コンフォートゾーン

どっちがいい???

甘えれる環境

甘えれる環境って、、自我ペインボディのやりたい放題です。生活は確保されている、、だったらもう自我メインボディの狙い次第、、ここに居る限りこの体は安全安心、あとはこの自我ペインボディシステムを保持するのみです。この環境に飽きてしまって外に飛びださないように監視さえしておけばいいのです。不安感恐怖心を連発しておけば、、あとは勝手に思考がグルグル回転し、、不安、恐怖の原因を過去から探し出します。

コンフォートゾーン

自我ペインボディの目的はこのシステムの維持です、、つまりこの体が食えていればそれでいい、、その中で自我ペインボディシステムが起動し続けます。だからどれほど不幸であろうとも、、関係ない食えているならば。不幸だからここから出たい、、そう感じても同時に不安感が湧き出し、、その原因追求を思考が始めます。そして出るのは危険だ、出ても危ない、、と思考が周りこの思考をペインボディが食べるのです。

ルール

思考が作り上げたルール、、人間とはこう生きるべき、年寄りには席を譲るべき、挨拶は目をしっかり見てやるべき、、このルール実は、、自我ペインボディシステムの最強の武器です。ルールを設ければ、、確実にそのルールによって苦しむという現象が起こり、、この苦しみを自我ペインボディシステムは餌にして維持します。男は1000万円は稼ぐべき!!!こうルールを決めれば、、、稼げない男を見てはネガティブな感情を回収し、自身は焦って苦しんでこれを達成するのでしょう。。これを回収するのはペインボディであり、その思考は自我を維持します。ルールとはストーリーの中でしか存在しません。つまり幻想を維持する道具です。

コンフォートゾーンに捕まる自我

自我とは情報

なぜ自我はコンフォートゾーンをシフトされることを嫌うのでしょうか????自我は情報だからです。現状という情報によって自我は支えられていますから、、、これが無くなってしまったら自我が消えてしまいます。例えば大企業の社員である自我は会社が突然潰れてしまえば、、情報が書き換わってしまいます。もう大会社の自我では無くなってしまうのです。ゆえに会社の倒産を恐れるのです。本当は自我とはセルフイメージであって、、実在しません。ですがこれを実在していると勘違いしますと変化への恐れが大きくなります。

情報でしかない

自我とは実在ではなく情報です、、よって情報が書き変われば自我は消えます、、ゆえに自我を実在と信じる人々は、、コンフォートゾーンの変化を過度に恐れるのです。情報の変化は自我自体の大転換です。〇〇君のお母さんの〇〇君が突然家を出れば、、、お母さんがお母さんではなくなってしまうのです。ゴールを次々と変えていく、しかもコンフォートゾーンの外に変えていくのは、、自我の転換を能動的に行うことです。

実在しないものを実在と勘違いさせるカラクリ

自我とは情報ですから実在しません、、ですがこの社会では実在しているという勘違いで成り立っています。この体が死ねば私も死ぬ、、本気でそう信じています。だから、、自我を取り巻く環境が変わることは自我の死を意味します。よってコンフォートゾーンにも必死でしがみつくのです。コンフォートゾーンにしがみつくというこの事実こそが自我が実在せず情報でしかない証拠です。

コンフォートゾーンの崩壊

快適域

個人は、、、コンフォートゾーン、快適域の中で生きます、、、、会社員をやっている、、年収はだいたいこのぐらい、、、快適と思える生活を無意識にしています、、、、私というイメージは、、、、、、慣れ親しんだ空間、生活、友人関係を維持しようとします、、、、脳は、、、生き抜くために、、、快適域を設け、、、、その中で良くも悪くも生きるのです。

個人が居ない

個人が居ないとなりますと、、、、このコンフォートゾーンが崩れます、、、、、快適域に収まる個人が居ないのですから、、、快適域自体が消えてなくなるのです、、、、私というイメージに見合った、、空間、友人、財産、、、全てが消えてなくなります。。。。この時に気づくのです、、、、この快適域は、、、、実は個人という妄想を縛り付けていたのだと、、、この快適域こそが個人を絶対的なものに仕立て上げていました、、、、

あなたってこういう人だよね

〇〇さんってこういう人だよね、、、〇〇さんらしいね、、、これらは全部周囲が認識する、、、、「私」のイメージです、、、、、このイメージが、、、この私というイメージを強化します、、、、、やっぱり「私」ってこういう人なんだ、、、、と。。。。ですが全ては妄想、イメージ、概念です、、、、本当は、、、「私」は居ないんです、、、、、ですから「私」に見合った、ちょうど良い、環境は存在しません、、、、あえていうならば「私」とは見渡す限りの現象全てです、、、生命現象、幻想そのものです、、、、

悟りというコンフォートゾーン

全俯瞰

悟りとは全部を俯瞰することです、宇宙の俯瞰です、、宇宙のシステムを体感として理解することです、、、体感ですからこれは簡単に伝わるわけがないのです、、、、、ですが我々はこの言葉を体感で獲得していきました、、幼少期に、、、これを悟りでもやるのです、、、、宇宙の俯瞰を七年間かけてやればいいのです、、言葉を覚えた時のように。

全反射

見かけ上の私が理解した悟りは全反射です、、、全ての現象はこの反射の塊、反射の永続、反射に次ぐ反射、、人間の言葉も感情も、行動も全生命の活動も反射が起き続けている、、、、その様は無限、、視点を変えれば無限の現れが続く、、、それを感じる、、その感じ方はまた無限、、、この無限の感覚、経験こそがそれだけが真実、、それ以外は幻想、、、この経験の寄せ集めが神、無限、空の存在、、、無限の経験の寄せ集めです。

全不自由意志

全部の行動、思考、活動はただの反射ですからここをコントロール存在「自分」など絶対に居ません、、自分という実在は当たり前に居ません、、、、全反射が起き続けるだけです、、この事実の圧倒的理解は、、究極の安堵です、、、この安堵感は恍惚状態であり、、、誰にも奪われることがありません、、、反射によるトラブルは毎日のように起きても、、、それが反射であるという圧倒的事実を把握した今、、、感情が乗ってこないのです。

「自由意志がない」がコンフォートゾーンになると

静寂そのもの

自由意志がない、、これがコンフォートゾーンになるとどうなるでしょうか???先ず焦るという感覚が消えていきます、、、なぜ焦るのか????それは自由意志をフル発揮して最大限の利益を得ようとしているからです、、、最大限の利益があるならば最大限の損失もあるわけでこの分かれ道こそが自由意志の良否であると人は思考します、、、すると焦るわけです、、、最大限の利益を獲れない場合は全部自由意志が陰転したことになるからです。

腹の探り合いをしなくなる

自由意志があるからこそ目の前の相手から騙されないようにしよう、少しでも得してやろうという発想が生まれます、、、勝負において、、、勝つか負けるかは全部判断によるもの、、、よって勝つためにはどうするべきか???思考が働きます、、、ですが自由意志がないが腹落ちしますと、、、その努力に気持ちが乗らない、、、頑張れない、、が起きます、、、

自由意志があると思うから焦るのだ

自由意志があると思うからこそ焦るのです、、、自由意志とは全責任がこの「自分」にあるという考えですから非常に焦ります。。。上手くいくかどうかは自由意志をいかに使うか、そして使う自分の力量による、、、という考えですからプレッシャーは相当なものです。。。社長や芸能人がピリピリしているイメージなのはこのためです、、、良くも悪くも全責任がこの「自分」に押し寄せてくるからです。ですが自由意志がなく自分も居ない、、がコンフォートゾーンになりますと、、、責任を取れる自分が居ない、、、になりプレッシャーを感じることができなくなります。

悟りをコンフォートゾーンに

気づきの意識の状態に慣れる

瞑想とは気づきの意識そのものの状態に慣れることです、、、無我夢中になって何かに集中するのも同じことです、、自我のない状態に率先して慣れていきます、、、するとそこに至福、静寂、平和があることにはっきりと気づきます、気づきの意識が、、、これが悟りです。自分など全くの不在の場所にこそ、、、平和があることに気づくのです。自分が美味しい物、刺激物を得なくても、、、その場で安堵、平和、至福に至れることに気づきます、気づきの意識が。。。これが悟りです。

悟りを理屈として理解し実践して慣れる

悟りについての正しい理解は大切です、、これをしないと自我は全てを所有し、、コンフォートゾーンをズラすことができません。自分がはっきりと居るという認識の中で無我に入ろうと、瞑想をしようと、、、その獲得を全て自我が所有するという場所に戻るでしょう。理屈として悟りを理解し、、その上で瞑想、無我になって集中することで、、自己の不在が安定します。

機能としての自分に戻る

自己の不在が安定してもこの幻想の世界、夢の中の世界、イリュージョンの世界が続く限り、、機能としての自分は存続していきます、、、機能としてこの世界での役に立っていかなければ食べていくことができません。機能としての自己を維持していくことになるのです、、、、ですがこの時にはマインドはこの状態を維持しようとしますから、、、機能向上にただ努めるでしょう、、、機能としての自分磨きに入るはずです。。。

悟りに過剰反応するマインド

マインドは現状維持

マインドの目的は現状維持です、、この体を保持すること、、これが目的ですから、、、今食べれているならばもうこのままでいいのです、、苦しい、辛い、しんどい、、、状況であっても今食べれていれば、、それを維持するために動き続けます。とすると、、、悟りというメッセージ、、、自己が不在であるというメッセージは、、、現状とは全くことなるため、、、マインドの抵抗に合う可能性が高いのです。

全く書籍を読み進めれない

ということで悟り系の書籍が全く人気がない理由がよく分かります。マインドはこれに徹底抗戦します。自己が居ないなど、、、全くの想定外、、、困惑の局地です。ただそれでも読み進めていき、、、自己はいない、、、自由意志はない、、、というメッセージに触れ続けていきますと、、、まさかのマインドがその状態を現状と勘違いが始まります、、、するとマインドはその状態を現状維持しようとするわけです。コンフォートゾーンが自己不在になる。

自己不在というコンフォートゾーン

悟りとは自己不在をコンフォートゾーンにしてしまうことです。そのために無我集中する、瞑想する、メッセージで理解する、など様々あるわけです。自己不在をコンフォートソーンに、自由意志がないをコンフォートゾーンにできれば、、それは悟った状態が安定するということです。マインドはその状態を保持しようと動くようになるのです。

自我から解放された腕全体は大活躍するが、、、

自分との同一化から外れた後の罠

完全分離した指であるという錯覚から抜け出した腕は、、腕全体の一部である指を完全に取り戻し、、指を自由自在に操れるようになります。指から重さが抜けることで腕は今まで以上に指を世の中で活躍できる機能にします。周囲からの評価もいい、、、ところがです、、、ここで眠っていた自我に火がつきます。今回の指の活躍こそは自分の手柄だという主張です、思考は再び指に成り切るとこで徹底的に今回の活躍を自分のモノにしていくのです。これが怪しいカルト集団のリーダーのカラクリです。

なぜこのようなことが起きるか???

このような悲惨な結果が起きてしまう理由はなんでしょうか???単にコンフォートゾーンが完全に腕にシフトしていないからです。指であることにコンフォートゾーンがまだまだ在るということです。本当完全独立分離した指などは存在しないので、一旦自身は腕全体なのだという気づきが起これば再び指に戻ることは考えにくいのですがあまりに長い時間を完全分離した指として生きていたので何かのきっかで指に意識が戻ってしまうということです。

コンフォートゾーンを完璧にシフトする

思考とは腕全体にシフトしたコンフォートゾーンを指に戻すための道具です、ですから思考の湧き出しに対し不注意になると指に戻ります。湧き出してくる思考に注力してしまうと、かじりつくと、、完全独立した指で在るという大いなる思い込み、錯覚が起こってしまうのです。要は簡単なことです、思考というものを真に受けないということ、ただこれだけです。思考の策略に対し意識的で在るということです。

自分の一番の恐怖は自分の消滅

神はこの人間の体に閉じ込められさらにこれを消滅したくない

神とは本当に矛盾を秘めた存在です。この体に閉じ込められ非常に苦しい思いをしているにも関わらずこの自分を消滅させたくないと思っています。苦しいにも関わらず自己を存続させたいと願っています。なんという自己矛盾、ドM体質と言っていいでしょう。アメリカ南部で奴隷解放運動が起こった際にそこから奴隷を積極的に辞めた人間が少なかったという事実があります。つまりこの自我とはどれほど苦しくても今存続できているならばそれでいいのです。

コンフォートゾーンはそれを完璧に説明している

苫米地式コーチングのコンフォートゾーンは自我のこの働きを完璧に説明しています。自分に成り切った神はその状況がどれほど苦しくても「自分」が存続できているならばそれを維持したいのです。だからこそ進化することを嫌います。進化とは今までの自己の消滅だからです。自分が進化を継続していけば行き着く先は自分の消滅です、なぜならばこの自分は錯覚だからです。

自分のセルフイメージを上げ続けていく

自分とはこういう人間だ、このセルフイメージを常に進化させていきます。「自分」という存在をなくすのではなく「自分」を進化向上させ続けていきます、するといつの間にか「自分」=「神」になります。マズローの欲求五段階説のように自身の欲求を進化させていき、、最終的に「自分」は神であったという境地までセルフイメージを上げていくのです。このやり方ならば「自分」の消滅を極端に恐れる自我を上手くコントロールできます。

神はコンフォートゾーンを人間にシフトして人間でしかできないことを楽しむ

人間体験はシンドいが楽しい

人間体験とは凄い体験でこの体を全体から完全に切り離し、、この体だけが「自分」だと決めて生きることです。この体を全体から切り離すために7年間ぐらいの歳月をかけて両親から声がけを受けます。そして7年間で完全分離(錯覚)をすることに成功します。逆に言えば7年ぐらいの歳月をかけなければ完全分離錯覚を起こせないということです。つまり完全なる神から人間になるには7年間の歳月がかかるということです。そしてこれはあくまで錯覚であり勘違いです。ですからこの体験はどこまで行っても苦しいということになります。

自殺する人間をバカにできない

幼少期は自殺をする人間が世の中にいることが信じられなかったですが今は全く違います。何が正解か全くわからないこの人生を歩んでいくのは茨の道でしかありません。これさえ手に入れれば後はある程度幸福、、これがないのです。びっくりします。それもそのはず、、神が自身を人間であると勘違いしているわけですからこの不快感たるや半端ない、、、神であったことを思い出すまでこの不快感は延々に続くということになります。

私はこの事実を理解して救われた

実は自分は神だった、、、この事実を目の当たりにしたときに心底私は救われました。なぜか???これまでの居心地の悪さがハッキリと解明できたからです。これまでの人生の努力とは、、この居心地の悪さが原動力になっていたのは間違いありません。この居心地の悪さをなんとか小さくしたい、、この衝動が自身をあらゆる対象への努力に向かわせました。ですが今は理解できます、私自身が神だったわけでそんな神が小さな成功、小さな達成、小さな評価ぐらいで満足するわけがないのです。この居心地の悪さの真の原因が分かった以上もう焦燥感はありません。

神はこの焦燥感を利用した

神は人間にどのような人参をぶら下げて活動に向かわせるか?それがこの居心地の悪さ、そしてそこからくる焦燥感です。誰もこの居心地の悪さの根源を知りません、だから焦るのです、、だからどこまでも狂うわけです。ドラッグ、お酒、ギャンブル、マリファナ、異性、お金、名誉、地位、、、この世界には人間を狂わせる要因がたくさんありますがこれらはこの根源がわからない居心地の悪さが原因です。