悟り

それでも人は動き続ける、その道こそを至福にする

人とは不足感をバッグに詰めて歩む現象

宝くじに当たった人が数年後にはほとんど自己破産レベルにまで財産をなくす、、これ非常に有名な話です。これを今回は悟りの観点で説明したいと思います。人間はまず不足感を恐ろしいまでに抱えています、人間はその不足感がどこから来ているか理解していないのでお金、名誉、異性、、、など特定の何かを埋めればそれは無くなるはずだ、、、と予測を立てて生きています。だからこそ受験勉強や就職、結婚、大出世など、、大きな収穫物を目の前にすると胸が躍るのです。ところがです、人間のこの不足感は特定の何かで埋まるわけがありません。人間の不足感とは神が人間に扮することで生まれたものだからです。ここが人生というものを苦しくします。宝くじに当たったら、この人と結婚できたら、、この会社に就職できたら、、、これら大きな夢を叶えた人が目の当たりにするのが絶望です。

どうせこの不足感が埋まることはないのだから、、、

人間はいつかの段階でこのことに気づきます。。理想のパートナーとの結婚、安定した収入、、可愛い子供、、理解ある上司、、、これらを手に入れてもそれでも湧いてくる不足感、孤独感が終わることがないことをです。ということで仏教では「足を知る」という言葉が生まれるわけです。私は実はこの言葉が嫌いです、諦めとしては現実的でないと思っています。そうではなくこの不足感解決をヒントにして、機会、チャンスにしてそこから悟りに入ることを勧めています。そこに向けて完全燃焼する、そこに向けて無心になる、無思考になることで無我夢中の状態、悟りに至ことを勧めます。

完全燃焼、無心無我、無我夢中こそ、、神の道

無心になってお寿司を握る職人さんはその場で神になっています、無思考になって仕事に当たる人はそこで神になります。自分を忘れて子供の世話をするお母さんはその場で神になります。人間が行為そのものになるとき、そこには人間は存在しません。あるのは神の現れです。打算的に、小賢しくそこに当たるとそこに自我(思考)が残ります。結果的に最も苦しい道を歩むことになります。いかに入り込めるか、いかに完全燃焼に向けるか、いかに無心になってことに当たれるかが重要です。人間の無限地獄からの脱却は目の前の道を神にできるか否かにかかっています。

都会とは何か?

人間の欲望を叶えてくれる場所

いつの時代も若者が目指すのは都会です、都会とは人間の欲望を叶えてくれる可能性を感じさせてくれる場所です。多種多様な仕事、多種多様な人々、多種多様な生き方、多種多様な遊びを可能にしてくれる場所です。一方でこれは夢です、神が見る夢です。神が人間扮する主人公を演じる夢です。それゆえ人間は欲求不満を抱え自身の欲求を満たしてくれるだろう場所を目指します、それが都会です。都会は確かに若者の欲求を満たしてくれる要素はあります、あらゆる可能性を提案してくれます。ですがここでいかに欲求、不平不満を満たしても満足することはありません。目の前の欲求を満たしても直ぐに次の欲求が襲ってきます。それは神が人間に扮しているからです、人間の狭さ、弱さ、小ささに神は辟易しています。これが人間の欲望のメカニズムです。

都会であらゆる欲望を叶えたら

一方、都会はあらゆる欲望を積極的に叶えれる場所でもあります。地位名誉、仕事に異性、あらゆる欲望を叶えることができる場所であることに間違いはありません。ということは逆に言えばあらゆる欲望を叶えても人間は至福に至れないことを体験できる場所でもあります。あらゆる可能性を達成できるということはその時の人間がどのような感情に至れるかを体験できるのです。これは釈迦が王様から山に籠ったことに近い状況です。釈迦とは一国の王であることに辟易しそこから悟りに入りました。都会は釈迦の境地に至るのに近い状況を作れます。

欲望を叶えた後に分かること

神が人間に扮している限り欲望に限りはありません。神は神に戻る以外に欲求不満が癒ることはありません。神が人間に扮していればあらゆる不足感、欠乏感、孤独感、欲求不満が襲っていきます。都会とはこの欲求不満に正々堂々と向き合える人が集まる場所とも言えるでしょう。勿論それも夢ですが。欲望を否定して無いものにするよりも欲望を欲望と捉え満たしていくことで無限地獄の仕組みに気づきそこから夢から覚めるのも一つです。釈迦はそれを行いました。

欲望を安易に無視をしてはいけない

欲望とは神の渇望

これは夢です、神がみる夢です。この夢の中で神は人間(主人公)に成り切りこの夢物語を歩んでいきます。全治全能の神が人間という無知無能に成り切るわけですから強烈な不足感が湧いてきます。この不足感を経験しているのは人間扮する神です。この不足感を変換したのが人間の欲と呼ばれるものです。ですから欲望を無視するという作戦は失敗に終わります。仏教では足を知るという言葉で無欲を勧めますが上手くいかないのは当然です。欲の出どころを掴んでいないからです。

欲を安易に無視すれば欲に破壊される

人間扮する神が感じる不足感が変換されたものが欲ですからこの欲は延々に湧いてきます。欲が収まるわけがないのです。若者達の間で悟り世代といって無欲な若者が増えているという話も聞きますがPC、スマホ、タブレッドなどが普及して安易に欲を満たすことができているからだと思います。人間の欲望の根源は神から湧いていますからその欲が少なくなることはありません。ですから自分や欲が少ないと思って欲を無視し続けると無自覚に欲求不満が膨れ上がりいずれ潰されます。

この人生は欲望をいかに昇華し充実に持っていけるか

欲望は人間扮する神から湧いていますからこれを人間が止めるなどできません。どのような欲が湧くかもコントロールできるわけがないのです。そうならば逆に欲を肯定的に受け止め欲を満たすことに集中することで無心に入る、無思考に入る、無我に入ることが重要です。集中して欲望を叶えていけばそこから無心、無我、神に戻ることができますからその場で歓喜、安堵、平和になれます。欲望を積極的に叶えることでそこから神に戻るということです。

サーフィンで至福を体験する

サーフィンは小さな悟り体験

サーフィンというスポーツがヒッピー文化の象徴の一つになったのは納得できます。波乗りをしている瞬間人は全部の記憶が飛びます、過去のことを思い出しながらサーフィンするのは不可能です。サーフィンは波に乗るスポーツですが波のパワーは凄まじく波に乗った瞬間記憶が飛びます。記憶が飛ぶということは自分が人間であることを完全に忘れるのです、その瞬間神に戻ります。これは神の見る夢です、夢の中では神は人間になり切っているのですがサーフィンしている最中はその事実を忘れます、うっかり神に戻ってしまうのです。人間活動に没頭していた神がその瞬間だけ神に戻ります。半沢直樹になり切っていた堺雅人がサーフィンをしているその瞬間堺雅人に戻ります。サーファーは毎週人間から神に戻るために海に向かうのです。

サーファーがより大きな波を求めるのはより大きな神に戻りたいから

私もサーフィンをしていたので分かりますが、サーファーは実力がついてくると徐々に大きな波を求めるようになります。恐怖すら覚えるような波をあえて求めて車を走らせます。それはなぜか?大きな波であればあるほどに乗れば思考がぶっ飛び、記憶もぶっ飛び、自我が外れ、時間が外れ神に戻るのです。その瞬間この夢から覚めて神に戻ります。神は人間活動をするための条件、思考が外れます。全感覚、意識が体、波に向きその瞬間神は自分が人間であることを忘れて神そのものに戻るのです。

何かに集中すると至福が襲ってくることを学ぶ

私自身サーフィンにハマっていた時はなぜこれほどまでの至福感に包まれるのか全く分かりませんでした。その至福感は海から出て数時間も続きます。この感覚はなんだ?多くのサーファーはなぜかは分からないこの至福感が忘れることができず海を目指します。サーフィンは波という自分ではコントロールできないパワーと向き合うスポーツゆえ集中力が研ぎ澄まされます。考え事をしながらできないのです。要は集中せざるを得ないスポーツということです。この原理はなんでも応用できます、集中できれば至福が襲ってくる、集中すれば神は神に戻る、、何をするにしても自分が人間であることを忘れるほどに集中することは大切です。

運動を毎日のリズムに取り入れる

無心になって取り組めるエクササイズは神に戻る行為

毎日のエクササイズ、これは実は重要です。これは夢です、神が見る夢ですがこの夢の中では人間は不足感発生器、神が人間になり切っているわけですがその状態は苦しいのです。何をしていても不足感全開です。ですがこの人間になり切った神が神に戻れる瞬間があります。それはスポーツをしている時です、なぜか?体とはこの夢の中で夢から覚めるための重要な道具なのです。体は今にしか存在できません、体を過去や未来に連れて行くことはできません。思考は過去や未来に馳せることができますが体はそういうことには至らないのです。ということで強制的に今にあることを可能にするのが体に意識を向けることなのです。今とは何か?今とは夢の外に出ることです。夢の中のストーリーは過去から未来へと流れる時間軸の中です。過去の影響を一切受けない主人公はこの夢の中にはいません、主人公は常に過去の影響を受けています、つまり過去に縛られているのです。時間軸に縛られていると言ってもいいでしょう。ですが体に意識を向ける時、過去から解放されます。過去のことを考えながらスポーツはできません。過去から抜け出す、時間から抜け出す、つまり夢から覚めて人間から神に戻っているのです。

体に意識を向けると思考の柵から抜ける

思考の柵に取り憑かれている間、人間扮する神は人間から脱出ができない状態です。ところがこの人間の体に意識を向けると思考の柵が取れ、この心身こそが自分という思考(自我)の柵が一時的に抜けるのです。一時的に人間から神に戻ります。一時的に歓喜、平和、安堵にシフトします。このメカニズムを知ると1日に何度もエクササイズするのが楽しくなります。1日に何度も至福、歓喜、安堵に戻れるのです。結果を出すことに焦らなくなります、結果を出すことよりもその途中に安堵、歓喜、平和を発見してしまいます。悟りを開かなくても、覚醒体験を得なくても、一瞥体験を得なくても、、毎日エクササイズ中は神に戻れます。

仕事中も、エクササイズ中も、掃除中も、、神に戻れる

幸せの青い鳥の話ではありませんが、、、幸せは直ぐ近くにあります。登山家が頂上を目指して登山を始めたその瞬間、無心になって歓喜に入れます。毎日のエクササイズも無思考になれって体に意識を向けるとその瞬間に歓喜に入れます。仕事に関しても何度の反復でこなしていけばそこから無思考に入り無我、歓喜に入っていけます。人間活動をしているのは紛れもなく神ですから実はいつでも神に戻れるのです。書道、花道、武道の真髄はここにあります。

最後までやらない、、、

長時間かけてまとめてヤらない

あえてまとめてヤらない、これ重要です。多くの方は効率を重視するのでまとめてそして最後までやり切ろうとしとしますしそれが会社では評価されます。ですがそれをやりません。最後までやらない、これ重要です。むしろ一度で出来ることを細切れにしてやっていきます。毎日の中で何度も反復してそこに当たります。最後までまとめてやろうとすると思考が邪魔してきます、思考の知恵が入ります。これが邪魔です。思考が入ると無思考、無心、無我からの歓喜、平和に入れません。あえて思考を入れない、、そのためには最後までやらない。。

効率重視、コスパ重視、、、苦悩

現代人は直ぐに効率重視、コスパ重視に走ります。これが大失敗です。効率を重視すると必ず思考が入ります、コスパを重視すると必ず思考が耳元で囁きます。この思考の知恵が行為を台無しにします。思考のこの知恵こそが行為から無心、無我に入ることを邪魔します。思考の知恵が行為を茶道、花道のように道に入らせることを邪魔します。そこには歓喜が存在しません。茶道でもしも自動抹茶製造機を取り入れたらもう茶道ではありません、ただのお茶入れ教室に格下げします。茶道とはお茶を入れることから悟りに入る方法を体現するものです。お茶を入れることで人間から神に戻ることです。

思考で神になることは出来ない

これは神が見る夢です。この夢の中では思考は大活躍します、人間をより逞しく生存させていきます。ですがいかに人間としてサバイブしてもこの夢の中にいる限りは至福を手に入れることができません。夢の中で地位名声安定を手に入れてもそこは無限地獄のままです。この夢の中で唯一至福に至る方法、それは思考を手放すことです、この心身こそが自身であるという思考(自我)を抜け落とすことです、人間意識を殺すことです。そのためには思考に頼らない、全て反復、反復、で達成していきます。思考が思考を支配することはありません。無思考(神)が思考を支配します。思考を無思考(神)の支配下に収めます。

神が見る夢の中での時間あるなし問題

時間はある、ない、、禅問答

これは夢です、神が見る夢です。神が人間に扮する夢です。さてスピリチュアル探求者、悟り探求者の中で必ず話題になるテーマ、時間について今日はお伝えしたいと思います。結論から言えばこれは夢ですから時間はあると言えばある、ないと言えばないとなります。夢ですから。あなたが毎晩見る夢の中で時間は存在するでしょうか?ストーリー展開としては確実にあるでしょう。ですが本当にあるのか?と言われれば夢ですから実態はないと言えます。時間とはそのようなものです。夢の中であなたが富士山に登る、その時時間は存在するでしょう、ワープを使わない限り。ですがその時間とは夢の中で存在しますから無いと言えば無いのです。我々が現実社会、現象界と称するこの世界は神が見る夢ですから時間はない、あるどちらも言えます。人間目線であれば勿論時間はあります、ですが神目線で見れば夢だからないということになります。

空間はある、ない、、禅問答

空間についても議論が多く出る問題です。これも夢で考えれば簡単です。夢の中に空間は確実に存在します、空間がなかったら主人公も、脇役も誰も登場できないです。昨晩あなたな見た夢がサッカーをしている夢ならば球技場が絶対に必要になるでしょう。だから夢の中では100%空間はあります。ですが夢です。そしてこの現実社会、現象界は神が見る夢です。人間(主人公)にとっては空間は確実にあります、ですがこれは夢の中での空間ですから主人公(私)が見る視界以外には空間は存在しません。私(主人公)が見ていないところでは空間はあるはずがないのです。夢ですから。

自由意志はある、ない、、、禅問答

自由意志についても議論が多く出る問題です。この自由意志はあるのかないのか問題はスピリチュアルの究極問題、悟り系探求者の究極問題です。ですがこれも神が見る夢だという認識を持てば簡単です。神が見る夢ですからそこに出てくる登場人物(主人公)、脇役に自由意志があろうはずがありません。ただし主人公になり切っているのも神ですから神目線では当然にあるということになります。主人公(人間)になり切っている神目線であれば自由意志は確実にあります。ですが人間目線で言えば当然ないということになります。夢ですから。

神は夢の中で夢だと気付かせるヒントを出す

神のヒントは完璧

これは夢です、神が見る夢です。この夢では主人公(人間)を登場させ神は主人公に成り切ります。そしてその他の登場人物も登場させこの夢を完成していきます。人間には絶対にバレないようにこの夢は設計されていますから人間に成り切った神はこの夢のドラマをほぼ死ぬまで継続することになるのです。夢だと知らずに。ですがこれは神が作った夢ですから神が夢から醒めたくなったら覚める方向に持っていきます。例えば宗教、スピリチュアルなど目に見えない世界があることを適宜主人公に気づかせていきます。年齢に応じ理解できるよう形を変えてヒントが出されていきます。例えば私は25歳で仏教の本に触れ27歳でスピリチュアルに、30歳で神との対話、、35歳でノンデュアリティー40歳で悟り系の書籍やYOUTUE動画などです。

だから何も考えずにこの夢、ゲームに没頭すればいい

この夢、ゲームは神が制作総指揮で完成していますから主人公(私)にとって間違ったタイミングでヒントが送られることはないし、そのヒントを主人公が見逃すなど絶対にありません。主人公は神が成り切っている人間でありヒントを出すのも神です。なぜすれ違いが起こるのか?ということです。自作自演のこの夢、ゲームですれ違い、見過ごしなど起こるはずがないのです。だからこそ主人公は安心してこの夢、ゲームに没入すればいいのです。

もしもこの夢、ゲームに疲れ果てなたらば

もしもこの夢、ゲームに疲れ果てたとしてもそれは神がそのような人間体験を積みたかっただけのこと、本当に疲れ果てこのゲームを終わらせたいと思ったならば確実にヒントが出ます。この夢、ゲームのカラクリを教えてくれる人や書籍、動画などでストレスを軽減してくれます。不完全、地獄、奪い合い、駆け引き、腹の探り合い、裏切り、、これらの行為を望んだのは神自体であり決してこれらの経験は失敗ではありません。ただしもうこの体では耐えれない、もうこの体には荷が重いという限界がくれば人間に成り切った神がその経験をストップします。

神は夢の中で不足感を貯蓄していく

不足感を体に蓄え続けてコップをいっぱいにする

これは夢です、神が作りその中で人間を主人公にした夢です。この夢物語、ゲームは人間の五感をベースに構築します。視覚、嗅覚、聴覚、触覚、味覚、、これらは幻想にリアリティーを与えるツールになります。そしてそこに思考、感情を加えることでこのゲーム、夢はより一層リアリティーを強化します。主人公である人間を演じるのは神ですから圧倒的な不足感を感じます、神が。ということで主人公演じる神は不足感をあらゆる感情に置き換えてそれを蓄えてこの人生を歩んでいくことになるのです。孤独感、劣等感、疎外感、憂鬱感、、、これらを記憶し体に溜め込んでいきます。大人になるにつれて重苦しい空気が出てくるのはこの感情の蓄積です。

感情の蓄積はある時に爆発する

人間に成り切った神は不足感を噴出し続け、それは各種感情として蓄えていきます。人間には記憶機能があるため過去の悔しさ、惨めさ、辛さを記憶していきます。不足感のデパート、冷蔵庫、貯蔵庫のようになっていくのです。この貯蔵タンクが満タンになった時、人は爆発しこれまでの生活を完全に壊すのです。それが転職だったり、離婚だったり、病気、不登校だったりします。この人間ゲームは記憶機能があることでよりエキサイティングになる一方、辛さ、キツさ、しんどさ、もより一層強化されます。

コップいっぱいになった時に、、、

コップいっぱいになった時に人間が行動できることは2種類あります。それは限界まで耐え抜き、弾け、壊れ現状をぶっ壊してしまう方法、もう一つが人間のこの欲求不満ゲームから積極的に降りてしまうということです。欲求を満たし続けても埋まらないこの不足感に脱帽し人間の本質、神に迫っていくという方法です。書道、花道、禅、仏教、悟り、ノンデュアリティーなどはそれに当たります。ほとんどの方はこの中間を行くことになります。

神はこの夢の中で人間に達成感という褒美を与えた

達成感とは小さな悟りである

これは夢です、神が作った夢物語です。この夢の中で神は人間を作りこれを主人公にしてこの物語を形成します。この夢物語はバーチャルリアリティーですが人間に成り切った神はこの物語の中で不足感を生産し続けこの不足感をあらゆる感情、欲望に切り替えそれを満たすために彷徨っていきます。神がこの小さな体である人間に成り切るわけですからそのストレスは尋常ではありません。そのストレスをあらゆる形で解消しようとする試みこそが人生です。希望大学に受かる、希望会社に受かる、希望住居に住む、希望の相手と結婚する、希望の年収を得る、、、ありとあらゆるこれらの目標は達成することで抱えたストレスを一時的に取り去ります。人間であることで生まれるストレスを一時的に消し去るのです、その瞬間だけは神が神に戻るのです。

悟りとは神が神に戻ること

悟りとは人間が神になることではありません。人間に成り済ました神が神に戻ることです。人間というバーチャルリアリティーにどっぷりと浸かった神が神に戻ること、バーチャルリアリティーから覚めて神に戻ることを言います。人間という役柄が抜け落ち神に戻ることを覚醒、悟り、ノンデュアリティーと呼びます。もしくは解脱です。人間という仮想の実態、マリオ、ピカチュー、から神に戻ることです。

達成感を通じて神は神に戻る準備をする

達成感とは人間に成り済ました神が、不足感を何かを成し遂げることで埋め、一時的に神の状態に戻ることを意味します。人間とは不足感製造機でありこの不足感が一時的でも解消された時は神の状態です。安堵、平和、歓喜です。この状態をどうしても再び感じたい人間に扮する神は目標を達成することでそれを成し遂げるのです。人間という形を取る以上次の瞬間からまた不足感が湧き出てきますから神に戻るのは一瞬です、、ですが自身は実は神であったという感覚をその瞬間思い出します。人間が達成感中毒になるのは神中毒のことです。人間は神中毒になることで神に戻る準備を重ねます。