真実

先ずは現実(夢)を、、、

悟りは横に一旦置いて先ずは現実を

多くの方はこのような展開で悟りが遠ざかります。。悟らないと幸福にならないのは知っています、、ですが先ずは目の前の現実(夢)を、、、、このパターンで毎回毎回悟りが遠ざかります。。。今は会社が忙しいから、、先ずは現実(夢)を処理して、、、ですが本当のことを言ってしまえば、、今現実が大変なのは悟りが閉じているからです。。。悟りが閉じ切ってこの夢が超現実的だから辛いのです。解決すべきはこの現実(夢)ではなくて、、、悟りが閉じていることです。

この現実(夢)はあなたの観念が作っています。

ここに一輪の花があります、、、この花に神々しさを感じないのならば、、、あなたの観念がこの花をただの物質に見せているのです。。。。花という言葉のイメージがこの花に重ねられて、、、そのイメージを今あなたは見ています。。。このイメージが重苦しいものであればあるほどに花を歪めます。この現実(夢)の歪みは、、観念の歪みです。

現実(夢)とは、、観念の反映

引き寄せの法則、、、、引き寄せる個人が観念ですからこれは観念です。。そうではなく、、、現象を認識する脳が『この個人の経験に基づく観念』をこの真実、現象に観念イメージを重ね、、、そのイメージを見ています。例えばブランドグッチを崇拝する人は、、グッチの靴を履く男性を素敵な人に写します。感動すらします、興奮すらします、、イメージをその現象に重ねているのです。。。ですから現実(観念を反映した夢)が辛いのならば、、、だからこそ悟りの学びが重要になります。。この現実(夢)に惑わされなくなっていきます。

最後の証明

数学の証明

数学には証明というジャンルがあって、、この証明式を数式で導いていきます。悟りもこれと全く同じ、、覚者が伝えるメッセージをこの体を使って証明します。人間は全員が全く違う観念を持っています、つまり全員が全く違う夢を見ているということ、、この目の前に真実があるのですが、、その真実を歪ませる夢が今この目の前に鎮座しています。この目の前の観念がこしらえた現実風夢を、、、真実に変える、、、という証明をこの体を使ってやっていくのです。

たった一つのエネルギーを感じる

色即是空、空即是色、、、、証明するのはこれです、、、たった一つのエネルギーがこの多彩な現象を生み出し、、その現象がまたこのたった一つのエネルギーを生み出します。。このサイクル、、このサイクルが自分、、ここから我々は個別意識を生み出し、、その個別意識に付随する夢物語に閉じ込められて、、その中で人生を送ります。。。この人生からこの色即是空、空即是色を導いていく証明作業です。

数学の証明との違い

数学の証明との違いは、、、我々が囲まれているこの世界(夢)は、、私の観念が書き換えられていきますと、、変幻自在に変わっていってしまうということです。。問題を解いていたら、、その問題用紙がグネグネと変わっていってしまう、、、あれさっきまで見ていた世界が変わってきたぞ、、、となります。例えば悟りなどない、、、という観念を所有していますと、、、悟りなどないを、、、証明するようなメッセージの連打を浴びます。。。。ここを見抜かないとやられます。。。

最後はこうなる、、

今目の前の現象は悟りを否定することばかりだが、、、最後はこのメッセージ通りになる、、、、この認識が重要です、、、、、メッセージはこうだけど、、ちょっと確認しょう、、、全然違う、、、こうなります。つまり観念がこの現実(夢)を構築しますから、、、今周囲を見回しても、、今の観念が反映する映像しかないのです。今の現実がなんであろうと、、これは観念を反映したものであってどうでもいい、、というかこれは観念の観察でしかない。。。となります。

思考の産物

我々は思考の産物の中に居る

私たちは実は思考の産物の産物の中に存在しています、、見えるモノ全て思考の産物です、、信じられないかもしれませんが知らないうちに思考が作り出した世界の中に閉じ込められているのです。。右を見た瞬間、まだ物を脳が認識できていないこの瞬間、、この瞬間だけが、、本当の世界です。。。逆に言えば、、この一瞬以外は我々は思考の産物を見ているのです。そして見ている私、、これも思考の産物です。

なんのことはない

なんのことはない、、我々は自分が作った思考の産物を見ているのであって神の現象そのものを全く見ていなかった、、本当はいつでも見れるのですが、、、思考が作り出した世界を真実、現実、リアルだと勘違いが起きているので、、、、もう本当に現実にしか見えない世界が登場しました。この夢は現実的過ぎるがゆえに完全に騙されます、、そして現実だという観念がさらにこの夢を現実的にするのです。本当の現実はまさにここに横たわっていますがこれがもう絶対に見えな代物に映っています。

宝の上に現れた代物達

今目の前に宝が凛として佇んでいるにも関わらず、、我々は観念によって作られた宝の代物を見ていますから、、何を手に入れても全くお腹がいっぱいになりません、、飢餓状態、餓鬼状態、畜生状態です、、この空腹感はなんだ???というぐらいに空腹です、、それはそのはず、、視界を変えたその一瞬だけ宝が見えているのですが、、その一瞬しか、、至福に気づかない、、残りの時間は観念が作り出した物語の中に閉じ込められてしまい、、常に宝に飢えているのです。

思考は真実を発見できない

思考はこのストーリーの中で起きる

これが夢であり私物語であり、幻想であることを見抜く、、これが悟りです、、、そしてこの夢を作り上げたのが言葉です、思考です、、、ですから思考とはこの夢の建設請負人です、、、それゆえ思考は真実を発見できません、、むしろ思考がこの夢を絶えず建設し続けています。思考、価値観、観念こそが、、この夢の土台を作る屋台骨なのです。

気づきとはこの思考がいかに夢を作りあげるかを俯瞰すること

この個人という存在が実在する、、そしてこの個人があらゆる経験をしている、、、という圧倒的な大誤解が、、、観念を築き上げ、、、その観念に沿った現実が作られます、夢として。多くの場合、、この個人が居るという前提で思考が起きますから、、思考はこの大誤解を助長することになるのです。観念が新たにリニューアルされていきます、、するとそれに沿った現実という夢が形成され、、イメージとしての個人はそれを経験します。

夢だと気づき始めると

これが夢だという気づきが起き始めますと、、、もう思考はこの私ストーリーを助長する動きを止めます、、私という存在ありきの思考が止まるのです、、これまではこの私が実在しているという大前提で思考が湧き続けましたが、、この私はイメージ、概念、幻想であるという気づきが起きますと、、もうその延長線状の思考が止まります。

ベクトルが外に行く

ベクトルが外に行けば

この私、イメージとしての私、概念の私に意識が集中していますと、、孤独感、分離感、欠乏感が同時に湧いてきます、、、その場合これを埋めるのは外に向きます、、この私を埋めてくれる何かを探す旅にでるのです、、これが私ストーリー、私物語です、、私を埋めてくれる何かを探し続ける旅です。。。そして見つける何か、、例えばお金、友人、パートナー、名誉、地位も全て、、、イメージ、概念でから、、、空想が空想を手にれているだけ、イメージがイメージを手に入れているだけ、概念が概念を手に入れているだけ、、、何も満たされない旅です。

途中でそのことに気づき

おかしい、、何を手に入れても満たされない、、一瞬の幸福が起きるが直ぐに元の状態に。。。それは当たり前、私というイメージ、概念、妄想が、、、手にれる何かもイメージ、概念、妄想ですから、、、実は何も起きていない、、、そこに苦しみ始めた時に、、、私というイメージが問題なのでは???私という自己意識が問題なのでは???と気づき始める人もでてきます。

ベクトルじゃない

私という個人が居るという概念、イメージ、妄想こそが苦しみを生み出している、、、この気づきが起きますと、、、もうこの私を満たすというやり方、、外に何かを求めることに興味がなくなっていきます、徐々に。ベクトルが外ではなく、、、かといってこの私の内側でもない、、、ただ俯瞰したい、、、ただ真実を知りたい、、という衝動だけが起こるのです。。。このイメージの私に関心が湧かない、、、この私に構うにはもうたくさんだ、、

真実だけを探す

もう私が真実を探す、、、、の私が居ない、、、ただ真実を知りたい、、、、という衝動が起きます、、、すると段々と分かってくる、、、、この私はイメージに過ぎない、、さらに、、周囲のある名前がついた物は全てイメージ、、そして評価、批判も全てこのイメージに向けて起こるものだと。。。イメージが最大限の評価を受けて至福に至る、、、わけがない、、、至福とはイメージに焦点が向かず、、、どこにも焦点が向かない状態、、意識が意識として在る状態です。

視点を変えた瞬間

窓の外を見た瞬間

見かけ上の私が窓の外を眺めます、、、その眺めた瞬間、、木や、鳥、花を認識する前の瞬間、、この瞬間が、、、ワンネスです、、大いなる一つ、真我です、、、たった一つのエネルギーがそこに在ります。人から声を変えられ振り向いた瞬間、、まだそこの誰がいるかの認識がない瞬間、、、この瞬間こそがワンネス、大いなる一つです、、、私たちは、、分離独立しているように見える世界をしっかりと信じ過ぎてしまって、、この瞬間をないことにしてきました、、ですが本当はいつも在ります。

コーヒーを飲んだ瞬間

コーヒーを飲んだ瞬間に注目してください、、まだこれがコーヒーという認識が起こる前の瞬間に注目します、、この瞬間が真我です、ワンネスです。コーヒーだという気づきが起きる前の瞬間があります、、経験だけがある瞬間があります、、経験という言葉さえもない瞬間があります、、言葉が全く関与しない瞬間があります。。。ここが真我、ワンネスです。

私がステーキを食べた、、、

私がステーキを食べたというストーリーが湧き上がる前の瞬間、味覚だけが起きる瞬間、味覚という言葉さえ起きない瞬間が必ずあります、、この瞬間が真我、ワンネスです、、、、私が真我になるのではありません、、言葉にならばい存在、、真我が在るのです、その瞬間に。イメージの私は全くここに関与しません。関与するとすれば「私」が真我になったという思考が起きる時だけです、、それはストーリーです。真実ではありません。

要するにこういうことだよね

大人は子供の悩みを一つ高い位置で解決する

子供に算数を教えることができるのは、、大人は子供がどのポイントで詰まっているかを一つ上の視点から観察し説明できるからです。。。高い位置からその人の行動を観察できなければ人に教えるということはできません。世の中を俯瞰するとはまさにそのことで、、この世界の成り立ちを上から眺めて理解することになります。その最高地点が悟りであり、、悟りとはこの世界がたった一つのエネルギーがただ揺れ動きているのを見抜くことです。

結論は分かっている

悟りを開くとは、、、覚者がその視点で気づいたことを今度はこの見かけ上の「私」がその視点になって体感として気づくことです。。。覚者が伝える「すべては一つだった」を体感できるかが重要になります、、、すべては一つらしい、、ということは、、この思考も、感情も、行動も全部同じエネルギーで、、それゆえ他人の思考も感情も、行動も全部このたった一つのエネルギーが作り出している、、というよりも変化してるだけ、、、それを作り出す存在はこの世界には居るわけがなく、、、ただエネルギーが変化していく様に過ぎない、、、個人が感情、思考を作り出すというのは妄想で、、その妄想がただエネルギー変化で起きた、、、しかしその妄想もいずれ変化する、、、たった一つのエネルギーが作り出している世界であるという気づきが起きることで、、、

言われてみればそうだよね

覚者が話す内容は当初は全く理解できないでしょう、、何を言っているか意味不明、、ですが根気強く学んでいきますと、、、確かにそうだよね、、言われてみればそうだよね、、となっていきます、、、必ず、、なぜならば真実は一つだからです。。。必ず真実にたどり着くことだけは分かっているのです、、、ただしこの自己意識は食べるために発達した機能ですから、、、今食べれているにも関わらず認識を変えたいとは全く思いません。認識を変えたくないという衝動と、、全てを理解して楽になりたいという二つの衝動が同時に起こるため苦しさを伴います。

土砂降りの雨

ツイてない私

外は土砂降りの雨、、、ツイてない私、、、、もうこれはストーリーです、、、私も雨も、、、、人間が作り出した言葉、、これはイメージです、、このイメージの世界に直ぐに入り込もうとする動きが慣性の法則で働きます、、、この慣性の働きを止めなくてはならない、、、本当はただ起こっただけ、、何かが、、、そこに「私」という巻き込まれた存在は居ない、、それはイメージです、、

ツイテル私

パチンコで5万円稼いだ、、、ツイテル私、、、、もうストーリーです、、、パチンコも、五万円も、私も言葉が作り出したイメージです、、、このイメージ、ストーリーを経験することで、、「嬉しい」が湧く、、、ストーリーの中で、、、、ですが嬉しいは一瞬現れ、、、直ぐに消える、、、この世界、このストーリーの世界の最も怖いところ、、、嬉しいは直ぐに消えるのです、、、だから焦る、、、もっと嬉しいを欲しい。。。ストーリーではこんなことが起きます。

「私」に興味がなくなる

ツイテいようと、ツイテいまいと、、、結局意味が無いのならば、、じゃあ明日から何をすればいいのか???この私は、、、、先ずはこの私はイメージ故に本当の幸福を継続することができないことを理解します、、一瞬の幸福、一瞬の歓喜、一瞬の安堵、一瞬の快楽、、、しか経験できない存在(イメージ)だと理解します、、あぜならばこの「私」はイメージ故に、、、ストーリー上の出来事に対し何も得ることができないのです、、、そこを理解するとイメージとしての「私」に興味がなくなります、、、そこを満たしても意味がない、、、コスパが悪い、、、

私への興味が減り、、真実をすることしか興味がなくなる

このイメージとしての「私」は継続した幸福を獲得できないのならば、、、もうこのイメージとしての「私」に関わる必要がない、、、関心を捨てていいのです、、関心を向けるべきは、、本当の幸福、持続可能な幸福です、、、、ここに関心の全てを向けます、、、、それが悟り、ノンデュアリティ、覚醒です。本当はこの現象の全てを引き起こす真我こそが自分です、、この夢を作り出し、私物語を作り出した張本人が自分です。

このゲームを現実と信じるとよりリアリティー感が増す

普通のマリオカートが、、、

最初は普通のマリオカートでした、、、しかし、、、これをゲームではなく現実だと信じるようになりますと、、まさかこのマリオカートがガンガングレードアップして、、、詳細な雨の感じ、エンジン音、落雷、タイヤの滑り、、全ては超現実的な作りに変わっていきます、、もうゲームなのか現実なのか区別が付かない、、、、このような変化が起きます、、、「これが我々がこのたった一つのエネルギー上でやっていることです」

最初は「蝶々」「バッタ」「ママ」が居るだけだった、、、

幼少期を思い出してみてください、、こんなに深刻な世界ではなかったはずです、、もっともっとフワフワしていた世界、、軽い世界だったはずです、、、ところが言葉を覚え、、。名前を覚える度に、、このフワフワした世界にあらゆる登場人物、登場物が増えていき、、、なんかこの独立分離した存在こそが、、、本物だと信じるようになった、、、するとこの独立分離した風の登場人物達が全くフワフワではなく、、超現実的に見えるようになったのです、、つまり観念が書き変わっていったのです。たった一つのフワフワした世界から、、、独立分離こそが真実という世界に生まれ変わっていったのです、見かけ上。

「これって幻想ですよね」、、精神病に入る

そして最後には、、、これって幻想ですよね、、、などと言えば、、、精神病院に入れられてしまうぐらいになります、、、この世界を見かけ上の「私」の観念が作り出したのです。ですがこれって夢かも、、、という観念が定着していきますと、、、それを支える現実(夢)が起きますから、、そこの気づきが助長されていきます、、、一旦振り切れた、、、超独立分離世界が、、、まあまあ独立分離世界、、、夢かも世界、、夢だ世界、、、に変わっていきます。

幻想の中で幻想をする

思考するということ

この世界で思考するということは、、幻想の中で幻想をすることと同じです、、、、この世界は幻想です、、我々の観念が作り出した幻想です、、この幻想の中で思考にふけるということは幻想の中でさらに幻想をするようなものです、、真実とはかなりかけ離れていきます、、、これは苦しい、、、この世界が分離して見えているだけでもう幻想の中に居るのです。

夢の中で夢をみる

我々は夢の中で夢を見ています、、、夢の中で、、さらに思考し、、夢を見ます、、、これが苦しの大元です、、、そうではなくこれが夢だと見抜き、、、夢だと思って生きて行きます、、すると、、夢であることが見抜けてきます、、、夢の中で本当の現実を見つけます、、、観念が崩れていきます。。。

たった一つのエネルギー

この場所が静寂、平和な場所です、、そこに観念で幻想を作り上げ、、それを現実であると勘違いして生きているのが我々です、、、その幻想の中で、、思考に取り込まれ、、、さらに幻想を作り出す、、、幻想の二重構造の中に居るのが我々です。思考を観察し、思考の取り込みから先ずは脱出する、、、そしてこの幻想を幻想と見抜いて生きる、、、周囲が幻想を現実と信じて生きている中で、、この現実は実は幻想であることを見抜きますと、、真実(現実)が姿を現してきます。そこは静寂、平和、歓喜の場所です。