悟り

無常を認識できるのは誰だ???

無常には無常は認識できない

今目の前に居る猫は100%幻想です、、あるように見えているだけです、、、つまり蜃気楼です、、、蜃気楼が、、、、何かを見ることは出来るでしょうか????できませんね。そうです「目の前の猫は、、コップを認識できないんです」「目の前の猫はコップを認識しているように見えているのです」幻想が幻想を認識するってありえないんです。釈迦は悟りこの世界は無常と表現しました。無常とは常に移り変わるという意味ですね。ではこの無常を認識しているのは誰か???それは無常ではなく常です。常とは全く変わらない何かです。

全く変わらない「何か」「常」が無常を認識している

この世界が100%幻想、幻影ならば、、この幻想を認識できるのは非幻想です。非幻想とは、、幻、思いではない存在です。それが100パーセント在るんです、、、在るです。「在る」「非幻想」が幻想を唯一認識できるのです。私の本質はですからこの「在る」「常」です。これは100%です。ですから私は一度も何かを失ったこともなければ奪われたこともないのです。

失ったり、奪われることができるのは幻想の「私」

一方幻想の私はしょっちゅう奪われますし、失います、、、見かけ上。だから私は年柄年中悲しくなり、鬱々し、ショックを受けています。ですが私の本質はと言いますと「非無常」「非幻想」「非現象」「常」「在る」「空」ですから、、、、一度も奪われもしないし、失いもしないのです。本質の私とは、、失ったという勘違いの経験、奪われたという勘違いの経験を作り出す源です。

熟睡に比べれば全てはフェイク

昨日は良い夢見たなー

熟睡して目覚めた朝と、、良い夢見てラッキーだたなー、、から目覚めた朝どちらが清々しいでしょうか????間違いなく熟睡ですよね??????スーパーリッチになった夢と熟睡どちらを次の日経験したいですか?????熟睡です!!!そうなんです、、スーパーリッチは楽しい!という刺激、、比べて熟睡は刺激ではなく、、全刺激が落ちた状態なのです、、究極の無です。

スーパーリッチって

スーパーリッチになぜ憧れるかと言えば、、、、苦しいという自分をお金の力で常にごまかせる可能性があるからです。だから皆スーパーリッチに憧れるのです、、今日はフレンチ、今日は寿司、今日は旅行で、今日は温泉、今日はパーティー、今日はコンサートライブ、、、と退屈を凌げそうな予感がするわけですね。これは期待でしかないんですが。。。つまり根底には「苦痛」があることが前提なんです。ところが熟睡状態は根底の苦痛、退屈がないんです。

熟睡とは

熟睡とハッピードリームの違いは、、、自己意識の有無です。熟睡は自己意識が無いんです。一方ハッピードリームは自己意識があります。熟睡には大前提の苦しみがなく、、ハッピードリームは自己意識が生み出す苦しみが大前提にあるのです。ですからハッピードリームは毎日何かしらをして苦痛を解消し続けないといけないんです。だから忙しいわけです。一方熟睡は忙しくないんです、だって忙しくなる自分が居ないんですから。

解放とは

解放とはまさに熟睡状態のこと、、もうそこに自己意識がないんです、消えたんです自己意識が。すると大前提の苦しみが湧かない、、、、だから忙しく楽しい行事を並べる必要がないんです。次から次へとイベントが必要ないんです。退屈にならないからです。自己超越、解放、悟りに、、、自己がどうしても憧れる理由がここにあります。何かをして苦痛を紛らわすという状況自体が苦しみなんです。そこには真の安らぎがあるわけがありません。

言葉とはゲーム用語

ゲーム用語で本体を語る矛盾

ゲーム用語ってゲーム内でしか成立しないんです、マリオ、クッパ、ジャンプ、Bダッシュ、、全部スーパーマリオゲームの中でしか通用しない言葉なんです。我々のこの言葉とはまさにこのゲーム内幻想内夢内でしか通用しない言葉なんです。だからこの言葉で真理を語ろうってこと自体が無理ゲーなんです。語れば語るほどにゲーム内夢内に入り込んでいくんです。

悟り、解放、解脱

この言葉を使った瞬間に全体はこの言葉を読み込んでイメージ化します、、このイメージの世界がこの夢、ゲーム、幻想を作り出すのです。だから「私を解放しましょう!!!!」という言葉はそのまま全体に読み込まれイメージ化されます、、私が解放されるイメージが誕生します。ここから抜けたいにも関わらず。だから覚者は「黙して語らず」「言葉が指し示す先に悟りがある」「あなたが悟るのではない」と意味不明な言葉を発するのです。言葉はこの世界に誕生した瞬間イメージ化されるのです。

イメージの先にあるもの

言葉が作った世界から抜け出すためには言葉が何をしているかに気づく必要があります。言葉がこの世界に誕生した瞬間に何が起きているかが分かれば今ゲームが上映されていることに気づきます。ゲームが上映されていることが分かればもうゲームの外に居ることになります。ゲームの外に居るのは誰ですか????「私」ではありませんよ、だって「私」はゲーム内のキャラですから。つまり私から脱出できているんです。そこには本当の安らぎ、平和が漂っています。

収縮したエネルギー「私」

ゲームに熱中する時

スーパーマリオを初めてやる時って、、ゲームに集中できないんです。右ボタンを押しても、、マリオが動いているって実感が湧かないんです。実際は動いているんですがそれが何かに気づけないんです。次にジャンプボタンを押します、マリオがジャンプしてますがそれに気づけないんです。だからマリオをやっている実感が湧かないんです。全体がマリオをやっている感が湧かないんです、、しばらくは、、だから集中できない。そして5分もすれば一旦休憩に。しかしながら二回目三回目となるとゲームを立ち上げた瞬間にマリオになり切れるんです、マリオに意識が意識し始めるんです。

私に熱中する

この体に意識が意識するころに慣れてきますと「集中」できるんです、、この体に、、そして「自分」がやってる感が出るんです。これが自我の完成です。マリオに集中できる、この体に集中できる、全く同じです。そしてその時は全部のトラブルを全部の功績を味わえるんです、マリオとして、この体の中の自分として。マリオ最高、自分最高です。だけどどうじにいっつも「苦しい」ことに気づきます。マリオは二時間もすれば休めますが、、この自分は休ませてくれません、、寝てる時以外。

ゲームをしながら自分を辞める

だからこの人生は苦しみが常に伴います、、マリオは二時間、この自分は24時間営業です。結果この苦しみを解消しよう解消しようという動きが起こり、、自分はあらゆる娯楽、何かにしがみ付いていきます。でも本当はわかっているんですマリオを辞めないと、自分を辞めないと、、、この苦しみは終わらないことを。そのことに気づき始めると悟りの本とかを読めるようになります、、自分をやったままではこの苦しみが終わらないことが分かっているからです。

集中するの辞めちゃえば

本当は本当はこの体の中の自分に集中しなくたって実はこのゲームは大丈夫なんです、、なぜか???全自動で動きからです。いままでも全自動で動いていたんです、、本当は。自分という感覚を持ちながら実は自動運転だったんです。そのことが徐々に分かってきます。そうするとどこかで全体が手を離す、コントローラーから手を離す瞬間が起こります。これが解放です。

意識が意識に意識する

意識が思考に意織する

我々の多くは「意識が思考に意織しています」これが一般的な人間の在り方、、意識が「この体この思考この感情こそが自分」という概念を意織しています。その結果その概念がそのままここでイメージ化されイメージの世界に入り込むのです。と同時に分離感、孤独感、不足感という憤りが発生しそれも意織が意織します。結果その憤りを概念としての「私」が解決する動きが起こり、、思考というプログラムが落ちない状態にはいります。これが苦しみのメカニズムです。

一方

一方このメカニズムに気づきが起きた意識は、、思考に立ち上がりに対し、、思考で解消しようとするのではなく、、この思考が落ちるのを待つという解決策を取ることができるようになります。「この体この思考この感情は自分」という思考感覚が起こす不快感を、、意識として観察するという方法です。その結果思考が立ち上がっても不快感が起きない、、という状態になります。意識が思考の立ち上がりと同時に意識に意識が向くからです。意識が意識に意識が向くと、、安堵、平和、喜びの状態になります。これは感情とは全く違い本質そのものです。

苦しい時こそ

苦しいな、、嫌だなー、しんどいなーーーこの時確実に意識が思考に意織しているはずです。やりたくないバイト、相手をしたくない仕事パートナー、、、その時思考がフル回転してこれを解消しようとしますが、、、回転すればするほどにストレスが増すのを感じてください。そうではなく「苦しい、嫌だ、しんどい」が湧くのは対象に意識が意織していて「意織」では無くなっていることに気づきます。すると、、意織としてただ現象に気づくという新しいスタンスが生まれるのです。

子供に嫌なお使いをお願いすると

子供に「卵買ってきて」これをお願いした時に、、「嫌だー、、嫌だー」と本気で泣き出す子供がいます。これ「嫌なお願い」に対して湧いてくる思考を掴み取り、その思考に思考を重ね、湧いてくるさらなる感情を掴み取りさらに思考するという、、思考感情連鎖を野放しにしているのです。これによって意識が意識に意識できない状態、、つまり安堵から程遠い状態に入っているのです。

悟りのイメージ

あの人は悟ってるよね!!!そのような時人はその人に対して「感情がないフラットな状態」を感じているはずです。それは半分正しい解釈です、実際には意識が感情思考に意識せず、意識が意識に意識している状態を保持しているのです。ですから感情ではなく本質を味わっているのです、ただし味わっている「私」は居ませんが。

周囲ありきを辞める

多くの方の行動原理

なぜ学校に行くの??なぜ働くの???なぜ結婚するの???なぜ???なぜ????全部が全部周囲がやっているから、周りがそうしているから、、、です。誰一人学校に行かず、誰一人就職せず、誰一人結婚していない状況であなたはやりますか?????絶対にしないですよね!!!!!つまりつまり、、私たちは周りがやっているからという理由で全部やってるのです。自分で選択して行動しているつもりかもしれませんが周囲の状況に反応しているだけなんです。

釈迦は「人生とは苦」と説いた

だから釈迦は悟り、、「人生とは苦」と説きました。生きるということで周囲の影響を受けずにというのは不可能なのです。ではどうしたらいいのか????周囲が幻想であることを見抜くのです、周囲はあなたが作り出した観念が投影した幻想です。。周囲を実在していると「感じて」いるから「私」はそれに反応を起こすのです。みんなが苦しんで頑張っているから「私」も、、が幻想、ストーリーです。

誰も苦しんでいない

今までは完全に騙されていました、、周囲が苦しんでいるから、、周囲が頑張っているから、、周囲も、、、、は全部そう感じるだけ。そのような事実は絶対に絶対にないのです、、なぜならばこの夢で起きる全ては気づかれるからです、、絶対に、、気づかれていることだけが確実に起こっていることです。気づかれないことは起きていないのです。

悟りすらも獲得しようとする自分

多くのことを成し遂げてきた、だから悟りも

私は獲れるものは全部得てきました。学歴、スポーツ、社歴、結婚、キャリア、財産、地位、名声、、、、だから私は最後悟りも獲得します。私って感覚を無くせば悟りを開けるんですよね????じゃあやったります。思い切っきりこれって自分が成し遂げようとしています。残念がら悟りはその個人が消滅することなんです。全部を成し遂げてきたこの最も親しい自分という感覚が抜け落ちることです。

自分って感覚はどこにあるんだろう????

そういえば自分って感覚はどこにあるんでしょうか?????目の奥????当然この体とリンクしていますから体に緊張といて残っているはずなんですよね。この感覚、この感覚が抜け落ちない限り、、どうしても私が悟りを開こうとしちゃいます。どんなにあらゆる情報を集めてもそれを集めている自分という感覚が残っていれば自分が肥え太るだけです。

自分が悟りたい、、は自分を強化する

悟りって何だ????覚醒って何だ????ノンデュアリティって何だ????追求すれば追求するほどに探求すれば探求するほどに、、、緊張感が出ますよね、、、その時に自分が居るって感覚は強化されているはずなんです。例の目の奥???あたりにあるやつです。体の緊張感が「この体この思考この感情は自分」という感覚を保持していますから、、それに気づき手放す必要があります。

私を取るか至福を取るか

私は至福を取れない

ノンデュアリティ、悟り、解放、、、、これらの言葉は魅力的に聞こえますね。。。。ですがこの言葉には、、私は到達できないのです。私こそが非ノンデュアリティ、非悟り、非解放を作る出す大元だからです。ですから私が解放に至る、私が悟る、私が目覚める、私が至福に至る、、、、というのは無理ゲーです。至福とはまさに私という概念、感覚が抜け落ちた状態、世界のことです。

でも確実にありますよね???

私っていう感覚、自分っていう感覚って確実にありませんか???体の奥、目の奥、、、個人差はあるんでしょうが。。。。この感覚が無くなるってありえるんでしょうか????この感覚がある限り、、至福ってありえないんです。なぜならばこの感覚こそが憤り、違和感、孤独感、分離感を生み出す張本人だからです。この感覚を所有しながら至福とか安堵とか平和とかありえないんです。

WE ARE THE ONE

無理無理、、、だって私という感覚がありますよね?????この私の感覚が孤独、分別、差別を作り出して居るんですから、、、、、みんなが一つなんて感覚を感じれるわけがないんです。この体の中に自分っていう感覚が抜け落ちた時に全てが理解できます、安堵、平和、歓喜そのものです。

ノンデュアリティ とはPCのこと

二元とはPC内のイメージのこと

悟りとか覚醒、解放のことをノンデュアリティといつしか呼ばれるようになりました。ノンデュアリティ とは非二元、、なぜこのような分かりにくい表現を使うのか????非二元だったら一元でいいではないか???という話です。ですがこの非二元という表現は的を得ていて、、、このドラマが二元の世界、主語述語の世界ですから、、そうではない、、という意味なのです。二元に見えているけど本当はそうじゃないですよ!!です。

この二元の世界は、、、

この二元の世界とはPC内の画像なのです、、PCというたった一つのマシーン機械の中に二元に見える世界を作り出したのです。プログラム言語と呼ばれる、、我々の思考言語でもって、、このPC(全体)に二元に見える世界を作り出すことに成功したのです。マリオがいてクッパがいる、山があり川がある、、私がいてあなたがいる、、私がコーヒを飲む、、、

このイメージの世界での覚者

二元の世界では様々なことが起きていますが視点を変えてPCを外から見ると何も起きていなんです。PCの形状は一ミリも変わらないんです、、、、PCからしたら時間も空間もないんです。時間も空間もPC内でそれがあるように感じることができるだけです。PCには何も起きていないのです。イメージの世界の覚者はこう言います「何も起きていないんです」「これしかないんです」「私が居てというのは錯覚ですよ」「時間も空間もないんです」これをイメージの世界の中でイメージとして言われちゃうから困っちゃうんです。

体というアプリケーション

体という初期設定アプリケーション

体は我々が自我が芽生える前からありました。つまりこれはPCでいう初期設定のアプリです。このアプリは進化アップデートを続けある仕掛けを作ることに成功しました。それがPCを立ち上げた時点であるプログラムが作動しPCがアプリ(身体)を自分自身であるという思い込みが起こるようにしたのです。アプリのことをPCが自分だと思ってくれたら、、このアプリ(体)の生存確率が一気にあがるわけです。

PCが立ち上がった時点でそのプログラムが起動する

朝、目が覚めます、、、その時点でプログラム「この体この思考感情が自分だ」が起きるんです。これによってPCの中にそのイメージが立ち上がるのです。ただし本当はPC全体はPC全体であってこのプログラムは無理があるのです、そのため同時に違和感、憤りが起き上がり、、それを解消するためにPCは自身でさらにプログラム(思考)を立ち上げてこれを解消するように動き続けるのです。結果言語が起き続けイメージが連鎖していきます。

PCは、、、、

PCはなぜこの違和感、憤りが生まれるか分からないので、、ただプログラム(思考)を起こし続けて解消に努めるのですが全く解決の糸具とが見えないのです。「この体この思考この感情が自分」というプログラム、、実はここに原因があるんですがそれに気づかないのです。この自分が解決する、、、という思考にはしっかりと「自分」プログラムが埋め込まれているのです。

悟りとはPCの勝利

悟りとはPCがこの自動プログラムの仕組みに気づいてそのプログラムが起きないように対策を起こすことです。全体がこの体の立ち上がりとともに起こるプログラム「この体この思考この感情が自分」の存在に気づきそこからの自動連鎖を起こさないように阻止します。解放とは、、もうこの自動プログラムが起きないことです。