悟り

神はこの夢の中で人間に達成感という褒美を与えた

達成感とは小さな悟りである

これは夢です、神が作った夢物語です。この夢の中で神は人間を作りこれを主人公にしてこの物語を形成します。この夢物語はバーチャルリアリティーですが人間に成り切った神はこの物語の中で不足感を生産し続けこの不足感をあらゆる感情、欲望に切り替えそれを満たすために彷徨っていきます。神がこの小さな体である人間に成り切るわけですからそのストレスは尋常ではありません。そのストレスをあらゆる形で解消しようとする試みこそが人生です。希望大学に受かる、希望会社に受かる、希望住居に住む、希望の相手と結婚する、希望の年収を得る、、、ありとあらゆるこれらの目標は達成することで抱えたストレスを一時的に取り去ります。人間であることで生まれるストレスを一時的に消し去るのです、その瞬間だけは神が神に戻るのです。

悟りとは神が神に戻ること

悟りとは人間が神になることではありません。人間に成り済ました神が神に戻ることです。人間というバーチャルリアリティーにどっぷりと浸かった神が神に戻ること、バーチャルリアリティーから覚めて神に戻ることを言います。人間という役柄が抜け落ち神に戻ることを覚醒、悟り、ノンデュアリティーと呼びます。もしくは解脱です。人間という仮想の実態、マリオ、ピカチュー、から神に戻ることです。

達成感を通じて神は神に戻る準備をする

達成感とは人間に成り済ました神が、不足感を何かを成し遂げることで埋め、一時的に神の状態に戻ることを意味します。人間とは不足感製造機でありこの不足感が一時的でも解消された時は神の状態です。安堵、平和、歓喜です。この状態をどうしても再び感じたい人間に扮する神は目標を達成することでそれを成し遂げるのです。人間という形を取る以上次の瞬間からまた不足感が湧き出てきますから神に戻るのは一瞬です、、ですが自身は実は神であったという感覚をその瞬間思い出します。人間が達成感中毒になるのは神中毒のことです。人間は神中毒になることで神に戻る準備を重ねます。

体の美醜にこだわる理由

体の美醜に執着するのはなぜ?

これは夢です。ワンネスが見る夢です。この夢の中で人間は体の美醜にこだわったりします。ごく一部の女性はそのことで自殺を図るほど悩みます。これについて悟りから説明したいと思います。これは夢ですから本当は独立した体は存在しません。体という独立した存在はないにも関わらず全存在はこの体こそを自分と同一視します。無いにも関わらず体が在ることとしていきます。するとこの体が美しい、醜いと執着することでよりこの体への同一化が強化されていくのです。どっぷりとこの体を自分自身と錯覚することができます。この夢物語に没入できるのです。これは夢ですが全存在、ワンネスがこの体こそ自分(主人公)と勘違いすることからこの夢はスタートします。故に不足感が延々と湧き続けます、この不足感の対象が体の美醜に行き着くケースもあります。もっと美しい体であれば、もっと鼻が高かったら、この不足感を満たすことができるのでは、、、

美しさの先にあるもの、、

女性が美しさに執着するのは男性との関係もあります、美しい女性は好条件の男性をゲットできる。そう思い込む女性は多いでしょう。この夢の中では不足感が常に湧いてきます、そしてその不足感を埋めるのに異性は最高のアイテムです。より魅力的な異性をゲットすることでこの不足感は埋まるのではと妄想します。そのために先ずは自身がより美しくならなくては、、、ですが実際はどれほどハイスペックな異性と成就してもこの不足感が埋まることはありません。成就した瞬間は思考が止まり自我が緩みますから感動があります、ですがそれは瞬間的なもの、次第にまた不足感が湧き出してきます。その不足感は相手への不満に変幻し相手への攻撃に変わります。

美しくなることを目標にして無心に入る

美しくなることが悪いことはありません、美しくなるという目標が悪ではありません。そこを目標にすることでそこから無心に入ることができます。そこに一緒懸命になることで無心、無思考、無我に入り込めればそこに歓喜、美があります。手に入れる美以上の美がそこにはあります。美を目指すことで美そのものになることができます。全ての美は思考が抜け落ちた時に湧き出てきます。その美とはワンネス、大いなる一つそのものです。

武道館を満席にしても、死を選ぶアーティスト

ミュージシャンの聖地、武道館

私は音楽のことはあまりよく分かりませんが、ミュージシャンならば武道館を満席にするのは大きな目標の一つのようです。日本でも武道館でコンサートをやることを目標にするミュージシャンは今でもたくさんいます。そんな武道館で単独ライブをやった後に謎の死を遂げたミュージシャンがいます。X JAPANのHIDEさん、彼は武道館を満席にするような偉業を成し遂げた後ホテルで死を遂げました。これを悟りの観点から紐解きたいと思います。

人生最大の目標を達成してなぜ死を選ぶのか?

スポーツ選手ならばオリンピック金メダル、メジャーリーガーならばMVP、ミュージシャンならば武道館、俳優ならアカデミーショーあらゆる分野ではその道のトップと称される舞台があります。この舞台でトップになることを目標に日々研鑽していきます。もしもそれを成し遂げられたならば人生史上最高の幸福がそこにはあるはずだと信じて。ところがこの夢の構成上そうはならないのです。金メダルも、MVPも武道館も一時の達成感のみ、至福感のみ、安堵感のみです。心には毎日のように穴が空いていきます、幸福がそこから抜け落ちていきます。人間というこの夢の登場人物には至福という永遠の幸福を手に入れることはできないのです。人間は時間という枠の中でしか生きることができずそこには至福(時間の影響を受けない)はないのです。あるのは全て時間限定の幸福です。

夢の中で至福を信じる人間

これは夢です。ワンネスが見る夢です。この夢の中で登場人物が至福を得ることはできません。なぜならば至福とはワンネスのことでありワンネスが見る夢(分離現象)の中ではそれはないのです。独立した個人(登場人物)の存在こそが至福を遠ざける存在でありその存在が一生懸命努力を重ねても手に入れることができるのは夢の中での代替品に過ぎません。それらは全て時間の影響を受けやがて消え去ります。これは絶望ではありません、この夢は至福(ワンネス)が至福以外を体験するために作られたディズニーランドなのです。だからそこで至福を対象から手に入れようとする努力は尽く壊されます。

「神との対話」の衝撃

あの本で全てが変わった

私が30歳の時に初めて「神との対話」に出会いました。この本は神と、作者の対話から構成されているわけですが作者が抱くあらゆる疑問を神が明快に答えていきます。その答えはこれまで欲しかった全ての答えでした。自身の奥深くが追い求めていた答え、思い出す感覚、発見ではなくあくまで思い出す感覚に感動したのを覚えています。人間の最終ゴールはどこにあるのか?それまで自己研鑽し人間の進化向上に答えがあると信じてきた自身にとって自身が実は創造主であったという答えは力が抜ける思いでした。

「神との対話」も夢の中で現れた

神との対話に真実が全てあるとは思っていません。「神との対話」という本がこの夢の中で現れました。そこに出てくる「神」は私の夢の中で「神」というキャラで現れたわけです。ワンネスがワンネスが作った夢の中で「神」という登場人物を作ってこの夢にスパイスを与えたわけです。ではなぜ夢でワンネスがわざわざ夢の種明かしをするのか?それは夢から覚めること以上の感動はないからです。夢から覚めることこそがこの夢最大の歓喜です。

本屋では隅の隅に置かれている

精神世界の書籍は本屋の最も奥の奥、目立たないところに置かれています。特に悟り系の本は最も奥、目立たないところです。悟り系の本が店の入り口に平積みになることはないでしょう。それほどまでに人気がない本、それが悟り系です。それはそのはず生まれてすぐにこれらの本に興味を持ってしまったら生まれてきた意味がありません。学校の授業でこれは夢だから。。と講義があっては真剣にその他の授業を聞けるわけがないのです。何一つ真剣にことに当たれません。受験勉強も部活動も、就活も婚活も、、真剣にできなくなってしまいます。悟り系の本は真剣に人生を生きこの先に至福がないことを悟った人が行き着く場所です。

セックス中毒は思考抜け落とし中毒

セックスは思考から体に意識を強制シフトさせるツール

これは夢です。ワンネスが見る夢です、そしてその夢の中に埋没すると不足感、欠乏感が湧き出してきます。セックス中毒という言葉を聞いたことはあるでしょうか。これは男性女性問わず実はたくさんいます。一般的にはsexをすると幸福ホルモンが分泌されて一時的に至福感に至れるということになりますが悟りの観点からも説明がつきます。セックスは体を使った行為です、セックス中に考えことをするってなかなかできません、明日の予定や来月の予定、仕事のブレスト、、できません。思考を強制的に止めてくれる動きなのです。思考が全く止まらなくなってしまった人間の強制思考停止ツールなのです。そして体に意識を完全集中することで何が起きるか?無心が起きます、無思考が起きます、無感情が起きます、無我が起きます、、するとこれは夢から覚めた状態、ワンネスの状態、大いなる一つの状態に至るのです。これによって多くのストレスを抱えた社会人や悩み多き学生、一日中考え事をしている主婦などがハマるのです。

セックスが悪いのではない

セックス=悪のようなイメージを持つ人もいますがそんなわけがありません。ですがセックス中毒になってそのままそこから抜け出れないのは不健全と言わざるをえません。というのは全く自由が無くなってしまうからです、そこから抜け出せない状態は。あらゆるリスクも厭わないようになる可能性もあります。多くの場合はセックス中毒は不倫や浮気、セクハラ、暴漢など、、次のリスクに切り替わっていきます。

セックスから体の感覚の重要性を思い出す

体に意識を向けますと歓喜、至福、安堵が押し寄せてきます。思考が抜け落ち、無思考、無心、無我に至るのです。だからこそ悩みやすい思春期は部活動が設定されています。体に感覚を戻すことを国単位で行っているのです。セックスから至福を思い出したらそれに溺れるのではなく体の感覚に戻すルーティンを作るのです。ヨガ、スポーツ、登山、マラソン、、積極的に無我に入る方法を探ります。

ノンデュアリティーを個人が情報として取り組もうとしてもダメ

悟りは個人が幸福になる情報ではない

非二元の情報は、個人が幸福になるための情報ではありません。その個人がいないという情報、メッセージです。夢の中の主人公が幸福になることではなく、これが夢だと告げるメッセージです。個人が一生懸命をこれを理解して幸福を勝ち取るのはこの夢物語のサクセスストーリーの定石です。ですがこれはそれでは至福には至れません、という全否定のメッセージです。夢の中での主人公の努力を尽く否定するメッセージです。もちろんこの夢自体がワンネス、空の表現ですしそこでの主人公の経験は全部ワンネス、空の経験です。そこに何一つ間違いがないのも事実です。ですがもしもこの苦しみを終わらせたいならばこれが夢だということ、見ている現実は実在しないことを諦める必要があります。

私がいてあなたがいる、、絶対に嘘

私がいて、あなたがいる、、、本来は一つのエネルギーの表現ですからこの二人いるという感覚は間違いなく錯覚です。私という生命現象とあなたという生命現象がある、、二つの分離した実態がある、、これは完全に錯覚です。本来は一つのエネルギーしかありませんから。分離体験、個別体験は間違いなく錯覚です。この錯覚が今起こる苦しみ、不足感、欠乏感を生み出しています。分離体験は錯覚ですが間違いなく認識できます。ですがこの認識が不足感、欠乏感を生み出すのです。

至福か不足体験か

夢の中でこの主体客体の世界に居続ける限り苦悩、不足、孤独は永遠に続きます。もしも夢から覚めて主体客体の世界から抜け出たならば苦しみは終わります。主体客体の世界、そこに独立した物がありそれを独立した自分が手に入れるという世界が錯覚であることを見抜くことです。そうすれば不足感、欠乏感の根源に迫ることができます。ですがそこに迫るのはこの夢の主人公(私)ではなくただ認識が迫るのです。

過食症とは何か?

食事を食べる時、思考から身体感覚に戻る

ストレスが溜まった時に食事に走った記憶がある人は多いでしょう。ストレスが溜まった時のお菓子や、ケーキ、嗜好品は大変美味しく感じます。今回はこの点を悟りの境地から説明したいと思います。多くの方はストレスが溜まった時に思考グルグル状態になります。このストレスをいかに解消するかで思考がフル回転するわけです、そして思考がフル回転になればなるほどに自我モード、この心身こそが自分自身であるという思考も強くなり結果不足感、欠乏感が湧き出てきます。つまりストレスを解消しようとすればするほどに不快感が増していくという負のスパイラルに突入するのです。自我はストレスを餌にさらに自我を強化していきます。この負のスパイラルの救世主こそが食事です。食事を食べる時に体はこの食事を五感で味わいます、味覚、触覚、嗅覚、視覚、聴覚、、、この五感がフル稼働するのです。これによって何が起きるか?思考が止まるのです。人間の体は思考と五感を同時進行で使うことができません。思考がストップすることで自我が弛まり結果幸福感、至福感、安堵感が訪れます。つまり食事をしている時は強制的に無我の境地に至れるのです。

食事を食べると至福に至る

これは夢です、ワンネスが見る夢です。その夢の中で何故食事中は至福感が湧いてくるのでしょうか。体とは今にしか居ません。体が過去や、未来にシフトすることはできません。逆に思考は過去か未来にしか意識を向けることができません、思考は今にあることができないのです。この夢は今(ワンネス)が現象化したものです。今が過去から未来に向けての夢物語化したものです。この夢には実は今は存在しません。だからこそこの夢は基本苦しみストーリーなのです。そんな中で食事中は体に戻れる一時のチャンスです、食事をするときは今に戻れます、何故ならば体は今にしか居れないからです。体に意識を集中する時今にあります、つまりワンネスになるのです。つまり至福、歓喜になるということです。

タバコを吸い、お酒を飲み、食事をする、、これが体にシフトする人間のテクニック

お酒を飲みながらタバコを吸うと美味しい、食事をした後のタバコは美味しい、、、何故でしょうか。これは簡単です。食事もお酒も、タバコも全ては身体感覚が活性化するものだからです。その瞬間思考がストップして無我に入ります。無心に入ります、この状態は自我が抜け落ち今にある状態、ワンネスの状態、歓喜、安心、安堵の状態なのです。人間はこの夢の中で居る時は不足感、欠乏感、孤独感が湧き続ける状態にあります。ですが身体感覚に戻る間だけは至福、歓喜、安堵に戻ることができるのです。故にこれらは中毒化します。

今がどんなに苦しくてもその苦しみの全ては悟るためにある

苦しみの全ては悟り解明の衝動

苦しみとはなんでしょうか、苦しいという感情はどこから生まれるのでしょうか。苦しみを解決する人が現れたならばこれはノーベル賞100個分の価値があるといっていいえしょう。しかしこれまでこの問題を解決して評価された人はなかなかいません。実は釈迦、キリストはこの問題を正確に解明し答えを出しました、結果大々的に二人は評価を受けましたがやがてはその教えは形骸化しそして書き換えられ事実無根の内容になってしましました。苦しみの解明は大変ショッキング過ぎて正確に伝わっていく内容では絶対にありません。

苦しみとは何か?それはこの心身こそが自分だという勘違いから始まった

苦しみとは何か?答えは明快です、この心身を自分自身と勘違いすることからスタートします。この体、そしてこの思考、感情を自分のものと勘違いすることでこの人間ゲームはスタートするわけですがこれが誤解、錯覚、間違いなのです。結果はこの人間ゲームでは何を達成しても、何を手に入れても、何を評価されても不足感、欠乏感が湧いてくるという無限地獄に突入します。答えが永久にでないこの地獄が続くわけです。世界中から評価された俳優がドラッグ中毒になり、世界中から称賛された政治家が自殺をする、世界中から評価された科学者が鬱で苦しみ、世界中の富をえた資産家が飛び降り自殺をするという答えが見えないゲームがスタートするのです。

答えは簡単、この心身が自分ではないと見抜くこと

この心身が自分ではないと見抜いてしまえばこの不足感は湧いてきません。大いなる一つがこの心身を自分と勘違いすることでこの人間ゲームはスタートしますが同時に不足感、欠乏感が自動生成されるというおまけが付きました。この不足感、欠乏感を埋め続けるという人生ドラマがスタートするわけです。大いなる一つの代替品を探し求め続ける旅です。大いなる一つに再び戻る、洗脳が溶けるまでこの欠乏感、欠落感は続きます。

全存在は全存在ゆえにあらゆる世界を許可する

人間ゲームでは浮遊霊も念力も超能力もなんでもあり

全存在は全存在ゆえに人間ゲームにあらゆる可能性、多様性を持たせてくれます。輪廻転生、守護霊、憑依霊、念力、アカシックレコード、チャネリング、空中浮遊、、このゲームはゲームであることが簡単にバレてしまっては意味がないのであらゆる選択肢、可能性を作りゲームに熱中させるようにできているのです。例えばドラゴンクエストには裏面というのがあります、表面をクリアーしたらまさかの裏面の登場です。現実社会をクリアーしたらまさかのスピリチュアルな世界が登場するのも同じです。現実的欲求を満たし切った人間は、精神的欲求、次いで霊的欲求を満たすように設定されているのです。これは全て自我ゲームの不足感、欠乏感、孤独感を埋めるために設定されています。

思考を変えると新しい観念が生まれ新たなゲームが現れる

この人間ゲームを人間ゲームにし続けるための設定は思考を変えること、観念を変えることが重要になります。脳の認識を新しい知識で変えていくことで観念を変え見える世界を変えていきます。ドラゴンクエストの表面、裏面の切り替えを人間の観念を使って変えていきます。その人が思考するような世界が広がるように設定されているのです。こうして人間ゲームは永続的に続くように工夫されているのです。人間の観念書き換えは人間ゲーム継続の鍵です。

現実的欲求、精神的欲求、霊的欲求あらゆる欲を満たしても満足しないこの欲求は人間であるというトリックを見破らない限りクリアできない

マズローの欲求五段階説ではないですが生理的欲求、所属の欲求、社会的欲求、承認の欲求、自己実現欲求、自己超越欲求と、、欲求は延々と続くのがこの人間ゲームです。なぜならば自身を人間であるとい勘違いをしている限り不足感、欠乏感は延々と湧き出てくるからです。このトリックを見破らない限り我々はラットレースのように延々と走り続けていくことになるのです。自分自身がこの心身ではないという悟りを開かない限りこの苦しみは延々と続きます。こんなに努力を重ねてきたのに実はこの心身が自分ではなくてそう錯覚してきた全存在こそが自分だったという夢から覚める体験をしない限り人間ゲームの苦しみが続くのです。

トラブルから悟りに入る

トラブルすらも無心に戻るキッカケにする

日常生活では多くの方はトラブルに巻き込まれます。そしてトラブルに巻き込まれる度に思考フルロットルモードに切り替わり悲鳴します。思考フルスロットルモードは自我モード、夢の中にどっぷり浸かり時間、空間次元に埋没します。ですがこれからはトラブルを利用して無心モードに切り替えていきます。トラブルがあることでルーティーンの行動に戻し無心に入っていくのです。トラブルすらもルーティン、無心、無我モードへの入り口にします。

トラブルがあった時には一度無心モードに入り安堵に戻す

トラブルがあるとそこから人は思考がグルグルになり、思考を止めることができなくなります。ですがここでもその負のスパイラルに入ることなく強制的に先ずはルーティンに戻ります。ルーティンは無心でできること、無我でできること、歓喜、安堵、平和への瞬間シフトです。そしてそこから思考を使いトラブルを解決していきます。

常に無我にあればトラブルを明晰な思考で処理できる

常にルーティン、無心、無我にあることができている人であれば思考を明晰にトラブル解決に向けることで一瞬でトラブルを解決できます。むしろトラブルが楽しいと思える程です。トラブルが楽しいと思えるほどにエネルギーで体が充実しているということです。そこまできていればトラブル即思考で解決ができます。そしてそのトラブル解決が時間を要する場合に関してはその行動をルーティンに入れ、無心に入り、無我に入り、そこから悟り、ワンネスに入っていきます。