幻想

どうせ夢だから笑って暮らす

例えば濡れ衣を着せられ、、

例えばですが友人から最大限の裏切りにあったとしましょう。預けていたお金を全部横領されたと、、、多くの方は死にたいほどに傷つくでしょう。ところがです、、、これが夢でありその友人は登場人物の一人に過ぎないということを心底理解していたら彼の行動を責めるという感情が湧くでしょうか?多分湧かないはずです。なぜならば彼の心情を察し、彼の思考回路を想像してこうこうこういう理由でやったんだな、、という推測を元に人はその人間を恨むのであってこれが夢であると分かっていたらそのような推測をしません。夢ですから。夢を見ている存在の思うように展開しているだけです。勿論友人を突き詰め、白状させればそれなりの理由を吐くでしょう、、ですがそれすらも夢の中での出来事です。徹底的に真実追求に命をかけて友人を追い込むこともできますが、夢の中でそうなっただけと開き直ることもできます。

夢だと分かっていて果たして深刻になれるか?

これが夢だと分かっていて日々の出来事に果たして深刻になることはできるでしょうか。これが夢なのになぜ深刻に捉えることができるのか?ということです。人々はこれをとんでもない確実な現実であると捉えて生きています。みんなで「これは現実である」という暗黙のルールを決めて全員で縛りあっています。勿論夢の中で。これが幻想、夢であると心から理解できるともう深刻に物事を受け止めることができなくなります。夢だと分かればこっちのもの、もう脇役の顔色を伺う必要はありません、脇役の心配も全くする必要がない、、脇役はこの夢にリアリティーを与えるために登場します。クッパやクリぼう、ピーチ姫のように。ですがこれは全部幻想、夢です。

夢だと分かっていて果たして悩むことはできるか?

これは夢です、どう考えても夢です。神が見る夢の中で主人公として私を演じている夢です。これを夢だと分かったときに果たして重く悩むことはできるのか?ということになります。夢の中であらゆる悲劇、惨劇、事件が起きたとしてもそれも夢です。勿論、家族や親友、大事な仲間に何かあったらその瞬間悩むかもしれません。ですがそれでも夢です、残念ながら夢です。夢の中で起きる出来事の全ては夢を見ている存在(ワンネス、神)が好き勝手に決めていますから諦めるしかありません。これをサレンダーと言います。

自分が居るという錯覚ゲームの盲点

「自分が居ない」という理論で検証

カレーを食べている時、先ずはその食事を見ます、これは視覚です。カレーを口に入れます、その時に舌で先ずはその感触を確かめます。触覚が働きます。次にカレーの味がします、これが味覚です。次にカレーの香りがします。これが嗅覚です。噛んでいるときに音がします、これが聴覚です。この五つの感覚で人間は実際にカレーがそこにあることを確証します。実在していることに疑問を持ちません。逆に言えばこのカレーを食べているという事実があるのだから自分はいるのだと結論づけます。こうして人間の実在を確認しています。ですがこれは全て脳の電気信号で片付きます。 脳を細工すればこれは全て再現できます。ということは自分が居るという根拠が崩壊します。カレーを食べたのは事実だから自分は居るのだと結論づけましたがこれは電気信号で片付いてしまいます。これが全て幻想であるという理論も実証できてしまうのです。五感でカレーを感じた、これは紛れもない事実です。ですがこれ以外は全て推測、予想です。自分が居るというのは予想でしかありません。

「人と会話している」を検証

目の前の友人と話をしています。友人が見えます、これは視覚の確認です。友人が自分に話しかけています、これは聴覚と視覚の確認です。友人が自分に触りました、これは触覚での確認です。友人の香水を感じました、これは嗅覚の確認です。今回はこの4つの感覚を得ることがいました、それで自分がいると感じています。ですがこれも全て脳の電気信号だけの話です。これで自分が居るという証明にはなりません。もしも脳の電気信号を直接操作すればこの経験を体験できます。これが全て幻想だとしても説明がついてしまいます。ということは自分が居るという理論は証明できません。視覚、聴覚、嗅覚、触覚で感じたことは事実です。ですがだからと言って自分が居るというのは推測ですし、その友人の存在も推測の域を出ません。脳の電気信号で全て創作できてしまいます。

経験があるのだから経験者はいるに決まっている?

経験は確実にあります、スポーツをする、お酒を飲む、食事をする、音楽をきく、、、、これらを五感で確実に確認できます。それは紛れもない事実です。ですがその五感があるから自分が居るは嘘です、推測です、妄想です、夢です。これは神が見る夢です。この夢の中ではあらゆる体験をすることができます、踊って、歌って、飲んで、遊んで、、、全部体験できますが、、、だからと言って自分が居るは嘘です。経験があるのだから経験者が居るは、、暴論です。経験はどこまでも事実ですが経験者が居るはどこまでいっても事実無根です。

「お風呂に入っている」を検証

お風呂に入ります、先ず視覚でお湯を確認します。次にお湯の熱を感じます、これは触覚で感じます。次にバスソルトの香りを感じます、これは嗅覚の確認です。次にお湯の音を感じます、これは聴覚の確認です。次にバスソルトの味を感じます、これは味覚の確認です。この5つの感覚、確認で人はお風呂に入っていることに疑問を持たないし、それを感じている「自分」という存在にも疑問を持ちません。お風呂の存在も、自分の存在も疑いなく事実と感じます。ですがこれも脳の電気信号で全て同じ体験を作り出せます。ということでお風呂の存在も、自分という存在も全く事実とは言えなくなりました。

この小さい体に自分がいるという錯覚

世界中でこの小さい体の中に自分を発見した人はいない

ついにこの体の中に自分を発見しました!そのようなニュースを耳にした人はいません。そのような発見をした人がいたらノーベル賞でしょう。国民栄誉賞です。ですが実際はそのような発見が今後されることはないでしょう。というのはこの小さな体の中に自分はいないからです。今私はこのブログを自身の手を使って思考を使って目を使って書いていますがこの体の中に自分はいません。勿論体にナイフを刺してみれば血も出れば肉片も出るでしょう。ですが=自分がいる、とはならないのです。

経験はある、だが経験者はいない

このブログを書くという経験はあります、この文章を書いているという経験もあります、ですがこのブログを書いている経験者がいるというのは錯覚です。これは神の見る夢です、夢の中で人間と呼ばれる者が登場し、自分という者も登場します。ですがそれは全て夢です。夢の中の登場人物に実在の証明をしようとしても無駄です。般若心経では空即是色と言ってこの見える世界を色と表現しました。具体的には色であり、匂であり、触であり、味であり、音です。空がこれらの表現をしています。これを感じるから自分と感じる(錯覚する)人間がいます。バーチャル体験があるから体験者がいるという錯覚を持てます。これだけの多様な感覚があるのだからそれを経験する経験者(人間)がいるという錯覚をできる、これが神(一なるエネルギー)が創造した夢です。

諸行無常を経験できる、、だから経験者がいるという錯覚

スーパーマリオというゲームは非常に楽しい、クリぼうには手こずるし、クッパの動きは読めない、ヨッシーは頼りになる、、ピーチ姫は可愛い、、と感じる、、だからマリオは絶対にいる、、、こういう錯覚です。我々はこの空想、幻想の世界で明らかな体験を経験しています。疑いようのない感覚、経験です。だからこそ自分(人間)は実在しているという錯覚ゲーム、神の夢を見ることができるのです。地球に裏側まで飛行機で行けばそこにはブラジル大陸があって、間違いなくブラジル人がそこにいることを発見できる、だから自分は居るんだ、これが夢です。

神はなぜこんな夢を作ったのか?

神のこの悪趣味はなぜ起きたのか?

これは夢です、神が見る夢です。色即是空、空即是色という言葉が般若心経というお経にありますが空が神、色が夢です。これは夢ですがなぜこんな夢を神が作ったのか?ということになります。結論から言えば完璧、安堵、平和そのものである神が違う形で完璧、安堵、平和を体験したかったということになります。いやいや、この夢において完璧、安堵、平和などどこにあるのか?どこを探しても不安、危機、戦争、争い、災害しかないではないか?ということになります。そんなことはありません。不安を解消できた時、危機を克服できた時、戦争を回避できた時、争いを解消できた時、、、その一瞬それが訪れます。そうです、この夢は神が一時的神を人間を使って体験するという機会なのです。

神は神ゆえに神を体験できない

神は神ゆえに神の偉大さを知りません。そこで神はこの夢を作り人間を創造しそれに成り切ることで縮小体験、極弱体験、弱小体験をしたわけです。全知全能の神が無知無能の人間になってこの夢物語を逞しく生きるという夢を設定しました。人間は神に比べて最弱であるがゆえに神は不足感の塊、フラストレーションの塊になります。人間とは基本ストレス塗れなのです、だからこそ幸福になりたい、成功したい、豊かでありたい、人気者でありたい、、、と無限の欲求が湧いてきます。そんな神は何かを達成した瞬間だけは神に戻れます、目標を達成した瞬間自身は人間であるという意識がなくなり神になります。こうして人間は目標を達成していきなりながら神という感覚を思い出していくのです。人間に扮した神は徐々に神にであることを思い出していきます。

神→人間→神

人間という独立した存在がこの夢には実在しません。夢の中に実在した存在は皆無です。ですから今見ている現実とは全てが幻想です、この体も全部幻想です。夢ですから。ただし神というものが人間こそを自分自身と勘違いしている、このことは事実です。これは錯覚ではありますが紛れもない事実です。神は人間になりきってこの夢物語を堪能しているのです。夢物語は夢ですから全ては幻想ですがこの体験は事実です、神はこの体験を経験することで再び神に戻るのです。

神は夢の中で不足感を貯蓄していく

不足感を体に蓄え続けてコップをいっぱいにする

これは夢です、神が作りその中で人間を主人公にした夢です。この夢物語、ゲームは人間の五感をベースに構築します。視覚、嗅覚、聴覚、触覚、味覚、、これらは幻想にリアリティーを与えるツールになります。そしてそこに思考、感情を加えることでこのゲーム、夢はより一層リアリティーを強化します。主人公である人間を演じるのは神ですから圧倒的な不足感を感じます、神が。ということで主人公演じる神は不足感をあらゆる感情に置き換えてそれを蓄えてこの人生を歩んでいくことになるのです。孤独感、劣等感、疎外感、憂鬱感、、、これらを記憶し体に溜め込んでいきます。大人になるにつれて重苦しい空気が出てくるのはこの感情の蓄積です。

感情の蓄積はある時に爆発する

人間に成り切った神は不足感を噴出し続け、それは各種感情として蓄えていきます。人間には記憶機能があるため過去の悔しさ、惨めさ、辛さを記憶していきます。不足感のデパート、冷蔵庫、貯蔵庫のようになっていくのです。この貯蔵タンクが満タンになった時、人は爆発しこれまでの生活を完全に壊すのです。それが転職だったり、離婚だったり、病気、不登校だったりします。この人間ゲームは記憶機能があることでよりエキサイティングになる一方、辛さ、キツさ、しんどさ、もより一層強化されます。

コップいっぱいになった時に、、、

コップいっぱいになった時に人間が行動できることは2種類あります。それは限界まで耐え抜き、弾け、壊れ現状をぶっ壊してしまう方法、もう一つが人間のこの欲求不満ゲームから積極的に降りてしまうということです。欲求を満たし続けても埋まらないこの不足感に脱帽し人間の本質、神に迫っていくという方法です。書道、花道、禅、仏教、悟り、ノンデュアリティーなどはそれに当たります。ほとんどの方はこの中間を行くことになります。

神は夢の中で人間に恋愛を与えた

恋愛とは人間の救済措置の一つ

これは夢です、神が作った夢です。神はこの夢の中に人間を創造し人間の五感を使ってこのバーチャルリアリティー、立体型3Dゲームを作りました。人間が触ればそこに物があるように錯覚でき、人間が目線を動かせば見える世界が変わります、人間が匂いを嗅げば何かしらの香りを錯覚できます。そこにさらに感情、思考を+することでこのゲーム、夢は完全無欠な状態になっていきます。誰もこれが幻想、夢、ゲームとは見破れません。全員がほぼ騙されます。神が作ったこのゲームを見破れる人間などいるはずがないのです。子供は実はこのことを知っていますが伝える言葉を持ち合わせていないのでこの事実は封印されているのです。オープンシークレットという言葉は絶妙にこれを言い当てます。人間という極小の存在に成り切った神は不足感、絶望感、欠乏感を感じ続けるということになるのです。この不足感を一時的に満たしてくれる存在、それが恋愛です。

恋愛は不足感を癒してくれる

人間が恋愛に憧れるのは、この脈々と湧いてくる不足感を癒してくれることだからです。自分を好きになってくれる存在がいる、、自分を必要としてくれる存在がいる、、これは根本的な不足感を一時的に癒してくれます。自分は一人ではない、、、この地球上で一人で生きていない、、このように孤独感を癒してくれます。全部(神)が一部(人間)に成り切っているので再び全部に憧れます、渇望します。それを癒してくれるのが恋愛です。

問題はそれでも不足感が沸き続けること

ただしこの夢、ゲームは容赦無く人間に不足感を感じさせます。この不足感は神が人間になってしまったという根本的不足感ですから恋愛で全ての不足を満たしてくれるわけがないのです。ということで人間はこの不足感を埋めるために次の目標を定めるのです、自分には子供が足りない、自分には家が足りない、、自分には車が足りない、、自分には孫が足りない、、このようにこのゲームは続いていくのです。最悪にもこの不足感を相手にぶつけると大変、相手の粗探しになります。もっとこうして欲しい、もっとこういう態度をとって欲しい、もっと収入の良い仕事に変えて欲しい、、これは破綻に向かいます。ベクトルが内に向くか、外に向くかの違いです。

子供の頃はこれが夢だと覚えていた

子供はなぜ深刻ではないか?

祖父の葬式、祖母の葬式、、、こんな時でも小さな子供は一切空気を読まず楽しそうにしています。重苦しい空気を逆に不思議に思いながらも、むしろそれにも気づかずに遊び周ります。子供には理解ができないのです、この夢の中で深刻になるのが。目の前に広がる世界は幻想、夢であり深刻に慣れる要素は実はありません。だからこそ大人が深刻な顔をして将来を心配するその姿にピンとこないのです。ですがそんな子供も7歳ぐらいになる頃にはすっかりとその事実を忘れこの自称現実社会にどっぷりと浸かってしまうのです。その頃から子供の顔からは無邪気さが抜け重くなっていきます。大人の顔になっていきます。

深刻になるためには目の前の現象が絶対的真実だと思い込む必要があり、それには7年間を要する

これはワンネス、大いなる一つが見る夢です。そこから人間としてこの世に誕生するわけですが赤ちゃんと呼ばれる時期にはそのことをしっかりと覚えています。深刻になるという感覚をどうしても理解できません、勿論犬が怖い、大人が怖い、、、など心身の危険が迫った時には恐れを抱くでしょう。ですが絶対的深刻さは子供にはないのです。そこから子供は言葉をお覚え、知識を吸収することでこの夢にどっぷりと浸かり始め分離感覚を強固にしていきます。つまり分離を絶対視する、夢ではなく現実と呼び始めます。

自我が完成すれば大人、サバイバル能力は高まるが深刻さも高まる

夢であるのも関わらずこれを現実であるとハッキリさせるのは多くの知識が必要になります。知識を得ていくことで少年、少女は大人になり、、夢を現実と錯覚できるようになるのです。そしてその方がこの夢の中ではサバイバル能力が優れていきます。自分は自分、他人は他人、人を一切頼らない、頼れるのは自分だけ、、、強烈な分離意識は強く生きることはできますが同時に不足感、孤独感、欠落感を生み出し続けます。自身(ワンネス・完全・完璧・至福)がこの心身こそを自分と勘違いすれば不足感が湧いてくるのは当然です。

物質があるという大前提は破綻している

小学生の頃からこの理論はおかしいと感じていた

めちゃくちゃな話ですが我々が生きているこの物質界は物質があるという大前提で成り立っています。ですがこの物質があるというこの理論は破綻しています。もしもここにコップがあるとしてそのコップが存在するためにはテーブルが必要になります。テーブルが存在するためには部屋が必要です。部屋が存在するためには家が必要であり、家が存在するためには土地が必要になり、土地が存在するためには日本という国が必要になり、、日本は地球が必要で、地球は太陽系、太陽系は銀河系、銀河系は宇宙が、宇宙が存在するためには宇宙を取り囲む環境が必要になります。この理論でいうとどこまでもそれを囲う環境が必要になり、、無限大に環境が必要になってしまうのです。つまり理論として破綻しているのです。

これは夢だという理論だけがこれを打開する

そんな中、この視界に広がる世界はワンネスが見る夢だという理論を読みました。私はこの理論を読んで人生で初めて目から鱗が落ちる感覚を得たのです。この物理次元は理論上破綻している、それを打破してくれた唯一の理論が「これは夢だということ」です。ここに広がる世界が夢だという理論以外どう判断しても理論破綻しているのです。夢、幻想でなければ、この物理現象界は説明がつかないのです。

間違いなくここにコップはある

間違いなくここにコップがあります。ですがこのコップをありのままに認めてしまったら理論破綻します。コップは間違いなく目の前にありますがこれは夢の中で確実にあるということです。幻想として確実にあるということです。これが真実です。コップの存在、白い、硬い、厚い、重い、粗い触感これは紛れもない事実です。ですがこれは夢です。この事実を認め夢であると腹落ちしていく以外に進むべき道はありません。

人間が見る夢と、ワンネスが見る夢の違い

人間が見る夢は毎回主人公が違う

私は多分毎晩のように夢を見ていますが毎回のように主人公が違ったりします。ある時は小学校時代の自分、社会人の時の自分、時には全く関係ない架空の人物が主人公だったり、突然芸能人の誰かになり切って主人公を務めたこともありました。毎回のように時代背景、環境、主人公が違うのです。一方ワンネスが見る夢ではいつも同じ主人公です、そう「私」です。朝起きるとしっかりと昨日の続きがスタートします。この夢はその点全くブレることがないのです。

人間が見る夢は突然時代背景がワープする

私が見る夢では、突然時代背景が変わっているなんてことは頻繁にあります。バックto THEヒューチャーではないですがビックリするぐらいに気付くと全く違う時代にワープしています。ところがこのワンネスが見る夢はそのような誤作動が起きません。突然江戸時代や、明治時代、戦国時代にシフトすることがないのです。だからこそ夢を夢と見破ることができないのです。こんな正確無比な夢は見破るのは基本不可能です。

光が鍵を握る

私が毎晩見ている夢の構成粒子は何なんでしょうか?夢の構成物質は何でできているのでしょうか。私はおそらく光ではないかと思っています。もしくは電気信号ですね。脳内の電気信号ということになります。物理学上は。ではこのワンネスが見ている夢の抗生物質は何でしょうか。素粒子、原子、物理学上はそうなります、量子、、私は光だと思っています。光があらゆる形状を作りこの幻想、緻密な蜃気楼を作り出していると考えます。人間の体の臓器を表す漢字は全て月偏、肉月でできています。胃、腸、胴体、脳、皮膚、肩、、、月という字が入るのです。月とは人間から見たらあれは太陽の光です、我々が見ている月とは土の部分ではなくその土に当たった太陽の光を見ています。これは人間の体も同じ、実在しているよでいて実は光を見ているというワンネスのヒントです。目の前にいる友人の体は何かしらの光です。これはあなたが見る夢の中の登場人物も同じです。

これは夢だから関心を持った世界がそこから広がっていく

高級車に興味が出れば街中に高級車が溢れてくる

これは夢です。ワンネスが見る夢ですからもしも主人公(ワンネスのキャラ)がもしもベンツに興味が出れば街中をベンツが走るようになるのです。もしみ異性に興味が出れば異性が増え、特定に時計に興味が出ればその時計をつけた人が増えていきます。夢だからこそワンネスがその人間体験を望めばその人間体験の夢が始まるわけです。もしも海外に興味を持てばその海外に詳しい人がそこ夢で現れてきます。それは偶然でも必然でもなくただワンネスがそのような人物を夢の中に登場させただけです。

お金儲けに興味が出ればお金儲けに関する情報が集まってくる

自分(主人公)が本当に興味があることであればワンネスはその体験を積ませるような夢を制作するはずです。お金儲けに興味が出ればお金儲けを知っているような人が現れたり、その手の情報がネット上で目につくようになるでしょう。そして主人公はその手の人々、情報に触れるようになりそのドラマ、夢はそっちの方向に膨らんでいくはずです。これは夢ですからワンネスが自分(主人公)を使ってどのような人間体験を積みたいかです。

引き寄せの法則は誤解をうむ

引き寄せの法則は誤解を生む法則です。主人公が自身にとって都合が良い状況を引き寄せるような印象を持ちますが、主人公にそのような力はなく、、あくまでも主人公の本当の存在であるワンネスが夢の中(ワンネス劇場)の中で主人公の観念に従って観念にあう状況を作り上げていくのです。観念とはこの現象界を照らす懐中電灯のようなもので照らされた場所が現象化するという仕掛けです。夢ですから全て幻想です。