真実

いつの時代も

新しい発見には抵抗が起こる

イエスキリストは十字架にかけられて最後は殺されました、、、いつの時代も新しい発見は既得権益に抵抗にあいます。。自由意志が個人にはなく、個人という存在も実は居ない、、、このようなメッセージは、、これまでの人類の歴史の土台をひっくり返すメッセージであり、、、嫌煙されるのです。。。そんなこと言われたってこれからどうやって生きていけばいいのか???という話です。

最後は真実にシフトする

いかなる抵抗があろうとも、、、最後は真実にたどり着きます。。どんなにか科学が発展しても自由意志を使いこなす個人、自分、私という存在を科学は証明できないでしょう、、、、この真実にどこで人類は認めるか、、、科学が脳に迫り、、脳の機能を完璧に把握することが起きるのか???人口知能がそれを証明してしまうのか???

なぜユニフォーム(自我)に体の動きを決める力があると勘違いが起こったのか???

そういう勘違いが起こった

真我が体、、ユニフォームが自我と呼ばれています。スポーツ選手は体が動き、ユニフォームはその上に乗っているだけです、、、ユニフォームは選手の動きにまるでノータッチ、、、これが真実です。。。にも関わらず、、ユニフォームが全てを決めている、、、こういう勘違いが起こったのが人間関係、ユニフォーム関係です。勘違いが起こってしまったので、、、、一人の選手(ユニフォーム)が調子が悪いと、、その選手(ユニフォーム)に向かって監督は注意します、、、今日はどうした???と、、、ですが注意を受けた選手(ユニフォーム)は何も決める力がないにも関わらず答えます、、、、全力で頑張ってみますと、、、ギャグです、、人類全員のギャグです。

ユニフォーム(自我)はただ体の動きに付いていく

なぜこんなことが起きたのか????人類の大ハプニング、、、便宜上ユニフォームを着るのは便利です、、ユニフォームには番号が貼ってあってこれがあるとプレイがしやすい、、、ですがそのユニフォームが体の動きを決めているという勘違いが起こってしまったのが最大の不幸、、この不幸を生きて死ぬまでやっているのが、、、このユニフォーム(自我)です。。。この話を聞いても、、、ユニフォームには何の決断を動きを出来ませんから、、、ただ体の動き(真我)に従うだけです、、最初からユニフォーム(自我)は何もしていなかった、、、ただその気づきが起きれば十分です。

音が鳴った瞬間

音は音が起きた瞬間に、、存在が気づきます、、、ストーリー上は、、鳥が音を作り、、それを人間が鼓膜で広い脳で認識する、、になります、、、ですが真実はその場で音が起こり、その場で音に気づきます、、、存在が。人間が鳥の声を聞く、、これはイメージの世界の話です。。人間というイメージが、、鳥と声というイメージの音を聞くというイメージです、、、本当は独立した人間も独立した鳥も存在しません、、なぜならばこの世界はたった一つのエネルギーしかないからです。

味が起きた瞬間

味が起きた瞬間、、、私が今ステーキを食べました、、、というストーリーが起きます、、本当は美味しいという味が起きただけです、、それしか起きていません、、、人間もイメージ、ステーキもイメージです、、、たった一つのエネルギーにイメージを当て込み、、そのストーリーをでっち上げたのです、、だから本当は味覚が起きただけ、、、イメージを削ぎ落としていきます、、イメージを削ぎ落とすと味が鮮明になっていきます。

風を感じた瞬間

風を感じた瞬間、、、、私が自転車を漕いで風邪を感じた、、、というストーリーが起きます、、本当はただ風が起きた、、です。。私もイメージ、自転車もイメージ、、私が漕ぐもイメージです、、この現象界に独立分離したものなど一切ありません、、言葉でイメージを作り、、そのイメージでこの現象界を切り抜きました、、結果としてこの私が自転車を漕ぎ風を感じる、、というストーリーが生まれたのです。本当は風を感じる感覚しか起きていません、、、経験以外実は何も起きていません、、経験以外はイメージがでっち上げたストーリーです、、

ここを見抜く

経験以外の全ては完全にイメージ、幻想、ストーリーです、、言葉で切り抜いたイメージをこの現象に当て込み、、イメージ同士が動くことで、、、経験のみが起きました、、、この動きでストーリーを信じるという動きが起き、、このストーリーに閉じ込められます。。ですが冷静に観察すると経験しか起きていません。悟りとはイメージをイメージと見抜き、、経験しか起きていないことに気づくことです。経験しか起きていない時見かけ上の私は何も経験に参加していないことに気づきます。経験だけがただ起き、、それに気づく気づきの意識があります。

時間の中では至福になれない

時間こそが苦しみを生み出す

明日幸せになろう、、来年こそが幸せになろう、、、この発想が既に不幸の中にいます、苦しみの中に居ます、、、時間軸の中で幸福になろうという試みが既に苦しみを生み出すのです、、、「じ・か・ん」という言葉はイメージです、、事実として時間が存在し、、その存在する対象に、、「時間」という名前を当てたのではありません、、時間という言葉を覚えることで時間というイメージを創造し、、、時間がこの世界に現れたのです、、、時間という言葉を覚えるまでは、、時間はその人には全く存在していなかったのです、、

つまり、、時間はイメージ、幻想

時間という言葉を覚えることで見かけ上のその人に時間が誕生しました、、時間の中で私が生きるというイメージが誕生したのです、、、これが苦しみを生み出します、、、時間の中で私は至福に至る、、これは不可能なのです、、なぜならば至福は時間や私というイメージの外にあるから、、、時間の中の私が生きるは、、イメージであり、、イメージの中は苦しいのです、、、頑張って明日から死ぬまで至福でいよう、、これは不可能なのです、、、人類全員が。

時間も私もイメージ、幻想

時間も、この私も言葉が生み出したイメージ、幻想です、、、この言葉を覚えるまでは時間も私も存在しないのです、、無人島に生まれ住んでいる人は、、時間を感じたことがないのです、、、時間とは生物が誰しも感じることではなく、、時間という言葉を覚えた者だけが感じるイメージです、、真実ではないのです。これが腹落ちしますと、、時間、私というイメージから抜け出せ至福、静寂の世界に入れます。

私という概念が完全矛盾

私という言葉の意味

私という言葉の意味は、、、「この世界から独立分離したこの存在」という意味です、、ですがこの意味は完全に真実と矛盾しています、、、私の体という時、、、この世界から独立分離した存在の体という意味になります。。この「私」に含まれる意味、「自分」という言葉に含まれる意味が真実とかけ離れている、、ここが苦しみを生み出す原点です。

自分は、、、、

自分という意味、、自ら分かれる、、、世界かわ分かれた存在、、自ら。。。この言葉は真実はかけ離れています、、自分はこの現象界には絶対に存在しない、、、なぜならばこの世界はたっは一つのエネルギーの移り変わりしかないからです。たった一つのエネルギーの移り変わりの中に、、なぜ「自分」という意味の存在が存在しえるのか???存在できない、、、つまり自分、私は、、、、このたった一つのエネルギー上に現れたアイデアです。

「私は〇〇です」、、苦しみが湧く

私は〇〇○男です、、、この意味はこの世界の中で独立した存在である私は〇〇○男です、、、という意味になります、、、これが真実とかけ離れているので、、、苦しい、、、そうではなく見かけ上独立分離しているように見える存在、私は〇〇○男、、、が真実です。全ては全て独立分離した存在を見かけ上、、、であるいう深い気づきが苦しみを解消します。。。

探求が真我を隠す

探究とは???

探求とはこの個人が真実、悟りを発見するというイメージの世界での活動です、、、ですからこの探求活動はイメージの中で行われていきます、、、それゆえ、、、このイメージの中ではこれは成し遂げることができません。むしろ活動こそが真我を隠す結果にさえあります。では探求しないでいかにして悟りにたどり着くかという話です。

探求ではなく、真実をただ理解する

矛盾するようですが、、この探求という活動が、、いかに真我、真実を隠すかを理解してしまうしかありません、気づきと言ったほうが良いでしょう、、、探していたはずの個人が実がイメージの中の存在だった、、そのイメージが強化されることで、、この苦しみが始まったのだという絶対的理解です。個人という存在がいかにこの世界に苦しみを生み出すかという絶対的理解、、これだけが救いです、、この救いはイメージである個人を救うのではなく、、イメージの世界からの解放です。

探求活動すらも

探求活動、、この活動は真我が作り出したイメージ上での活動です、、、この活動が悪いということは全くないのですが、、この活動が、、苦しみという感情を自動発行します、、この活動の中が苦しいということで、、、さらにこの活動を活発にすれば益々苦しくなる、、、、だからもうこの事実にどこかで気づくしかありません。個人という人間活動が悪いのではなく、、ここは苦しみを作り出す場所なのです。。。この活動を作り出した真我、、そしてこの活動に気づき続けるのも真我、、二つは一つで、、、それが本当の私です。

イメージの住人

言葉の世界

見かけ上の我々はイメージの世界の住人です、、、この体も、この木も、このコップも、この椅子も、、、全部が全部言葉で成り立っている時点で、、、その言葉のイメージが想像され、、、そのイメージをこの現象に照らし合わせて生きています、、私というイメージが。便宜上言葉を覚えた我々人類は言葉の力の偉大さに気づいておらず、、、言葉にすっかりと飲み込まれているのです。

一人一人が全く異なったイメージを持ち、イメージの世界に生きている

一つ一つの物は名前がついていて、、この名前について人は各々のイメージを作り上げます、、、このイメージをこの現象に重ね合わせることで、、分離した現象界が生まれます、、、イメージが全員異なるということは、、全くもって異なった世界に生きていることになります、、、、本当は本質のみ、一つのエネルギーのみです。ですがそこに重ね合わせた言葉のイメージが異なるために、、違う世界を生きるというイメージが湧きます。そしてどんなイメージの世界を私というイメージが生きようともそこは苦しいのです。なぜならば本当の静寂の世界、平和な世界、至福の世界を既に幼少期に体験しているのと、、本質はそのことを知っているからです。。つまり本当の体験者(真我)がそのことをいつも分かっています。

言葉というラベルの功罪

言葉が作ったこのラベルは各々に異なったイメージを作り出させ、、この体が生き抜く上で役に立ちます、、、この体は確実に楽に生き延びることができるようになりました、、、しかしどっぷりイメージの世界に閉じ込められてしまったことで、、、精神的にはいつも苦しい、、、なぜだ????となります。生きてはいるけど、、苦しい、、、このメカニズムを打破するには、、、この事実に気づかなくてはなりません。

真実に気づけば

真実に気づいてしまえば、、もうイメージに惑わされない、、、この見かけ上の私もイメージに過ぎず、、だからこそこの見かけ上の私の幸福を追い求めても意味がないこともわかります。本当の私とは、、この言葉を作り、、イメージの世界を作り上げ、、、その中での経験の全てを回収している存在だという気づきが起きます。

冷蔵庫の音に神々しさを感じる

真我から湧き上がる音

夜中にブログを書いていると、、、完璧な静寂な中で、、、冷蔵庫の音だけが微かに響きます。。。この音はどこから生まれているんでしょうか???真我です、、、真我からこの音がただ鳴り響きます、、そしてこの音に気づいているのは誰か???それは見かけ上の私ではなく、、真我です、、、何かに気付けるのは真我だけです、、、、つまり真我から湧いた音を、、真我が聞いています。。。悟とか悟らないとかそういう話ではありません、、、真実の話をしています。

冷蔵庫が真我から湧き上がり

冷蔵庫は真我から今湧き上がっています、、、そしてそこから音が鳴る、、、、この音も真我から湧き上がります、、、この音に唯一気付ける存在、、それも真我です、、、、見かけ上の私は一切ここに関わっていません。いやそんなことはない、、、耳に耳栓をすれば音は聞こえなくなりますよ、、、見かけ上の私にそのような動きが起きれば、、、ただ音が消えるが起きるだけです、、、その見かけ上の私に耳栓をさせたのは誰か??真我です。。見かけ上の私が関わったのではなく、、その動きが真我から起こったのです。

ただ音を感じているだけなのに

ただ音を感じているだけなのに、、、そこに神々しさを感じ、静寂を感じます、、、、誰が聞いているか、、、ただこれだけの違いで、、、音が神になる、、、、聞く者が神になる、、、、都会の喧騒の中に住んでいるはずが、、、静寂そのもの、、、これは静寂(真我)が音を感じているからです。全ては静寂(真我)から起こり、、静寂(真我)がそれに気づいているだけ、、、静寂(真我)の一人芝居、、

絶対的理解はいつ起きるのか??

分からない

絶対的理解、これが夢であるという気づきはいつ起きるのでしょうか???分かりません、、、なぜならば絶対的理解は自分が起こすのではなく、、、本当の自分から勝手に起きるからです、、、ですから絶対的理解を起こそいという試みは、、、矛盾があります、、苦しみに入ります、、、絶対的理解を起こそうとしている時点で、、理解が全くできていない、、混迷の世界に入ります。

いつになったら悟れるのか???

それはただ起きることを理解できた時です、、、起こすのは本当の自分ですが、、その本当の自分である真我は、、自由意志で悟りを起こすのではありません、、、勝手に起きるのです、、、、本当の自分から。その事実、真実を理解できた時に、、早く悟ろう、、、という思考が湧かなくなります、、、「早く悟りたい」という思考はこの理解が完全に欠落していますから、、、矛盾を引き起こすのです。。。

悟りへの興味が湧いていることに気づく

悟りへの興味が本当の自分から湧いているなー、、これをただ感じます、、感じているのは勿論本当の自分です、、、これだけ、、、悟りへの衝動、本当のホームへの衝動、真我への衝動が、、、ただ起きている、、それを真我が感じているという理解、、からの気づき、、、全ては真我から湧き怒り、、真我が感じる、、、この時収縮したエネルギー自我が全く相手にされなくなり、、ついに消え去ります。

思考とは何か???

思考とはこの「私」ストーリーの脚本作り

思考とは、、、、この「私」と周囲との関係について最適な行動を取るための作戦会議、脚本作りです、、、思考の中心にはこの「私」が必ず居て、、、私の母の悩み、私の子供の悩み、、私の悩み、、私の友人の悩み、、私の父の悩み、、、と私に関係する全てについての作戦会議になります、、、これは私が居るという感覚を強烈に高め苦しくなっていきます。

学校でステージに立たなくてはいけない、、、苦しい

急に学級委員に選ばれ、、全員に前で挨拶をすることになった、、、苦しい、、、何が苦しめるのか???それはこの私を強烈に意識するからです、、、私がこう見られてしまったら、、私が失敗したら、、私に話下手がバレてしまうのでは????となります、、、この私は実は居ないのに居るという想像行為をしますがこれは真実とはかけ離れていますから苦しいのです、、、家なき子の脚本を書きながら苦しんでいるようなものです。

自分が居ないという絶対的理解の後は全く苦しくない

自分が実は居ないという完全な理解が起きますと、、思考はただの思考になります、、、この自分をどうするか???の思考は消え落ちます、、夢の中の登場人物に対してただ淡々と機能として思考を使うだけになります。個人ストーリーの改善に思考がもう向きません。ストーリーを作り上げる思考ではなく、、ただ機能として思考が湧きます。。