観念

海であることを忘れた波は夢に夢中になる

夢中になれない夢ならば意味はない

海であることを忘れた波にとってこの世は夢物語、波物語です。波の観念によって大きく様変わりする夢です。リアリティー全開、五感全開の夢ですからこの夢を夢と見抜くとのは至難の技です。思考すればするほどにこの夢は複雑に入り込んでいきます、そしてその夢の中でいかに自由に快適に生きようかと思考をフル回転させればさらに複雑な夢、リアリティーが誕生するという見破れないパターンが進みます。

全存在がこの世を作ったのは夢にどっぷり浸かるため

この夢がなぜあるかと言えばまずはこの夢にどっぷりと浸かるためです。最初からバレバレな夢ならば夢から醒める感動は皆無です。ですから先ずはいかにこの夢にどっぷり浸かるかが重要です、どっぷりと浸かり深刻に人生を考え、重く将来を憂うことから人生はスタートするのです。だからこそそこから夢を見破ることに価値はあるし夢から醒める感動もあるわけです。

簡単に醒めない夢だから価値がある

この世が簡単に見抜けてしまう夢ならば価値はありません。この夢の醍醐味とは夢から覚めたときの感動です。あまりにリアリティーがあって夢とは思えないからこそ夢から覚めたときの感動があるのであって簡単に夢だと気づけてしまうのならばこの夢の価値は半減するのです。この心身こそが自分であるという錯覚を作り出すエネルギーは紛れもなく全存在のエネルギーでありこの夢は悪意で創造されたわけではありません。全存在が自身のエネルギーを使ってこの心身が自身であるという錯覚ゲームを創造したのです。ツッコミどころ満載、アラ全開のこのゲームを愛おしいと思うぐらいの余裕があればいいのですがそうではこのゲームの醍醐味は薄れます。

夢というのはリアリティーがあればあるほど醒めない

退屈な夢は醒めやすい、刺激的な夢は醒めにくい

毎晩人間が見る夢は刺激的な夢のう方が長く見ていられる気がします。退屈極まりない夢だったら途中で覚めるかもしくは怖すぎても起きるかもしれません。今我々が居るこの現象界は夢です、そしてこの現象界をストーリ化しているのは自身の観念。どんな夢を見るかは自身の観念が決めています。要は思考ということになります。どのような思考を信じているかでこの夢の内容は変わってくるということです。思考が積み重なり何十層にもなっていけばいくほどにこの夢、ストーリーは複雑怪奇になっていき緻密な夢になります。故に誰もこれを夢とは見破れなくなるのです。

自身の思考でこの夢を複雑にし、複雑故に疲れ果てていく

思考を重ね複雑に考えれば考えるほどにこの夢物語、海物語は複雑さを極めていきます。複雑であればあるほどに誰もこの夢を夢だと見破ることはできなくなります。こんな複雑で緻密な夢があるわけがないと信じ込むようになるのです、というよりも疑わなくなります。生き抜くためにあらゆる思考を手に入れて逆に生き辛くなった人間はこの苦しみから逃れるためにこの世の真実を探すという旅に出かけます。どうやら思考を積み重ねていってもこの現実は楽にはならないと諦めていくわけです。こうして人間を主人公にしたこの全存在の夢は覚めるための夢物語にシフトしていきます。この夢物語の中から覚めるためのヒントを探していくようになるのです。

先ずはこれが夢なのだと自覚することからスタートする

これが夢だということ、この事実を先ずは受け入れることからスタートします。そして明晰夢の状態でこの夢を生きていきます。これが夢だと覚めるために人生を費やしていきます。ですがこの発見のために過剰な努力をしたりムキになったり、思考を重ねてもそれは無駄に終わります。なぜならばその個人の囚われこそがこの夢を永続するシステムだからです。この個人がいないということ、これが夢だということの発見のために個人が頑張れば本末転倒です。なぜこの夢は苦しいのか、なぜこの夢には平和がないのか、なぜこの夢には本当の愛がないのか、、このように夢を観察する、、そして無我に入るとなぜその時だけは平和が訪れるのか、なぜ無心になるとその時だけ歓喜が訪れるのか、、このように夢の傍観者として生きていくことがスタートです。

海として生まれてきた者を波であると洗脳するには7年間の歳月がかかる

赤ちゃんは海としてこの世に生まれてくる

赤ちゃんがなぜ生まれてきて大人とコミュニケーションができないのか?それは彼ら彼女らは見た目は別個の存在ですが感覚は海として生まれてきているのです。そのため海が海とコミュニケーションしようとします、そこに言葉を介在する必要がないのは明らかです。海が海としてコミュニケーションするというのはあり得ることではないからです。ところが赤ちゃんは戸惑います、自分にミルクをくれるこの海(母)はコミュニケーションが伝わらないと。そして途中で気づくのです、目の前の海(母)は以心伝心できる相手ではないと。そこからはひたすらに父(別個の波と思い込む海)と母(別個の波と思い込む海)による別個の波であるという洗脳が赤ちゃん(海)に続くわけです。

7年間かけて完全洗脳が完成する

海として生まれてきた赤ちゃんにあなたは海とは別個の独立した波であるという洗脳、勘違いを起こさせていきます。これを人間界んでは教育と呼びます。波の世界の言語、概念、考え方、波として生き延びるためのサバイバル方法に至るまで、、延々とこの教育は続くわけです。赤ちゃんが完全に独立した波であるという実感を覚えるのにかかる歳月は7年ぐらいと言われています、7年間の歳月を使って叩き込まれたこの固定観念はそう簡単に解けるわけがなく故に子供になった赤ちゃんはもう自分の意思ではほぼこの洗脳を解けずに人生を終了させるわけです。それもそのはずいくら苦しみ悩んでもそれを解決しようとする思考が波言語だからです。思考を使えば使うほどに自身は海ではなく波であるという洗脳が強化されるのです。言葉は自身は波であるという大前提に作られています。波が作り出した言葉、思考を使って自身が海であったという記憶が戻るわけがないのです。逆に言えば言葉、思考こそが波を波で居続けるさせの、海であった時の記憶を思い出させないための最強の砦でもあるのです。言葉の主語は基本別個の独立した波であることが多く、言葉の基本構造が波の独自性を強固にするのです。

なぜ独立した波を前提にした理論が破綻しないのか

本来は海であるにも関わらず自身を独立した波であると思い続けるのは実は苦しいことです、なぜならば実際は間違いなく波は海の一部でありしかも独立していないからです。独立していると思い込むことはできても事実は独立していないのです。こんな矛盾を抱え続けて生きているのが人間という勘違い生命体です。こんな勘違いした生命体がルールを決め、法律を決め、道徳を決め、正義を決めてお互いを監視し合って生きているのですからそこに争いが絶えないのは当然のことです。お互いがお互いを勘違いしながら生きていて平和な関係が続くわけがないのです。世の中の悩みの7割近くが人間関係であるのは当然のこと。自身を独立した波であるという大きなる勘違いをした者同士の関係性はいずれ破綻を迎えます。

大いなる勘違いをした状態で日々前を向いて生きていこうとすればあらゆる幸福マニュアルが必要になる

自身を海ではなく独立した波であると勘違いした状態でそれでも生きていかなければならないのがこの人間ゲームです。当然苦しいわけです、なぜこんなに小さいのか、力がないのか、影響力がないのか、人気がないのか、稼げないのか、貧しいのか、、、とあらゆる不足感、孤独感、渇望感、絶望感が襲ってきます、それはそのはず海の広大な感覚、海の喜び、歓喜、海の安心感を知っている(当たり前)存在が自身を波と勘違いすればあらゆる感情が中から湧いてくるのは当然です。しかも生まれてきた時(赤ちゃん)は間違いなく海として生まれてきたのです。喪失感たるや半端ないのです。だからこそ芸能人はバレても不倫をするし、犯罪もするし、お金持ちがなぜか万引きをする、成功者がなぜか他人を羨むという珍現象が生まれるのです。それもこれも初期設定の勘違い、大海原が自身を波だと勘違いしたことからこの不幸は始まります。

海であることを忘れた波は無価値観を感じながら生きていく

海であることを忘れた波は自分は小さいという無価値観を持つ

本当は広大な海であるにも関わらずその中のごくごく一部の波であるという錯覚、自覚、誤解を抱えた波は地震には価値がないと当然思うようになります。この広大な大海原で1%にも満たないこの小さな波に価値を見出すのは難しいものです。この無価値観をベースに今後この波を人生を歩んでいくことになるのです。これが波物語無価値観編です。

無価値観をベースに物語を作っていくからこれは辛い旅になる

自分自身は本当に小さく、弱く、影響力もなく無価値な存在であるという初期設定をした波はその後この観念をベースに大海原を動きていく旅を続けていくわけです。これは非常に辛い旅です。ですが実際は波ではなく海ですからこれほど悲惨な勘違い、大間違い、大誤解はないのです。そして自分にとって都合の悪い事件が起こる度にこの無価値観という観念を強化していくことになるのです。無価値な波が何を手に入れようと、何を達成しようとそもそもの設定が無価値ですから不毛感が無くなることは絶対にないのです。

ふと自身が海であることを思い出してしまう波が現れる

キリスト、ブッタ、トニーパーソンズ、ラマナ・マハルシ・大和田菜穂さん・雲こくさいさん、、などといった覚者と呼ばれる人がたまに現れるのは当然です。無価値だと思い込んでいた波が突然自身は海であることを思い出すという事故が起きるのは当然だからです。なぜならば波として生きながらもそこにはしっかりと常に大海原が広がり1秒たりとも自身からこの大海原が離れたことはないからです。無価値である波と思い込む観念以外そこには最初から何もなくただ海が最初から広がっていたのです。

真理は思考ではない

真理の場所はどこにある?

真理、存在を探してもどこにもありません。それは個人が探求して探すことで逆に真理、存在は隠れてしまうからです。探すという行為が真理を隠します。探すということは主体客体の世界、どこかに見つかる世界があるという矛盾を生みます。この二元の世界こそが分離の世界、この分離の世界に真理、存在はありません。分離の世界に存在するのは時間と空間という幻想がただあります。夢が広がるだけです。

真理は夢から覚めること

真理、存在は個人が存在するこの夢から覚めることを意味します。夢から醒めればただ存在だけがあります。そして夢から覚める張本人は個人ではなく存在自体です。個人の欠落、自我の欠落が存在です。存在を覆い隠してきた個人が欠落することで存在が存在を見つけるのです。個人とは存在を隠すための隠蓑です。自我とそしてそこから繰り広げられる夢舞台は存在が創造する夢です。

キリストも釈迦も夢の登場人物

キリストも釈迦も夢舞台の登場人物であることは間違いありません。つまり個人ではなくただの生命現象、存在の顕現でしかありません。ですが彼らが説いた内容は真理を説明していました。人間という誤解、錯覚を解いた先に真理、存在、大いなる一つがあると説きました。人間としていかに生きるか、何が正しいか、何を正義に生きるかを説いたとされる諸説は全て嘘です。どのような生き方が清く美しく、どのような生き方が不純で卑しいかという考え方は観念でありその観念に縛られている限り解放はありません。

ソウルメイトを探す無意味さ

ソウルメイトは自我が作り出したエンタメ

スピリチュアルの分野ではソウルメイトという魂の縁が深い関係の存在がいると言われています。例えば親や兄弟、親友や恋人、、、などなど現世での関係だけでなく過去世、来世と繋がる関係性。自我は延命措置、自己保存が大好きですから今世が終わっても来世とこの自我を持ち越したいのです。その中でもこのソウルメイトという考え方は自我の存在をより強固にできるアイデア、エンタメです。このアイデアを心から信じれば当然そのような現実を認知することもできます。それが観念です。

ソウルメイトを追いかけている限り至福には至れない

ソウルメイトという考え方自体は素敵な考え方ですがこの考え方に執着していても至福には至れません。ソウルメイト、自我、個人という者がこの世には絶対的に存在するという考え方は分離を意味しますがこの分離こそが苦しみを作り出すメカニズムです。この世には分離した独自の存在はいないという事実を理解する以外に至福に至る方法はないのです。そして至福に至るのは当然個人ではなく個人の消滅です。

個人の欠落、魂の欠落、、、消えてなくなった時に至福がそこにある

まさか自分自身の存在がこの苦悩の原因とは、、こんな落ちはあるでしょうか。吉本新喜劇のズッコケです。自分自身の存在がただ苦しみを作り出していたとはこんなギャグ、ジョーク、、、信じられない結末です。一体この幸福を懸命に追い求め努力してきた我が人生は何だったのか。。。究極のどんでん返し、究極の勘違い、、究極の誤解です。

一番の興味の関心を解脱、解放、目覚めに向けれえるか

夢の中での損得に奔走される自我

多くの方はこの夢の中でいかに快適に、楽しく、できる限り苦労からは遠ざかり生きていくかに奔走しながら生きています。そしてその作戦は多くの場合良く働くこともあれば悪く働くこともありその間を行き来しながら生きていきます。人生楽あれば具ありを地でいくのです。そして人生のどこかでこの企みが不毛であると感じた人から夢から覚めるという常識から外れたチャレンジに興味を持ち始めるのです。

夢から覚めることに興味が湧くのはなぜか?

この夢から覚めたいのは誰なのか?自我に奔走されて毎日を慌ただしく生きほとほと疲れ果てた存在、意識がもう無意識では生きられないと諦めた時に夢から覚めることを心待ちにするようのなるのです。しかもそれがなんとなく夢から覚めたいではなく夢から覚める以外興味がないぐらいの覚悟に変わると後はただ変化が起きるのを待つだけになります。

これは観念の書き換えではない

観念の書き換えは、今後の人生戦略の変更です。思考を変える、哲学を変える、観念を変える方法は本屋に行けば山ほどのマニュアルがありますがこれは全て自我の書き換え方法です。より確実に自我が生存していくための創意工夫になります。ですがこのブログでお伝えしている内容は自我の生存戦略のためのノウハウではありません。これは自我の策略、自我の生存戦略を見抜き、夢から覚める方法をお伝えしています。