真実

今に居れないから、、、時間を気にする

今に居ることが出来れば将来不安はない

今に居ることができれば、、、その時その時にその行為に埋没すればいいだけです、、、仕事に入り無我になる、、作業に入り無我になる、、、読書を通じ無我になる、、、なんでも気が向くことに入り無我になればいいのです。。ここは静寂の場所、平和な場所、至福の場所です、、、、誰にも邪魔されません、、、ここに入れない人が、、将来を過剰に心配するのです。

後悔も心配もしなくていい

後悔も心配も自由意志があると信じているからこそです、、、ですが自由意志はありません、、、将来を左右するような決断を自分の意思では一切できないのです。。。これが真実です、、、、だとしたら一体何を心配し悩むことができるのでしょうか????無理です。。。。心配も後悔もできなくなると自然と今に居ることができるようになります、、小さな子供が今に居れるのは、、心配できないからです。

現象として幻想として情報を集める

株のブローカーであれば、、、情報を集めるのは当然のことです、、、この際にはこれは現象、幻想であることを見抜いて集めればいいのです、、、情報という現象から株を精査し次に買うべき株を吟味していきます、、、ですがこのことと、、、静寂、至福、平和とは全く関係がありません、、、静寂、至福、平和は時間ではなく今にしかないのです、、、、ここを理解し、、、情報収集を通じて無我に入ります、、、もしくは株に関して思考が湧いてきてもそこを気づきの意識として観察し今に入るのです。

マインドはいつも騒ぐ

これもエンタメ

マインドはいつも騒ぎます、、この自分が居るという前提で動きがあるのがマインドですから悟りに関しては特に騒ぎ立てます、、、悟りとはこの個人が実は居ないというメセージですから、、とりわけ騒ぐわけです。マインドの最後の抵抗です、、、。自分を守るため、維持するためにマインドは徹底的に抗戦します。悟りという言葉がいつまで経っても市民権を得ない、ゲテモノ扱いされるのは当然といえば当然なのです。

マインドの抵抗こそが証拠

悟りに対しいマインドは異常に騒ぎ立てるわけですが、、これこそが悟りを過剰意識するマインドの仕組みが理解できます。マインドにとって悟りとは自己の解体、自己の終焉、、、マインドが守ってきた存在の終焉を意味します。マインドはここに徹底的に歯向かうわけです、、、ですが事実として真実として自己は存在しませんから最後は降参するわけです。

マインドが騒ぎ立てるからこそ

マインドがこれだけ騒ぎ立てるからこそ、、、そこには何かがあるのです。その何かとは、、真実です。マインドが隠しておきたい真実がそこにあるのです。この自分が居て、、、居ません、、、そこを隠しておきたいわけです、、マインドは、、、だから過剰に反応する、、、、最後は明け渡すことも分かっている、、、気づきの意識が個人が居ないということに気づくが起きるまで、、、これが続きます。

悟りとは観念ではない

悟りとは観念を粉砕すること

我々が考えている全ては観念です、、、この個人が居てこの個人にとって何がベターで、何がベターではないか???それが観念です。その観念が全部及ばない世界、それが悟りです。つまりこの個人が居るという大前提が嘘であるという発見こそが悟りです。この世界、この分離の世界が嘘、ファンタジーであるという再発見が悟りです。

ファンタジーは神羅万象の一つ

ファンタジーが駄目ということではありません、、、ファンタジーも神羅万象の一つの表現です、、、そこに良否、善悪、優劣は一切ありません、、、、ですがこのファンタジーの世界に住むのは疲れる、苦しいが必ず伴ってきます。ですからこれがファンタジーであることを見抜き、このファンタジーから抜けることを釈迦は悟り提唱したのです。かといって悟れる個人はいません。

悟りとは真実に気づくこと、気づきの意識が

悟りとはズバリ、、、観念の渦から抜け出して、、真実に気づくことです、気づきの意識が。これに気づくのは個人ではありません、個人が居ないことに気づくのです、気づきの意識が、これが悟りです。個人という蜃気楼が蜃気楼であることに気づく、、、この気づきが悟りです。悟りによるメリットを得る個人は居ません、悟りによるメリットを得る存在は皆無なのです、そういう意味では悟りとはただ真実に気づく気づきの意識のプロセスに過ぎません。

私は在る、、以外は全部観念

この意識以外は観念

気づきの存在、私は在る、、、というこの感覚以外は全部観念です、、、あらゆる思考は全て観念です。この体の中に自分が居るという大前提での思考は全て観念です、、、この神羅万象は私は在るの中で繰り広げられ、、人間ドラマを作り出しました、、、、そのドラマに気づき続ける存在が私は在るという気づきの意識です、、、本来はたった一つのエネルギーが神羅万象として動き続けるだけです。

人間たるもの、、、

人間たるもの、、、法律はしっかりと守った方が良いよね、、お金のことはしっかりした方が良いよね、異性問題はトラブルよね、、、全部観念です、、神羅万象の動きの一つです、、、そこに良否、善悪、優劣は一切ありません。人間という個別分離した存在はそもそも居ません。ですから人間が居るという大前提の思考は全て観念です、真実ではありません。ただしその観念も神羅万象の一つです。

観念に良否はない

神羅万象の動きである観念に良否などは全くなく、、、ただ動きとしてあります、、、そしてそれらの全てじが観念であることを見抜き、、自己の不在を見抜き、、自分は誰かに迫っていきます、、、この人間ドラマの夢から醒め、、私は在る、、、に戻る、、、これだけが真の目的です、、、、ですがその動きがいつ起きるか???それすらも神羅万象の動き次第、、そこに関われる自己はいません。

探求も神羅万象からの起こり

探求は悪くない

個人が真理を探求する、、、その個人が真理を隠している、、、その通りです。。ですがその個人の探求もまた神羅万象から起こっておます、神羅万象の動きそのものです。ですから行動が劣っているなどは絶対にないのです。ですが個人が真理を、神羅万象全体を探しても、、見つからないというのは事実です。ですが真理、真我、への探求が起こっているという時点で何かしらの存在に気づいている真我がそこに居るのは事実です。何も気づいていないにも関わらず真我、全体、気づきの意識への探求が起きるとは思えないからです。

探求が止まらない

探求が止まらないようならばそうなのです、、、そのような人はほぼ居ませんから、、それは凄いことです。探求することに義務も要求もなく、、ただ探求は真我へと誘っていきます、、、益々真我気づきの意識が身近に感じれるようになっていきます。。。最後は真我、気づきの意識が個人の不在を見つけ、、そのメカニズムに気づきます。その時に自分、自分以外の概念が紛糾し、、真我そのものが残ります。気づきの意識そのものが残るのです。

自分と自分以外

自分が居て、自分以外がある、、、、これが我々の認識です。自分がこうだから、、自分以外がこう、、です。自分+自分以外で全部です。自分以外とはこの見える世界全てのことです、、、ところが自分という存在自体の概念が壊れ、、真実を発見しますと、、、自分が居ないことが分かってしまいます、、すると自分以外の概念がぶっ壊れるわけです、、、今までの誤認識がはっきりと分かってしまう、、気づきの意識がそこに気づく瞬間です。

「自由意志はない」は個人には絶望的

自由意志はない、、、これは個人にとって絶望

10代の若者に、、、自由意志はない、、、と伝えれば逆上するでしょう、、、これからの人生をどう生きようかと悩んでいる若者にこのメッセージは絶望的に映るはずです。。。ですがこれが30代、40代になると変わってきます、、、なぜか????自由意志を行使してきたけれど、、、もう疲れたよ、、、無いと言い切ってくれた方がありがたい、、、だって責任がまったくこの自分にないのだから、、、です。

あると思い込んでいる方が絶対にきつい

真実では自由意志はないのです、、、にもかかわらず有ると思い込む方が絶対に辛いのです。。。後悔後悔後悔、、、これをエンドレスに続けてしまう人もいるでしょう。。。大きな大失敗をし、、人に一生の怪我を、、、後悔、後悔、後悔です、、、、そんな時に「自由意志はない」のメッセージは、、無罪釈放宣言に匹敵します。

本当はないのだから、、、

神羅万象の動きしかない、、だから分離した個人の「自由意思」は幻想、、これが真実です。。。夢の中では自由意志はあるように感じることができる、、、ただ実際にはないのです。。。だから後悔もなければ期待もしなくていい、、、そんな無責任な人生でいいのか???いんです、、なぜならば責任の取りようがないからです。自分が居ないし、自由意志もないのですから、、夢以外では。

バシャールはいるのか???

ストーリー上

夢の中ではバシャールという宇宙人はもしかしたら登場するかもしれません、そしてもしも登場してもそれはただの夢というストーリーの中でのキャラです。宇宙人の存在は、、、世界各地で発見されたというニュースはよく出てきます、夢の中で。実際に夢の中で宇宙人が登場するかは分かりません。はっきり言えることはもしも目の前に宇宙人出現してもしれは神羅万象の夢バージョンの現れです、主体はありません。

見抜く

これは夢だ!!!!そう確信したうえでこの夢の中での出来事に一喜一憂するのは逆に難しい、、そうです、、、これは夢です。個別分離した存在があるように見える夢です、、神羅万象には分裂は絶対になく、、だからこそ100%夢なのです。神羅万象は、、、生命そのものです、、、、その生命そのものがあらゆる物、者に七変化しているように見える夢です。

じゃあ、、道端で老人が困っていても

そうです、夢の中での話です、、、本当は個別分離した老人は存在しません、、存在いているように見えるだけ、、、ですが助けるのも自由、助けないのも自由です、、、そしてその判断を行うのも神羅万象、神羅万象から判断が起こるかもしれません、、起きないかもしれない、、、そこに個人という分離した存在が自由意志を発揮するという真実はないのです、夢ですから。

肌感覚で同価値になっていく

差別がなくなる

男には厳しく女には優しく、、、先輩には優しく後輩には厳しく、、、老人には優しく若者には厳しく、、、と相手によって態度を変えるのはまー普通のことです、、、ですが生命現象の真実に触れていきますと、、、肌感覚でそれができなくなっていきます。なぜならば神羅万象の動きに優劣はないからです。。これを頭で理解して、、、優劣をつけてはいけない、、、これは混乱します。。。そうではなく森羅万象に直に触れることで、、そうなっていくということです。

本物を知ると、、、、

無我に入る、瞑想に入る、、、このように気づきの意識、真我に直に触れる時間を増やして行きますと、、、自然と、、、物事、人物に差別ができなくなっていきます、、、なぜならば差別がない世界に直に触れているから、、、例えば学校の先生は肌感覚で生徒に優劣を付けない感覚を持っていないと難しいでしょう、、これと同じで、、、この感覚を得るには、、、真実に直に触れる必要があるのです。

偽物に触れると、、、

差別分別された、、物がたくさん在る世界は、、、ファンタジーの世界、、脳内の世界です、、、この世界はファンタジーですから、、、ここに触れれば触れるほどに、、、真実から遠ざかります。。。肌感覚でこれが神羅万象の現れであることが分からなくなっていきます。すると物事に優劣をつけ、人に優劣をつけ、比較し、上下、善悪、良否の判断が強くなっていきます。これが苦しい世界への入り口です。

瞑想で気づきの意識そのものになる

気づきの意識に目的はない

何かのために瞑想をする、、瞑想をして元気溌剌、、瞑想で願望実現、、、、、そういった瞑想の使い方もあるかもしれません、、、ですが瞑想とは自身が気づきの意識であった、神羅万象そのものであったという気づきです。集中とは、、、自分など最初から居なかったという気づきです、、、、瞑想は、、、集中とはまた違う形での、、、自己実現、、、瞑想そのものが、、、至福、、静寂です。

とりあえず、、瞑想しよう

色々嫌なことが1日中あったけど、、、とりあえず瞑想しよう、、、瞑想に帰ろう、、、です。。目を閉じて現象の世界を締め出し、、、気づきの意識そのものになるのです。。。感覚、意識だけになります、、、本当は気づきの意識しかなく、、、そこに戻る感覚です。1日に何度もここに戻ります、、、すると、、、現象界で起こる様々な事件に深刻さを感じなくなっていきます、、、これは、、、頭で考えるのではなく、、、そう感じるようになっていきます。

これが夢だと見抜いていく

これが夢だと見抜くためには真実に触れる意外に方法はありません、、真実に触れれば、、、これがファンタジー、夢であるこちが腹落ちします、、、夢だ、夢だ、夢だと、、、、1万回説明を受けるよりも、、、真実に触れる、、、真実になってしまう、、、これ以外にこれを夢だと見抜く方法はないのです。。。。何かに集中することは、、、まさにその一つ、、、そして目を閉じて、、、全く対象のない世界(ノンデュアリティ)に直接触れるのも一つです。

生命の動きだけが真実

そういう動きがあった、、終わり

自由意志がないということは、、今日朝から計画を立てて、、渋谷に行き、買い物をして、、友人とお喋り、、この全部がただやらされてたということですか???そうです、、、やらされたというよりも、、そういう生命の動きがあった、、ということです。ただそれだけ、、、そこに意味はありません。神羅万象の動きに一切の無駄はなく、、神羅万象の動き以外の動きはこの世には存在しません。

じゃあ、、我々は操り人形なのか???

見かけ上はそうなります、、ただし操る人は存在しません、、、ただそのような動きがあったということだけです。神羅万象は神羅万象そのものであり、、その中で上下関係も優劣も、良否も善悪も全く存在しないのです、、、そう見えるという神羅万象の動きはありますが、、、実際には何もありません。

神羅万象はこの人間を作り出して何をしたいのですか???

人間という存在が神羅万象の中でただ起きました、、これを神羅万象が意図したわけではありません、、偶然の一致、奇跡です、、、神羅万象の動きは常に未知、未開、同じことは二度となく、変化しかありません、、その中での人間活動も常に未知、未開、です。