本にするこの人間関係に関わることは大変なことです、ですから無理して関わる必要はない、、代わりにエゴを観察する存在として明晰さとともにいます、この場所は安全な場所、平和、静寂そのものです。そして無理して人間関係に関わらないことで明晰さで行動を起こしていきます、、益々人間関係を必要としなくなります。

小賢しさの先に未来はない

なぜエゴは小賢しさを駆使して生き延びようとするのか?苦しいからです。苦しいからこそ小賢しさを駆使するのです、そして小賢しさを駆使して何かを得ても全くこの苦しさは解消されない、、結果益々小賢しくなっていくのです。そうではなく小賢しさの先には一切幸福がなく、、小賢しさを手放すことを目的に変えます。本当の賢さは自我、エゴを手放した先にあります、自我、エゴを観察する存在、それが賢さです。

思考、思考、思考

自分のために思考は過去未来する

思考が湧く時の内容をしっかりと観察すれば直ぐに分かります、、、あの人の言ったことって、、私に何を言いたかったんだろう???あの人の発言は私も陥れようとしてるかも、、、次に会ったら、、あの人にああ言ってやろう、、そうすれば私のことを見直すかも、、、終始こんな感じです。私がいて相手がいてその関係性を自分にとって都合が良いように動くのが思考です。

この思考の動きに無自覚になる

思考はこの私をいかに都合良く、得が多い方に、、そして損が少なく、少しでも優位に立つように動き続けるわけです、、、これが思考です。この思考を野放にすれば自分にとって最善の策を取ってくれるはず、、、なんですが、、、これには大変なデメリットがあります、、、意識が思考にフォーカスし続ける最中ただ苦しいということです、、意識が意識で在ることを忘れ、思考に意識が集中している間苦しいのです。意識が思考に閉じ込められているからです。

思考を意識する

思考の観察に意識を向けます、、、すると思考が湧かなくなります、、、意識は一つのことにしか意識ができませんから思考を観察するとそれ以外が起きなくなります。全てを観察する存在になってしまいます、、思考を観察し、、感情を観察し、、音を観察し、、光を観察し、視界を観察します、、、観察する気づきの存在になるのです、、、ここが静寂の場所、平和の場所、至福の場所です。

思考が過去と未来に向けて

思考とは過去のこと、未来のために起こる

思考というものを注意深く観察してみてください、、全思考は過去についての内容か未来についての内容になります、、、過去、未来の存在を全肯定した内容になっています、、将来のためにこうしなくちゃ、あの時あれをしなければ良かった、、、ばかり、、、本当は今しか存在しないにも関わらず、、なぜか過去、未来についてのメッセージなのです、、、これによって我々の意識が過去、未来に焦点が合います、今に焦点が合わなくなるのです、結果静寂、平和が離れます。

思考との同一化は、、過去、未来への同一化

思考の内容が過去、未来に向けてであることから、、、ここに意識がフォーカスされますと、、、今に居れなくなります、、今この瞬間の森羅万象の現れに意識が向かなくなります。。。。本当は今しか起きておらず、しかしなかが思考に飲み込まれれば、、過去、未来という幻想の中に入り込むのです、、、これが今映画、TVゲームに夢中になっている状態です。過去、未来は本当は存在しないのですから幻想です。

でも今見える世界も幻想ですよね???

そうです、今見えている分離した世界も幻想ではあります、、ですがこの幻想の世界で体感する経験は幻想ではありません、それはリアルです、経験だけは大いなる一つ、根源、神そのものです、、、そこが静寂、至福、平和なのです、、、今ここで思考にふけるということは幻想に意識がフォーカスしていう状態です、、今に居ながら、、幻想に意識がフォーカスされているのです。これが苦しみを生み出します。

悟りにハマる人は幼少期の至福感を覚えている

私は悟りに魅了されたのか???

私がなぜ悟りに魅了されたかと言えば、、、幼少期の万能感、至福感をはっきりと覚えていたということがあります。何も条件なくただ幸福だったと言う時間を克明に覚えています。だから一般的幸福に興味が持てない、、車、家、立場、家族、地位、名誉、、、では絶対にここに辿り着けない、、、それは最初から分かっている、、、ただそれがどこにあるのかが分からない、、、

ブッダの言葉が刺さる

この世は無常、、、解脱だけが至福に至る道である、、、、いや絶対そうだよね、、、!!!この言葉を待っていた、、、釈迦最高、仏陀最高、、です。自分の中で何かが発火したのが分かりました。この発火は今まで味わったことがない発火、、だがこの個人という感覚が無くなるとは到底思えない、、、だからそこからはスピにハマり個人としての霊的向上にガッツリはまったのです。

霊的向上に努めるが、、、

霊的向上に努めるが、、、どこか焦燥感が抜けません、、、向上した霊魂が取るべき行動は何か???と今度はそこに縛られてしまうのです。解脱はいつか訪れるもの、、解脱に対する関心も落ちていきました、、、ですがノンデュアリティメッセージの五年前ぐらいから触れることで解脱が決して遠い未来に話ではないことが分かります。釈迦、ブッダの言葉が身近な存在から届けられるようになったのです。

気づきの存在は気づきの存在であるために努力を必要としない

気づきの存在であることの安心感

全ては気づきの意識の中で起こっています、この自分という感覚も、、音も光も、会話の全ても、、気づきの存在の中で起きています、、、この事実に気づくことの大切なことはもう努力がいらないということです、自らが気づきの存在、全体であるという気づきに至った時、、ここからさらに努力して何かになる必要がなくなります。我々は個人として生きてきたので、、、努力を必要としてきました、、今が苦しいから、、努力して、、、明るい未来を手に入れようとしてきました、、ですが気づきの意識そのものであるという気づきが起きるともう努力のしようがないわけです。

自分の存在、思考が起きていなくても、、、

自分が居るという感覚がなくても、思考がなくても、、、ただ気づきの意識だけは確実に在ります、、、何かに没頭していても、、没頭していなくてもそれに気づく、気づきの意識があります。我々はこの気づきの意識なのです、、、それ以外であるわけがないのです。この気づきの意識の中に一時的に自分をこしらえただけ、、こしらえていない時もそれに気づく気づきの意識、、、

徹底的に気づきの意識になって起こりを楽しむ

私は気づきの意識だ、、この意識が芽生えてもそれでも自分は登場しますし、、友人も、仕事仲間も、、みんなこの気づきの意識の中で登場します、、それをただ気づきの意識として楽しみます。この体から出てくる思考、行動を楽しみます、、友人の体からでてくる言動を楽しみます、、、安心の場所で事の起こりを楽しむです。

明るい未来を夢見ることで今が暗くなる

明るい未来を夢見る理由

なぜ人は明るい未来を夢見るのでしょうか、、それは今が苦しいからです。。。なぜ人は明るい未来に向けて毎日努力できるのか???それは今が苦しいから、、これ以上苦しくなってしまったら大変、、なんとかして今よりも明るい未来にしがみつこう、、、です。本当は今ここにダイアモンドのような現象があります、本当はこの場所に至福そのものがあります、、すると遠い未来に興味が無くなるのです、、、遠い未来ではなくなぜ今ここにあるはずのダイアモンドが見えないかに興味が湧きます。

今目の前にあるダイアモンド

今目の前にあるダイアモンドの存在をダイアモンドははっきりと分かっています、にも関わらずこの個人の人生は苦しいぞ、、、それでは将来は絶対にダイアモンドのような状態にしてやる、、、これが個人に成り切ったダイアモンドの発想です。ですが本当は個人を抜け落とせば直ぐにダイアモンドに戻るのです。個人としてダイアモンドを成し遂げてやる、、、それも分かる、、ですが個人としての視点こそがこの苦しみ、分離感、孤独感を起こしているのです。

今この場でダイアモンドに至る

この場にはダイアモンドしか存在していません、今です、、ですがここに個人が居るという錯覚が起きることで苦しみが溢れてきました、、ただそれだけが起こったのです。。今もここにはダイアモンドしかないのですが、、思考としての自分、自分ストーリーがダイアモンドの中で起きてしまったのです。そしてこの自分がダイアモンドのような人生を歩むぞとという次なる欲求が生まれました、ダイアモンドから。

明日はあるのか

明日はない、今があるのみ

多くの人は明日に向かって生きていますが明日が来ることは一生ありません。今しか存在せず誰しもが今しか経験したことがないのです。というよりも今が完璧でありこの完璧を体感できれば明日に何かを期待することは不可能です。今が完璧でどうしたら明日に期待をすることができるのでしょうか。これが結論です。

今ってなに?

今とはただ現象が起き上がる空間です。これしか我々は経験したことがありません、そしてこの経験を記憶し記憶を繋ぎ止めることで過去を作り出しました。過去があるという思考が湧いたのです。それによって今度は未来があるという思考が湧きました。ですがそれらは全て思考が作り出したものです、その思考が湧いただけです。

自分がないことが明らかになっていく

どこをどう探しても自分というものを発見できないわけですがこれに我々は何十万年間騙され続けてきました。ストーリー上で。全く存在しない「自分」これが在るという思考が湧いたことで、、あいてにも「自分」が居ると予想しゲームを楽しんでいます。ということで問題などいままでも全く起きたことがなくそしてこれからも問題は絶対に起きえないのです。なぜならば問題を作り出してきた「自分」も相手も居なかったことが分かったからです。「ない」ことが分かったのです。

日本が今混迷の中に居る?

真っ赤な嘘

バブルが弾け日本は混迷の社会に、、、いったい何年間こなんな重いドラマを続けるのでしょうか?答えは何も起きていません、完璧な現象、事実がただ起き続けています。完璧な現象事実に人間は勝手な解釈をしてああでもないこうでもないと思考の渦に入っていくのです、結果重い空気がのしかかり苦しさが湧き上がっていきます。事実は何も起きてなくただ現象が移り変わるのみ、そしてその現象に我々の自我は何一つ影響を与えることはありません、そんなはずはない総理大臣の決定は全国民に影響を与えるではないか?そうではないのです、その決定こそが勝手に根元から湧いてきただけなのです。全てはそうなるように決まっているのです。

先が見えない、、、

先が見えない社会、、、これもとんでもない大誤解、、、先など見えるわけがないのです、自分自身の行動、思考、決定、全てが全自動であり何一つコントロールできないにも関わらずなぜ社会全体の先など見えるのでしょうか。自分の思考はコントロールできている、だからこそ先が見えないこの社会が怖い、、、大きな勘違いです。自分の思考などがそもそも無く、さらにその思考もただ湧いてきているだけ、自分様に起きる結果も全部決まっています。

人生のこの先など一ミリも考えなくていい

老後の心配、年金の心配、体の心配、、、全てが決まり切っています。決まり切っているにも関わらず一体何を心配する必要があるのでしょうか。何も心配することなどない、、逆に言えば心配するというのは自分というものに今後の未来を変える力があると信じている証拠でもあります、そんな力は微塵も用意されていません。絶望的なまでにこの個人には未来を切り開く力など皆無です。答えたただ淡々とこの体を通じて思考、行動が湧いてくるだけです。それ以上も以下もないのです。

この世界に意味などない、意味をつけるのは常に思考

人生の意味

お相撲さんが横綱になる際にこれからの目標を書にしてマスコミに見せたりします。自分の横綱道を書にして覚悟を決めるわけです。ですが実際にはこの世界、本質の世界には意味など全くありません。そこには平和。歓喜、安堵がただある世界が広がっています。それが非二元、ワンネス、色即是空、大なる一つ、などと呼ばれます。それに気づいた人は仏陀、キリスト、覚者と呼ばれたりします。世界の本質には意味などなく、完璧だけがあります。

我々は完璧から生まれた突然変異

我々は宇宙の本質、完璧から生まれた突然変異です。ですがその突然変異ですら完璧の一表現です、ですからいかにこの人生が苦しいといってもあくまでも完璧という土俵の中で完璧を味わいにくい状況に入っただけです。ではどのように苦しい世界に入るのか?それが思考です、思考の世界に入り込むことで我々は一時的に苦しむことができます。酸欠状態に入れます。神が薄い、非二元が薄い、完璧が薄い世界に入り込むことができます。

思考はこの世界に独自の意味をつけその解釈でこの世を分断する

そもそもが完璧な世界ですからそこを不完全にするのは至難の技です、思考は価値観という観念を作り出しその観念でこの世界を分断していきます。我々が見る世界は思考の解釈抜きで見ることはできずそれゆえ思考がその思考によって独自の分断を可能にするのです。我々はこの視覚を通じた世界しか見ることができませんから独自の世界を生きることができるのです。こうして思考はこの完璧な世界を切り裂いてみてその中を生きる「自分」を作り出すのです。これが完璧な世界に苦しみの世界を作り出す思考のやり方です。

思考から抜ける

ではどうしたらこの苦しみの世界から抜けるか、、一つの方法は今にあることを強制してしまうことです。思考の世界は今にはありません。基本過去や未来です。今に強制的に居ることに慣れてしまえば思考の世界から抜け出ることができます。五感の感覚のみに集中します。雨の音を聞く、足が地面に触れる感覚を感じる、音楽が聞こえる感覚に入る、コーヒーを味わう、、視界に何かが入る、、、全ての感覚から思考へ入らないことです。思考が全五感から思考に入ろうとさせます、ですがそれをしない、、、これによって今という場所から出ない感覚を掴んでいきます。