ゲーム

マリオは絶対にスーパーマリオ(至福)を発見できない

マリオが移動できるのはゲームの中だけ

マリオの宿命はゲームの中でしか活動できないということです、マリオがどれほど超能力を手に入れても画面から飛び出ることは不可能です。マリオがジャンプ力100倍になろうと走力が100倍になろうと、、画面から出ることは不可能なのです。そして一番重要なこと、スーパーマリオゲーム本体を発見できない。あのプラスティックの箱(至福)を見つけることは絶対に絶対にできないのです。

ゲーム本体(至福)がマリオを消すかも

自分をマリオと思っている限りはマリオは画面の中を走りに走り至福(本体)を探すでしょう、ですがそれだけは見つからないのです。ですがもしもマリオがマリオを辞めて本当はマリオは存在しないのではないか???と疑問を持ち始めた時に、、、ゲーム本体(至福)がマリオを再吸収するかもしれません。その後もマリオは画面上に現れ続けるかもしれませんがその時はもう「自分はマリオだ」という意識はなくゲーム本体(至福)としてゲームを続ける可能性はあります。

自分がマリオではなくゲーム本体(至福)であるという気づきが起きれば

自分がマリオではなくゲーム本体(至福)であるという気づきが起きた後も、、今までのようにマリオが血眼になって至福を探すことは不可能です、なぜならば至福はゲームの中のアイテム(対象)ではないことをもう分かっているからです。至福とはゲーム本体のことでありゲームの構成全てでありマリオ、クッパ、ルイージ、ノコノコ全てがその一部であることを知っているからです。

いまここという言葉の難しさ

いまここを感じているのは誰だ?

いまここしかない、、悟り系スピーカーがよく話すワードですね、いまここしかないじゃないか、だから時間なんて存在しないんだ、空間もここしかないのだ、、、ですが結局それを感じているのが「私」ならば本質を理解できていない、、なぜならば「私」は時間と空間の中でしか生きれないのだから。だから常に時間を使って生きるし空間の中で行きますよね。本質は「私」という存在が不在の時に現れるのですからこの言葉を誰に向かって語っているかは重要になります。

今日は良い話を聞けた???

悟り系のスピーカーの講演会に行って本質の話を聞いて帰れば、、今日はなんて面白い話をきけたんだろう、、となります。大変貴重でためになったと、、、ですが恐らく次の日も何か知識を求めるでしょう、なぜならばその話を聞いたのは「私」だからです。そしてその私は次の日に起きればまたより進化した私を目指すはず。ですがどれほど私が進化したつもりになってもゲーム、幻想の中を彷徨っているのに変わりはなく苦しみからは解放されないのです。

「私」からの解放

講演会を聞いているのは「私」ではない、「私」の奥に居るあるがままなのだ、、そしてそのあるがままが「私」を再吸収した時に至福が訪れる、、このメッセージに気づきが起き始めた時に解放は近いかもしれません。「私」は悟ろう、「私」が目覚めよう、、、という主体客体、二元の感覚が抜けないうちは夢の中、ゲームの中にいる可能性が高いのです。

ストーリー上の私とそれを意識する意識

突然地球が爆破したら

突然地球が爆破したらどうなるか???地球上の人々は木っ端微塵に吹き飛ぶでしょう。つまり全員死ぬわけです、ですが本質は実は全く損なわれることはありません。地球という惑星も本質の表現、本質が作り出したゲームですからそれが消えるだけで実は何も起きないのです。私も当然居なくなりますよね???そうです、肉体の中に居るはずだった私が消え去ります、ですがそれを居ると信じ込む思考に気づてきた意識は全く何も損なわれることなくそこに居ます。

私ストーリーが消えてなくなるだけ

マリオが消えて無くなってもスーパーマリオというゲーム本体は何も傷つかない、、ただそれだけです。全く違うルイージを主人公にしたゲームが始まるかもしれません、クッパが主人公かもしれない、、ただそれだけ。マリオが主人公のゲームは地球の爆破かもしれない、、ただそれだけです。今私が居るこの地球がどのようなエンディングを迎えてもゲーム本体は何一つ影響を受けないのです。

誰にも救ってもらわなくてもいい

誰かに救ってもらわなくていけない人はいない

私たちはあるがままのアートです、神のアートです、ですから誰にも救ってもらわなくて必ず至福に至ります。至福が作り出したアートの一部ですから原料は至福なのです、つまり今苦しんでいること自体がゲームなのです。至福という原料で作り出したゲーム上で苦しいという感情を楽しむゲームをしているのです。そしてそのことを全員が本質的には分かっています。

幼少期は至福そのもの

私たちは幼少期至福そのものでした、自我が目覚めるまでは至福そのものだったのです。ところが自我が目覚めるとともに苦しみが襲ってきました、至福ではなくなってしまったのです。ですが全員が幼少期の至福感を覚えているのでなぜ私の人生はこんなふうになってしまったのか???と疑問に思っているのです。これが現実だから、これが人生だから、、、いやでも昔はこんなふうじゃなかったような、、です。

至福という原料で作り出した壮大なアート

この世界は至福という原料で作り出したアートです、核兵器も遠隔魚雷すらもまさかの至福という原料で作られています。ですからこの世界が争いが絶えなくても、、それさえもアートなのです。死人がでてもそれも至福が作り出したアートだということです。争いも親睦も競争も助け合いも全てが神、あるがままのアートです。そして自分自身と思っていた存在も神のアートに過ぎないことに気づくと自分が神に再吸収され至福に至るのです。

時間

時間は自分が登場してから

時間の存在を疑う人はいないでしょう、時間って必ずありますよね、、、、本当でしょうか???もしもこの世界に自分という存在が存在していなかったら時間って存在しますでしょうか???自分が居ない????そうです、、、自分というパーソナリティーが存在しているからその自分が過ごす時間が登場したのです。マリオが存在しないスーパーマリオゲームには時間が存在しないのです、マリオがゲーム上に降臨してから時間が誕生したのです。マリオが自由意志でゲームを進むこからこそ時間が存在したのです。

自由意志もマリオも居ない

自由意志が存在しないマリオはいません、マリオとは自身の判断でゲームを攻略していく存在です。全自動システムならばマリオは存在できなくなってしまいます。自分でマリオが動くから時間が次の自由意志を行使するために時間が登場します。マリオを全く自由に動かせないのならばそれはただの風景でしかなく、、移り変わる風景のみです。そしてこれがあるがままです。自由意志があると思っているからマリオというキャラは成立しそのマリオが次々に自由意志を行使するために時間が登場するのです。

マリオと自由意志はセット

自由意志が使えないマリオなど存在せずマリオが自由意志を使えなくなったらゲームが破綻します。そうです、これが我々が生きている幻想の世界のポイントなのです。自由意志があるから時間が誕生したのです、、今はこの行動、次はこの行動、その次はこの行動と、、流れができます、、だから時間は存在するという理屈です。魚が生きている世界に時間が存在しないのは魚には自由意志がないからです。

私も自由意志も時間も存在しない

本質は私も自由意志も時間も存在しない世界です。その世界に私も自由意志も時間もあるように感じる世界ができました、ですが本当はないのです。だから虚の世界に居ると疲れます、嘘ですから。人間は眠っている時だけがあるがままです、朝起きて目が覚めると虚の世界に閉じ込められるのです。私が誕生し、自由意志が誕生し、時間が誕生するのです。

朝目覚めた時の気持ちが悪い感覚

起きた瞬間にPCが起動する

あるまがままの世界はあるがままであって、、実は何も存在しません、、、ですが人間は朝起きた瞬間にコンピューターが起動しこのあるがままの世界に独自の世界(言葉)を作り出すのです。その中心には自分が存在し自分以外の世界を生きるのです。これが二元の世界、主体客体の世界です。あるがままは非二元でありあるがままでは自分も存在できません。ですから非二元の世界を発見した自分は存在しないのです。非二元の世界に自分が突如作り出されその瞬間にあるがままも消え去るのです。

「私」の幸福を目指す

朝起きた瞬間にPC(脳)が起動し自分という存在が後天的に作り出されます、そしてこの後天的に作り出された自分が幸福を目指し不幸を避けるというゲームが起こるのです。ですがこの世界(あるがままではない)の中には個人が幸福になれる状況は存在しえないので永遠に彷徨うことになります。なぜならば個人という存在を認めた状態ではあるがまま(絶対至福)には帰れないからです。そしてその道中は自由意志があると思い込んでいるだけ実際には自由意志は存在しないので完全自動システムです。

「自分」が自由意志で幸福を探している気持ちにさせられている

多くの方は自由意志で各個に人間は幸福を探していると思い込んでいますが、、実際には自由意志は存在していないので「自分」という存在が登場し、完全自動でゲームクリアまで様々な経験を積んでいくだけです。受験勉強を頑張ってみよう、就活を頑張ってみよう、会社生活を頑張ってみよう、婚活を頑張ってみようと、、思い込まされ経験だけが積まれていきます。

どんなに不幸そうに見える人が居ても同情は無用

公園でホームレスの方々を見つければ同情が湧いてくるかもしれませんが、、、その流れにおいて本人の自由意志は一切ないのです。完全受動、完全自動でそういう流れになっただけです、この流れから逸脱するチャンスは一切無かったのです。何かの勘違いで、何かの判断ミスで、、ではないのです。だから同情はいらない、、、逆に言えば大成功者に対しても羨望はいらない、、、彼らは自分の意志などではなく勝手にそのような存在にさせられたのです。

過去を後悔する無駄

自由意思がないのならば

自由意志がないのならば過去を後悔するといことが一切できなくなります。あの時こうしておけば、、、年齢を重ねると多くの人はこのことを常に思います、、あの時もう少し頑張っておけば、あの時にこうしておけば、あの時にもう少し優しくできたら、、、、ですがそれは絶対に絶対にできないのです、、、自由意志がないのですから。

もしかしたら

もしかしたら将来お店で万引きをして捕まる、もしかしたら将来痴漢をして捕まる、、、一瞬の気の過ち、、、そして深く深く後悔するでしょう、、、これも全くの無駄です、、、誰にもその行動を止める力はないのです、、誰にもその行動を抑える力はないのです、、、全自動ですから、、、もう少し慎重に考えていれば、、、それも不可能なのです。ですから将来に多くの期待をするのは辞めた方がいい、、自分を信用しないことです。そしてもっと重要なことは人を信用しないことです。

将来を憂う無駄

人生とは最初から最後まで全自動システム、それをコントロールする力は誰も持っていない、、、このことが分かってしまったらもう簡単、、ただただ見守るだけです。。ただただ自分の人生がどう流れるかを見定めていくだけです。風に流され、川に流され、、最終ゴールが全く見えない流れに従う以外に何も答えはありません。そして全員がそうであるならば完全フェアゲーム、、人を羨み、人をそねむ、人を僻む、、一切の無駄です。これは悲観主義ではありません、究極の楽観主義ゲームです。

思い通りにならない

この世の苦しみ

この世の苦しみを一言で説明すればこれになります、思い通りにならない、、です。思い通りにならない、とは個人が考えるような理想に全く近づかないということになります。ですが実際にはそうではなく理想通りにいけば次は物足りないが生まれるのです。楽勝なゲームを想像してみてください、簡単に辞めてしまうでしょう。つまり思い通りに進めば退屈で、思い通りにいかないと苦しむ、、、これが人生なのです。そしてそのような人生をまさに神は望んだのです。全知全能の神にとって無知無能の人間活動は自身(神)は全知全能であることに気づかせてくれるのです。

これが分かってしまえば

これが分かるということは自身が神であるということに気づいたということです、このような人間活動を作り出した大元こそが自分であり、、これまでの体に宿った自分は幻想に過ぎないということです。すると自然にこの体の中の自分の衝動、欲望、感情に振り回されなくなっていきます。なぜならば本質の自分はそこには居ないからです。本質の自分とはこのゲームを成り立たせるシステムそのもの、、システムですから時間も空間も実は存在しません。幻想として時間、空間は存在します。

個人の思い通りになどなるわけがない

簡単に言ってしまえば個人など存在しません、幻想として存在します。その幻想はどこまでいっても幻想ですから何かを動かすパワーなど存在しないのです、、結果個人という幻想は日々周囲に振り回されることになります。そして個人という幻想を信じ続ける限り苦しみが終わることはありません。

全幻想は気づかれてそこに存在する

全現象は気づかれてこそ

この世界は全て現象、幻想です、、幻想ですから気づかれなければ何の意味もありません。気づかれない幻想は存在しないに等しいのです。そして実際に気づかれない幻想は存在しません。つまり幻想とは気づかれた瞬間に現れているのです。気づかれた幻想だけが存在します、幻想として。自我が確実に幻想なのは、何かに夢中になっている間は気づかれません、つまり存在しないのです。ですが自分がやったという感覚が芽生えたときに自分、自我は幻想として存在するのです。

例えば、、YUTUBE

例えばYOUTUBEというプラットフォームには何億というチャンネルがあるでしょう、このチャンネルの全てを見ることは個人には不可能です、、するとチャンネルという幻想は見られる前には存在しないのです。個人という幻想がチャンネルを発見した瞬間にチャンネルが現れるのです。気づかれないチャンネルはこの世界には存在しえないということです。

自分という幻想

自分という幻想は最も身近な幻想ですがこれも気づかれた瞬間に立ち現れます。気づかれない間は自我という幻想は末梢されているのです。にも関わらず我々は自我は永遠不滅の存在だと信じています、ですが永遠不滅どころかゲーム、YOUTUBE、読書にはまっている間自我は消え去っているのです。完全に消え去る自我が全経験を所有しているというアイデア、思考だけがここにあります。ですがそれもこれも幻想です。そしてそれに気づき続ける絶対があります。

面白いって何????

面白いは、、、ありのまま

日本はお笑い天国です、、、、TV番組を観れば、、、いつもお笑い番組が放映されています、、、お笑いとは何でしょうか????人が笑うのは何を感じているのでしょうか?????笑いとは、、、この自分が全くコントロールできずにことが進むことを諦めることなのです。。。。何年も準備して受験をしたら、、受験日を間違えた、、、、この人間の悲しい性こそが笑いです、、、実は何もコントロールできていない、、、ここに人間が触れると、、「ホッとする」そこに笑いが生まれる、、、、

何一つコントロールできていない

本当は何もコントロールできていないのです、、、本当は、、、どこまでも、、、その真実を垣間見ることで笑いが起きます、、、、何一つ、、本当はコントロールできていない、、、、、この事実は感じる力を上げなくては理解できない、、、、、この事実を感じているのは幼児です、、、、つまり、、幼児レベルに体を解放するれば、、、、この究極の真実を感じることができます。

なぜコントロール出来ているという勘違いが起きたのか????

分離した個人が「全てをコントロールしている」という勘違いが起きなければ、、、、全体を感じることはできません、、、全体は全体ゆえに、、、、分離しているという確かな感覚がなければ、、、この世界を構築した意味がない、、、ということになります。そういう意味では、、、徹底的な分離感、、徹底的な孤独感はこのゲームにおいて重要な要素であるということです。

徹底的な孤独感を癒してくれる

現在のお笑い芸人とは、、、この徹底的な孤独感を癒してくれる存在です、、、世の中って本当はこんなんですよ、、、という真実を、、、笑いというツールを通じて、、、表現しているのです、、、そんなに深刻になる必要はないですよ!!!です。みんな全然自分のことなどコントロールできていないじゃん、、と気軽な気持ちにしてくれるのです。もしもこれが真実でないならば、、、誰も癒されない、、、となります。