悟り

エゴ(自我)の研究とは???

これはウイルス対策

ウイルス対策ソフトは、、ウイルスのプリグラムパターンを予測し、、それに反応するようになっています。予めウイルスのパターンをPCにインストールしておいてそのパターンが起動した時その時点でそれに反応します。PCがウイルスに対し自動反応を起こさないように予め予測したソフトこそがウイルス対策ソフトなのです。悟りとはエゴのパターン、自我のパターンを予め学びこれを自動増殖させないためのことです。

エックハルトトールは自我(ウイルス)の動きを見破った

エックハルトトールは書籍の中で再三に渡ってエゴの動きを解説します、、、なぜか????PC(全体)にエゴの動きを学習させエゴの自動増殖を防ぐことを覚えさせているのです。ウイルス(エゴ)は動きを予測されてしまうと自動活動がやりにくわけです。水面下(無意識)に動きを強化し気づいたら染まっていたという状態が安定状態です。一方エックハルトトールはその動きを再三に渡って詳しく説明し要所要所でPC(全体)にこれを気づかせる仕組みを作ったのです。

全てが繋がる

悟りとは覚醒とは解放とは、、この仕組みを完全に理解してしまうことです。プログラム(思考)の異常増殖阻止、PCと言語の関係、ウイルス対策とは????完全に完全にこの仕組みを理解できますと、、、勝手に思考(プログラム)が立ち上がり、、イメージの世界から出れない、、、なんてことはないですよね????とはいえこれを理解してしまったら、、もう思考の世界、偽りの自我(洗脳プログラム)が幅を利かせることができなくなりますから、、そう簡単ではないのです。

プログラムが起きない???

「偽りの自分」の起動阻止

なぜ毎日「この体この思考この感情が自分」という思考(プログラム)が自動で起き上がっていたのか???それはこの真実を知らなかったからです。勝手に起き上がるように設定され(洗脳)まるでウイルスのようのPC起動とともに起き上がりそれに連鎖してまたプログラム言語が起きるという仕掛けになっていたのです。ですがこの事実が理解できますと、、プログラムの起動を止めることができます。なぜならば「この体この思考この感情が自分」というプログラムが立ち上がった時点でそれに気づき(PC本体)に戻れるからです。自身(PC本体)が朝の自動プログラム起動によって最初からイメージの世界に引き込まれ、、それが連鎖され日中イメージの世界から出れない状態になっていたのです。イメージがイメージを連鎖していました。ウイルスに感染したPCを思い出してみてください。

ウイルスバスター

私はPCの専門家ではないのでウイルス阻止ソフトの仕組みを知りません、ですがあえて推測して説明したいと思います。恐らくウイルスというソフトはPC内に侵入すると、、、その中でプログラムを起こしそれによってPCがそれに反応、、その反応がエンドレスに止まらないように設定し最終的には壊れるものだと思います。ようは以プログラムの異常増殖です。一方ウイルス防止ソフトとは、、そのウイルスが侵入した際に勝手にPCが読み込まないよう、ウイルスに対しての自動停止が立ち上がるソフトではないでしょうか????つまりウイルスソフトとPCの自動連鎖が起きないように設定されているのではないでしょうか???

私がウイルスバスターになる

悟りを学ぶとは、、思考の自動起動を見抜くことです、、思考感情の自動連鎖に対してウイルスバスターのようにそれを俯瞰し、、、今思考が上がった、感情が上がったと、、そこからの思考感情の連鎖を阻止することです。重要なことは自動連鎖であり、、自動連鎖はそれに対し無自覚であることが原因なのです。この仕組みを理解するということがPC内にウイルスバスターをインストールするようなものです。

映画「マトリックス」のプログラムコード

あれが思考

映画間トリックスのポスター、主演のキアヌリーブスの周りに緑色のプログラムコードが描かれています。あれが言語、思考です。我々の本質はPC本体です、その中にプログラムコードが流れますとPCがそれを読み取りイメージ化します。我々の思考も湧き上がりそれを全体が読み込みイメージ化するのです。朝起きると「この体この思考この感情が私」というプログラムが起動し偽りの自分がイメージ化されます。と同時に体に反応し「憤り」を感じます。苦しい、、「だけど会社行かなきゃ!!!」が思考として湧くのです。そして「生きていくには働かないとダメなんだ、私が」という思考(プログラム)が湧き上がりそれがイメージ化されます。そして同時に憤りが湧きます。

プログラム(思考)の連鎖

「今から仕事行かなきゃ!」というプログラム(思考)が湧き上がりますと、、同時にそれは体に反応し(面倒くさい!)プログラムが湧き上がります。すると「それでも行かないと生きていけない」という思考(プログラム)が湧き出しそれと同時に「憤り」というプログラム(感情)が湧く。会社辞めちゃおうかな????という思考(プログラム)が湧き出しまた「憤り」(感情)が湧き出す、、、これをエンドレスにやるのです。プログラムがエンドレスに起こり続けている状態です。

起こっていること

起こっていることは実は超シンプルでPC内で湧き上がるプログラムに対しさらなるプログラムが起こり続けているだけ。PCがプログラムを読み込むことでイメージ化されそれを読み込んだ時点で反応(プログラム)が起きそれがイメージ化されてまたプログラムが起きます。これしか起きていません。これが今ここで起きています、それえがこの世界です。

重要なこと

PCとプログラムがあり、、、、いまここと思考があります。ここに時間は存在しますか???空間は存在しますか???ないですね。そうです「私」という存在も登場しません。PCとプログラム、いまここと思考しかないのです。覚者は言います「何もない」と。「私は悟りこれだけがあった」「ストリーが突然落ち平安だけが残った」なんとなく分かりました????プログラム(思考)が全く起きなくなった時PC(平安)だけがあったのです。

同情は便宜上やればいい

本当のところは分からない

生きていると同情したくなるような状況ってあります、友人が大病にかかる、友人が大金を失う、友人が離婚する、、そんな時悟り、ノンデュアリティの観点からするとどういう対応が正解なのか????友人の大病、大金を失う、、これらは現象としては間違いなくそれが起きたんです、それは事実です。ですがその友人がそれによって苦しいという感情を本当に発現しているかは分からないのです。そう見えるという事実しかないのです。だからといって何も同情をしないというのも無理がある。ということで表面的に失礼がない範囲で同情を形にします。

お葬式に行って

お葬式に行けば親族が悲しんでいます。ノンデュアリティ の立場から本当の悲しみの感情がその方々から発現しているかは分からない、、というよりも発言していない。ですが便宜上同情を表面に出します。その現場で笑顔で交わすというとは無理あがる、というよりも表面上波風を立てるのです、だったらば演技として悲しいふりをするのは全く問題がありません。

重要なこと

重要なこと、それは演技をすべきかすべきじゃないかではないんです。重要なことは、、本当は親族が悲しんでいるという重い事実がないということです。世界は何も重くないのです、重く見えているだけで何も重いことが起きていない。表層上は何だって起きるんです、戦争、テロ、災害、、、、ですが悲しんでいる苦しんでいるという発現が実は起きていなくそう見えているということ。。。この事実は圧倒的に軽いんです。

そうです、自分たちは実はめちゃくちゃ軽く生きていいんです

両親が体調悪くて、、親の面倒でこれから10年間は、、、気持ちは本当に分かるんです、、そう見えます、、そして「苦しんでいるように」見えるんです。ですが真実ベースでお伝えすればそう見えているだけです、、それが事実です。無責任と思うかもしれません、ですが真実では何も起きていないんです、全てはそう見えてみるだけです。それを分かった上で上手くやるんです、大人として。

自分らしくあるのになぜ努力が必要なのか????

普通に考えれば

自分以外の者になるのは当然努力が必要でしょう、、例えば役者が、、役に成り切るには努力が必要なのは理解できます。ですがなぜ自分が自分になるのに努力が必要なのでしょうか????我々はこの社会に適合しなければ生きていけないと信じています。信じていますからその観念がこの夢に投影されてそのように映ります。ですが実際には何か別の者になる方がエネルギーが必要なのは明白なのでそれは疲れるわけです。役を演じるといことを学習できたのですから次は役を演じないで生きるというプロセスに入ってもいいかもしれません。

ここからは努力はいらない

自我を形成するとは「この体この思考この感情が自分である」を信じそう活動することです。偽りの自己を完全の演じるわけです。これは努力が必要なのです、だってこれは偽りですから。その偽りの姿で、、さらに何者かになろうとするわけです、、政治家、役者、医師、パイロット、スポーツ選手などなど、、、これは非常に疲れますよね。演技にさらに演技を重ねていくわけですから。ですがこれをやることでこの体を守るという仕事をしてきたわけです。この先はではどうするか???まず大前提の「この体この思考この感情が自分である」は概念であって真実ではないことを悟ります。便宜上そう信じて生きてきただけだということ、そうなるとその偽りの自分が次にやる役割は全部偽りです。だから疲れていたことを認めるのです。すると得体の知れない憤り、疲れが吹き飛びます。

分かったところでどうなるの????

この質問が分かっていないのです、、この質問が出る時点で分かっていないのが分かります。そのことが腹の底から理解できますと、、至福歓喜平和が押し寄せてくるんです、、本当の自分が本当の自分でいればいいんですから!!そこに努力はいらないんです、、努力しなくていい状態に帰るんですからこんな安堵感はないんです。もう何かになろうと努力しなくていいんです。やるべきことがあるとすれば本当の自分が誰かを思い出すことだけです。

それでもこの体は残りますよね????

この体が自分じゃないって言われてもこの体は残りますよね?????しっかりと今もこの体はここにありますよ!!!!そうです確実にあります、、今それを認識してますよね?????その認識した存在こそが私です。この体という名前の何かを認識する存在が本当の私です。もうこれからは「この体が私だ」と思わなくていんです。この体を認識するのが私です。この体を通じて認識する全てに気づくのが私です。この体は認識できる現象でしかなくその現象を作り出したのが私です。そして目の前にそびえ立つ木々を作り出したのも私です。私しか居ないんです、、私しか居ないのならば、、、私という概念も最後は消え去ります。

自作自演

このドラマは、、

このドラマは完全無欠の中で繰り広げられるわけですから不幸になるには間違いなく自分の力でなるしかないんです。本当の主人公は完全無欠至福歓喜平和ですし実はその中(本当の主人公)でしかこのドラマは上映できないんです。ですから気を抜けば至福に逆戻りです。つまり偽りの自己を維持することでしか苦しみを感じることはできないのです。だから偽りの自己がやるべきことは「偽りの自己」を維持するこれだけです。

気を抜いたら至福に戻ってしまう

今映画を上映している映画館は「至福平和歓喜」しかない場所です、、この中で至福平和歓喜以外になることは絶対に絶対にできません。もしもこの中で苦痛をかんじることが可能だとすれば上映中の映画の中だけなのです。映画というフィクションの中だけは苦痛を感じることができます。そのために重要なこと「この体この思考この感情のみが自分」という役に入り込むことです、ここを頑張ってもらわないと苦痛を感じることはできません。

偽りの自己が嘘なのは明白

完全無欠の存在(映画館)において上映中以外は平和歓喜至福しかありません。映画の中に入り込むためには「自身はこの体この思考この感情である」という思考が湧き続けるしかないのです、、、これが湧かない時は平和至福歓喜に戻ってしまいます、つまり上映外に。上映内、映画の中に留まるためにはどうするか?????「この体この思考この感情が自分」というデフォルトを一切崩すことなくこの映画の中で彷徨い続けてもらうしかないのです。何があってもこのデフォルトを崩したら終わりです。逆に言えばこの初期設定をしっかりと維持してもらえれば何をしようと何を達成しようとどんな裕福な生活をしてもらおうと全然問題は起きないのです。

偽りの自分に気づく????

ただしここで問題が起こります、、見かけ上の全ての豊かさを手に入れても至福歓喜平和に至れない「偽りの自分」は、、、この延長線上には至福がないことに気づいてしまいます。だって今までの努力が全くもって結果を出していないからです。ではここから「偽りの自分」をどうやって維持するのか????そこで役に立つのがスピの世界なんです、霊的向上、霊的進化です。しかしそこまでくると半信半疑、いやーこれって今までと同じだろ???です。

この辺りから

この辺りから、、、、自分って存在をやっている限りは無理では???という疑問が起き始めます。どうやら悟りってジャンルに入り込まないと難しいんじゃん????となっていきます。観念がそうなりますからそれらの情報が徐々に入ってくるのです。最初の内は玉石混交、、、な情報ばかりですが徐々に真実に近づく内容が集まり始め、、、最終的にこの偽りの自分が壊れ始めるのです。

傷つかないから分かる

偽りの自分が居なくなると

偽りの自分が居なくなると、、、分かるんです、、いつ分かるのか????何を言われても傷つけないんです。。。。なぜか????言われているはずの本人(偽りの自分)が存在しないからです。何を言われてもプライドが傷つかない、、、そこに私は居ません。。。ということ。これは言われてみないと分からないんです。そして悪口を言われてもワクワクしちゃうんです、楽しくなっちゃうんです、、、なぜか???誰もいないこの体に向かってパンチを繰り広げてくる相手が面白いんです、滑稽なんです。

褒められても面白い

褒められても、、嬉しいが起きないんです。多くの方が褒めることってピントがずれているんです。偽りの自分ありきの褒め方をしてくるんです。だから全くピントがズレた褒め方をするんです。でも実際に起きた行動は偽りの自分がないことによる行動ですからどうしてもズレるわけです。偽りの自分が居なくなるとそのままで楽しいんです、だから行動する、、結果褒められる、、、という順番になります。

偽りの自分は

偽りの自分ありきの状態ですと、、、幸福になるために何かをするんです、、目的があるんです確実に。そしてその行動の結果幸福を見かけ上手に入れますと周囲から褒められます。そして幸福を手に入れれないと行動を非難されるんです。ところが偽りの自分が消えますと、、至福だから行動したくなるんです。最初から至福なんです、だから何をやっても褒められるんです結果が既に出ているからです。

既に至福だから

偽りの自分が居なくなりますと、既に至福なんです。だから何を言われても傷つきようがないんです、、むしろ面白いわけです。ピントがズレているから。ボクシングの世界チャンピョンが街の不良に絡まれるようなものです、、面白いんです負けるわけがないから。悟りを開いて絡まれると面白いんです。、だって奪われるものが何もないからです。

自由意思がないことが分かるとドミノが崩れる

人間ドラマの最重要ポイント

面白い映画、ワクワクする映画って必ず仲間の裏切りがあり、悪者だと思っていたのが実は良い奴で、、、最終的には信頼していた組織からも裏切られ、、と次から次へと人の自由意志に翻弄されるのです。自由意思という設定なしに面白い映画って絶対に絶対にできないです。要は人間ドラマの最重要ポイントが自由意思なのです。だからだから悟りの最重要ポイントは「自由意志」ということになります。

「自由意志」がないが起こすドラマ崩壊

職場でのトラブル、恋人とのトラブル、家族とのトラブル、、、、、このトラブルを成り立たせているのが間違いなく「自由意思」です。あいつがこんなことを、あのタイミングこんなことを、、あんな言葉を浴びせやがって、、、、この感情の全てにおいて「自由意思」が100%あるが大前提ですよね!!!!!そうなんですこれがなかったら感情が湧きようがないんです!!!!自由意思がないとなったら、、、ただ受け入れるか拒否するかのみ、、責めるべき相手が居なくなっちゃうんです。

石が頭に当たり「怒り心頭」

公園を歩いていたら中学生が楽しくボールでサッカーをしています、ただかなりゲームに熱中していて周囲が見えていない。。気にせずに読書をしていたら案の定ボールが私の頭に直撃!!!!「何してんだ!!!」と振り向いてみたら3歳の子供が投げたボールだった、、、、その瞬間に怒りが消え去ります。。。相手が中学生ならば怒り浸透、、3歳の子供は怒りなし、、、この違いはなんでしょうか?????自由意思です。自由意志があると思っているから怒りが込み上がるのです。

魂を知り恐れが減り大いなる存在を知り恐れが消える

スピは悟りのウォーミングアップ

見かけ上のこの私は、、俗に言うスピリチュアルという分野によって大きく救われました。江原さん、美輪さん、バシャール 、神との対話、、、、魂という存在を知ることで、、、それまで信じ込んでいた「この体この思考だけが自分」という強烈な柵が壊れたのです。そうかこの体の中に居る魂というのは不滅で失うことはないんだ、、、そう信じた瞬間に、、急激に恐れの感情がぶっ飛びました。今世は思い切りやりたいことをしっかりやろう!!!!です。魂という永遠不滅の存在があるならば、、もう怖がるものは何もないぞ!!!!です。

楽しんで楽しんで楽しみ尽くすぞ!!!

30歳ぐらいかそのようなノリで生きてこれてはいたんですが、、止まっていると苦しい、何か新しいことにチャレンジしていないと苦しい、、、楽しいジャンキーになっていたのです。おかしい、ジャンキーって結局は病気ですよね。苦しいが根底にあって動いているんですから。つまり恐れからはかなり解放されはしたが「苦しい」はそのままだったのです。このままこの人生楽しいジャンキーになって生きていくのも辛い。。。。その瞬間悟りに強烈な興味が湧いたのです。

苦しいも消したい!!!

「この体この思考だけが自分」を信じ切っていた時代は、、とにかく失敗をしてはいけない、、失敗などしたらこの一回きりの人生が台無しになってしまう、、、そう信じて怯えて生きていました。魂を信じていた時代は怖さはないが楽しいジャンキーでした。そして今悟りに目覚めてからはどうか????苦しいがないんです、、苦しいが湧いてこないから、、楽しいを求めない。どこかに行きたい、何か新しいことを、今日という日がもったいない、、が湧いてこないんです。

静寂、平和、至福を楽しむ

個人が何かをするという感覚が薄れ、静寂、平和、至福の密度が濃くなっていく。私がこれをやりたい、あれをやりたいではなく、、ただ静寂、平和、至福の密度が上がっていく。平和だからこれをやろう、静寂だからこれをやろう、至福だからこれをやろう、、という本来求めてきたものが最初からある状態にあります。

頭の中に天使がいて、、、

病気????

「最近私の中に天使が居て、、、」友人が突然そのようなことを言い始めたらあなたならどう思うか????「病気では?????」です。真実ではないことを本気で信じている人のことを「病人」と呼びます。では「この体この思考こそが私」これが真実ではなかったらどうなるでしょうか???????全人類、自我が芽生えている人類の全ては病人となります。病人って基本苦しいんです、、あれ????本当にそうだ、、みんな苦しんでいる。

釈迦は悟り気づいた「世の中は苦である」と

人間は老いるから苦しい、人間は病気になるから苦しい、人間は貧しくなるから苦しい、、、違うんです。。人間という設定、、、人間という初期設定が苦しいんです、、、初期設定が苦しいから何かをやろうと思うんです。人間に何かが起きるから苦しいんではないんです。人間という存在そのものが苦しいんです。厳密に言えば「この体この思考が自分」という思考が湧くと苦しくなるんです。湧くも何も真実じゃないですか?????違います、、真実じゃないから苦しんでいるんです。

嘘やろ????

この自由に動く自由に起こせる思考、、これが自分じゃないなんてあるわけないやろ!!!逆に言えばこれしか自分のものはないんです。。。。。残念!!!!「この体この思考こそが自分」という洗脳を受けたんです両親、周囲の大人から。その洗脳を受けなかったら自分なんていう発想ないんです、つまり自分って概念なんです。

「この体この思考が自分」じゃないとしても生きていかないといけない

もしかしてそうかもしれない「この体この思考は自分」は洗脳かもしれない、、、でもそうだろうとこの体を食べさせていくには「この体この思考が自分」って思って生きていかないと無理ですよね?????その通りです、、それが真実ではなく、、それは方便で、、、そう便宜上思って生きていけばいいのです。本当の自分はそうじゃない、、この体、この思考じゃない、、、、在るというこの疑いようのない感覚は、、この体この思考のものじゃない、、、この体が「在る」を感じているんじゃない、、、「在る」がこの体、この思考に気づきているんだ。。。。です。

真実で全てを説明できる

仮面ライダーはTVの中には居ないんです、、、これを冷静に理解できたあとでも、、、仮面ライダーをTVで楽しむことはできます。「この体、この思考こそ自分」これが真実ではないことが分かっても、、生きていけるんです。周囲はそう信じている、、それに合わせて便宜上生きていけばいい、、です。そうすると「本当の私は誰だ???」という憤りを感じないで生きていけます。苦しくない、、、病人脱出。