仕事

人間解除メソッド

人間は後付け、、ここはポイント

人間はもともとこの世に存在しません、全体だけがありその生命現象だけがありました。生命現象を認識する全体だけがありました。ここに注目します、音が聞こえたら耳がそれを感じ取っていると思います、人間は。ですが実際はそれは後付け機能です、もともとは全体が音を拾っていました。人間が歩きます、視界が変わります、、これを人間は自分が見ていると判断します。ですが実際はただ変わる景色だけがあります、それを全体が認識します。水を飲みます、これを人間は自分が飲んだと判断します、これは後付けです。本当は飲んだという感覚だけがあります。これを全体が認識します。人間の経験を人間に所有させません。それは後付けです。本当はただ経験だけがありました。そっちが本当の世界です。人間が所有する経験は後付けでしかありません。

仕事をしているときに自分がそれを所有しない

仕事をしていると様々な経験を積みますがそれを自分が所有しないのです、ただあらゆる経験があるだけ、それを自分が所有するという感覚は後付けです。自分とは本当はいなかったのです、脳が記憶機能を搭載するようになったときにこの体が経験することを「自分」が経験したと決めたのです、後付けで。それまでの人間の活動は全て全体がただ認識していただけです。何か悪気ちを言われた、、自分が言われたとこの経験を所有するから腹が立つのです。ただこの体が悪口を言われた、ただそれだけ。この感覚を所有してもそれでもこの自分とされる体には色々な災難が降りかかるでしょう。ですがこれを自分が所有しないことです。それは後付けです。

自分はいつも特別になろうとする

自分はいつも特別になろうとします、そのためにあらゆる経験を自分が所有し、この経験を積んだ自分は凄いだろ、と悦に入ります。この体が経験したことを自分が所有し、称賛を得ようとします、信頼を得ようとします、特別視してもらおうとします。これが自分の活動内容です。なぜ特別になろうとするのか?それは普通では苦しいからです、ですが実際は特別な存在になってもこの苦しさは続きます。人間がこの体が経験したことを自分ごとと捉えている期間は苦しみから逃げられないのです。

若者は苦しみから逃げ続ける傾向にある

若さはパワーでありゆえに苦しみから逃げる

この人間ゲームは苦しみのゲームです、自身は人間であるというこの体との同一化は苦しみを生み出します。なぜならば全知全能の全体が、無知無能のこの体に成り切るからです。自分でいること、この体でいること、この人間目線で人生を「意識」していきますと苦しみ、不足感、退屈感がただひたすらに湧いてきます。若者はこの退屈感を感じることですぐに逃げます、友人、恋愛、お酒、ギャンブル、ファッション、SNS、YOUTUBE、、世の中には若者を誘惑する遊びに満ちているのです。それゆえ若者はこの不足感、退屈感に向き合うのではなく逃げることでこれを見ないようにするのです。

途中で逃げきれなくなる

元気な若者ほどこの退屈感から逃げることができます、徹夜で飲み明かし、異性に明け暮れ、TVゲームに没頭し、SNSに嵌まり込む、、、次から次へと対象を変え続けてこの不足感、退屈感から逃げ続けるのです。ですがやがて働かなくてはならなくなり逃げるどころから苦悩と向き合わざるを得なくなるのです。逃げるどころか職場に閉じ込められるようになります。これは若者にとって地獄の苦しみではありますが同時にこの不足感、退屈感との対峙、真剣勝負が始まるのです。

人間の苦しみはどこから来るのか?

実は若者は退屈感、不足感から逃げ惑う生活に疲れていたのです。働くという逃げ場のない環境に閉じこめられて実はホットしているのです。これで不足感、苦悩、退屈感との真剣勝負を余儀なくされるからです。何もしないと襲ってくるこの居心地の悪さはどこからくるのか?若者は逃げ惑う生活の中で実は一瞬のヒントを得ています、ゲームで優勝した瞬間、ギャンブルに勝った瞬間、恋愛が成就した瞬間、、、この一瞬は全体、神が自我を突き破って誕生します。それが歓喜、安堵、平和です。逃げ惑いながらもヒントを得続け、そして働くことで真剣勝負が始まります。

夢中になれる仕事は楽しい

働いていく中で、どうやら夢中になれる仕事が楽しいことを理解していきます。雑念に襲われず夢中になれる、没頭できる仕事は楽しい。これは学生時代に退屈から逃げていた時期からも理解しています。没頭できるゲーム、没頭できる仕事は疲れません。人間が没頭している瞬間は自分を忘れ一瞬神になっているのです。神の片鱗をみています。どうやら自分のことを忘れている瞬間が疲れず、充実感があり、至福を感じれることを理解できてきます。そこからさらにこの苦悩、退屈、至福、歓喜のメカニズムに迫れるか?これは人間卒業まで試練は続きます。

マリオにとっての完璧とゲームとしての完璧は違う

マリオにとっての完璧は、、、

マリオにとって完璧なゲームとはクッパに勝った時に最大限の祝福を受け、ステージが上がるごとに見た目も精悍になっていき、服装もゴージャスに、豪勢な食事にありつけ、、ピーチ姫からの感謝も盛大に、、こんなことかもしれません。ですがゲームとしての完璧さは違います。マリオのレベルに完璧に合った敵が完璧なタイミンングで現れる、一面をクリアーすると二面は完璧な微差でレベルアップされている、低過ぎても高過ぎても駄目、ちょっとだけ難しくなっている、そこが完璧。マリオにとっての完璧とゲームの完成度の高さは全く違うのです。

この人間ゲームはもっと完璧

人間にとっての完璧は、、完璧な家に住み、完璧なパートナーがいて、完璧な仕事があり、完璧な子供が居る、完璧な友人がいて、完璧な週末を送る。。。ですがゲームとしての完璧さは全く違います。その人間のレベルにに完璧に合ったレベルの仕事、パートナー、環境、週末、、、ということになります。マリオがどう思うおうとゲームとは難し過ぎても簡単過ぎてもダメなのです。この人間ゲームも同じ簡単過ぎても難し過ぎてもダメ、、その人に絶妙に合った難易度になっている、これが完璧。人間制作のマリオですら、マリオを扱うプレイヤーレベルに完璧に合った進展をみせることができます。この神制作人間ゲームがそこを踏襲できないわけがない、、もしろもっと正確無比にそこは行われる、そう思った方が賢明です。

今自分に起こっている問題は完璧な難易度

スーパーマリオにチャレンジするプレイヤーは自身のレベルに合ったステージで思考錯誤するはずです。何かの間違いでいつの間にかクリアーしてしまった、、それがありません。初心者は一面、中堅者は4、5面、上級者は最終ステージでの試行錯誤が起こります。これは人間も同じその方が今思考錯誤しているステージこそが最適ステージということになります。この神制作人間ゲームをそのような視点で眺めますと試行錯誤の意味が変わってきて面白くなります。

映画に夢中になれなくなる時期

映画はフィクションだから夢中になれなくていい

私は学生時代に毎週1本の映画を見続けました。恐らく社会人になる前に何百本の映画を見続けたと思います。映画から学べたことは半端なく多く海外の人々の人生観、人生を映画を通じて学びました。それはもう食い入るように観たのはこの我が人生をこれからどうしたらいいか?という漠然とした不安からでした。だからこそ自分とは違う境遇の人が味わう経験をモノにしたかったのです。ところがです、、、何百本の映画を観倒しても全答えが見つからない、、、

社会人になって本気で人生に悩み始めた、、、

社会人になって本気になって人生について悩み始めました。今やっている仕事をどうしても好きになれなかったからです。かと言って他に夢中になれそうな仕事もない、、学生時代の何百本の映画はこの悩みには一切答えてくれませんでした。とにかく本気になってこの悩みに悩みきった時に精神世界の書籍が湯水のように体に染み込んできました。そこには夢のような内容が書かれていて私の悩みを一時的に拭ってくれたのです。引き寄せの法則、正負の法則、運気の法則、カルマの法則、波動の法則などなど、、、私はこれらの理論にすがり結果その当時の悩みを解決できました。

その後映画に夢中になれない

自分の人生がエキサイティングになっていき、映画以上の波乱万丈を味わうようになってくるともう映画を楽しめません。映画とは退屈な人生におけるスパイスなのだと実感しました。もしも自身の人生がエキサイティングならば映画を観たいなど思わないということを知りました。結論を言ってしまえばこの人生もフィクションです、神が、全体がこの体になり切るというフィクション映画です、もしもこの映画に没入できるとその中でさらにフィクションを見たいという欲求が減るのは納得できます。

朝起きた時に過去の記憶が蘇り、我々は夢に戻る

我々は記憶の中、夢の中で生きている

マリオがなぜ毎回大冒険を継続できるか?それは記憶があるからです、毎回よし今日もクリアー目指して楽しむぞ、、と記憶に支えられた目標が蘇るからです。我々人間も全く同じ、朝起きると自分の名前、職場、環境、兄弟関係、友人関係、配偶者、、、、全部が蘇ります。これによって今日も仕事に行こう、、となるのです。記憶に完璧に支えられた生活です。もしもこの記憶がなければ、、まずこの身体の中に自分が居るという設定が外れます、職場も友人も何もかもゼロです。この身体の中に自分が居ると思えないので、、、ただ経験だけがあります。全経験を自分がやったという認識がありません。マリオに成り切るプレイヤーがいなくなるように、人間に成り切る存在がいなくなります。経験する個人が抜け落ち、ただ経験だけがあるという状態になります。

記憶によって毎日自分劇場に戻される

朝記憶が完璧に抜け落ちていれば、、、自分という存在を忘れています、ただ動く体が目の前にあるだけです。自分の手柄、自分の名誉、自分のお金、、、そんなものは存在しません。自分とは記憶によって成り立って居るからです。ただ動く体があり経験だけがあります。昨日も明日もありません、ただ今目の前の景色が変わるのみ、これが真実です。人間はこの体に名前を付け、身体の中に自分という確固とした存在しているという暗黙のルールを設定しました。これによって自分が今日も職場に行くということが起きるのです。

記憶に支えられた自分が完成すると、、、

記憶に支えられた自分が完成しますと、全体の中に全体とは完全に分離した別物体ができることになります。本当は分離できませんが、、、完璧に分離しているという勘違いが完成します。プレイヤーがマリオに成り切るように、全体が人間に成り切るのです。プレイヤーがマリオに成り切るということはあの小さい画面に閉じ込められるということ、突然戦うしか能がなくなるのです。何もしなければ退屈至極です、結果動き出すということになります。全知全能の全体が無知無能の人間に成り切ります、何もしなければ退屈至極です。結果人間は全体によって活動を余儀なくされます。

「実は自分が居ない」という絶望的なメッセージ

悟り、ノンデュアリティーが陽の目を見ない理由

悟りもノンデュアリティーも陽の目を見ることがないメッセージです。実は自分が居ない、、などというメッセージは気が狂ったメッセージであり危険極まりない内容です。自分が居ないなどと病院で話せば、、即入院患者リスト入りです。二度とそこから退院できることはないでしょう。ですが自分がこの体の中に居るという人間の共通認識はどこまで行っても科学的に証明できません、医学的にも証明できません。99.99999%の人々がこの体の中に自分は居ると思い込んでいるからこそこれが既成事実になっていうのです。

朝から晩まで狂ったように忙しい日には自分が居ることを忘れている

この体の中に自分が居るなんて当たり前ではないか?そのように考える人の、、、絶望的に忙しい日にはおそらく自分の存在を忘れているはずです。自分のことを忘れている時が確実にあるということは自分がこの体に居るということを放棄しています。そしてそれでも全く問題なく生活できています。自分がこの体の中に居るという感覚がなくても何も問題なく上手く生活は回るのです。これはどういうことでしょう。覚者が「この体の中に自分は居ない」と気づいた後も普通に生活をし仕事をできるのはこのためです。

むしろ自分の存在を忘れてしまっている人の方が上手くいく

辛い仕事というのはその仕事に集中できない仕事のことです。その仕事をしているとあらゆる雑念が湧いてきてなぜ私がこの仕事をしなくてはいけないのか?と考えてしまう仕事こそ辛い仕事です。楽しい仕事とは仕事に熱中できて自分の存在を忘れてしまうような仕事です。これを天職と呼びます。自分の存在を忘れれるような恋愛、仕事、遊びこそが楽しい、、これは誰でも知っている事実です。

自己超越というマズローの教え

マズローは悟っていた

私は中学生の頃にマズローの欲求五段階説を本屋で立ち読みした際に興奮したことを今でも覚えています。人間には欲求があり、この欲求に階段がある。生存欲求から始まり、所属の欲求、社会的欲求や承認欲求、最後が自己実現欲求であると。最後の階段は自分が好きなことで世の中の役に立つ、、これに痺れました。立ち読みながらも興奮したのを今でも覚えています。そして自分自身が好きな仕事で食べることが出来るようになった時に実は自己実現欲求の先に自己超越という段階があることを知りました。これは私が25歳ぐらいから研究していたテーマとガッツリ合致したのです。やはりマズローは只者でない、そう確信したものです。

自己超越という言葉は凄い

悟りとは自己超越です。素晴らしい解釈です。自己を超える、、まさに完璧な表現。多くの方は悟りを自己の究極の形であると誤解しています。悟りを完璧な自己と誤解しています。違います、悟りとは自己を超えた状態、自己から離れた状態、自己のカラクリを見破った状態のことです。マズローは人間を研究しそこまで掴んでいたのです。マズローの観察眼はまさに自己を超越しています。非常に興味深い人物です。

自己実現で人生は完璧になると信じていた

20代に仕事でストレスを抱えていた時、私は仕事さえ好きな仕事に就ければ絶対に究極の幸福状態になれると信じていました。これほど仕事がストレスフルならば仕事でストレスさえ無ければ人生は最強になると。幸福でい続けるに違いないと真剣に考えていました、ですが実際はそうではない。どんなに好きな仕事で食べれていてもやっぱりもっともっとが湧いてきます。このもっともっとはいつでもどこでも自分を襲うのです、マジか?!という心境です。ですが今はわかります、人間というこの存在をどう捉えるかで苦悩は延々に続くことを。

自分は錯覚だから常に虚しい

虚無感とはこの自分が虚であることから来ている

自分とは全体から自らが分かれた状態です。この体の中に自分が居るという感覚のことです。本当は全体しかなくその中に独立した風の自分を作り出しました。本当は全体しかなくその中に別個の確立した風の自分をこの体の中に作りました。実際には全ての体験を経験しているのは自分演じる全体です。全体の中に分離した存在を作ることはできません、あくまでも分離風個人ということになります。だからこそこの自分は常に虚しさを感じます。何かがおかしい、何か不足している気がする、何か孤独な気がする、、、これは間違いなく事実です。なぜならば自分とは虚だからです。

この虚しさを晴らすためにあらゆる試行錯誤をする

この虚無感を晴らすために自分は色々試行錯誤します。多くの試行錯誤は没頭できる何かを探すことです、TV、YOUTUBE、SNS、ギャンブル、友人とのお喋り、カラオケ、恋愛、旅行などなど、、、世の中には自然と没頭できるエンタメが溢れています。これを仕事など生産性のある分野で見出すことができる人もいます、好きな仕事で自己実現する人々です。もしくは母親として子育てに没頭することでこれをする人もいます。全ての行動の動機、それはこの虚しさを解消するためです。

虚しさ、孤独、漠然とした不安は自分劇場のデフォルト

何か虚しい、何か孤独、何か不安感がある、、、これはこの自分劇場のデフォルトです。精神病でも何でもありません。自分とは本来存在しないのですから当たり前です、自分とは全体から自ら分かれたと錯覚した存在です、エネルギーを解明すれば明白ですがこの全体(一つのエネルギー)の中に全く別物のエネルギーが存在することは不可能です。ですが分離したと錯覚する一つのエネルギーの存在は可能です。そして錯覚ですからどこまで行っても虚しさが拭えないのです。このメッセージはだからこそ絶望しろ、という内容のものではありません。虚しさ、孤独、不安感に悩む必要がないということです。ある意味自分の責任ですが笑根本的誤解から生じています。

偽りの自己は偽りゆえに自己保身が強い

自己保身とは偽るモノの妨害

これは夢です。神が見る夢です。神が人間に成り切ることでこの夢物語を作り出します。神は自分自身を人間であると錯覚する、偽ることでこの仮想ゲームを作り出しました。これが夢です。仮想ゲームですから全てのものには実態がありません。人間の五感が感じることを現実と呼んでいるに過ぎません。人間の五感が感じないものは現実ではない、こういう論理です。人間というこの自己は偽り、錯覚ですから当たり前ですが実態はなくそれゆえ自己は自己保身が強くなります。吹けば飛んでしまうようなこの偽りの自己を自己が保身するのは当然のことです。

悪口を言われれば過度に反応する

偽りの自己は偽りゆえに自己保身が強くなります。全く実体がないにも関わらずあるという大前提でことを進めていますから自己の存続に関わることには敏感に反応します。悪口を影で言われていれば機嫌が悪くなりますし。影で褒められればご満悦です。影で妬まれれば落ち込み、影で称賛されればご満悦です。この自己は偽りゆえに外部の反応を異常に意識するわけです。それゆえ非常に疲れます。人間関係の輪に入れば偽りの自己同士がこの無限地獄を引き起こします。

本当は神だから保身も糞もない

人間とは神の化身であって本当は神です。神は保身に走る必要など全くありません。神は陰口を言われて落ち込む必要はないのです。神が妬まれて落ち込む必要もありません。神は称賛されて意気揚々とするのも変な話です。神が持ち上げられて鼻を伸ばすのも不思議です。ということで偽りの自己は神に戻ることだけを考えるのが手っ取り早いでしょう。全ての動作から無心に入る、全ての仕事から無我に入る、全部を書道、花道のように無我に入る道具にします。何にからでも無心に入れることができれば周囲の反応を気にする必要はなくなります。

偽りの自分は人を引きずり下ろして不足感を解消する

不足感解消に仁義なし

これは夢です、神が見る夢です。この夢の中では神は人間に成り切ったゲームを展開します。人間という五感+思考+感情動物を利用してこのゲームを楽しみます。実際には全て幻想ですが五感があることでリアリティーを与えます。さも自分がいるかのような錯覚を感じることができる遊びを展開します。神が人間という不自由極まりない生き物に成り切るわけですから不足感が湧いてきます。しかもこれはこのゲームが続く限り延々と湧いてきます。この不足感が人間の価値観と絡み合うことであらゆる感情のベースになるのです。怒り、妬み嫉み、孤独、退屈、などなどです。人間ゲームに慣れていない神はこの不足感を犯罪、裏切り、理不尽な行為をしてでも埋めようとするのです。これが仏教でいう地獄界です。このようなレベルの人たちが集まる集団に属しているとそこは地獄になります。

不足感解消にルールを守る

不足感解消のために最低限のルールを守れるようになると社会人としてやっていけます。会社、法律というルールを守りながらこの不足感を解消していきます。もちろんこの不足感はルールを守っていても関係なくひたすらに湧いてきますからこれが辛いことに何も変わりはありません。ただしここに居る人たちはルールを破ってでも不足感解消をしない分お互いが楽です。各々が独自に不足感解消に向けて努力していきます。

不足感解消から無我に入る

不足感解消をする努力から無心、無我、無思考に入れる人もいます。茶道、書道、花道のようにそこに携わることでそのまま無我に入り歓喜を得ます。そこに集中し無心に入ることでその場で神を体現します。これが究極の娯楽です。本来であれば苦しみでしかない仕事や労働から悟りに入るこれは人間の究極の形です。そして最終的にこの感覚を理解することから人間の苦悩解明に入っていきます。神が演じるこの人間から意識的に離れる、人間観察者へとシフトしていきます。