役者

神は夢の中で絶妙な脇役を用意する

主人公のレベルにあった脇役をベストなタイミングで用意する

これは夢です、神が制作総指揮を務める夢です。主人公は人間(私)そしてこれを演じるのは神です。神が人間(私)に成り切ってこの夢、ゲームを貫徹していきます。この夢ではあらゆる脇役が登場します。最初は両親、兄弟、近所の友達、親戚のお兄ちゃん、学校へ行けば同級生、就職すれば同期、先輩、後輩、その都度その都度この夢では最適な脇役が主人公である私の側を固めていきます。そしてその脇役との絡みで主人公は苦しみ、楽しみ、歓喜し、安堵し、怒る、、、というわたる世間は鬼ばかりのような人生ドラマを構築していくのです。神が主人公に成り切っていますから基本不足感孤独感が湧き出てきてこれをあらゆる感情に置き換えていきていきます。

神が脇役の配役に失敗するわけがない

映画ではたまにありますよね、配役ミス、脇役ミス、、、ですがこの夢は神が制作総指揮ですから配役を失敗するなどあろうはずがありません。主人公(私)に関わる配役は全て完璧に行われています。ゲームをエキサイティングにするため、夢をよりリアリティーにするために寸分の狂いもなく完璧な脇役が脇を固めるのです。ですからあの人との出会いは失敗だった、あの会社は失敗だった、、あの友人との出会いは失敗だったと思ってもそれは無駄、、完璧な配役に文句を言っている大根役者です。神のセッティングに狂いはないのです。だからこそ今の人間関係を憎むのではなくそれをヒントにこの人生をいきていくことが重要になります。自分の行動を鏡で見せてくれているかのように学んでいくことです。

誰も自分のことなど理解してくれない、、、

主人公の脇役は完璧な配役が務めていきますから主人公のことを全く理解できないというケースは稀です。もしもそうならば新しい環境を選ぶ必要があるか、そういう時期だということです。スライムが全く自分の強さを分かってくれない、、この時ドラゴンクエストの勇者は次のステージに行きます。もしもそれが出来ないならばその勇気がまだないということです。勇気がないうちはスライムと戦い続けるのみです。

「自由意志はない」は本当?

夢の中のキャラに自由意志はあろうはずがない

これは夢です、ワンネス、大いなる一つが見る夢です。この夢のキャラに自由意志はあるのか?という話題はこのスピリチュアル業界では常に話題の的です。結論から言えばキャラには絶対に自由意志はありません。あなたが毎晩見る夢であなたの許可なく自由に発言する脇役、主役が存在し得ないようにこの夢、現象界と呼ばれるワンネスの夢において自由意志を持つ者などいるわけがないのです。夢ですから。だか今もこの瞬間に自由にこの文章を書いているこの「私」の自由意志をどう説明するのか?それは簡単です。自由に書いていると勘違いしている人間としての「自分」とワンネスがセットになっているのです。ワンネス即主人公です。主人公はさも自分が全て考えている、動いていると感じています。ただそれだけ。毎晩見る夢で散々やっている「あれ」です。

夢の中のキャラに自由意志はなかったが。。。。

「あなたに自由意志はないんです!!」喪黒福造の例のあのズバババ、、、並のインパクト。一気に自身を失うこの言葉。尊厳はないのか?価値が一瞬にして貶められているようです。ですが安心してください。キャラ(主人公)としては一切自由意志はありませんが制作総指揮(ワンネス)としては主人公の発言、行動どころか全部決めています、脇役のセリフまで全て。今もこうやってブログを書いている私(主人公)の全てを今決めています。だから自信をなくすのではなくむしろ自信をさらにつける必要があるのです。主人公だと思っていたら実は制作総指揮だった。。。というオチ。

自由意志はない、、、

これを書くとブログは一気に人気がなくなると言われています。やはり人間様にこの言葉を伝えるのはご法度なんでしょう。自由意志を取り上げられれた人間に何の価値があるのか?という話ですよね。これはこの夢物語では絶対に言ってはいけないNGワードです。舞台の上映中に主人公が脇役にこの言葉を言ったその瞬間、舞台の他の役者は凍りつきます。舞台中に絶対に言ってはいけない言葉なのです、、最も空気を読めない奴の言葉「あなたに自由意志はない」ですがこれは夢ですから、、、誰にも自由意志はないです。それでも自由意識はない。それでも地球は回ってる。

自分を意識しながら何かを経験することは不可能

所作に入り込むのが有効な理由

何かに没入しながら自分を意識するという同時進行は実質不可能です。茶道の所作に集中しながら自分を意識することは不可能です。人間は対象に没入する時は自分を忘れます。この感覚は自身を波ではなく海で在るということを思い出せるチャンスなのです。その証拠に所作に没入する時の無心感、安堵感、安定感は他に得ることができない感覚で在ることを知っています。

没入することをで得られる安堵感を知らない人間はお金を払ってそれをしてもらう

優秀な役者さんの舞台を見に行く、優秀な歌手のコンサートに行く、優秀な芸術家の古典を見に行く。これらの行為がなぜ起こるかといえばそこに行けば努力なしにその作品、芸術に集中できるからです。集中すれば無心になり安堵感、平和、歓喜が自然に訪れます。お金を払うことで自然と集中できるきっかけを貰っているのです。美味しい料理を高額を払って食べに行くのも味に集中している時に無心になれ結果無我に入り安堵、平和、歓喜そのものに一瞬なれているのです。人間の形をしながらもその瞬間だけは波ではなく海、安堵そのものになっているのです。

お金を払わなくても安堵そのものになれるならば、、

達人よ呼ばれる人々はお金を払うのではなく、自身の行為、所作に集中仕切ることで無心になり、無我になり、思考を排除して自我を取り去り、そのまま海になる、つまり安堵、平和、歓喜そのものに瞬時になれてしまう人々です。どのような条件にも関わらず所作に無心になることでその場で安堵そのものになってしまいます。それは仕事だけでなく掃除、会話、食事あらゆる人間活動の中からそこに入ります。そして最終的には自我のメカニズムを俯瞰し常に純粋意識、無我、海の状態でいられるようになります。

有名人の自殺に思うこと

有名俳優、有名女優の自殺について

コロナに入り有名人の自殺がニュースになりました。名実共に評価を受けるような役者さん、女優さんの自殺は一体なぜ起きるのでしょうか。顔も良く、スタイルもよく、かつ収入も良いといった世間的には全てが勝ちゲームの状態でなぜ有名人は死を選ぶのでしょうか。この事実に自我はどう答えを出すのでしょうか。自我は常に不足、欠乏で欲求が起こります。自分がこんな小さな体一つで体以外の世界は全て自分以外。とてつもない小さな自分と、とてつもなく大きな自分以外、、これで自我は孤独、欠乏という感情を生み続けるマシーンになります。本当は存在そのもの、神そのもの、が自我というこの体の中こそが自分というメカニズムに乗っ取られてしまった結果強烈な無価値観に苛まされてしまうわけです。結果地位も名誉もより良きパートナーも、子孫も、見た目も全部欲しいという欲しい欲しいマシーンになっていきます。

最初から諦めて絶望と共に生きていくか、チャレンジを繰り返し最後に絶望をするかの二択

人生には二択が用意されています。最初から人生を諦めてこんなものだと絶望して生きていく生き方と、あらゆるチャレンジを繰り返し、地位や名誉、収入を手に入れながらもやっぱり何も永遠に満たされることはないと最後に絶望するかです。どちらも最後は絶望というところが同じです、つまり自我のプログラムが起動している状態で永続する満足を手に入れるのは不可能ということです。ですからそのことを若くに悟り何も目指さないと決め込むか、徹底的にチャレンジし自我が欲する欲望を満たし続け最後に疲れ果てるかの二択が用意されています。亡くなってしまった有名人は私からすれば後者になります。

もう一つの選択肢、夢から覚めてしまう

そして最後の選択肢があります。それがこの世、夢から覚めてしまうということです。今見ている夢から覚めてしまえば絶望感を味わないですみます、そしてこの夢から覚めるのは誰か、それは人間活動を行っている自我ではありません。存在がこの夢、自我を通じて見ている夢から覚めるということです。渇望ゲーム、不足ゲーム、快不快ゲーム、刺激退屈ゲームであるこの夢から覚めてしまうということです。これで絶望を味わなくて済みます。