探求

幻の認識は幻の終わり

我々は真実をただ認識すればいい

「この自分は間違いなく居る」これは自我が作り出した錯覚のメカニズムです。このメカニズムをいかにしたら脱却できるか?探求者は自我の存在を知りながらもではそうしたらこれを脱却できるかに心酔します。幻の真実はそれを幻と見抜いた瞬間なくなるということです。つまりこれは幻であることを体現するほかありません。知識のレベルでこれをいかに知ったところでそれは知識であって概念です。お寿司とはこういう味だ、、、こんな情報を1万回聞いても本当のお寿司の味は理解できません。悟りもこれと同じ先ずは体感し自我が幻であることを理解するほかありません。

大ピンチの状態、、、自我が抜け落ちる

突然の交通事故、街での喧嘩騒動、隣家の火事、震災、、、こんな非常事態に実は人間は楽になっています。急に頭が軽くなり気分が晴れているのを知っているでしょうか?火事場の糞力ではないですが緊急時とは普段の数倍の力が出ます。この状態は思考が抜け落ち自我が抜け落ち無我、ワンネスの状態です。スポーツ選手ならば知っているはず、余談を許さないような試合中いつもは重苦しい頭が劇的に冴えている、、これが無我です。この状態は誰でも知っているのです、ただこれを意識的にできない。なぜか?それこそ自我の妨害です。

毎日積極的に無我になることで幻は消えていく

無我の状態の気づきとは、、普段は自我が気分を視界を重くしていたんだな、、です。自我がただ不平不満、負の感情を湧き出させていたのだなという絶望的な気づきです。この気づきを積極的に行っていきます。積極的に無我に入っていくのです。全ての作業、全ての仕事、全ての会話、全ての雑事に対し無我で取り組むのです。もしくは負の感情が湧いてきたらそれを集中して観察します、積極的に負の感情を観察する観察者になるのです。そこから無我に入ります。人間活動の全てを無我への入り口に変えるのです。その時に気づくのは自我こそが人間を苦しませていたのだな、、というジョークです。

ゲームをクリアしたマリオは探求の旅に出る

マリオゲームクリアの次に来る絶望感

マリオはゲーム進行中はそれほど迷わないものです。ゲーム中はゲームクリア以外にそれほど思考が巡らない。ところがです、いつの間にかクリアしてしまった、ここが実は地獄の始まりです。多くの場合はもう一度ゲームを最初からスタートするか次のマリオゲームにチャレンジする。そういえば友人がマリオカートも面白いと言っていたな、、こういう発想になり次はマリオカートへのチャレンジがスタートします。ところがです、マリオカートもクリアしてしまった、、そうなる次はマリオゲーム最難関のマリオスタジオにチャレンジ、次はマリオインターネットプレイを、、と難易度を上げ続け、、、最終的にやることがなくなる。。。。これがマズローの欲求5段階の流れです。安全欲求から始まり所属の欲求、承認欲求、社会的欲求、自己実現欲求と階段を上っていくわけです。そしてその階段も上ってしまったらどうするか?ゲームを辞めるしかありません、それが自己超越欲求です。マリオとしての卒業です。

そもそもマリオゲームってどんな風に作られているのか?

これがマリオが疑問に思う次の衝動です、散々自分はマリオゲームに時間を割いてきた、、そして次から次へとゲームをクリアしてきた、、もうここからゼルダシリーズに切り替えるパワーも好奇心もない、、、ということでマリオはマリオゲーム製作秘話に興味を持ちます、というよりもそこにしか救いがない。マリオはこのゲームの仕組み、カラクリに興味を持ち始めていくのです。そして調べていくうちに面白い事実に突き当たっていきます、マリオは実は幻想でマリオの中に人格も個人もいないという話。???どういうことだ?この自分がいない?マリオはこの話を聞いても全くピンときません。今まで散々この体に鞭を打ってゲームに没頭してきた、常に一進一退の攻防を繰り広げ生き抜いてきた自分がいない?意味がわからない、、こうなります。

一番の驚きは自分が進んでいたのではなく、画面が動きマリオが進んでいたように見せていた

マリオにとって大きな驚きの一つは、、自分が進んでいたのではなく背景が変化していたということ。自分が前に進んでいたと思っていたら実は背景が変化して進んでいたように見えていたという事実。自分が動いていなかった????自分というものが動こうと意思が働くとなんと背景が変化していたのです。こんな恥ずかしい話あるでしょうか?進んでいたと思っていたのは自分だけで実は全体がそう見せていただけ、、、恥ずかしい。。知らなかったのはこの自分だけ。そうです、このマリオゲームで勘違いをしているのはマリオだけです。クリボーもクッパもプヨプヨもマリオにとっては全体の一部で、マリオだけが自分が動いていると勘違いしていたのです。

人間ゲームに戻ってみる

我々人間も全く同じメカニズムで勘違いしています。自分がこの背景の中を歩いていると勘違いしています。実は全く別です、自分が動こうとすると背景全体が変化しているのです。駅まで歩けば背景が変化し続けていきます。このゲームの中心には常に私が存在し私を中心に背景、全体が動き続けるというストーリーを我々は生きているのです。そしてこの私が経験した全てを記憶機能に記憶させ「我が人生」が作り出されていきます。何か事件があった時にはこの記憶を遡り何が原因かを考えます、そしてこの記憶の中から最適解を探し出し解決を図るのが人間です。

全体にとってこの自分は退屈すぎる、、

マリオがもしも敵と戦わなかったら、、、

もしもマリオが敵と戦わなえないゲームに変更されてしまったら、、、大変退屈なゲームになります。マリオが通る道を全キャラが素通りにしていってしなえば退屈極まりないゲームになります。なぜか?マリオには戦うという機能しか用意されていないからです。マリオは歌を歌うことも、スポーツをすることも、ビジネスをすることも何もできません、ただジャンプして走るという機能しか用意されていないのです。これは人間も同じです、全知全能の神がこの無知無能の人間ゲームをしています。もしも人間が何もしなかったら退屈なのです、神が、気づきの意識が、全体が、、、です。人間は活動してくれて初めて気づきの意識は安心します。

活動して活動して活動して、、、もうこの退屈脱却ゲームに辟易したら、、、

神、気づきの意識、全体がこの人間活動をするのは、、、何もしなければ退屈極まりないからです。人は何もしないと退屈という感情が湧きますが、、あれは確実に気づきの意識から湧いています。そしてそれを人間は自分のものにする、、、「あー退屈だ、、、」となるのです。何もしないと退屈が湧いてきますが、、、気づきの意識は、、ただ人間が何もしていない状態、、、マリオが何もゲームに参加しない状態が、、、耐えられません。人間にとってマリオが戦うしか能がないように、、、神にとって人間とは活動するしか能がないのです。ということで人間は今日も活動します。ですがもしもこの活動地獄に辟易したら、、、ゲームのネタバレを探求するゾーンに興味がでてきます。自己実現からの自己超越です。

今日も私は自己超越活動をする

神は人間を作りましたが人間は神に比べ無知無能ゆえに何もしないでいると退屈になっていきます。そこで人間に活動をさせます、人間は食べたり飲んだり寝なくては生きていけないように設定されているのはそのためです、もしも人間が太陽光を吸収でき何も食べず、寝ず、飲まずに生きていけたならば何もしないでしょう。この状態は神にとって退屈極まりない状態なのです。このブログを書いている私は、毎日ブログを書くということをすることで活動しています。活動していると神が満足しているのが分かります。何もしていないと神は退屈になり退屈という感情が湧いてきます、それをこの私は感じ取り自分のものにすると、、退屈だなーという言葉が湧いてきます。

今こことは何か?

今は時間から外れること

「いまここ」この言葉ほど悟りを探求する人間を惑わす言葉はないでしょう。いまここにありましょう。私もこの言葉には苦戦しました。今は理解できます、この言葉の真意を。ですがこの言葉を表面だけで理解しようとする迷宮入りするでしょう。書道家は無心になって書に向かうときに時間を忘れます、場所を忘れます、経験だけになります。自分もいなくなります。経験だけがそこにあります。この状態が「今ここ」です。実は時間も場所もない状態こそが「いまここ」です、つまりこの言葉の意味と真逆です。時間と場所がない状態こそ今ここです。この感覚が理解できてきますと、、目の前に広がる世界は夢である、ただ夢が顕現しているということがわかります。すると今ここに神が顕現している、空が色として現れているということも分かってきます。それが今ここです。

神は「今ここ」にあった

神とは今ここです。神の顕現が今ここです。目の前に広がる世界がそのまま神です。神の夢です。それ以外は何もありません。何かがあるならばそれは全存在ではなくなってしまいます。目の前に全存在が広がります、それを認識するのも人間扮する全存在です。全存在を全存在が認識しています。認識するという言葉は主体客体の表現ですから厳密には違いますが。今ここだけが神です。神の夢です。神の夢ですから因果を超えています、時間を超えています、空間も超えています。

時間も空間も超えた世界

あの人は面白い、あの人は何か違う、あの人の行動は読めない、、あの人の秘密は時間と空間を超えた状態を知っているか否かです。この夢の中に没入していますと思考全開状態です。思考とは損得計算機です、損得感情、利害感情で行動します。夢にのめり込めばのめりこむほど見える世界は活気を失い苦しい世界を生きるのです。誤解の極限です。そんな世界を生きていると思考全開、自我全開になっていきます。そんな中、無我夢中、無心、無思考、完全燃焼の状態を知る人が現れるとその人は変わった人に映ります。自我ではなく無我をベースに生きています。思考ではなく無思考をベースに生きます。不完全ではなく完全燃焼をベースに生きています。その状態とは平和、歓喜、安堵です。

神が見る夢の中での時間あるなし問題

時間はある、ない、、禅問答

これは夢です、神が見る夢です。神が人間に扮する夢です。さてスピリチュアル探求者、悟り探求者の中で必ず話題になるテーマ、時間について今日はお伝えしたいと思います。結論から言えばこれは夢ですから時間はあると言えばある、ないと言えばないとなります。夢ですから。あなたが毎晩見る夢の中で時間は存在するでしょうか?ストーリー展開としては確実にあるでしょう。ですが本当にあるのか?と言われれば夢ですから実態はないと言えます。時間とはそのようなものです。夢の中であなたが富士山に登る、その時時間は存在するでしょう、ワープを使わない限り。ですがその時間とは夢の中で存在しますから無いと言えば無いのです。我々が現実社会、現象界と称するこの世界は神が見る夢ですから時間はない、あるどちらも言えます。人間目線であれば勿論時間はあります、ですが神目線で見れば夢だからないということになります。

空間はある、ない、、禅問答

空間についても議論が多く出る問題です。これも夢で考えれば簡単です。夢の中に空間は確実に存在します、空間がなかったら主人公も、脇役も誰も登場できないです。昨晩あなたな見た夢がサッカーをしている夢ならば球技場が絶対に必要になるでしょう。だから夢の中では100%空間はあります。ですが夢です。そしてこの現実社会、現象界は神が見る夢です。人間(主人公)にとっては空間は確実にあります、ですがこれは夢の中での空間ですから主人公(私)が見る視界以外には空間は存在しません。私(主人公)が見ていないところでは空間はあるはずがないのです。夢ですから。

自由意志はある、ない、、、禅問答

自由意志についても議論が多く出る問題です。この自由意志はあるのかないのか問題はスピリチュアルの究極問題、悟り系探求者の究極問題です。ですがこれも神が見る夢だという認識を持てば簡単です。神が見る夢ですからそこに出てくる登場人物(主人公)、脇役に自由意志があろうはずがありません。ただし主人公になり切っているのも神ですから神目線では当然にあるということになります。主人公(人間)になり切っている神目線であれば自由意志は確実にあります。ですが人間目線で言えば当然ないということになります。夢ですから。

ワンネスが見る夢の中でこれが夢だと進んで言ってくれるキャラはいない

自分の夢の中でこれは夢だという進言をされたことはないはず

毎晩見るあなたの夢の中で、夢の最中にこれは夢だから覚めたほうがいいと進言されたことはないはずです。夢の中の登場人物が突然、これは夢だぞ、、というアドバイスを少なくとも自分は貰ったことはないです。なぜならば自分自身が夢を見たくて見ているのでその中でそのような空気を読めない登場人物を登場させないのです。だからこそ夢は朝起きるまで続くわけです。ということはこの現実社会、現象界はワンネスの夢だからその夢の中でこれが夢だと進言してくれる人物は現れるわけがないのです。

自分自身(主人公)がこれは夢かも?と気づき探求するしかない

ワンネスが見る夢の中で我々は登場人物として生きているわけですが「これは夢だ」というTV番組がNHKで流れることは今後もないでしょう。積極的に夢発言をするような情報が流れてはワンネスがこの夢物語を作った意味がなくなってしまいます。積極的にこの情報は流れないでしょう、今後も。そうなるとこれが夢かも?と気づいた主人公(私)が積極的にこの情報を取りに行く他ありません。巷にはなかなか落ちていないどころか、これは夢だと公言しても多くの人は病人扱いするはずです。それはそのはずワンネス自体が夢から覚める応援するような登場人物の出現をしないからです。最終的には全員がエージェントスミス化して夢から覚めることを阻止します。これは大変面白い夢、ゲーム、映画です。

これは夢かも?と気づき始めたら一気に卒業に向かう

この現象界が実は夢幻で私はただこの夢物語の中で登場人物の一人を担っている、、このような疑念が出てきたならば一気に卒業に向けて前進するべきです。何故ならば夢かもと思いながら生きていくのは夢上苦しいからです。正直深刻に物事に向き合いずらくなっていくはずです。マトリックスのNEOが嘘か本当か疑念を抱きながらエージェントスミスと戦っている時期が一番苦しかったのは観ていて気づくはずです。もしもこれは夢かも?と疑念が湧いてきたのならば夢の制作者ワンネスは夢から覚める準備に移った可能性があります。

真理は思考ではない

真理の場所はどこにある?

真理、存在を探してもどこにもありません。それは個人が探求して探すことで逆に真理、存在は隠れてしまうからです。探すという行為が真理を隠します。探すということは主体客体の世界、どこかに見つかる世界があるという矛盾を生みます。この二元の世界こそが分離の世界、この分離の世界に真理、存在はありません。分離の世界に存在するのは時間と空間という幻想がただあります。夢が広がるだけです。

真理は夢から覚めること

真理、存在は個人が存在するこの夢から覚めることを意味します。夢から醒めればただ存在だけがあります。そして夢から覚める張本人は個人ではなく存在自体です。個人の欠落、自我の欠落が存在です。存在を覆い隠してきた個人が欠落することで存在が存在を見つけるのです。個人とは存在を隠すための隠蓑です。自我とそしてそこから繰り広げられる夢舞台は存在が創造する夢です。

キリストも釈迦も夢の登場人物

キリストも釈迦も夢舞台の登場人物であることは間違いありません。つまり個人ではなくただの生命現象、存在の顕現でしかありません。ですが彼らが説いた内容は真理を説明していました。人間という誤解、錯覚を解いた先に真理、存在、大いなる一つがあると説きました。人間としていかに生きるか、何が正しいか、何を正義に生きるかを説いたとされる諸説は全て嘘です。どのような生き方が清く美しく、どのような生き方が不純で卑しいかという考え方は観念でありその観念に縛られている限り解放はありません。