仕事

絶体絶命のピンチは偽りの自分が削ぎ落とされる

絶体絶命のピンチが絶体絶命じゃない、、

これは夢です、神が見る夢です。神はこの夢の中で人間という極小の存在に成り切ることでこの夢を展開します。人間は極小、無知無能ですから普通に生きていくだけでも大変、ましてやピンチの状態などは是が非でも避けたいところです。ところが本当のピンチ、本当の地獄、本当の絶体絶命状態、、これが全くキツくないということにどこかで気づく時が来ます。絶対絶命レベルまでの状態は実はそれほどキツくないのです。中途半端なピンチ、中途半端な地獄は大変ですが本当の地獄、絶体絶命は実はキツくないのです。

人間がなぜバンジージャンプにハマるか??

バンジージャンプという遊びがあります。地上30メートルの高さから真下に落ちるアレです。なぜ若者がこの遊びに興じるのか?それは絶体絶命の歓喜を知っているからです。絶体絶命の状況、これは最高の歓喜、安堵、平和が襲って来ます。ここに大きなヒントが隠れています。自分を完全に忘れてしまう状況、これは人生最大の歓喜なのです。絶体絶命の状況を味わうと人は強くなると聞きますがこれが種明かしです。人間に成り切った神が人間であることを忘れた状況=歓喜、安堵です。

生産性があることにいかに無心になるか

バンジージャンプに何回チャレンジしてもそれがお金になることはできません。できるならばこの歓喜のメカニズムを生産性があることに利用したい、これがこのブログの真意です。無心になれれば、無思考になれれば、無我に入れれば、、バンジージャンプ並の感動が自然と起こります。書道や、花道、茶道は、、所作の中から無心、無我に入る教えです。仕事も所作の中から無心に入っていきます。家事も所作から無心無我に入っていきます。そこにバンジージャンプ並みのエキサイティン、感動、神が隠れています。

偽りの自分はTVが好き

偽りの自分は時間を忘れる瞬間を求める

偽りの自分は時間を忘れさせてくれる物、何もかもを忘れさせてくれる時間を好みます。T Vを見ている時間、ネットフリックスを見ている時間そこに没入できます。何もかもを忘れて夢中になれます。その瞬間無我に入れます、無思考に入れます、無心に入れます。だからこそ人間はT Vに夢中になるのです。ですがTVの問題点は安易に無思考に入れるがために日常生活の多くを思考に牛耳られることを許してしまうことです。思考のフルスロットルを止める方法をTVに依存してしまうのです。自分の力で無心、無思考、無我に入ることを諦めTV にそれを依存します。

TV ではなく生産的な行動の中で無心に入る

もしも仕事に対し無心に入れればそこから歓喜に入れます。もしも家事で無心に入れればそこから歓喜に入れます。TV で無心になる、無思考になる、無我になる感覚を掴んだならばそれを生産性のある行為に応用していきます。仕事、家事、スポーツ、と生産性のある行為に対し無我になれるならばもうTV は必要ありません。あらゆる行為に中に無我を発見できます、全ての行為から悟りに入れます。

TVが好きという事実は最高のヒント

偽りの自分が好きなことには大きなヒントが隠されています。小学生や中学生がゲームに夢中になるのも一つ、ゲームは時間と空間、そして自分を忘れさせてくれるからです。これは悟った状態です。この悟った状態を日々の生活の中で応用できるかがこの偽りの自分ゲーム最大の鍵です。無心に入れるかどうか、全ての動作を無心の状態で行う、書道、花道のように決まった所作に持ち込むことで自我を排していきます。ルーティン、反復作業にいかに持ち込めるか、そしていかに熱中できる分野に意識を向けれるかを拘ります。無心に入れないことは最初からやらないこういう覚悟が重要です。

それでも人は動き続ける、その道こそを至福にする

人とは不足感をバッグに詰めて歩む現象

宝くじに当たった人が数年後にはほとんど自己破産レベルにまで財産をなくす、、これ非常に有名な話です。これを今回は悟りの観点で説明したいと思います。人間はまず不足感を恐ろしいまでに抱えています、人間はその不足感がどこから来ているか理解していないのでお金、名誉、異性、、、など特定の何かを埋めればそれは無くなるはずだ、、、と予測を立てて生きています。だからこそ受験勉強や就職、結婚、大出世など、、大きな収穫物を目の前にすると胸が躍るのです。ところがです、人間のこの不足感は特定の何かで埋まるわけがありません。人間の不足感とは神が人間に扮することで生まれたものだからです。ここが人生というものを苦しくします。宝くじに当たったら、この人と結婚できたら、、この会社に就職できたら、、、これら大きな夢を叶えた人が目の当たりにするのが絶望です。

どうせこの不足感が埋まることはないのだから、、、

人間はいつかの段階でこのことに気づきます。。理想のパートナーとの結婚、安定した収入、、可愛い子供、、理解ある上司、、、これらを手に入れてもそれでも湧いてくる不足感、孤独感が終わることがないことをです。ということで仏教では「足を知る」という言葉が生まれるわけです。私は実はこの言葉が嫌いです、諦めとしては現実的でないと思っています。そうではなくこの不足感解決をヒントにして、機会、チャンスにしてそこから悟りに入ることを勧めています。そこに向けて完全燃焼する、そこに向けて無心になる、無思考になることで無我夢中の状態、悟りに至ことを勧めます。

完全燃焼、無心無我、無我夢中こそ、、神の道

無心になってお寿司を握る職人さんはその場で神になっています、無思考になって仕事に当たる人はそこで神になります。自分を忘れて子供の世話をするお母さんはその場で神になります。人間が行為そのものになるとき、そこには人間は存在しません。あるのは神の現れです。打算的に、小賢しくそこに当たるとそこに自我(思考)が残ります。結果的に最も苦しい道を歩むことになります。いかに入り込めるか、いかに完全燃焼に向けるか、いかに無心になってことに当たれるかが重要です。人間の無限地獄からの脱却は目の前の道を神にできるか否かにかかっています。

都会とは何か?

人間の欲望を叶えてくれる場所

いつの時代も若者が目指すのは都会です、都会とは人間の欲望を叶えてくれる可能性を感じさせてくれる場所です。多種多様な仕事、多種多様な人々、多種多様な生き方、多種多様な遊びを可能にしてくれる場所です。一方でこれは夢です、神が見る夢です。神が人間扮する主人公を演じる夢です。それゆえ人間は欲求不満を抱え自身の欲求を満たしてくれるだろう場所を目指します、それが都会です。都会は確かに若者の欲求を満たしてくれる要素はあります、あらゆる可能性を提案してくれます。ですがここでいかに欲求、不平不満を満たしても満足することはありません。目の前の欲求を満たしても直ぐに次の欲求が襲ってきます。それは神が人間に扮しているからです、人間の狭さ、弱さ、小ささに神は辟易しています。これが人間の欲望のメカニズムです。

都会であらゆる欲望を叶えたら

一方、都会はあらゆる欲望を積極的に叶えれる場所でもあります。地位名誉、仕事に異性、あらゆる欲望を叶えることができる場所であることに間違いはありません。ということは逆に言えばあらゆる欲望を叶えても人間は至福に至れないことを体験できる場所でもあります。あらゆる可能性を達成できるということはその時の人間がどのような感情に至れるかを体験できるのです。これは釈迦が王様から山に籠ったことに近い状況です。釈迦とは一国の王であることに辟易しそこから悟りに入りました。都会は釈迦の境地に至るのに近い状況を作れます。

欲望を叶えた後に分かること

神が人間に扮している限り欲望に限りはありません。神は神に戻る以外に欲求不満が癒ることはありません。神が人間に扮していればあらゆる不足感、欠乏感、孤独感、欲求不満が襲っていきます。都会とはこの欲求不満に正々堂々と向き合える人が集まる場所とも言えるでしょう。勿論それも夢ですが。欲望を否定して無いものにするよりも欲望を欲望と捉え満たしていくことで無限地獄の仕組みに気づきそこから夢から覚めるのも一つです。釈迦はそれを行いました。

無我夢中とは神になること

無我夢中という言葉は面白い

これは夢です、神が見る夢です。神が主人公である人間に扮して夢物語、ストーリーを体験する夢です。この夢の中で無我夢中になるとどうなるか、夢の中でさらに夢に入るとはどういう意味か?神に戻ります。夢の中で夢中になるということは夢から外れるという意味です、つまり神になるということです。ゲームに無我夢中になっている少年はその瞬間神になっています。仕事に夢中になっているプロは神になっています。これは最高のジョークです。子供が大谷翔平を夢見るとは、、、神になりたいと言っていることです。

何でも無我夢中になってしまう

私の適職はなんだろう?私の天職は何だろう?簡単です、無我夢中になれる仕事です、、、無我夢中になれるならばその瞬間神になります。神が夢から覚めた瞬間、神です。神がこの夢から抜け出すとき神になります。思考で考えてどうのこうの言うよりも無我夢中になれる仕事を探すべきです、その瞬間神になります。歓喜、安堵、平和が襲ってきます。

無我夢中万歳

この人生で無我夢中になれることを見つけたら人生は勝ちでしょう。無我夢中の状態は神がこの夢物語から抜け出た状態です、つまり人間から神に戻った状態です。人間扮する神が人間を辞めて神に戻った状態こそ無我夢中の状態です。だからこそ難しいことは考えず無我夢中になれることを探すべきです、お給料が少し低い、将来性がない、世間体が悪い、、これらを理由に無我夢中になれることを避けるならば神になるチャンスを逃します。

観念が変わると新しい問題が登場し最終的に神に戻る

観念は世界を変える

大きな体験をすると観念が変わります。例えば大病をする、大借金をする、倒産する、投獄にあう、、これらの体験は確実にその人の観念を変えます。この人間ゲームにおいて観念が変われば見ている世界が変わります、全く新しい人間関係、それに付随する問題が登場します。人間ゲームにおいてあらゆる経験がその人の観念を構築していきます。ゲームのOSが切り替わり次のゲーム展開が変わっていきます。

観念を変え続け最終的に「これが夢だ」という観念にする

ワンネス総指揮、人間夢物語はワンネスが人間に扮する夢です。この夢において人間はあらゆる体験を積んでいくわけですがそれによって観念、信念が書き換わっていきます。大きな病気に遭えば体を大切しにし、大好きなことをやって死のうとするでしょう。投資に失敗し大借金をすればお金中心の価値観が崩れるはずです。観念が変わるとこの夢物語が変わります、見える世界が変わります。これは夢です、そのぐらいは簡単に起こります。あらゆる体験を重ね、あらゆる目標、渇望を叶えたにも関わらずそれでも満たされない自分がいたときにこれが夢であることに気づきます。この夢の中で人間をしている限り至福には至れないと。

最終的に自分は実は夢の中の登場人物だった、、、という観念

良い大学に入らなくてはならない、良い就職先を見つけなくてはならない、良い伴侶を探さなくてはならない、、子供を良い学校に入れなくてはならない、、これらは観念です。観念は大きな体験とともに変化していきます。お金よりも健康、名誉よりも小さな幸福、仕事よりも生きがい、、、と観念は変わっていきます。これが神が見る夢のシステムです。観念が変われば世界が変わる、夢ですから。そして最終的な観念、それがこれが夢だと気づくこと、誰の夢か?神が見る夢です。これは神の夢で私は神が扮する主人公なのだという気づきです。

運動を毎日のリズムに取り入れる

無心になって取り組めるエクササイズは神に戻る行為

毎日のエクササイズ、これは実は重要です。これは夢です、神が見る夢ですがこの夢の中では人間は不足感発生器、神が人間になり切っているわけですがその状態は苦しいのです。何をしていても不足感全開です。ですがこの人間になり切った神が神に戻れる瞬間があります。それはスポーツをしている時です、なぜか?体とはこの夢の中で夢から覚めるための重要な道具なのです。体は今にしか存在できません、体を過去や未来に連れて行くことはできません。思考は過去や未来に馳せることができますが体はそういうことには至らないのです。ということで強制的に今にあることを可能にするのが体に意識を向けることなのです。今とは何か?今とは夢の外に出ることです。夢の中のストーリーは過去から未来へと流れる時間軸の中です。過去の影響を一切受けない主人公はこの夢の中にはいません、主人公は常に過去の影響を受けています、つまり過去に縛られているのです。時間軸に縛られていると言ってもいいでしょう。ですが体に意識を向ける時、過去から解放されます。過去のことを考えながらスポーツはできません。過去から抜け出す、時間から抜け出す、つまり夢から覚めて人間から神に戻っているのです。

体に意識を向けると思考の柵から抜ける

思考の柵に取り憑かれている間、人間扮する神は人間から脱出ができない状態です。ところがこの人間の体に意識を向けると思考の柵が取れ、この心身こそが自分という思考(自我)の柵が一時的に抜けるのです。一時的に人間から神に戻ります。一時的に歓喜、平和、安堵にシフトします。このメカニズムを知ると1日に何度もエクササイズするのが楽しくなります。1日に何度も至福、歓喜、安堵に戻れるのです。結果を出すことに焦らなくなります、結果を出すことよりもその途中に安堵、歓喜、平和を発見してしまいます。悟りを開かなくても、覚醒体験を得なくても、一瞥体験を得なくても、、毎日エクササイズ中は神に戻れます。

仕事中も、エクササイズ中も、掃除中も、、神に戻れる

幸せの青い鳥の話ではありませんが、、、幸せは直ぐ近くにあります。登山家が頂上を目指して登山を始めたその瞬間、無心になって歓喜に入れます。毎日のエクササイズも無思考になれって体に意識を向けるとその瞬間に歓喜に入れます。仕事に関しても何度の反復でこなしていけばそこから無思考に入り無我、歓喜に入っていけます。人間活動をしているのは紛れもなく神ですから実はいつでも神に戻れるのです。書道、花道、武道の真髄はここにあります。

覚醒法とは反復

あえて反復に全て持ち込む

私が推奨する覚醒方法は反復です。どのような作業、タスクも反復活動で片付けていきます。例えば私はこのブログ発信を反復で発信しています。一つのブログにかける時間は5分間です。それ以上の時間をかけることはありません。ブログを書こうと決めたら五分間で片づけます。これを1日の中で何度もやります、気が向いた時にブログを書く、ただこれを繰り返していきます。結果に拘らず生活の一部にしていきます。するとブログを書いているときは無思考、無心、からの無我に入ります。書いている時が至福状態になります。ブログを書いている瞬間が至福、歓喜、安堵に入ります。結果が出る前からその状態を手に入れることができるのです。

公文式は日本が誇る禅勉強法

公文について詳細はわかりませんが公文での勉強方法は反復が基本になっています。何度も似たようなレベルの問題を解き続けます、無心、無思考、無我の状態になるまで解き続けます。すると不思議いつまにか自身の学習レベルが上がっている。九九を覚えていたらいつの間にか割算に進んでいる、この期間に思考が入り込む余地はありません。先生の授業すらありません。私は公文式とは禅、書道、花道を取り入れた日本発勉強法と読んでいます。無心、無我、無思考状態はそのまま歓喜、安堵、平和です。勉強中にそのゾーン、変性意識状態に入れます。

仕事、家事、体力作り、全てを反復に持ち込む

よく考えてから動く、効率を考えてから動く、結末を考えてから動く、、、我々はいつの間にか思考を使ってから動くことを学びます。いかに効率よく、手際良く、無駄なく動くか。無思考で動く人間を知恵が足りないと呼んで卑下します。勿論思考は重要です、人類発展の立役者です。ですがそれでは至福、歓喜、平和には至れません。何を達成するかを決めたらそこからは全て反復作業で達成していきます。あえてどんなに遠回りでも反復を駆使します。反復で達成できないことなら「やらない」こう決めてもいいでしょう。ある成功者の言葉で感銘を受けた言葉があります「毎日できないことは最初からやらない」これは痺れました。週一のゴルフ、週一のテニス、週一の楽器勉強、週一の自己啓発セミナー、週一の掃除、、、、これらを辞めます。反復で至福に入れることのみで1日を構築していきます。

神は夢の中で人間に恋愛を与えた

恋愛とは人間の救済措置の一つ

これは夢です、神が作った夢です。神はこの夢の中に人間を創造し人間の五感を使ってこのバーチャルリアリティー、立体型3Dゲームを作りました。人間が触ればそこに物があるように錯覚でき、人間が目線を動かせば見える世界が変わります、人間が匂いを嗅げば何かしらの香りを錯覚できます。そこにさらに感情、思考を+することでこのゲーム、夢は完全無欠な状態になっていきます。誰もこれが幻想、夢、ゲームとは見破れません。全員がほぼ騙されます。神が作ったこのゲームを見破れる人間などいるはずがないのです。子供は実はこのことを知っていますが伝える言葉を持ち合わせていないのでこの事実は封印されているのです。オープンシークレットという言葉は絶妙にこれを言い当てます。人間という極小の存在に成り切った神は不足感、絶望感、欠乏感を感じ続けるということになるのです。この不足感を一時的に満たしてくれる存在、それが恋愛です。

恋愛は不足感を癒してくれる

人間が恋愛に憧れるのは、この脈々と湧いてくる不足感を癒してくれることだからです。自分を好きになってくれる存在がいる、、自分を必要としてくれる存在がいる、、これは根本的な不足感を一時的に癒してくれます。自分は一人ではない、、、この地球上で一人で生きていない、、このように孤独感を癒してくれます。全部(神)が一部(人間)に成り切っているので再び全部に憧れます、渇望します。それを癒してくれるのが恋愛です。

問題はそれでも不足感が沸き続けること

ただしこの夢、ゲームは容赦無く人間に不足感を感じさせます。この不足感は神が人間になってしまったという根本的不足感ですから恋愛で全ての不足を満たしてくれるわけがないのです。ということで人間はこの不足感を埋めるために次の目標を定めるのです、自分には子供が足りない、自分には家が足りない、、自分には車が足りない、、自分には孫が足りない、、このようにこのゲームは続いていくのです。最悪にもこの不足感を相手にぶつけると大変、相手の粗探しになります。もっとこうして欲しい、もっとこういう態度をとって欲しい、もっと収入の良い仕事に変えて欲しい、、これは破綻に向かいます。ベクトルが内に向くか、外に向くかの違いです。

神にもどることを忘れた神は現実逃避を続ける

飲む打つ買うは全部夢からの脱出

これは神の夢です。今ここに繰り広げられている現実とやばれるこの世界は神が見る夢です。神が人間という役に成り切って人間活動をする夢です。夢ですから主人公以外の行動、脇役の行動全ては神が決めています。神がコントロールできないならば神の夢ではありません。神が見る夢ですから全て神のコントロール化にあります。主人公は神がこの夢を楽しむための道具です、この人間という体はそのために作られました。そして神はその主人公になりきりそしてこの夢の没入します。あまりに没入しすぎることでまさかの自身が神であったことすらも忘れてしまいました。当然神にもどる方法も忘れています。

夢の中は非常に苦しいから飲む打つ買うで夢からの緊急脱出をする

この夢の中は非常に息苦しい世界です。神が人間に成り切っているのですから異常に疲れます。全知全能の神が道無能の人間活動をしているのです、それだけでも想像を絶する地獄です。そうです、この夢の世界、人間活動は地獄なのです。ということで神(人間)はこの人間活動の一時をなんとかこの夢から脱出を図ります、それが飲む打つ買うなどの娯楽です。お酒を飲んでいる時だけ、ギャンブルをしている時だけ、キャバクラ、クラブで遊ぶ時だけ、、意識を強制的に人間活動から緩めて神にもどるのです。夢から脱出して酸素をいっぱいに吸います。飲む打つ買うをしている時だけは遊びに意識を全集中することで人間活動をしている自分を忘れます。神にもどるのです。

夢からの緊急脱出だけではもう酸欠が補えない

神は人間活動をしている間酸欠状態です。神は酸素抜きで人間をしています。途中途中遊びの中で酸素を補ってはいきますがいずれこの遊びでは酸素を補えなくなってきます。酸素を一時的に補うのではなく酸素を常に補いたいと思うようになるのです。その方法が書道、茶道、花道、剣道などの道の世界にヒントがあります。書になりきる、お茶になりきる、花になりきることで呼吸ができます。酸素を吸引できます。身体感覚に全集中することでいつでも酸素を吸うことができます。神が人間活動をする時には思考が必要になります、この心身こそは自分自身であるという思考が機能している時に人間活動を維持できます。逆に言えばこの思考が抜け落ちている時は人間活動ができません、花に集中する、茶に集中する、剣道に集中する、仕事に集中する、、、この瞬間自我が抜け落ち神に戻ります。呼吸ができるようになります。