時間

毎日24時間瞑想生活

これで気づきが起きないわけがない

覚者は悟り、、完全なる委ねの世界に入ります、、ガツガツした覚者、、血走った目をした覚者、、常に緊張した覚者を想像しにくいのは、、、サレンダー、、究極の諦めが悟りだからです。。。。そしてこの諦めは、、、無気力なのではなく、、、究極のリラックスです。全部が全部全自動であり、、自己の不在を肌感覚で見破ったときに、、、やることは起こりを観察するだけです、、、、もうそこには「頑張れ自分」が存在しません、、全く。するとこれはもう24時間瞑想です、、完璧な瞑想を24時間続ける状態です。

気づく

本当に不思議なことが連発します、、、大真面目に自分など全く存在しなくても何も関係なく毎日が進むのです、、、勿論思考、感情行動は湧きますが、、、「自分がやった」という後付けがなくなる、、、完璧に無くなります。もう思考しても行動しても、、、「自分がやった」が湧いてこない、、、ただの自動操縦、、やれば直ぐに分かります、、、静寂が漂ってきます、、、、大都会に居るにも関わらず、、、静寂が漂う、、、、奇跡の連続

人と争えない

人と争えないのです、、、相手の行動も自動操縦って知っているから、、、、自動操縦って分かってしまうと、、、言い方、伝え方がどうしても変わる、、、当たり前ですよね、、、、そして相手の自己が居ないことも知っている、、、でも虚しくはない、、、なぜならば今までもそれでやっていたのだから、、、、こっちも自動操縦ならば、、今後どんな行動を起こすか全く分からない、、、、となります。

時間がないのに動く????

この現象界は、、、

我々が見ている世界は変化します、、、変化するからこそ、、時間がある、、、という思考は最強に安定します。時間とは思考、概念ではなく事実であると多くの方は信じています。間違いない、、、と。ですが真実は異なります。真実は時間はなく、、ただ変化だけがある、、、となります。そんなことがあり得るのか???ありえます。今という瞬間の現れが、、、異なった表現に変わり続けるということです。漫画のレタッチと同じ、、異なった画像の連続が動きを作るのです。

一方で

一方で、、空は全く動きません、、空は何も起きない、、ただ無限の存在のみ、、空の中で何かが起こることはない、、、それが空、絶対、、、、この現象界はあくまでその反映、反射、鏡です。。。空が全く動かないのになぜ鏡である色(現象)は動くのか???それは空とは無限の存在だからです。。無限の存在である空の鏡である色は無限を表現するのです。つまり無限の動き、無限の経験、無限の輝き、無限の香り、無限の感触、無限の味を表現します。

色(現象)が全く動かなければ

色、現象界が全く動きを見せないことがあるのか???絶対にありません、なぜならば、、それでは無限の存在の鏡ではなくなってしまいます、、色は無限の存在の鏡である以上、必ず変化を起こすのです。色は有限の世界ではなくやはり無限なのは、、無限の鏡だからです。そして今現在有限に見えているという事実がこれが夢である証拠です。変化が絶対原則のこの鏡の世界で、、全く変化が起こっていないように見えるという事実、、これが夢出である証拠です。

時間の中では至福になれない

時間こそが苦しみを生み出す

明日幸せになろう、、来年こそが幸せになろう、、、この発想が既に不幸の中にいます、苦しみの中に居ます、、、時間軸の中で幸福になろうという試みが既に苦しみを生み出すのです、、、「じ・か・ん」という言葉はイメージです、、事実として時間が存在し、、その存在する対象に、、「時間」という名前を当てたのではありません、、時間という言葉を覚えることで時間というイメージを創造し、、、時間がこの世界に現れたのです、、、時間という言葉を覚えるまでは、、時間はその人には全く存在していなかったのです、、

つまり、、時間はイメージ、幻想

時間という言葉を覚えることで見かけ上のその人に時間が誕生しました、、時間の中で私が生きるというイメージが誕生したのです、、、これが苦しみを生み出します、、、時間の中で私は至福に至る、、これは不可能なのです、、なぜならば至福は時間や私というイメージの外にあるから、、、時間の中の私が生きるは、、イメージであり、、イメージの中は苦しいのです、、、頑張って明日から死ぬまで至福でいよう、、これは不可能なのです、、、人類全員が。

時間も私もイメージ、幻想

時間も、この私も言葉が生み出したイメージ、幻想です、、、この言葉を覚えるまでは時間も私も存在しないのです、、無人島に生まれ住んでいる人は、、時間を感じたことがないのです、、、時間とは生物が誰しも感じることではなく、、時間という言葉を覚えた者だけが感じるイメージです、、真実ではないのです。これが腹落ちしますと、、時間、私というイメージから抜け出せ至福、静寂の世界に入れます。

時間は言葉

言葉は全部イメージ

時間という言葉を覚えるまでは、、、子供は時間という存在は全く存在していない世界に居ました。。。子供は自分が時間を過ごした、、など感じたことがなかったのです、、、、ところが「じ・か・ん」という言葉を覚えたことで時間というイメージができました、、、移り変わる世界に「時間」が登場したのです、、、、これによって「私」が時間の中を生きている、、、というイメージが完成しました。。時間というのがそもそもあったのではなく、、、時間という言葉を覚えることで、、、時間というイメージが想像されたのです。創造といってもいいでしょう。

「わ・た・し」

私という音の組み合わせを覚えることで、、、この世界に「私」というイメージが登場しました、、、この体を現象界の中で見つけると、、、この「私」も一緒に登場します、、、『あ、わたしだ!!』です。私って絶対に居るよね、、、となります、、ですがこれはイメージです。。イメージが現象界と重なり合っているのです。この私は道を歩けば、、、私というイメージが、、、動き、、景色が変わり、、私が歩くというストーリーを創造しています、、、この想像は神が行い、、そしてこれを神が感じます、、、、

私をイメージし、私が感じているというイメージをし、それを神が感じる

唐揚げを食べている時、、、唐揚げというイメージ、、をこの私というイメージが、、食べるというイメージをします、、そしてこの唐揚げを食べた瞬間に味が起きます、、これを神は感じ、同時に私が食べたというイメージが起きます、、次に美味しいが湧きます、、これを神が感じます、、次に「私は美味しい」を感じたというやはりイメージが湧きます、、これを神が感じます、、神は私をイメージしながら全経験を感じているのです。。これは神の一人芝居です。

5分間思考に取り込まれない時間を作る

たった五分

たった5分間思考に取り込まれない時間を作るのが難しい、、、多くの方は5分間目を閉じて思考を観察しましょう、、ができない、、、なぜか???あまりに思考との同一化に無意識だからです。。。思考に意識がフォーカスし、、、気づけばそこに完全同一化が起こっています、、、これに無意識、、、、ということで先ずは5分間思考に取り込まれない、、思考していることに気づく状態をチャレンジします。

それができない

思考に取り込まれていない状態が分からない、、、これが多くの方の正直な感覚です、、、思考に取り込まれ過ぎて、、思考していない状態が分からない、、、、空気を吸うのが当たり前過ぎて、、、、空気を吸っていない状態が分からない、、このような感覚です、、、、、

気づけば空気を吸うように

空気を吸うのが当たり前の人間にとって、、気づけば空気を吸っているが当たり前、、、ですから、、相当に意識しないと勝手に思考が起きそこに無意識になります、、、この状態が苦しい状態、、、思考と意識が完全同一化しますと、、、何をしていても苦しいのです、、、先ずはここを話す、、、先ずはというよりもこれができれば完成です。。。空気を吸っていたから苦しかった、、、空気を吸わなくなると苦しくない、、、これと同じなのです。このトレーニングを毎日行います。

今に居れないから、、、時間を気にする

今に居ることが出来れば将来不安はない

今に居ることができれば、、、その時その時にその行為に埋没すればいいだけです、、、仕事に入り無我になる、、作業に入り無我になる、、、読書を通じ無我になる、、、なんでも気が向くことに入り無我になればいいのです。。ここは静寂の場所、平和な場所、至福の場所です、、、、誰にも邪魔されません、、、ここに入れない人が、、将来を過剰に心配するのです。

後悔も心配もしなくていい

後悔も心配も自由意志があると信じているからこそです、、、ですが自由意志はありません、、、将来を左右するような決断を自分の意思では一切できないのです。。。これが真実です、、、、だとしたら一体何を心配し悩むことができるのでしょうか????無理です。。。。心配も後悔もできなくなると自然と今に居ることができるようになります、、小さな子供が今に居れるのは、、心配できないからです。

現象として幻想として情報を集める

株のブローカーであれば、、、情報を集めるのは当然のことです、、、この際にはこれは現象、幻想であることを見抜いて集めればいいのです、、、情報という現象から株を精査し次に買うべき株を吟味していきます、、、ですがこのことと、、、静寂、至福、平和とは全く関係がありません、、、静寂、至福、平和は時間ではなく今にしかないのです、、、、ここを理解し、、、情報収集を通じて無我に入ります、、、もしくは株に関して思考が湧いてきてもそこを気づきの意識として観察し今に入るのです。

問題は全て時間の中に

問題の全ては時間に依存する

問題というのは時間の中にあります、、問題=時間内です。今の会社が合わない、、、というのは明日もその会社に行かなくてはならないから悩むわけです、、、本当の大きな問題とは、、この時間の外に出れないという大きな問題があり、、、この問題が形を変えたのが全ての問題なのです。時間の外にで出る????そうです、、本当は時間が無いにも関わらじ我々は時間の外に出れない、、、これが苦しいのです。

時間は記憶でしかない

時間があると認識するには記憶の存在が絶対に必要です、、、昨日どら焼きを食べた、、これは記憶があるからこそ言えるのです。記憶があるから過去があることを全員で共有しているのです。そしてこの私がどら焼きを食べた、、、が私の存在も証明するのです、、、だら焼きを食べた私の存在です。。。その記憶は見かけ上のこの脳の中にあります、、、記憶、私、脳、、、この三つで時間が共通認識されていきます。

本当はこの一瞬しかない

本当はこの瞬間しかなく、、、この瞬間の中に居ることができれば、、、時間から卒業できます、、、時間から脱出できます、、、この瞬間、、、無我に入れれば、、、もう時間が必要ないのです、、、、時間の中で何かを獲得したり問題を解決することに興味が無くなります、、、なぜならば、、この瞬間が気持ちが良いから。。。。明日何をしよう????明日も今の中に居ればいい、、、こうなります、、、、明後日は明後日も今に居よう、、、これで終わりです。

今に居る????

今に入るとは、、、思考を完全シャットアウトし、、、今に集中することです、、、今の作業に入り込むことです、、、これが今に居ること、、、、時間ではありません、、、、もしくは思考が湧いてきた時に、、、その思考を観察する存在になること、、、思考、行動が湧いてきたら、、、その出どころになること、、、しっかりと今それらを観察します、、、すると思考の渦に飲み込まれず、、、、今に居れます。

あれ、、時間なんてあるわけがない、、、

今時間は絶対に存在しない

時間というのは今を記憶し、それを繋ぎ続けることで発生します、便宜上、、、時間を誰も時間を見たことがある人が居ないのは存在しないからです。今というこの瞬間、生命の現れ、、、ここには経験しか実は存在しません、、今画像が在る、、今音が在る、、今味覚がある、、今食感がある、、今触感がある、、今匂いがある、、、これだけです、、この体は、、、その画像が在るのみです、、ですからどこを探しても時間はないのです、、ただ経験だけがあります、、、これも見かけ上の脳が記憶し、、時間があるというアイデアが湧きました。

時間に取り込まれるデメリット

時間に取り込まれていくのはこの自分です、この自分が時間の中に取り込まれていきます、、時間は自分に依存し、自分は時間に依存します、共依存です、、、幻の存在同士が共依存で生き残ろうとするが全体から起きます。覚者は悟り、、時間がないことを見抜きます、、自我の終焉には重要なことです、、この自分がこの時間の中で何かをしなくてはならない、、、これが苦しみを作り出す強固なシステムです。

便宜上の時間に至福を邪魔させない

時間とは便宜上のものです、、この時間に取り込まれていきますと、、、至福感が消えていきます、、時間に追われるのはいつだってこの自分だからです。時間がない、時間が足りない、、、それは「自分」、、、だから苦しい、、忙しい、忙しい、、、忙しいのは誰??自分です、、、だから苦しい、、、時間はこの自分をストーリーの中に埋没させます、、時間というアイデアが、、自分を自分劇場に埋没させるのです、、だから覚者は何度も「時間なんてないんですよ」「今この瞬間しかないんですよ」を言います。。。

思考がこの「私」を時間の中に閉じ込める

思考が悪いのではない

今日はこれやって、あれやって、明日はこれやってあれやって、、、昨日はこんなことしなければ良かった、一昨時はあんなこと言わなきゃ良かった、、、ストーリー上の私は毎日こうやって思考します。思考の特徴は将来のために、、もしくは過去を振り返って、、、を繰り返すのですが、、、、このことがストーリー上の「私」を絶対的なものにするのです。「私」ありきというのが思考の特徴なのです。だから思考を自分のものだという勘違いが続くと苦しくなっていくわけです。

思考はただ湧く

思考はただ全体から湧き上がります、、、明日雨だから傘持たなきゃ、、、が湧きます、、、その後にいや持たないで行ってもしも降ったら買えばいいか、、、湧くのです。その時にこれって全体からただ湧いてるんだなー、、、という気づきの意識の感覚、事実をただ眺める感覚を持つと、、自分劇場に入り込まなくて済むのです。

そして行動も湧く

どれほど思考しようとそれとは全く関係なく行動が起きることがあります、、これが事実です。行動も思考とは全く関係なく起こっています、全体から。ですからこの私がこの行動に対し出る幕はないのです。将来は絶対に軽井沢に住むぞ、、と決めていても、、いきなりアメリカに住むが起こるかもしれません。そうです、事実はこうなっているのです。

時間の中で結果をだすということ

この感覚こそが自分感覚

自分という存在は時間の中で結果を出そうとします、来週の試験のために今から準備をしよう、来年の入社に向けて今から就活をしよう、20代で結婚するために今から美容に力をいれよう、、などなど、、、これが自分という存在の通常行動です。ですが実際には時間はなく今を記憶したものに過ぎません、そしてこの自分という感覚も記憶に支えられて湧いて来た感覚であり実在では絶対にありません。だからこそ自分という感覚は将来目標を設定しそれに自分がなると思考し安心するわけです。

夢とは自分維持ツール

将来は何になりたいの???こんな質問を何回されてきたでしょう、、将来の夢は?将来つきたい仕事は???とですがこれらは全部自分という感覚を強める装置になります。この自分が居るという前提でこの質問はされます、この夢の中です。そしてそれによって将来の夢はあった方がいいのかと思考し何か夢を探すのです、時間の中です。夢を持ってそこに歩んでいる期間は確実に自分を維持できますから安心です。安心してこの喜怒哀楽の夢を自分が歩むことができるのです。

ある時気づく、この夢こそが夢に安住するための道具だったと

将来の夢は???その夢こそが自分をこの夢の中に安住させていました、なんとも皮肉なことです、夢というのは自分が歩む最終目標のことであり、、この夢こそが自分を夢の中に閉じ込めて来たのです。夢も思考、夢の中も根源の現象に名前がつけられた幻想の世界です。この幻想の中でさらなる夢を見るという大変面白いことをしていたのです、自分が。

ではどうするのか?

ではどうしたらいいのか???ほぼ全員からこの質問をもらうわけですがどうかできる自分という存在は感覚でしかなくその感覚も根源から起こっているだけです。どうかできるような自由意志がある自分など居ないのですからとにかく諦めるしかありません。もしも根源に触れるという衝動が起きるのならば自分から覚める根源の動きがこの体を通じて起こるのでしょう。