悟り

明晰夢とは

夢の途中でこれが夢であると気づくこと

明晰夢という言葉があります。これは夢を見ている最中にこれが夢だと気づくことです。この感覚をこの人間ゲームの最中に気づくこと。これが悟り、目覚め、一瞥体験です。そしてそれに気づくのは誰か、それはこの夢の主人公ではありません、夢を創造している存在、つまり本当の自分、我あり、です。

無我夢中の時、それでも意識があるのはなぜ?

無我夢中の状態、ゲームに没頭する、仕事に没頭する、映画に没頭する、、、このような状態にいる時意識はなくなっているでしょうか、無くなっているわけがありません。むしろ明晰、むしろ鋭敏な状態。決して朦朧ではなく意識そのものです。無我夢中なのに意識があるのはなぜでしょうか、無我なのだから自分はいないのになぜ意識はあるのか?それは自我こそが後付け、自我こそが錯覚、無意識状態だからです。自我がなくなればそこには意識だけが残るのです。この意識そのものの感覚を思い出すことこそが神、ワンネス、大いなる一つの状態です。至福の状態です。この感覚を思い出したならばこの意識で日々を送ることです、これがワンネスがこの夢を夢と理解した状態での生活、つまり明晰夢です。

何かに集中できる人はその瞬間神になっている

マイケルジョーダンが試合中に神になったとよく形容されますがこれは実は本当です。神がかったプレーと称されるその瞬間、実はそこには自我が消えていて無我だけが残ります。自我の勘違いが抜け落ちそこにが無我、神が残っています。神が意識が直接人間を動かしているのです。自我が払い退けられて状態、この状態を人はゾーンに入ると言いますがそのゾーンは意識の状態です。無意識ではなく意識しかない状態、自我が自分でプレーしているという勘違いをしていない状態です。この瞬間に意識的に入れる人は達人、仙人、悟り人、マスターと呼ばれます。神が人間ゲームを遊んでいる状態です。

結果を求めるのではなく結果が出るぐらいに行為に没入する

結果とはどのぐらい無我になれたかの結果発表ぐらいに思っていればいい

多くの方は結果を求めそこに対していかに要領よくそこに至るかに頭を使います、地頭が良い人ほど要領よく世の中を渡っていくことになります。ですがこれではタスクをただ速やかに処理しただけ、そこに無我になれる余地はありません。それに対し達人はこのタスクを無我に入るための機会、チャンスに利用します。達人は全てのタスクを無我に入るための道具にします。だから達人はいつも機嫌が良い、いつも至福を感じて入れるのです。達人にはやらなくてはならないタスクはなく、全てが無我に入るためのチャンスになるのです。

何をしても満足できないのは無我に入れていないから

会社で昇級したのに、良い条件で家を購入できたのに、びっくりするような金額を手に入れることができたのに、、何を達成しても満足できないのは自我の働きです。自我が蔓延っていて不足を生み続けているのです。自我とは分離意識です、大いなる存在から分離した感覚これが自我です。この自我意識が強烈な状態で至福に至ることはありません、全ては一時的な快楽でしかないのです。ですから何を達成しても満足できない、快楽ジャンキーになってしまうのです。人間が唯一至福に至れるのは人間であることを忘れる以外にありません、そもそもの人間という設定を忘れときだけ至福に入れます。無我夢中になれたときだけが至福の状態であり、自分が成し遂げた、自分は金持ちだ、自分は人気者だ、自分は成功者だと自分を感じている間は至福から遠ざかり快楽ジャンキーに戻っています。

人間=快楽、苦悩の狭間を動くメカニズム

人間として至福に至る、人間として悟りを開く、人間として神になる、、、これは無理ゲーです。なぜならばこの自分は人間であるという感覚こそが不足感、欠乏感を生み出しているからです。人間として至福に至るというのは矛盾しかないのです。ですから我々人間は先ずは無我夢中になることを見つけそこから無我、至福、悟りに至る癖付けをする必要があるのです。これが茶道、剣道、合気道、弓道といいった日本古来からある道教の真髄です。勝った負けたはこの真髄に比べればデザート以下の存在です。

今から悟りに入る

悟りに入るのは今

悟りとは今入るものであって将来入るものではありません。悟りとは今入るのです。多く方はいつか準備ができたら、期が熟したら悟りに入るものと思いますがそうではありません。今しか悟りに入れないのです。そもそも時間とは幻想です、この時間という幻想から抜け出すには今悟りに入るしかないのです。茶道では今ここに集中できるかを問います。要領良く手際良く茶道を極めるといった話を聞いたことがありません、茶道に入り込む、その世界に今この瞬間に入るということが重要になります。

時間と空間というこの幻想、夢の世界から今抜け出す

人間が生きているこの時間と空間の世界は幻想です。そしてそこから抜け出すには自分というこの概念も幻想であるということを見抜く他ありません。ですがそれをどう見抜くのか、それが今に没入することです、今に生きることです、今の行為に無我になることです、今の仕事に無我夢中になることです。無我になれば自我は消えてなくなります、そして無我の感覚、つまりワンネス、大いなる一つの感覚を体感する以外に道はありません。

時間も空間も幻想ならばなぜ存在するのか

なぜこの時間、空間は存在するのか?それは存在の遊びです、リーラです。存在が分離体験を楽しんでいるのです、それ以上もそれ以下もありません。そしてこの分離体験は人間にとっては非常に苦しいのです、ですからこの分離体験から目覚めること。この時間と空間が夢であることに目覚めること、これが苦しみから逃れる唯一の方法になります。そのために人間ができること、それが今に入り込む、行為に没入し無我に入り、無我の感覚、境地に触れる他ないのです。1日にいかに多くこの無我に入り込めるかがこの夢から覚めれるかになります。