仕事

幼少期はそうだった

自分がやったなんて全く思ってなかった

幼少期は、、ただ昆虫に触り、目に映る花を触り、話しかけられれば反応し、お腹が空けば何かを探し、、、そこに自分などという存在は皆無でした。。。両親から、、、名前を何度も呼ばれ、、、茶碗を落とせば注意され、、徐々にこの体の中に「自分」が居るという概念を学習させられていったのです。そしていつしか常に名前で呼ばれるようになり、友人も名前で呼び、、、自我同士のコミュニケーションが完成していきます。

無視されるのが辛いのは

学校では無視するというイジメがありますが、、これが卑劣なのは、、、自我にとって存在を認知してもらえないというのが一番辛いことだからです。なぜ辛いのか????それは本当はないからです、、他人に呼びかけられてようやく存在を信じることができるだけ、、、本来ないのだから、、、、他人に存在しているように扱われて初めて存在を信じることができるのです。だから学校ではみんなか声をかけてもらいたい、それが人気者。

ずっと人気者は無理

社会に出ると、、人気者の意味が変わってきます、、、男性ならば職場で良い仕事をして認められることだったりします、、家に帰れば良いお父さん、、、本当は存在していないのだから常に他人からの承認を求め続けるのです。これは辛いし苦しいのです。いつまでこんな風に頑張り続けなくてはならないのか?です。

自我の卒業

自我のメカニズムが理解できてきますと、、自然と何かを求める欲求が減っていきます。自我が無いことはもう分かっていますから無理して誇示する必要が全くないのです、、ないのが基本ですから。頑張って頑張って自分はココに居るよ、、というアピールの必要がない。存在が嘘なんですから。自我が嘘だということがハッキリとわかった時に自分の奥にある何かがそれに気づき自我を最吸収します、それが解放です。

自分という緊張感

湧き出てくる思考を所有する「自分」

自分にとって決断は重要です、より幸福になるために決断を間違えてはいけないのです。ですから一つ一つの決断には緊張が走ります。朝起きて何を食べ、何を学び、何を仕事し、誰とコンタクトをとるか、、全部が全部緊張の連続です。緊張などしたくないと思っても勝手に緊張が湧いてくるのです。この緊張を緩めるためにお酒、コーヒー、タバコ、ギャンブル、各種娯楽などがあるのです。

湧き出る思考を一手に管理すると思い込む自我

飴が欲しい、おもちゃが欲しい、友達が欲しい、、、これらの思考の全ては「自分」が起こしている、、この勘違いが、、重く重くします。本当はただ湧いているだけ、自分などいう存在なしに勝手に湧いているにも関わらず自分が作り出しているという勘違いが起き、それ前提の思考がまた湧き続けていきます。そしてその思考も自我が作り出したという誤解が生まれていきます。

本当はただ湧き上がる

本当は本当は誰も関与することなく思考は湧いています、ただ湧くのです、自由意志など存在しません。だから今後の人生を憂うというのは意味のないことで何も関係なく思考が今後も湧き続けるのです。1万時間この先を憂いてもそれとは何も関係なく思考が湧くのです。それが分かってきますと将来を憂うことほど無駄なことはないことが分かります。

過去の後悔も将来の不安も無駄

過去の後悔も全くの無駄です、なぜならば自分という存在が全く関与せずに言動が起き続けてきたからです。そしてそれはこれからも全く同じ、だから何も不安に思わなくていい。突然地球一周旅行に行くかもしれないし、悟りを開くために山に篭るかもしれない、突然お笑い芸人を目指すかもしれない、、、だから無駄なのです、将来を憂うのは。

あるがままから解釈の世界へ

あるがまましかないのに

我々はあるがままの世界の中に解釈を持ち込み、あるがままの世界の中に自分、相手、机、時間、空間、仕事、政治、会社、学校と次々の物体を作り上げていきその世界に取り込まれていきます。本当は何もないにも関わらず言葉で作った世界に取り込まれていきます。もちろんこれは自動反応ですからこれに意図を持って抗うことは不可能です。人間は意図を持てないのですから。これは騙し絵と同じ、自身を老女であると信じ込んでいき最終的に老女の存在を絶対的なものになっていきます。

言葉が作り出した解釈の世界

野生動物が生きる世界には分離が存在しません、なぜならば彼らは言葉を所有しないので分別することができないからです、世界の中に孤立した存在を作り出すことができません。人間は言葉であるがままを分断分離していき独立した存在同士の世界に切り替えることができます、ただしこの行為は自動的に起きてしまうがゆえに人間はこの流れに無力です。そして世界には自分しかいない、自分は孤独だ、寂しい、、となっていくのです。完全んな一人芝居ではあるのですがこの流れは自動で起きるので起きた瞬間にその世界に入り込むのです。

解釈の世界にはあるがままはない

解釈の世界にあるがまま、本質の世界は存在しません、あるがままが作り出した解釈の世界に突入したらその中で閉じ込められます、なぜならばあるがまま、本質を探しているのが自分というまた作り出されてしまった幻想だからです。騙し絵の中の老女が若い女性を探し出す旅こそが世に言う探求者です。真実を言えば老女の存在で若い女性を見つけることは不可能なのです。自分という存在ありきではあるがまま、本質を見つけることは不可能です。

自由意志もそれを所有する自分も存在しえない

名前がつけられる前、花も人間も、犬も、猫も、太陽も、地球という独立分離した存在など実在しませんでした。ですが言葉を使って分断分離し錯覚することで実在しているかのうように思い込んでいるだけなのです。ですから当然この自分という存在も実在しません。実在しない自分という存在のままでは苦しいので、、悟りたい覚醒したいとなるわけですが、、自分という存在を認めた状態こそが幻想の世界に閉じこもる行為であるという矛盾には気づけないのです。

完全自動で悟りが起こる

私たちは悟りに関しても完全に諦めてしまって構わないのは、、悟りに至るプロセスの中で自由意志でそこに至ることは不可能だからです。騙し絵の絵に気づく過程において自由意志というのは一切存在しないのです、ですから我々は完全受け身、完全受動の精神でここに至るのをただ待つ以外にないのです。自由意思というのも完全な勘違いですから先ずはこの自由意思を否定することが逆にスタートにすらなるのです。独立分離した「私」が自由意思で悟るという行為こそが究極の勘違い、幻想に閉じ込める行為そのものです。

「自分」が悟るのではなく、、

これはもう騙し絵の世界ですから重要なことは騙し絵の世界の騙しに気づく以外にありません、「私」「自分」は騙し絵の世界の住人なのでここではその存在を一旦横に置いておく必要があります。その上でこの世界がいかに勘違いの世界なのかだけに気づいていきます。すると、、、どこかで、、あれ、、私もいないし、自由意志もない、猫も、花も、海も、空も、、全部独立などまったくしていない、、、と突然の気づきがおきます。これまでずっと悩んでいた「私」など存在していなかった、、という気づきが起きます。そしてこの一連の流れの中にも自由意志は一切存在しないのです。

苦しみの本質に迫る

条件が全て

こういう家に住んで、こんな収入で、こんなパートナーが居て、こんな仲間に囲まれて、、我々は無意識にそのような条件を幸福に求めます。私レベルであれば最低限こんな環境に身を置くべきだ、、、この思い込みを叶えるために人は生涯を注ぐわけです。そしてこれらとは全く異なる環境、理想とは程遠い会社、家、パートナー、仲間に囲まれてしまえば私は絶対に不幸になるはず、、、それを恐れて生き続けるのです。ですが実際にはそのような理想とは程遠い環境に身を置いた時に初めて気づくのです、いやそれほど悪いものではないなと。これが人間の苦しみの本質です、勝手に思い込みそれを恐れて必死に踠いているだけなのです。

理想を手に入れても

どんなに理想的な生活を手に入れても人が苦しみから逃れなれないのは手に入れた個人が存在しないからです、手に入れるまでの全功績を享受するはずの個人が実は存在しないのです。自由意志に基づいて確固たる結果を出したはずの個人、自分、自我が実は存在しないのです。そのことをどこかで分かっているから常に不安に苛まれるわけです。そして理想とは程遠い環境に身を置いた時にも、、、実は全ての責任は責任を取るはずの自分が実在しないことを本質では分かっています。だから軽いのです、だからそこまで苦しくないのです。理想を追いかけている時は存在しない自我が出しゃばるばるわけですが失敗した時にはその自我が存在を隠します、それで楽なわけです。

理想を追いかける時、、

理想を追いかける時「自我」は大仕事を担います、自由意志を行使して理想に向かって直走れるわけです。本当は自由意志はないにも関わらず起こる自動反応を「自由意思」と捉え続け走る続けていきます。だから自我には理想が必要であり恐るべき環境も必要なのです。ところが突然の災難に襲われ全てを失った時に実はそこまで苦しくないという事実を突きつけられ自我の策略が暴かれるという事故が起きるのです。大借金、倒産、闘病、、、などなどです。

自我に踊らされてきただけ

我々は実は自我に踊らされ、、、、理想を追いかけ、恐れから逃げていただけなのです。この自我主導での奔走逃避行動こそが苦しみの原因であったわけです。ではこれからはどう生きればいいのか??先ずは自由意志がないことを認めることです、自由意思がないということはそれを行使する自我も存在しません、、、そこが理解できますと嫉妬そねみが湧いてこなくなります、、、有名人の大豪邸を見ても、、、たまたま、、、、ホームレスを見ても、、たまたま、、、その事実が分かってしまうのです。なぜならば自由意志がないからです、この世には。

必要性を持って悟りが閉じた

最初から悟りが開いていたら

最初から悟りが開いていたらこの世界で不自由、不幸、孤独、というあらゆる不快感は皆無です。絶対の影であるこの世界は無限の体験を積む場所ですからその中では当然不幸、孤独、辛酸も味わうことになります、、これらの感情を味わえないとしたらこの場所は無限体験の場所では無くなってしまいます。ということでこの世界はしっかりと悟りを閉じてこれらの感情を味わい尽くす場所でもあるのです、、ですから悟り本を読んで一気に覚醒とはならないわけです。

とはいえ、、、

物質的満足、精神的満足を達成してしまったらもうさらに何かをという衝動は起き得ないでしょう、、そんな時には必然的に悟りに興味が行くはずです。自己実現を達成しやりがいのある仕事に就き収入も良い、、周囲かも評価を受ける、、、すると、、、悟りに興味が行くはずです。そこしかもう目指す山がないのですから。個人の限界を限界まで感じるわけです。

お互いが目覚めるために存在する

幻想の意味

真実はたった一つです、この真実にたどり着くために全幻想が存在します、、苦手な相手、結婚相手、友人、子供、親、、、全ての幻想がこの真実に導くために存在しているのです。ですから人間関係は常に苦しみが伴うのです、悟りが開かれる、目覚めが起きるまでこれはエンドレスに続くのです。マトリックスの映画に出てくるエージェントスミスはまさにこの役、主人公のネオが覚醒するまで誕生し続けていきます。つまりエージェントスミスは覚醒の最大の味方でもあるのです。

悟りが開かれるまで、、

この苦しみは、、悟りが開かれるまでエンドレスに続きます、成功を治めても、大金を得ても、名声を得ても、安定を得ても、、、確実に苦しみが終わることがないのです。それは大いなる勘違いをしているがためにです。大いなる勘違いはこの幻想の世界で食べていくには有利ですが同時に苦しみを生み出すのです。ということでこの苦しみを解消するには悟る以外にないのです。

悟りに興味が出たら

悟りに興味が出始めたならばそれは大きなチャンスです、、仕事、友人関係、などの物質的、精神的満足を追いかけても一切幸福になれないことに気づけたならば、、、本気で悟りに意識が向かうことになります。ですがこれは誰しもに起こることでは絶対になくだからこそこれはチャンスなのです。そしてそうなったらこっちのもの、仕事、友人関係、地位や名声などのために頑張るなど辞めてしまってただひたすらに悟りを追い求めます。そして追い求める存在自体が実は存在していないという気づきが起こるまでこれを続けます。

五感

なぜ食に走るのか????

五感が鈍れば、、、、楽しくない、、、、、結果、、、、食に走る、、、お酒に走る、、、仕事に走る、、、、異性に走る、、、、何かに走らざるをえない、、、、なぜか?????退屈だからです、、、、、五感が鈍り、、、何をしてもつまらない、、、、状況になる、、、、、、、

思考に走る、、、、、

五感が鈍れば、、、、思考に走ります、、、退屈だから、、、、退屈だから、、、、思考という刺激に走るのです、、、、、結果、、、、、思考中毒になる、、、、、でもこれでは五感が鋭敏になることはない、、、だからこの思考中毒は無くならない、、、、、益々思考中毒になっていく、、、、重要なことは五感を開くこと、、、五感を開いて、、、、今ここに居て感動できる体にすることです。

体を作る、、、

体を作ります、、機械運動ではない、、、、体の柔軟性を作り上げます、、、子供のような柔軟性を取り戻します、、、すると、、、、五感が開いてくる、、、、今ここに居て感動が起きる、、、今ここに居て楽しいが起きる、、、、すると何かに走るという中毒が消える、、、、何かをしなくてはという中毒が消えます、、、、ただここで楽しいが起きます。

今という誤解

誰もいない

街を歩けば全員が今ではなく過去に存在するか、、思考を思考しています、、、空想の世界に居ます、、、空想に意識を向ける理由は、、、今感情を味わいたく無いからです、、、仕事に行きたくない、、、、嫌だ、、、、この時人は思考に逃げます、、、、「私」がやりたくないことをすれば、、、感情が湧き、、、これを隠すために思考がフル回転します、、、幻想のこの世界で、、真実に触れるのではなく、、幻想に意識を集中させます。

居る場所が違う

会話をしていても、、、相手は、、感情を味わないように思考していますから、、、内容がありません、、、その思考は、、、感情から意識を逸らすための思考であり、、意味はそれしかないのです。。。。負の感情を生産できた体に居ますと、、、思考に逃げるという行為がなくなるため、、、無駄話に意味を見出せなくなります、。。今は話をしたいことを話ししたいのです。

幻想の世界で幻想する無駄

ここがまさに幻想の世界です、、、無限の無在が現す鏡の世界です、、、この鏡の中の世界で、、思考に意識を向けるとは、、写ったこの鏡の幻想に触れずに、、、さらに幻想をします、、、何も経験が起きていません、、、経験だけが真実ですから、、真実に触れていない、、、真実を感じていない、、、

幻想の中で幻想を作りその中で経験を積む

ここが幻想の世界です、、この幻想の中で思考するとうのは、、幻想の中に居て、、さらなる幻想を想像し、、その中で擬似体験をしています、、、擬似体験に逃げているのです、、、ここの経験は虚の中の虚ですから虚しい、、、が湧きます、、虚しいという感情は、、、経験の密度が低いのです。そうではなくこの幻想の世界で思考を見抜き、、思考の取り込まれず、、ただ経験を積めば、、、、充実、満足が湧いてくるのです。

悟りへの再吸収が始まる

何かに引き寄せられる

悟りに興味があるということは、、、もう既に悟りへの再吸収が始まっています、、掃除機のように悟りに再吸収されていきます、、、自我が解体され、、粉々に砕かれ、、、掃除機に再吸収されていきます、、、これが悟りへの衝動です、、、自我を存続させたいという衝動よりも自我の解体への衝動が大きくなっていく。自我を壊したい自我を解体したいという驚異的な感覚が起き始めます。

話しかけられれば、、、

話しかけられれば、、、自我が起き上がります、、、自分は居るぞ!!!と、、、ですがもうどこかで、、それがハッタリ、嘘、パチモンであることを知っているもう一つの自分が居ます、、、自我を俯瞰する、、存在が居ます、、、、自我を作り出す思考、エネルギーに気づくもう一つの自分がハッキリと居るのです、、、自我の立ち上がりこそが、、むしろ俯瞰するもう一つの存在を意識できます。

仕事をしていると、、、

仕事をすればはっきりと自分が起動します、、この起動に気づきます、、、、自分が立ち上がり、、、相手に話しかけ、、話しかけられ、、それに反応する思考、、、この自分が居ての前提の思考がただ湧き起こる、、、、これに気づきます、、自我システムの自動反応を観察するのです、、見事な反応を俯瞰します、、、感情まで湧いてくる、、、この反応を、、、

俯瞰して俯瞰して、、

俯瞰して俯瞰して、、俯瞰し続けていきますと、、、まさかの、、、何者かに引き寄せられていく、、吸収されていく、、感覚が生まれます、、なんだこの感覚は???全てが現実事に見えてこない、、、フワフワした感覚、、、深刻さが消去されていく、、この感覚は誰からも奪われない、、誰からも邪魔されない、、、そんな不思議な感覚、、、宝をもう探す必要がないのです。

全てはただ起こるという認識が起こすドミノ

最後の答えは決まっている

最後は決まっています、、最後の最後の気づきは、、「私が神だった」という気づきです。。。この気づきは必ず最後には起きます、、ですがその前に片付けなくてはならない観念があるのです、、それが後悔です、、あそこでこうしとけば、、あの時ああいう選択肢があったはずだ、、、となります、、、これを毎日毎日毎日繰り返すわけです、、、これを止めます、、、真実の力で止めます。

全ての思考、行動はただ起こった

全ての思考、行動は完全にただ起きましと、、、、最後に気づくこと、それが「私が神だった」から逆算すれば明白です、、、神が起こしたのです、全思考、行動を、、、、そして神は自由意志でこの80億人の意思を管理するなどするわけがない、、つまり全部が全部化学反応です、、、、因果、縁起、カルマ、ダルマ、、なんでもいいんですが、、つまりは化学反応がただ起きたのです。。。

ここに気づくと

反省が湧いてこない、後悔が湧いてこない、、将来に悩まない、、期待がないが安心だけがある、、、ただの傍観者という気楽な立ち位置、、、会社で言えば、、何も責任を追わず、、何も責められない、、社長のようなもの、、、最高のポジションがいきなり用意されている、、、、今までそんなポジションが無かったのではない、、、気づきなかっただけ、、、ここからドミノが崩れます、、全くの能天気、形崩れ、、期待も不安も何もない人生が始まります。

全く疲れないから、、、

この能天気な無責任ポジションに座りますと、、、とにかく疲れない、、全く力みがない、、、すると元気が湧いてくるのです、、子供時代の朝から晩まで遊べる元気が湧いてくる、、、、、だから動ける、、仕事も楽しい、プライベートも楽しい、、、となります。。。。これがドミノです、、、そして悟りの理解が進む、、、個人の不在に気づく、、他人の不在に気付く、、、全部が全部の現れに過ぎない、、に気づく、、、神に気づく、、、