行為
我々は実は何も行為をしていません。一切行為をしていません。幻想に動きがありその幻想の動きを見て「私はコップを持ち上げた」という知覚幻想が起こります。それも幻想の動きです。だから何もしていないのです。ここから渋谷駅に歩いて着いた、という思考幻想が起こりはしますが、、それも幻想の動きです。誰も何もしていません、誰かが何かをしたという思考幻想が起こっただけです。つまり我々は何もしていないにも関わらず、、、あらゆる幻想の動きだけがあるのです。無為に留まる、、という言葉がありますが、、真我は何もしていません。我々は真我であり何もしていません。行為は幻想の中の思考の動きです。思考も幻想です。
生まれて死ぬまで
じゃあ我々は生まれて死ぬまで何もしないで死ぬのですね????違います。生まれるも思考幻想、死ぬも思考幻想です。幻想の中でしかそれらは起こり得ないし、それも思考幻想です。つまり生死の活動すら幻想であり思考だということです。そして無為に留まって、、真我は、、ただそれに気づくのです。幻想の動きにただ気づきます。何も起こっていないという事実に気づくまでただ気づきます。何も起こっていないという気づきが起こってもただ無為に留まります。
どこにも行ったことがない
我々は実はどこにも行ったことがないのです。渋谷駅も新宿駅も五反田駅も、、全ては真我(我々)から立ち現れる幻想であり、、それを渋谷、新宿、五反田、、という知覚を起こすのは思考幻想の技です。つまりこれらの思考幻想が起こらなかったら、、どこにも行けないのです。「どこかに行った」という実在は起こりようがなく、、、ただその思考幻想、幻想思考が起こるだけです。だから我々はどこにも行ったことがないし行けるわけがないのです。どこかに行くことができる存在とは幻想以外にありません。