悟り

悟りへの最短距離はない

こうしとけばもっと早く悟りに、、、

このような思いを持つ方は多いでしょう、、エックハルトの本をもっと早く読んでいれば、、プンジャジに早く気づいていれば、、、、残念、、、イメージとしてのあなたの行動を決めるのは全部真我、、真我の化学反応によってそれが勝手に巻き起こるだけです、、、ですから悟りへの最短距離などは全くなく、、それを歩める個人も全く居ません、、、個人はあくまでイメージの産物であり、、これがイメージであるという気づきが悟りです。

悟るという言葉もイメージ

「さ・と・る」この音の組み合わせを覚えた方はそれぞれ独自の悟りのイメージを所有します、、、このイメージが実態とはまるで違うことから、、、悟りを難しい場所に追いやります、悟りを遠ざけるのです、、ですから悟りという言葉は、、本当の意味でのそれとは全く関係がない、、という気づきが必要になります、、とはいえ、、この二元の世界では言葉でこれを伝えるしかなく、、、便宜上、この言葉が使われますが、、ただこれは言葉という宿命を背負っていますから、、必ずイメージ化されます、、

言葉が真我をイメージの世界に没入させ

言葉こそがこの世界をイメージ化させた張本人です、、この言葉を使って今度は悟りを開こうとするのですからこれは矛盾をはらんでいます。悟りとは何だ???これを言葉で聞けば聞くほどに、、悟りがイメージ化されていく、、その悪循環に入り込み、多くの方は断念します。。。。ですがこの矛盾をはらんだ悟りに、、それでも気づく真我の存在があった時にそれは起きます。。。言葉で悟りを理解するという矛盾をも乗り越えた時に、、悟りは起きます。

探求が真我を隠す

探究とは???

探求とはこの個人が真実、悟りを発見するというイメージの世界での活動です、、、ですからこの探求活動はイメージの中で行われていきます、、、それゆえ、、、このイメージの中ではこれは成し遂げることができません。むしろ活動こそが真我を隠す結果にさえあります。では探求しないでいかにして悟りにたどり着くかという話です。

探求ではなく、真実をただ理解する

矛盾するようですが、、この探求という活動が、、いかに真我、真実を隠すかを理解してしまうしかありません、気づきと言ったほうが良いでしょう、、、探していたはずの個人が実がイメージの中の存在だった、、そのイメージが強化されることで、、この苦しみが始まったのだという絶対的理解です。個人という存在がいかにこの世界に苦しみを生み出すかという絶対的理解、、これだけが救いです、、この救いはイメージである個人を救うのではなく、、イメージの世界からの解放です。

探求活動すらも

探求活動、、この活動は真我が作り出したイメージ上での活動です、、、この活動が悪いということは全くないのですが、、この活動が、、苦しみという感情を自動発行します、、この活動の中が苦しいということで、、、さらにこの活動を活発にすれば益々苦しくなる、、、、だからもうこの事実にどこかで気づくしかありません。個人という人間活動が悪いのではなく、、ここは苦しみを作り出す場所なのです。。。この活動を作り出した真我、、そしてこの活動に気づき続けるのも真我、、二つは一つで、、、それが本当の私です。

悟りとは投げやりとは全く違う

投げやりは、、そこに価値を見いだしていない

悟りとは究極の諦め、、ですがこれは投げやりな生活とは全く違います、、、究極の諦めとは全部が全部自動反応であり、全部が全部神からの起こりであり、、全部が全部神が気づいていたという事実に気づくことです。この見かけ上の私は何一つ関わっていなかったという気づきです。。。その気づきが起きたときに、、、全現象、全感情、全思考、全行動が同価値になります。同価値ということは投げやりとは全く違います。

全てが神の表現、、

見かけ上のこの体も、、私というアイデアも、、、全部が全部神の表現すから、、、全ては神です、神そのものです、、、これでどうして投げやりな感情が生まれるのか???全てに神を感じます、全ての行動に神を感じます、、、これは投げやりとは真逆な感覚です。。。。損得にこだわるということは、、全部が全部神の表現であるという感覚を忘れています、、、この状態で、、得を極限まで追っかけても虚しいだけです。

これは情報ではない

情報の前の世界

景色が入れ替わった瞬間、、我々は一瞬ワンネスを見ています、、、何かを食べた瞬間、、我々はワンネスを感じています、、、見る、感じるも、、これも二元の世界でのことであり、、、視界そのもの、味そのものになっているのです、、その次の瞬間には、、、あらゆる物が溢れ出し、誰が何を経験した、、というドラマが湧き出します、、、非二元のメッセージは、、その何もない瞬間、ワンネスそのものの瞬間に誘うメッセージです。

情報は新しいレイアーになる

知識を覚えるその知識がその人の中の新しいレイアーになります、、、全く何もない世界に新しい現象を生み出すレイアーになります、、、悟りとは、、、これが全部レイアーであるという気づきです、、、新しいレイアーを構築することではありません。ですが多くの場合、、悟りのメッセージはその人に新しいレイアーを作ってしまいます。

レイアーをレイアーと見抜く

悟りとは、、、全ての情報がどうやってこのレイアーになりうるかに気づくことです。。。名前を覚えるとそれがこの現象界に出現する、、、この仕組みを理解しますと、、、、もう今までのように目の前の出現に緊張しなくなります。。。だってただの現象に対してイメージを重ねているだけですから。。。この人は有名人なんです!!!と紹介を受けても、、、というイメージがついた人というイメージだという気づきがあります。。これで終わりです。イメージを本質と勘違いし、、そのイメージの中で本質(絶対幸福)を見つけようとする試みが苦しみを生み出します。

悟りのメッセージも言葉

言葉は全部イメージになる

悟りのメッセージこれは言葉です、、言葉はその人の中で全部イメージ化されます、、あたらしいイメージが出来上がります、、、悟ってことは、、こういうイメージなんだろうな、、です。。ですが悟りとは、、全部がイメージでありそのイメージを作り出す根本に帰りましょうということですから、、これはもう真逆のこと矛盾が発生するのです。

悟りを頭で理解しようとすると

頭で悟りを理解しようとしても、、頭は悟りをイメージ化します、、、この私がいないことをイメージで創造する、、これが夢だということをイメージで創造する、、、、このイメージが全くない世界、、これが悟りです。ですから悟りをイメージで探してはいけない、、、メッセージはあくまでも実践のための、確認するための課題として捉える、、、そのメッセージを五感を通じて再発見する。。

悟りのメッセージを食べる

悟りのメッセージは暗記しても無駄です、、ただ悟りがイメージ化して終わるからです。これまでの人生はイメージの中にありました、、この私もイメージ、この人生もイメージです、、、悟りはイメージではないのです。。。これがイメージであるという気づきです。。。悟りとは暗記ではなく、、気づきです。。。言葉を理解することは重要です、、言葉の理解がなければ確認のしようがない、、ですから悟りのメッセージを学ぶことは良い、、、ですが学ぶの延長線上に悟りがあるのではなく実践による気づきの先に悟りはあります。

全員がピカソのように絵が描けたらピカソの絵には価値はないのか???

人類が苦しむ原因

人類が苦しいのは、、、この人類は比較の中でしか幸福を得れないと考えているからです。。。ピカソの絵を飾っていた家で、、、人類全員がピカソレベルの絵を描くことができるようになった時に、、、その絵にはもう価値はないのか???という話です。。。我々は本質が見えない世界に没入することで本質を求める代わりに他人との比較の中で幸福を得ようという努力をしているのです。

他人より収入が良いから幸福なはずだ

他人よりも収入が二倍もある、、だから俺は良い会社で働いている、、だから俺は幸せに違いない、、、全部イメージの話です、、、そういうイメージを作り上げイメージを感じているだけですね。。俺は幸せに違いない、、という思考(イメージ)を感じているんです。。。そうではなく、、、本質、絶対幸福、に今なってしまえば、、もうイメージの世界を感じなくていい、、、イメージの世界でもがかなくて良くなります。

イメージの世界から抜け出る

これは全部イメージ、、これことに気づくことが悟りです、、、言葉を覚え、言葉がイメージを作り、、そのイメージをこの現象に重ね合わせ、そのイメージの中で生きている、、、これを真剣に信じることで苦しみが生まれる。。絶対幸福、静寂、至福の世界に、、イメージを作り上げ、、イメージを感じていいます。。勿論それを起こす存在は神でありそれを感じるのも神です。。。私は実は神なのです、、この体の中の住人と思っていた(イメージ)この存在は神だったんです。

個人を消滅させるメッセージ

個人という概念を消滅させる面白さ

個人という概念、感覚を消滅させることに興味がでる、、、これって実は凄いことです、、、例えばTV番組で悟りに関する番組が全くないのは、、これに興味が起こることが非常に稀であるからです、、、悟りの本を片っ端から読みふける、、、この衝動が起きているのが凄いんです、、、自我の収縮エネルギーと悟りのメッセージは真逆のベクトル、、、収縮とは自我であり、、解放とは悟りです。。

個人が悟りを避ける理由

個人は自分が居なくなってしまう状況を想像するだけで怖くなります、、なぜならばそれは死ぬことと同じだからです、、、死ぬのが怖いようにこの個人の終焉も非常に怖いのです、、、、ですがそれこそが大勘違いで、、、体の死も、、個人に終焉も、、どちらも「在る」という感覚とは全く関係がない、、この「在る」という絶対的感覚が如実になることであり、、、むしろ「在る」が強烈になることで究極の癒しが起きるのです。

そうか「在る」を求めてたんだ、、、

生まれてこの方、、ずっと一緒にいた存在、、「在る」という意識、、、、何をしていても何を感じても、、TVを観ても、、、小説を読んでいても、、、、「在る」というこの感覚だけは絶対に失ったことがなかった、、、「意識」と表現してもいいでしょう、、、この「在る」「意識」この中であらゆることがただ起きていただけだったんです、、、この中でこの体が現れ、、思考も現れ、、感情も現れ、、、お金が現れ、、友人が現れ、、、言葉の意味が現れ、、、、この私が体の中に居るという思考が現れ、、、ていただけ、、、自分が求めていたのって、、、、この「在る」「意識」だった、、、、というか最初から全く隠れずに、、ここにあった、、、私というイメージが、、究極の幸福を求める旅にいる、、、というやはり概念、イメージが湧いていただけだった、、そして最後にたどり着いたの究極の幸福は、、、この「在る」「意識」だった、、、私だと勘違いしていた存在はこの存在だったんだ、、、

その人が抱える緊張感

緊張感=自我

自我とは収縮エネルギーです、、、全体がこの体の中にグッと押し込められた緊張状態です、、、この緊張エネルギー収縮エネルギーが強いと苦しくなります、、、分意意識全開モードです、、、緊張感が強い人は、、自我全開で生きているのです、、、無我状態で生きるとは、、収縮したエネルギーがない状態、、、この体を守らなくては、、が抜け落ちる、、、意識そのものとしてこの体の活動を見守ります。。

解放に誘う

自我という収縮エネルギーを解放に誘うには、、、、直接体の収縮エネルギーを解放してしまう方法もあります、、、収縮エネルギーを直接解放してしまうのです、、、マッサージやヨガで、、、、物理的な収縮を直接解放してしまうことで、、、そこに気が流れるようになります、、、この気とは、、、空から色を作り出すエネルギーです、、現象化のエネルギーです、、、空を直接感じやすくなります。

究極の解放が悟り

緊張エネルギーを物理的に解放していきますと、、開放への興味が湧いてくるようになります、、、解放、開放、、、、悟りとは究極の解放ですから、、、その衝動が起きるように、、、、体を物理的に解放していくのです、、、すると感情が解放されて、、、思考の湧き上がりが減り、、、無我、真我でいれる時間が多くなります。。。そして最後は時間すらもない状態、、全き意識に入ります。

絶対的理解はいつ起きるのか??

分からない

絶対的理解、これが夢であるという気づきはいつ起きるのでしょうか???分かりません、、、なぜならば絶対的理解は自分が起こすのではなく、、、本当の自分から勝手に起きるからです、、、ですから絶対的理解を起こそいという試みは、、、矛盾があります、、苦しみに入ります、、、絶対的理解を起こそうとしている時点で、、理解が全くできていない、、混迷の世界に入ります。

いつになったら悟れるのか???

それはただ起きることを理解できた時です、、、起こすのは本当の自分ですが、、その本当の自分である真我は、、自由意志で悟りを起こすのではありません、、、勝手に起きるのです、、、、本当の自分から。その事実、真実を理解できた時に、、早く悟ろう、、、という思考が湧かなくなります、、、「早く悟りたい」という思考はこの理解が完全に欠落していますから、、、矛盾を引き起こすのです。。。

悟りへの興味が湧いていることに気づく

悟りへの興味が本当の自分から湧いているなー、、これをただ感じます、、感じているのは勿論本当の自分です、、、これだけ、、、悟りへの衝動、本当のホームへの衝動、真我への衝動が、、、ただ起きている、、それを真我が感じているという理解、、からの気づき、、、全ては真我から湧き怒り、、真我が感じる、、、この時収縮したエネルギー自我が全く相手にされなくなり、、ついに消え去ります。

名前を呼び合う

子供の中で喧嘩が始まる

最初はただ、、名前を呼び合っていただけの子供達が、、、徐々に個人としての記憶が多くなっていくことで個人としての意識が強化されてきて、、、子供達がおもちゃの取り合いをしたり、ある子供をいじめたり、、頭を叩いて威圧してみたりするようになっていきます。。。個人であるという感覚は不快ですから、、この不快感は毎日のように大きくなっていくわけです。この意味不明な不快感を解消しようと、、子供達は喧嘩や争いを始めるのです。

校則やルールが生まれる

日に日に増えていく不快感からくる衝動をコントロールするために校則が生まれ、ルールが厳密になっていきます、、ですが個人としての記憶が増大するに従い、、、不快感は日増しに増えていきますからもうこれは大変なことになっていくのです。ただ生きているだけ、ただ個人として生きているだけで経験が増えそれらが記憶されていきます、、個人としての積極的活動が多ければ多いほどに、、その個人の記憶が増えますから、、個人が強固になっていき苦しいとなります。

就職する頃には、、

就職する頃には、、個人は完全に強化され、、毎日がしんどいが当たり前の状態に、、日々こんなもんだよなと諦めて生きていくようになるのです、、、ですがそれでも個人の経験は増え続けていきますから、、その記憶が自我を盤石に支え続けるのです。。。そして徐々に生への執着自体が減ってくる、、人生なんて、、つまらないのが当たり前、、、いつ死んでもそれほど後悔はない、、ぐらいのノリです。

死ぬ覚悟があるならば

死ぬ覚悟があるならば、、生への執着がないのならば、、、だったら悟りを開いちゃえばいい、、、これが夢だと気づいちゃえばいい、、、この自己を精神的な意味で解消しちゃえばいい、紛糾しちゃえばいい、撃破しちゃえばいいのです。この自己は作り物、便宜上作品ですから、、、本当は存在しないのです、、ですからそれを見抜いてしまう、、、ただそれだけです。