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ノンデュアリティとは自我研究、自我解放

自我のあらゆる幸福探求は失敗に終わる

ノンデュアリティが自我を解放します、、ノンデュアリティが自我に意識が向かなくなること、これが悟りです。ノンデュアリティが自我に意識をフォーカスする時、、苦しみが生まれます。非二元が二元の世界を体験します。そのためのツールが自我です。真我が二元を体験する時に自我に意識を向けます。意識が非二元ではなく二元を経験する時に自我に意識を向けます。これは至福による苦しみ体験です。よってこの経験は苦しいことが完璧なのです。

自我とは苦しいがデフォルト

私は苦しくない、、私は苦しいを全く感じない、、、嘘です。。この私こそが苦しいを生み出すフックだからです。真我が自我に意識を向けることで二元の世界が起こり、苦しみが湧き出すのです。真我は真我のままでは至福そのものであり、、至福を体験できない、、、自我を通じての至福の再発見こそが真我の目的です。だから自我は真我を見つけるまで苦しいのです。真我が自我に成り切り(意識を集中し)苦しみからの解放を湧き出させ至福への渇望が起き、至福を探し出し、、そうだそもそも真我(至福)だったという気づきを得るのです。

世間一般でいう幸福を手にし全く満たされないことを知る

多くの人が羨むような生活を一度でも手にしてみれば直ぐに分かります、、全く満たされないことが、、、ここでの絶望こそが、、、真我への興味が起きます、、そこにしか至福がないことを悟ります。自分が何かを手に入れるでは絶対にそこには到達できない、、獲得ゲームではない、、、至福とは手に入れるのではなく、、自分を落とすこと、至福が至福であったことを思い出すことしかない、、その気づきが起きます。

無我make自我

無我が自我を起こした

無我が自我を起こしました、、、無我から自我は起きたのです、、、無我は至福、自我は苦しみです、、至福が苦しみをこしらえたのです、、そしてそれを感じるのは無我です。自我の完全活動中は無我は自我に成り切ります、、自我を意識するのではなく自我そのものになるのです無我が、、、この状態になって初めて苦しいが湧きます、、、そうしたら自我を観察する無我に戻るのです、、、自我の活動、思考、言動は完全に無我からただ湧いていることを把握します、、自我の活動を無我の活動であると意識します、、、これで無我に戻ります。自我を観察する無我になります。無我=自我から自我を見守る無我そのものになります。

私はこの体の中に存在する者である

私はこの体の中に存在し自由意志を発揮する者である、、、これが自我ですが、、、この言葉は一体どこから生まれたのでしょうか、、、この言葉がどこかから生まれなければこの自我は存在しません、、、どこから???無我からこの言葉がただ起きたのです、、このプログラム言語がただ無我から起きました、、、無我がこの言葉に成り切る、意識を集中しすぎると、、、苦しみが湧き上がります。無我=自我ではないからです。自我とはただの言語であり、、無我の一部でしかありません。

無我から起こった自我

自我は無我からただぽこっと起きた言語です、、この言語に無我の意識が向くと、、、このファンタイジーの世界が湧き起こります。そのファンタジーの世界は苦しいので、、、ファンタジーの世界の中で、、パチンコ、お酒、異性、食事、などを使って無我に帰ることをします。熟睡は完全なる無我、、、ゲーム熱中も無我、、仕事集中も無我、、です。そしてこれらは自身が実は自我ではなく無我であることを教えてくれるヒントです、無我から湧き出した。

悟りに興味が出るだけ奇跡

悟りに興味は起きない

見かけ上の私は、、とんでもない好奇心旺盛な人間で、、興味の湧くことは片っ端から極めていこうとしました、、幼少期は動物、昆虫遊び、、小学生になるとTVゲーム、、中学は受験勉強、、高校はスポーツ、大学は異性関係、就職後は自己実現、、一直線にそれを満たしていきたい、、そう思う人間でした、、、就職後にどうしても仕事が合わず、、かつ次にやりたいこともない、、、ここで八方塞がりに突入しました。この八方塞がりは見かけ上の私の人生史上最大の壁になり、、さすがに現実から逃げたいという欲求が渦まきました、、、結果仏教、善の悟り関連のメッセージに自然と救いを求めるが起きたのです。

趣味は徹底した、努力も徹底した

自己実現の壁に出会った時に、、、なかば諦めの境地が来ました、、、もしかしたら今回は不可能かもしれない、、何もやりたいことがない、、、、参った、、、その時に染み渡ったメッセージが釈迦、禅などの悟りメッセージだったのです、、ですがこの時は本当の意味など分かるわけがなく、、、ただそこに真実があることだけは分かっていました、、。最後はここに行けばいいのだという、、、

自由意志を手放すには

自由意志を手放すのは怖いものです、、、なぜならば自由意志でこの人生は守られていると本気で信じているからです。ですからこれは完全な人体実験が必要になります、、、何も考えず、、何も計画を立てず、、生きてみよう、、、やってみよう、、、すると不思議何も問題なく行動が起きるのです、、、何も準備なくしっかりと行動が起きます、、、え???本当だっ、、、という気づきが起きます。

自我は覚者を脅威に感じる

自我にとって覚者は大敵

自我が強固なシステムになっている見かけ上の個人は、、覚者の存在を大いに恐れます、、、それは当たり前の話で、、、本当は存在していない自我にとってそれを見抜きさらにその事実を突きつけてくる行為は殺人と同じだからです。ですが本当は自我は存在しないのですから殺しようにも殺せません。錯覚としての自我が徹底的に覚者の存在を否定するのです。

覚者の扱いに困る自我

覚者とはこの体の中に自分が居ないことに気づいた全体のことです、、この体の外に全体がありこの全体がこの体を便宜上使ったゲームをしていることに気づいた全体です。。。見かけ上は人の体をしていますが主語は全体です。この全体は自我に話しかけます、、、それはないんですよと。。。お前はもう死んでいる、、、こんなメッセージを伝えるわけですからそれは嫌われるわけです。世界一嫌われる人種でしょう、覚者とは。誰もそんなメッセージは聞きたくないに決まっています。

覚者の重箱を突く自我

自我は覚者の重箱の隅を突くでしょう、、、悟ったならばお金がないのはおかしい、悟ったならば成功していなければおかしい、、悟ったならば独身なのはおかしい、悟ったならば性欲があるのはおかしい、悟ったならばお酒を飲むのもおかしい、、とですがこれこそが最後の抵抗です。本当は、、、ただ全体から起こりが言動が起きているだけ、、、その起こりが見かけ上のこの体を通じて起きていることに気づくことだけです。

現象に優劣はない

起こる現象に良否の判断を加え続ける

起こる現象に良否など全くありません、、個人という存在をでっち上げた時に初めてこの個人にとって良いか悪いかの判断が始まるのです。個人という存在をでっち上げたのは誰か、、、自分ではありませんよ、、全体です。全体がこの全体内に個人をでっち上げた現象化させた、想像したのです。。。これによってこの個人にとって良い現象、悪い現象が起きているように見えているのです。ですが本当はただの現象ですから個人にとって良い現象と悪い現象は半々起きますから人生とは不自由、不具合、非完璧なのです。これがカラクリの全てです。

なぜこんな簡単な理論が理解できないのか???

こんな簡単なカラクリ、こんな簡単な理屈がなぜ個人には届かないのでしょうか????そこに意味はありません、、ただ事実だけを説明すれば個人というプログラム、観念は非常に強いということ、、見かけ上の脳の発達はこの見かけ上の体を維持しようと強く働くよう現象化し、、全思考、全行動がこの見かけ上の体を保持するよう連鎖反応するのです。この連鎖反応を止める個人がいませんからこれは長丁場になるのです。

このメッセージは個人にはパニックになる

24時間この個人のために全言動が作動しているにも関わらずこにの体の中に自分が居ないというメッセージがこの体に届けられるとパニックが起きます。裸の大様についに服を着ていないよ、、と発言した子供のような状態になります。。絶対に言っては行けない事実、、この体の中に自分は居なかった、、、ヒョエーです。ですがこの体の中に自分が居るゲームにほとほと疲れはてていた場合、、、このメッセージが届きます。。裸の王様も心の中で安堵が生まれます、、、ようやく服を着れると、、、

病気から悟りに入る

病気を感じているのは全体

今私が病気である、、だから辛い、、これを感じているのは紛れもなく全体です。病気になったら休みますよね、自分活動を一切しないはずです。それは全体そのものになって病気を感じているのです。病気になると寝ます、寝れば思考が抜け落ち自分が抜け落ち全体に戻ります。すると病気が治りやすくなります。ただ休んで体を治すのではなく全体になっているという自覚を持つことで病気から悟りに入れます。

辛いの根底に至福がある

同じ病気でも本当に辛い時と至福に包まれた感覚を持てる時があります。自分が病気をしている、、、これが辛い、、ただ病気が全体から起こった、、、これは辛いを感じる至福の存在を確実に感じます。なぜならば辛いを感じている真犯人は全体、至福だからです。個人はどんなに「自己主張」しようとも結局は至福が作り出した劇場なのです。

全員が至福からは逃げられない

至福(全体)が作り出したこの自分ゲームですから最終的には全体(至福)に帰るしか道はありません、どんなに今病気で苦しくても、、全体(至福)からは絶対に逃げることができないのです。個人は今全体から分離したという錯覚が起こされ、、そこから苦しみのループに入り込んだだけ、、全体(至福)という落下シートが常に常に張り巡らされた綱渡りをしているだけです。

全体(至福)が怒りを感じる

神が怒りを感じる???

怒りを感じる神(至福)、、怒りを感じる全体(至福)、怒りを感じる空(至福)、、、なんかしっくりきません。それはそうです、なぜ至福が怒りを感じることができるのか????という話です。ですが実際には本当にこの現象が起き続けています。ストーリー上の個人は怒りを感じることは絶対にできません、感じることができるのは気づきの意識(至福)、全体(至福)、神(至福)だけです。そうなりますと至福と怒りを同時に感じることになってしまい、、これはおかしいのです。ですがこれは全然おかしくない、、、、ゲームをやっている際の怒りは楽しんでいます、映画の中での怒りは楽しんでいます、、、そうです、、怒りを至福の中で楽しむことができるのです。

ただのめり込んだだけ

我々の正体は至福ですからこの至福が怒りで手が震えて苦しいというのはおかしいのです。主語が至福なのですから、、、もしもこの至福が怒りにどっぷり浸かることができるとしたら個人に成り切るという憑依をしなくてはなりません。憑依芸レベルののめり込みをした際にだけ、、、怒りに酔うことができます。だから小学生よりも中学、高校、社会人と、、、怒りを押し殺して生きている人が増えるのです。

怒りを感じたら、、、

怒りを感じたら、、、、今この怒りを感じたのは誰か???と問うてみてください、、、それは気づきの意識、全体、神です、、至福です。至福が怒りを感じたんだなーと思っているうちに怒りが消えていきます。なぜならば至福は至福でしかないからです。主語を私から全体(至福)に戻すのです、、、怒りを沸き起こすには「私」の存在がどうしても必要であり、、、ですがこの「私」は捏造された存在ですから事実ではないのです、、だからいつだってどこだって全体、気づきの意識、至福に戻れるのです、、、そっちが本当だからです。

あのタイミングで結婚しなければ良かった、、

離婚した人の多くは後悔をするが、、、

あの時もう少し考えていれば結婚を避けれたのに、、、、あの時もう一人のBさんを選んでおけば、、こんな悲惨な結婚生活を回避できたのに、、、、、残念!!!結婚するかしないかを決める自分は存在しません、全部全体からそれが起こりました。。もう少しだけ考えていれば、、、、違います、、、もう少し考えるが全体から起きなかったのです。

今回の離婚で多くを学びました、、、

いやー1回目の結婚では多くを学びました、、、やっぱり家庭的な奥さんが一番だと悟りました、、、、残念!!!今そのような思考が湧いていようと、、、それとは全く関係なくまた別の思考が全体から湧き、、、それとも全く関係ない誰かと結婚するが起きるのです、全体から。どこまでいっても学んだ「個人」は存在しないのです。学んで成長した個人は存在し得ないのです、、、この個人はこのゲーム、ストーリー上の見掛け倒しです。五感で感じる蜃気楼です。

結婚ってこういうものだから、、、君も気をつけて、、、

結婚生活10年の俺から言わせてもらうと、、、、「お金の管理は自分でやったほうがいいよ」、、、残念!!!結婚生活10年の俺も俺の奥さんも全ての言動は全体からただ起こっています。その結果として「お金の管理は自分でやったほうがいい」がただ起きたのです。誰一人この結婚生活に関わっていないのです、見かけ上はしっかり関わっていても。これで何を後悔し何を学ぶのでしょうか。

ゲーム上この「私」は悟っていい

悟りなんて滅相な、、

私如きが悟りなんて、、、私が悟りなんてとんでもない、、、私が悟りなんて時期尚早です、、、この一見謙虚そうな発言こそが悟りの罠です。自我の罠とも言えます。謙虚というのは、、この私は、、大そうな者ではありません、、、という意味ですが、、、「私」が居ると言っているだけこれは事実ではありませんから傲慢な考え方なのです。「私」など本当は居ないのですからにも関わらず「居る」と言っているだけで傲慢なのです、虚勢です、虚偽です。

私は大そうなもの

本当の私はこの全体、空、色、、、全部ですから、、、大そうなものなのです。大そうなものが見かけ上の「私」になりすまし生きています、謙虚に。滅茶苦茶ですね、、、大そうなものが、、、この見かけ上の体の中に「私」が居るという思考を起こし私ゲームをやっているのです。だからこの見かけ上の私は悟っていいのです。最初から大そうなものだからです、そして今もその大そうなものです、、最初から大そうなものだったのです。

偽りの謙虚を辞める

そもそも見かけ上の「私」は大そうなものですから、、、この「私」ゲームで謙虚に振る舞う必要はないのです。勿論このゲーム上横柄に振る舞えば様々な弊害が起きるでしょう、ゲーム上。だからといって本気で謙虚になる必要はない、、本当は大そうなものであるという自覚をしっかりともって謙虚風に生きればいいのです。「私」の謙虚はこのゲームでは偽りで十分です。なぜならば私は本当は大そうなものだからです。

それでも自由意志にしがみつく自我

自我最強兵器「自由意志」

自由意志なんてないんですよ、、、この言葉に多くの方は激情します、怒り、がこみ上げてきます。。なぜならば自由意志を否定してしまったら自我は存続できないからです。自由意志があるからこそ「自我」はこの体の主人を気取ることができるのであって自由意志がないと証明してしまったら自らの存在を抹殺することになるからです。その手の情報をホイホイと聞くわけがないのです。

記憶が「自我」を確固たるものにし、、、

自我の最強兵器は「記憶」と「自由意志」でしょう。この二つは自我を盤石なものにします、、記憶、自由意志がある、、これで自分の存在を疑う者は皆無になります。こうやって人間同士はお互いの体の中に「自分」が居るというゲームを繰り広げるのです。このゲームが楽しいだけならいいのですがとんでもない、苦しいのです。楽しい時すら苦しいのです、苦しい時も苦しい。いつも苦しい。それは「自分」という存在がこの苦しみを起こすツールになるからです。

自由意志があっても苦しい、、、

百歩譲って自由意志を認めることにしましょう、、ではそれでこの苦しみは無くなるのか、、、絶対に無くならない、、、、それも分かっています。じゃあ自由意志が無いを認めてしまえばいい、、、自由意志がないを認めてしまえば楽になる、、、、でもどうしてもそれだけはしたくない、、、なぜならば今までの功績が全部無くなってしまう、、、あの時の努力、あの時の辛抱、あの時の忍耐、、、、だからできない、、、