真実

自我の欠落こそ真のアイデンティティー

真のアイデンティティーは自我の欠落である

自我は本当の自分は誰か?本当の自分とはより崇高な自分ではないか、、と自身の向上に努めます。魅力ある自分、崇高な自分、霊的向上を果たした自分、バイブレーションが高い自分、、、、とこのように自分というものを大前提としてどこかに真の自分になれる機会を常に探していきます。ですが実際には皮肉にもこの自分の欠落こそが真のアイデンティティー、真の自分です。これは分離世界の消滅であり、全体の現れでもあります。

分離世界とは全く違う場所に真のアイデンティティーがあるわけではない

神はどこか遠くにいるのではなく、ノンデュアリティーもどこか遠くに在るのでもない、非二元も。そうです、自我が神、非二元、ノンデュアリティーを隠しているだけであって今ここにそれは存在しています。人間の脳が自分を作り、世界中に分離したあらゆる物、人を創造しました。これは全部人間の思考が作り出した幻想です。この魔法が溶けれ今ここに神、全存在、非二元が現れます。

自我はこれまで自助努力を尽くしてきた

自我はこれまで最大の努力をして人生をなんとか幸福に近づける努力をしてきました。ですがこのラットレースは尽きることがない地獄です、いかに早くこれは地獄だと悟ことが重要になります。そしてこの自我ベースの人生には限界がありこれを死ぬまで続けても至福には至れないことをいかに早く気づくかです。そして今再び自分に問うのです、自分とは何か?この探求が始まるといつかどこかでこの世の真理にぶち当たります。この自分こそが幻想であり、自分が見る世界もやはり脳が作り出した幻想である、、それを見抜くとそこに真実が広がります。

舞台監督が役者欠席で代行している

舞台監督が急遽役者に、、、

舞台監督が自身が制作している舞台で、、、急遽主役が欠場を、、、その時に困った舞台監督は主役を代役することになりました。自身が舞台監督をやっていながら主役もやるという監督兼主役です。これをやっているのが人間です。人間は実は舞台監督が代行でやっているのです。我々は完全に主演のみだと思っています、ですが本当は舞台監督兼務なのです。というよりも舞台監督が本来の職業です。ということで我々人間は主役を頑張りすぎてすっかり自身が舞台監督であったことを忘れています。

主役になり切っているとしたら優秀な監督

主役になり切れているとしたら我々は完璧の優秀な監督でしょう、なぜならば本当は監督ですから主役に成り切る方が難しいのです。にも関わらずしっかりと主役になり切っているとしたら憑依体質、役者としても優秀です。この舞台ではまずは役になり切らなくては舞台進行が進まないのです。主役に成り切るからこそこの舞台での喜怒哀楽を真剣に演じ切れるというわけです。

でも最後は自分が監督であったことを思い出す

いくらこの主役に成り切り完全に役と同一化が成功したとしても、、、本当は監督ですからどこかでそれを思い出すことになります。本当は監督であるのが真実で今は仮初の姿です。仮初の姿で居続けるのは辛いものです。主役としてあらゆる舞台公演を成功させ続けても何かしっくりこない、、このしっくりこない理由こそがこれです。大舞台の主役を張り続けても、、、何か違う、、、この違和感、、、、これが人間が抱え続ける苦悩なのです。

二元の世界を作り出すために進化した人間

人間とは二元錯覚製造機

人間とは二元錯覚製造機です。神が二元世界を楽しむために作られたと言い切っていいでしょう。本来は非二元です、たった一個のエネルギーがただタペストリーのように、オーロラのように輝いているだけです。にも関わらず完全に分離した世界がここにあると勘違いできているのは人間の五感、そして思考、感情、さらにこれらを記憶する脳が進化したからです。これらの進化の複合によって人間はこの非二元の世界の中で二元を楽しむというところまで進化したのです。

進化の結果が二元世界だからこれはもうより進化するしかない

人間という生物が、、他の動物に比べても圧倒的な進化を重ね、、、最終的にこの世は分離した世界であると誤解を起こすまで進化しました。進化の結果の分離世界ですからさらに進化を重ねる以外このトリック錯覚を見破る方法はありません。人間は進化を重ねた結果としてこの「自分は体、思考、感情」であるという思い込みをすることができるようになりました、これには記憶機能が重要になります。そしてこの分離感覚は人間を最強の動物にする代わりに居心地の悪さを常に生み出す結果になったのです、ですが人間は進化しておいてなぜこの居心地の悪さ、不足感が消えないのかについては理解できません。これが人間最大の不幸です。

人間の不幸はこの脳が作り出しているから

人間のこの不幸は脳が作り出しているとも言えます。記憶、思考、感情を司どる脳の機能こそが、、、たった一つのエネルギーしか存在しないこの世界を完璧なまでに分離して見せてくれます。人間は不幸の極限状態になった時に脳が機能不全を起こし、結果記憶障害などで「自分の存在」が実は思い込みであることに気づくことができます。これはあくまで事故ですがそれでもこれによって分離のシステムを解消してしまう人が現れるのです。これらの人々が話す内容は非二元をそのまま話すことになり多くの方は全く理解ができません。ですがその方々が言っている内容は紛れもなく真実でありそれゆえそのことをかつては分かっていた人間は徐々に気になるようになっていくのです。

皆は分離の世界を生き、私は非二元を生きる

ただし非二元を生きる「今までの私」はいない

街を歩けば多くの人が「自分」が先ずそこに確実に居てその自分がこの分離の世界を確実に生きています。自分という体、思考、感情の寄せ集めである存在を生きながら他の人々の中で生きています。全員がこの「自分」に確信を持ち、名前がついた分離した物、人の存在にも確信を持ちながら生きています。これが幻想の中に住んでいると言われる所以です。ですが本当はこの自分も、、あの人も、この人も全て勘違い存在物であって実は何もにというのが真実です。真実とは何もない、、これだけです。何かが起きて、誰それがいて、、、全部後付けの空想劇です。私も他人にも実は境界線は皆無で境界線があると信じ込む後付けの存在達がいるだけです。実は何も起きていないのです、今目の前に広がる世界には実は何も起きていないのです、信じられない話です。自分にもその他にも名前を付け合って何かが起きているということにしているだけです。

非二元のみ

非二元のみがあるだけです、これがあるだけです。そこに名前が後付けで付けられ何かがあるように何かが起こったかのように表現する後付けの「私」がいるだけです。我々が見ているこの世界は名前が付けられた世界だというだけであり名前がついているから何かが起こっているように感じることができているだけです。このあり得ない解釈、解釈も後付けですが、、、この真実に気づいた人は唖然とします。この真実に気づいた人はこれを他の人に伝えたいと思うかも知れませんが思わない可能性も高いです。なぜならば伝えたいその人は後付けだからです。つまり誰もいないということが分かってしまうからです。

ピカソの絵をパズルのようにバラバラにしてみたらそれが動いているように見えた

もしもピカソの絵が流動的な物体であったとしてその各部分に名前を付けてみたとしましょう。そうすると毎秒、毎分ごとにそれが動く、、、元々何も存在せずただ動く絵があっただけだったのがその中の名称がついた物たちが毎秒ごとに動くように見えるようになります。そしてその動きの中でトラブルや衝突が起こることもあれば吸収や合体が起こることもあるでしょう。これらのドラマは名前が付いたから起きたのです、名前を付けなければドラマなど起きようがないのです。あるのが絵の中の動きだけです。これに気づくことを「悟り」と呼びます。悟りとはなんてことはない、、人間の活動の根源を明かしただけです。

先ずは空を知る、次に色の素晴らしさに目覚める

空を知って驚き、色の素晴らしさを再認識する

人はこの世の真実を知ったときに驚きます、実はこの世は空の現れで見える世界は空が色として現れているだけ。本質は空である、、だから実は何もないということを知ります。この衝撃は凄まじくこれまで超現実と思っていたこの視界が実は空の現れであるということです。何もない、、、ただそれを在るように見えているだけ。ということになります。

実は何もない、、、からの

究極を言ってしまえばこの世は無です。何一つ実態のないものの現れです、ですから我々のこの経験も体も思考も感情も何もかもが実態のないものから生まれてきているのです。この事実を知ることは虚無感の創出につながります。ですがよく考えてみれば実態のない世界に我々はいるにも関わらずとんでもない喜怒哀楽のドラマが日々繰り広げられているのは事実でありこれは虚無とは全く違います。

改めて色の織りなす世界の脅威に驚く

この世界は空から創出さているとしてこの色はその創造物ということになります。この色の創造物は凄まじくとんでもなくリアリティーがあります。実際には何一つ分離しているものはないのですがこの色の世界では各々が自由に動き回るのでそう見えます、完全に分離しているようにハッキリと見えます。だからこそこの分離世界を堪能できるわけです、ですがこの分離世界に分離体としてどっぷり浸かっていますと中々疲れるということになります。なぜならば全く分離していないにも関わらず分離しているという大いなる勘違いをしながら生きるからです。この居心地の悪さは無我を知れば知るほどに無視できなくなるのです。だから人はどこかのタイミングで色の幻想に興味を失い本質を知ることに興味が湧きます。色の世界での分離体験では本当の至福、歓喜、安堵にはたどり着かないことを知っているからです。

無我を知れば知るほどに、、、自我に興味が無くなる

実はこの世界ではどこからでも無我に入れます、無我とは歓喜、平和そのものでありこの状態を知りますと人間関係、社会関係など色の世界に対する興味が失せていきます。なぜならばその世界の中を放浪しても本当の平和が存在しないことを知っているからです。ですがそうなってしまうとなぜこの色の世界があるのか?そもそも平和が無いならば色の存在理由は何なのか?ということになるのです。実はこの色の世界は空を知ることで逆に面白くなります、本当の自分として再びこの色の世界を遊び倒すことができるようになります。本当の自分がやりたいこと、情熱を傾けれることにこの体が使われるという主従関係の逆転が生まれるのです。

「幸せ、嬉しい、楽しい」の真実

実は「自分」がいないときに湧いている

幸福、嬉しい、楽しい、、、この感情を自分が味わっているとき自分は気分が良くなります。それで自分はまたこの感情を味わいたいと切に願います。ギャンブル、恋愛、お酒、タバコ、仕事、、、、このパターンを覚えた自分は何度もこれを繰り返していきます。ですが皮肉なことに、、、、実は、、、「自分」が居ないときにこの感情が湧いているのです、というよりもこれは感情ではなく「無我」です。亭主元気で留守がいい、、、これです!!亭主は家に帰ったときに家族が幸福そうな姿を見て俺が帰ってきたからみんな幸福なんだと勘違いします、、、、本当は亭主が家にいなかったから幸福だったのです笑、、、なんという皮肉、、、逆、ブラックジョークです。これは人間も同じ、、、体、思考、感情を「自分」とする感覚が抜け落ちたとき、つまり自分が居なくなる時幸福が湧いているのです、、、、そして自分は勘違いします。。ただ麻雀、ギャンブル、お酒、恋愛が楽しかったのだと、、自分が楽しめたと勘違いするのです。実は自分が居なかっただけです。

自分が家族を幸福にしている、、、

亭主の帰りを心待ちにしている家族は実はなく、、、いない状態が平和で歓喜で安堵だっただけ。そこに帰った亭主はうちはみんな幸福そうで素晴らしい、、と大きなる勘違いをします。。。。。そして次の日はしっかりと会社に行くことで再び家族に平和が訪れます。。この勘違いを「自分」がやっているのです。自分とは本当に可愛らしいモノです、、、なんと抽象度が低い存在なのか。。。

自分を無くしてしまう

自分がいないときに平和、歓喜、安堵が押し寄せてくる、、、これがわかった以上、、答えは簡単、、、、もう全部を自分にするのを辞める、、、これだけです。。。。思考が湧いてもただ湧いただけ、、感情が湧いてもただ湧いただけ、、、肉体に異常が起きてもただ起きただけ、、、自分ごとにしない、、、自分と同一化しない、、、これで自分はこの世から居なくなります。名前を呼ばれてもただこの肉体(思考、感情)が呼ばれただけ。。。それは自分ではない、、、、常時これです。この世界に「自分」はいない、、無我しかない、、、

「怖い」の真実

怖いは、、、自分が原因

よくよく考えてみればこの宇宙の動きは完全完璧であり何も怖いことは起きようがない、、、ただ自然現象、宇宙現象が移りゆくだけです。人間というこの浅知恵の動物の何億倍完璧なゆらぎの中で我々人間は生きています。ですが人間はその完璧なゆらぎの中で「怖い」を抱えながら生きています。これほど怯えた野生動物はいるでしょうか???将来不安、将来不安、老後不安、日本の行末、、、、病気でしかない

そうです、完璧なる神経症

人間という動物に完全同一化しますと「怖い」を抱えた神経症が完成します。人間という動物をただ動物だと俯瞰できると神経症は治ります。ただそれだけです。5歳児、6歳児の子供は学校から家に帰ると僕は僕は。。今日こうだった、ああだったを連発します、、、これは自分の存在を認めて欲しいからです。これは自然な流れです。ですが大人になると自然に気づきが起こります、、、この自分自分の自分は一体何だ?ただこの体、思考、感情を自分だと定義しているだけでその定義がなければ一体誰だ?ということです。

神経症脱却はこれだけ、、、自分を辞めるだけ

この体、思考、感情をひっくるめて「自分」とすると神経症に襲われます。怖い怖いが押し寄せてきます、波のように押し寄せてきます。この体、思考、感情を自分としないと決めると、、、怖い怖いが押し寄せてきません、、何のこっちゃです。映画の中に主人公になりきってミッションインポッシブルを見てみてください、、怖くて観れたモノじゃない、、、、心臓が破れそうなぐらいの衝撃を受けるはずです。。。。ですがあれは映画だから楽しめている、、、、

「自分ではない」として生きていけるのか?

逆にしっかりと生きていけます、常に冷静に冷静にこれまでの「自分」を観察できます。負の感情が襲ってこないので飄々と生きていけます。何をしていても負の感情に襲われることがなくなります。怖い、不安、危ない、危険が襲ってこない、、、常に平和、歓喜、安堵の中で動くことができます。なぜならば怖い、危険、不安は体、思考、感情との同一化が生み出してきたからです。マリオゲームをやるときにキャラに成り切ってやるか、プレイヤーとして冷静にやるかの違いです。

悟りという言葉こそが自我の策略

悟りは遠い世界にあるという作為的思い込み

自我にとって悟りとは自我の消滅です、こんなことが頻繁に起こってしまったら自我は壊滅状態に。自我は考えました自我の壊滅を「悟り」という言葉で表しこんなことは釈迦やキリスト以外達成できない代物という印象を与えようと。「悟り」などこんな胡散臭い世界は遠い先にあると思い込ませようと。自我のこの策略は完全成功し悟り、自己超越などという言葉をTVで聞くことなど先ずありません。自我は臆病ですからみんなが話をしないことなどに興味を持ちません、怖いからです。

この体、思考、感情を自分だと思い込む思い込みを思い込みだと見抜くだけ

ギャグのようなタイトルになってしまいましたが上の文は真実です。我々人間はこの体、思考、感情をひっくるめて三点セットで自分であると思い込むことに成功しました。自我の完全勝利、自我何千年間の勝利です。人類が生まれてきてこのかた自我はこの思い込みを完璧に人間に刷り込み勝利を収め続けてきました。大なる一つ、全存在、全宇宙の「自分」体験です。この自分体験はもちろん幻想ですが一度この幻想に取り込まれたら最後多くの方は死ぬまでこのトリックを見抜けなくなります。

ではこの確実に湧いてくる思考、感情は誰のモノだ?

誰のものでもないのです、、それがこの体の中で起こっただけです。ですがこれを自分のもの、自分だと思い込むことで次から次へと思考感情が湧き出してきます。鶏の卵が先か鶏が先か?理論のように、、、この思考、感情を自分であると思い込むことで、、次から次へと思考感情が湧き出してくる、、泉のようです。そしてこれは不思議なことにこれは自分ではないと気づくと自然と思考、感情の泉が少なくなるのです。そうですこの感情と思考は自分を維持するために湧いてきていたということです。

本当はバラバラではないのにバラバラであると確信を持って生きている人間ドラマ

この世界は今も一つの宇宙現象

我々が観ているこの世界は今も完璧なる一つの宇宙現象です。ですが我々にはそう見えていないはずです。完全にバラバラに解体されているように見えているはずです。目の前にペットの犬がいればその犬は完全に犬以外とは分離しているように見えているはずです。これが人間が観ている分離世界、分離映画、分離ドラマです。完璧なる一つの宇宙現象が人間というフィルターを通する完全に分離した世界に一変するのです。これを覚者は「人間は寝ていて夢を観ている」と表現します。人間は一つの宇宙現象に名前を付けることで分断し細分化し本当に分裂しているように見える世界に今も居ます。

名前を付けちゃったんだから仕方がない

一つの宇宙生命体が、人間という存在を作り出し人間に思考、脳を与えたわけですから人間が名前を付けて分離その世界を上映しそこに住うことに何の問題はありません。これは一つの宇宙生命体が営む遊びです。人間主人公の一つの宇宙生命体分離映画を楽しんでいます。ですが人間からしたら冗談じゃない、、一つの宇宙現象のままがいいに決まっている、、こんな面倒臭いこの世界は終わりにして欲しい、、それが本音ではないでしょうか。ですが実は違います、、多くの人間はそんなことすらも考えません、絶賛分離体験中です。実は見ている世界は一つの宇宙生命体であり分離しているように見えているだけだ、、、こんなメッセージはウザイの一言で終わるでしょう。

覚者は皆同じことを言う「目の前が全て」

覚者はこの分離の夢から覚めた時に、、皆同じことをいいます「今ここが全て」「これしかないんです」「これだけがある」と、、、、、何を言っているんだ??と言う話です。人間にはこの見渡す世界は完全分離、支離滅裂社会でありもはやジャングルと化しています。信じるものは自分だけ、頼れるものは自分だけ、、、同情するなら金をくれ、、のヤサくれ状態です。ですがこの分離壊滅社会を作り出したのはこの思考であり、一つの宇宙生命体には何の罪もないのです。人間の脳が発達しこの体をより確実に生き延びさせるために生命現象に名前を付け文明の進化に大いに貢献しました。そしてその副作用がこの分離壊滅社会です。

分離壊滅社会を抜け出したいならば

分離壊滅社会、分離生気皆無社会をもしも抜け出したいならば、、、簡単です。この分離は真実ではなく人間というフィルターがそう見せていることを見抜くことです。そうです、この分離壊滅社会は幻想、夢なのです。人間が見れば確実に分離分断壊滅意気消沈ですがそれは「自分」が見ているからそうなっているということです。目に目える世界がなぜそうなっているか?ここを完璧に見抜いてください。そうすると目の前に起きた現象にいちいち反応しなくなる「自分」が生まれ始めます。マトリックスをマトリックスと見抜く「自分」が出現し始めるのです。

湧いては消えていく思考が真実を捉えられるわけがない

思考は雲のようなモノ

湧いては消えていく思考はまるで雲のようなモノです。この思考が真実を捉えることなどできません。この思考が全く湧いていないときに真実が現れます。ですからこのブログで散々お伝えしているように思考のメカニズムを理解して思考がない状態を実感していく以外にありません。思考はあくまでも現れては消えていく雲であり真実はこの思考、雲がない空にあります。思考をグルグル回す行為は空に雲がたくさん現れて空を隠している行為であり思考・雲が湧けば湧くほどに空は曇っていきます。真実が隠れていきます。

思考・雲ができることはこれらがない状態が真実・空であることを伝えるだけ

朝から晩まで思考をグルグル回すことは空に雲がガンガンに湧いている状態のこと、、、思考・雲が出現すればするほどに空は曇っていき空が見えなくなっていきます。この状態は居心地が悪く辛くなっていきます。にも関わらずく空が曇れば曇るほどに思考・雲がフル回転することで空は真っ黒に曇っていくわけです。そして真っ黒になって意気消沈し疲れ果てて考えるんを諦めた時にまた空・真実が現れるという皮肉なことが起きます。ですがすっかり思考はそのことを忘れまた一日中考えるという行為を没頭します。思考中毒とはそのようなことです。

どうしたら思考が湧かないで1日を過ごせるかを考える

思考というものが雲ようなモノで出現すればするほどに空を曇らせる、そして曇れば曇るほどに真実の光が遮られ苦しくなることは理解できたと思います。そうなれば答えは簡単、1日を思考抜きでいかに過ごすかだけを考えればいいのです、何かに集中する時人は思考を忘れます、全作業を集中して行うことだけを考えす、集中して行えれば思考は湧いてこなくなるので空が晴れてきます。さらに負の感情が湧いてきた時に思考が自動反応で起きないように観察します。負の感情からの思考自動反応が起こったら直ぐにそれを観察することで思考の湧き出しを止めることができます。すると空は一日中晴れた状態を維持できます。空が晴れている状態を意識的に作れるようになりますとその状態が当たり前になり思考・雲の自動反応に鋭敏になっていきます。