意識

引き寄せるのは誰だ?

引き寄せる自分は居ない

引き寄せの法則が一時期流行りましたが、、引き寄せる自分は実在しませんからこの法則は無理があります。ですが自我が緩んで緩んでいくことで究極のリラクゼーションが訪れ見える世界が輝いていくことはあります。ストレスという固い固いエネルギーの塊が緩むことで、、見える世界、触れる世界が変わることはあるのです。例えば1億円の宝くじが当たったとしましょう、、その瞬間世界は輝いて見えるはずです。一時的に自我の緊張が緩むからです。

究極のリラクゼーションを目指して

仕事で大活躍している人に会えば私も頑張らなくては!!!と思ってしまうし、、、輝いている人に会えば、、私もあの人のようになりたい!どうしたら???となるでしょう。ですが本当はそうではなく、、、デフォルト「苦しい」を解除することが一番重要なのです。信じて疑わない「自分」という存在をもう一度解析し本当は居ないことに気づくこと、自由意志を行使する自分など存在しないこと、、、

主人公が居ない生活

五感は全てこの体が担っていると思っているので自動的にこの人生の主人公はこの体になります。ですが本当は気づきの意識が全ての現象に気づいています。そうなると主人公はもうこの体ではない、、この体ではなく気づきの意識が気づいているだけ、、、、主人公は気づきの意識です。主人公がこの体だったからなんとかこの体を大切にしなくては、となるのですがそれももうどうでもいい、、、体なんて小さな物じゃなく気づきの意識が我々の本質なのですから。これが解放です。

気づく

スーパーに行けば

スーパーに行けば、、陳列が並び、音楽が鳴り、店員さんが動き、他の客が歩く、、、全てに気づく、、気づきの意識が、、その気づいた内容を私が認知した、、、という思考が湧く、、それに気づきの意識が気づく。。お買い得商品に気づき、、商品を購入する、、私はラッキー、、、そういう思考が湧く、、それに気づきの意識が気づく。実はこの全ての行動に「私」は関与していない、、全部気づきの意識が気づいただけだから。

人間は可愛い

人間は可愛い動物です、気づきの意識が気づいたことを「私」が気づいたと全て転換する動物、、、そしてその大前提で思考が湧き続け、、それに気づき続ける、、、本当は気づきの意識が全て気づいているのに。人間だけが自分が全部やっているという信じている、、、そういう思考が湧きそれに気づきの意識が気づいています。

自我が完成すると、、

自我という収縮したエネルギーが完成しますと、、、もうそれだけで苦しい、、、苦しいから次から次へと何か手に入れるべき次の目標が必要になる、友人と電話しよう、お茶を誘おう、お酒を誘おう、旅行の計画を立てよう、もっと良い職場を探そう、もっと格好良い洋服を買おう、次々に獲物を探していく動きが始まります、、この全てを気づきの意識が気づきます。

自分が居るという感覚は真実とはかけ離れている

自分が居るという感覚は真実ではありません、、真実はたった一つのエネルギーです、、その中に自分という独立したエネルギーが存在できるはずがないのです。だから自分という感覚を維持するのは苦しいのです、疲れるのです、、、無理をしているから。ということで自分というメカニズムを理解します、、そうすると力が抜けてきます、自分っていう存在を頑張って誇示しようとする動きが無くなっていきます。

自我の動きに気づくのも気づきの意識

どうしたら自我を消滅させれるか

悟り系を学ぶ方々は自我という存在を強く強く意識します、自我さえ消滅できれば、、、ですがこの自我ですが、、今この動きがあるのは気づきの意識がそれに気づいているからです。自我という動きは気づきの意識がそれに気づかなければ全く存在できないのです。全てはこの体の中にいる「自分」という存在が動かしている、、この思考に気づくのが気づきの意識です。

構造を理解する

脳が全現象を知覚しているという事実とは異なる概念を信じたことからこのマリオゲームはマリオが全部やっているという大勘違いが生まれていきます。実際は全て気づきの意識が知覚していてその知覚をゲーム上マリオの脳がやっているという、、、思考が生まれ、、その思考を気づきの意識が気づきます。五感と思考が組み合わさり、、この体の中に自分がいるぞ、、という概念が生まれそれに気づきの意識が気づくことで自我は完成します。コミュニケーションとは相互に自我を肯定しあう行為ですから益々自我は強固になっていくのです。

構造が理解できれば

構造が理解できますと、、、それをやったのは「自分」だという思考が湧いてきても、、いやそうじゃない、、が湧いてきます、、脳という機能を信じると、、脳の中に自分という存在が居るように感じてしまうのですがその嘘のメカニズムを打破できます。現象の変化は変化と同時に気づきの意識が気づいている、、この事実が完全なパラダイムシフトを起こします。主人公が自我から気づきの意識に変わるのです。

ゲーム上は脳が五感を作っているが実際は気づきの意識が気づいている

マリオの脳には五感を作り出す力はない

スーパーマリオが進化して五感の全てを再現したとしてもマリオがその五感を感じているのではありません。感じているのはプレイしている人間ですよね。これは全く人間ゲームも同じで人間の五感はゲーム上脳が作り出していることになっていますが実際には気づきの意識がその場で気づいています。味覚もゲーム上は舌にある組織から脳に繋がってとなっていますが、、、実際には気づきの意識です。

思考に気づくのも気づきの意識

ゲーム上は思考もマリオの脳内で作り出し脳内で感知しているとなっていますが実際には気づきの意識が湧き上がる思考に気づいているだけです。ゲーム上はマリオが思考を作り出したという思考が湧き出しそれを気づきの意識が気づくのです。ゲーム上はマリオの脳が全思考、全行動を作り出したことになっていますが実際には湧き出した思考、行動を気づきの意識が気づきます。この気づきを「私がやった」という感覚が湧きますがそれを気づきの意識が気づきます。

脳が実在しているを証明するのは無理

ゲーム上は全部脳が感知していることになっていますが、、これは全部幻想です。その証拠に脳が実在していると証明するためには視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚が必要になります、ですがこれは脳がやっていることになっています。ですがその脳が本当に実在していることを証明するにはまた視覚、聴覚、味覚、嗅覚が必要になります。五感を使っている人間が脳の存在を証明するのは不可能なのです。

全てを気づきの意識が気づいている

全てを気づきの意識が気づいているとなると時間の存在が必要なくなります。音が鳴ればそのばで音に気づき、風が吹けばその場で風を感じる、何かを食べればその場で味を感じ、思考が湧けばその場で思考を感じる、、全ての現象は湧き出た瞬間に気づきの意識に気づかれています。それをマリオが作り出した、マリオが感じたんだ、、、という感覚が湧き出した時にその場でそれも気づきの意識が気づきます。つまりタイムラグがないのです。原因と結果の法則が成立しなくなってきました。

スーパマリオには時間はあるのか???

スーパーマリオとうゲーム本体には時間という存在をしっかりと埋め込まれてしるのでしょうか???答えはNOです。TIMEという表示が変化するように設定されているだけです。マリオは動くのではなく、、その瞬間瞬間に移り変わる点灯によって動いているように見えているだけ。その点灯の動きに気づく存在がいて初めて時間があるという思考が湧く、、その思考を気づきの意識が気づきます。

森羅万象の動きも同じ

この人間社会、森羅万象も全く同じです、、現象の動きの全てに気づく存在、気づきの意識がいるので、、その変化に常に気づきます、、、気づいた変化をつなぎ合わせた時に時間があるという思考、概念が湧き出し、、それを気づきの意識が気づくのです。猫という現象、、これが変化していく、、その動きの全てに気づくから、、猫が動いている、、という思考が湧き、、その思考に気づきの意識が気づく。。。です。時間も空間も全現象に気づく気づきの意識があるからこそ、、そのような概念が湧き出しそれに気づく気づきの意識があってなりたつのです。

マリオの外に至福(ゲーム本体)を求めればそれは全体ではありえない

全体とはマリオも含めてのこと

至福とは全体のことです、至福とは大いなる一つ、至福とはゲーム本体です、、我々マリオはこの現象世界の中で名誉が、所得が、愛すべき人が、愛すべき仲間が、、、マリオを幸福に至らせてくれるのでは??と考えますが、、至福は全体のことですから、、マリオ以外に至福があったとしたらそれは全体では無くなってしまいます。つまりマリオが外に至福を求めた時点で至福は絶対に絶対に見つからないのです。

ゲーム内には至福はない

この現象世界は分離の世界ですから分離している「私」が至福に至るのは不可能です。私という存在自体が分離(不幸)だからです。つまりマリオとしてして至福には至れないことを悟り、マリオがゲーム本体(スーパーマリオ)に再吸収されるほか全体(至福)になる方法はないということになります。マリオ(分離)である限り、分離はひたすら続くわけでこの状態こそが苦しいのですからマリオは至福に至ることは絶対に絶対にないということです。

自分が熟睡する

熟睡時に自分(マリオ)を意識している人は居ません、、自分(マリオ)が抜け落ちた時に熟睡(至福)が訪れます。昨晩私は熟睡を味わい尽くした、、、、これは嘘です、、熟睡時には意識がないはずです。至福とはまさにこれで自分が抜け落ちた時に訪れるのです、、じゃあ我々は一生至福には至れないではないか????その通りです、「私」は絶対に至福に至れないのです。

マリオは絶対にスーパーマリオ(至福)を発見できない

マリオが移動できるのはゲームの中だけ

マリオの宿命はゲームの中でしか活動できないということです、マリオがどれほど超能力を手に入れても画面から飛び出ることは不可能です。マリオがジャンプ力100倍になろうと走力が100倍になろうと、、画面から出ることは不可能なのです。そして一番重要なこと、スーパーマリオゲーム本体を発見できない。あのプラスティックの箱(至福)を見つけることは絶対に絶対にできないのです。

ゲーム本体(至福)がマリオを消すかも

自分をマリオと思っている限りはマリオは画面の中を走りに走り至福(本体)を探すでしょう、ですがそれだけは見つからないのです。ですがもしもマリオがマリオを辞めて本当はマリオは存在しないのではないか???と疑問を持ち始めた時に、、、ゲーム本体(至福)がマリオを再吸収するかもしれません。その後もマリオは画面上に現れ続けるかもしれませんがその時はもう「自分はマリオだ」という意識はなくゲーム本体(至福)としてゲームを続ける可能性はあります。

自分がマリオではなくゲーム本体(至福)であるという気づきが起きれば

自分がマリオではなくゲーム本体(至福)であるという気づきが起きた後も、、今までのようにマリオが血眼になって至福を探すことは不可能です、なぜならば至福はゲームの中のアイテム(対象)ではないことをもう分かっているからです。至福とはゲーム本体のことでありゲームの構成全てでありマリオ、クッパ、ルイージ、ノコノコ全てがその一部であることを知っているからです。

ストーリー上の私とそれを意識する意識

突然地球が爆破したら

突然地球が爆破したらどうなるか???地球上の人々は木っ端微塵に吹き飛ぶでしょう。つまり全員死ぬわけです、ですが本質は実は全く損なわれることはありません。地球という惑星も本質の表現、本質が作り出したゲームですからそれが消えるだけで実は何も起きないのです。私も当然居なくなりますよね???そうです、肉体の中に居るはずだった私が消え去ります、ですがそれを居ると信じ込む思考に気づてきた意識は全く何も損なわれることなくそこに居ます。

私ストーリーが消えてなくなるだけ

マリオが消えて無くなってもスーパーマリオというゲーム本体は何も傷つかない、、ただそれだけです。全く違うルイージを主人公にしたゲームが始まるかもしれません、クッパが主人公かもしれない、、ただそれだけ。マリオが主人公のゲームは地球の爆破かもしれない、、ただそれだけです。今私が居るこの地球がどのようなエンディングを迎えてもゲーム本体は何一つ影響を受けないのです。

自由意思がないならば自分は誰だ???

個が消滅しても残るもの

私たちが絶対的に「自分」という存在に確信を持っているのは、、「自分が居る」という確固たる感覚ゆえです。もしくは居るという感覚です、、、意識の存在を否定する人はいません、、なぜならば今現在も何かを認識する意識が存在するからです。この絶対的な意識感覚こそが自分という存在を信じることに繋がります。ですが本当は意識こそあれ自由意志は存在しないのです、、勝手に湧いてくる思考、感情を、、、自分が作り出したという大誤解が起きているだけです。本当は勝手に思考、行動が湧いてくるだけ、、自分など全く存在していなくても湧き続けるのです。そしてそれを認識し続ける意識もまた存在し続けます。

我々の本質はこの意識

思考が湧けばその思考に気づき、行動が起きればその行動に気づく、何も思考が湧いていなくてもそのことに気づき、何も行動が起きなければやはりそのことに気づきます。この気づきの意識こそが我々の本質です。思考、行動が湧く時だけ現れる「自我」という幻想ではなくそれらに気づく存在こそが我々の本質なのです。いつの間にか我々は気づきの意識ではなく気づきの意識によって気づかれた思考、言動を統括すると言われる自我という幻想に成り下がったのです。

本当は統括する自我などない

我々の言動の全ては自由意志でコントロールされたものではなく勝手に湧き上がった自動システムの産物です、ですからノーコントロールに湧き続けているのです。にも関わらずこれは自分が生み出したモノだという思考が湧き上がり、、それに固執している状態が続いているのです。そしていつの間にか全てに気づく意識ではなく意識によって気づかれた「自我」という思考に成り下がったのです。そしてその大誤解を前提にした思考が湧き続け自我という幻想に翻弄され続けているのです。だから我々はいつまで経っても苦しみから解放されないというわけです、真実とは異なる思考に固執しているからです。

優劣が消える

どちらが優れているかは自由意志があってこそ

人は無意識に人と人との間に優劣をつけます、あの人は私よりも上だ、あの人は私よりも優れている、、勝手な物差しで人を天秤にかけ優劣をつけていきます。この優劣が生まれるのは、、人には自由意志があり自分が起こす行動には自分が責任を取るという大前提があります。ですが実際には自由意思はありませんから人に優劣をつけることはできないのです。すると自我は困ります、優劣をつけてくれないと頑張れないではないか、、と。優劣がつくから一生懸命努力してきたのに優劣がつかないならば頑張ってもしょうがないと。

それでいい

そうです、優劣をつけるために頑張るのは無駄なのです。そしてそのことを実は本質レベルでは誰でも分かっています。だからこそこのカラクリから目覚めるのが怖いのです、自我は。優劣の世界において自由意思で頑張る必要がある、そのためには自由意志を扱う自我の存在が決めてになると、その流れです。しかしながら真実では自由意志は存在しません、この世界には。だから競争による優劣を感じるのは無駄なのです。

いつも比較している

人間は常に比較して生きています、表には出さなくても間違いなく人間は常に比較して生きているのです。だから人は努力し頑張る、、ですが自由意思も間違いなく存在せず、それを操る自我も存在しない、、そのことは本質では分かっている、、だから疲れるのです。つまりもう競争の勝ち負けで、比較の勝ち負けで優劣を感じなくていいのです。優劣のために頑張る競争から抜けてしまっていいのです。自由意志が存在しない以上、勝った自由意志は存在せず負けた自由意志も存在しないのです。世界は常に自動反応でただ思考、言動が起こっているだけです。

苦しみの本質に迫る

条件が全て

こういう家に住んで、こんな収入で、こんなパートナーが居て、こんな仲間に囲まれて、、我々は無意識にそのような条件を幸福に求めます。私レベルであれば最低限こんな環境に身を置くべきだ、、、この思い込みを叶えるために人は生涯を注ぐわけです。そしてこれらとは全く異なる環境、理想とは程遠い会社、家、パートナー、仲間に囲まれてしまえば私は絶対に不幸になるはず、、、それを恐れて生き続けるのです。ですが実際にはそのような理想とは程遠い環境に身を置いた時に初めて気づくのです、いやそれほど悪いものではないなと。これが人間の苦しみの本質です、勝手に思い込みそれを恐れて必死に踠いているだけなのです。

理想を手に入れても

どんなに理想的な生活を手に入れても人が苦しみから逃れなれないのは手に入れた個人が存在しないからです、手に入れるまでの全功績を享受するはずの個人が実は存在しないのです。自由意志に基づいて確固たる結果を出したはずの個人、自分、自我が実は存在しないのです。そのことをどこかで分かっているから常に不安に苛まれるわけです。そして理想とは程遠い環境に身を置いた時にも、、、実は全ての責任は責任を取るはずの自分が実在しないことを本質では分かっています。だから軽いのです、だからそこまで苦しくないのです。理想を追いかけている時は存在しない自我が出しゃばるばるわけですが失敗した時にはその自我が存在を隠します、それで楽なわけです。

理想を追いかける時、、

理想を追いかける時「自我」は大仕事を担います、自由意志を行使して理想に向かって直走れるわけです。本当は自由意志はないにも関わらず起こる自動反応を「自由意思」と捉え続け走る続けていきます。だから自我には理想が必要であり恐るべき環境も必要なのです。ところが突然の災難に襲われ全てを失った時に実はそこまで苦しくないという事実を突きつけられ自我の策略が暴かれるという事故が起きるのです。大借金、倒産、闘病、、、などなどです。

自我に踊らされてきただけ

我々は実は自我に踊らされ、、、、理想を追いかけ、恐れから逃げていただけなのです。この自我主導での奔走逃避行動こそが苦しみの原因であったわけです。ではこれからはどう生きればいいのか??先ずは自由意志がないことを認めることです、自由意思がないということはそれを行使する自我も存在しません、、、そこが理解できますと嫉妬そねみが湧いてこなくなります、、、有名人の大豪邸を見ても、、、たまたま、、、、ホームレスを見ても、、たまたま、、、その事実が分かってしまうのです。なぜならば自由意志がないからです、この世には。